第6話
明けて翌朝。昨夜の狂暴な嵐が嘘だったかのように帝都の空は穏やかに晴れ渡っていた。重厚なビロードのカーテンの隙間から遠慮がちに忍び込む陽光が西園寺邸の客間を淡く照らし出している。その広大な空間を支配するのはアンティークの柱時計が刻む規則的な音と最高級の羽毛布団が発する微かな衣擦れの音だけだ。
「……ん……」
鈴は泥の海から浮上するようにゆっくりと意識を取り戻した。昨晩までの全身を焼くような高熱の奔流は嘘のように引いている。後に残っているのは嵐が去った後の浜辺のような気怠い脱力感と奇妙なほどの静寂だった。
乾いた唇から掠れた声が漏れる。喉が焼けるように渇いていた。身じろぎをしてシーツの冷ややかな感触を背中に感じながらゆっくりと上体を起こそうとした。その時だった。視線がベッド脇のサイドテーブルに吸い寄せられたのは。
そこには二つの“禁忌”が鎮座していた。一つは使い込まれた革張りの手帳。もう一つは丁寧に折り畳まれた、鈴蘭の刺繍が入ったハンカチ。心臓が早鐘を打った。あれは夢ではなかったのだ。高熱に浮かされながら忍び込んだ、あの“開かずの書斎”。埃とインクの匂い。そこにあった見覚えのある筆跡。そして、雷鳴と共に現れた景明の切羽詰まった表情。
いや、違う。鈴の記憶が正しければ、彼は昨夜、倒れ伏す鈴を抱きとめ、確かにこう言ったのだ。『ごめんね、鈴さん』と。あの優しく、どこか頼りない、愛しい書生、野中みのるの声色で。
(やっぱり、野中さんは……西園寺様なのね)
確信は胸の奥で熱い塊となって溶け出した。怒りはない。ただ、どうしてそこまでして隠そうとするのかという呆れと、ほんの少しの安堵があった。彼は生きていた。行方不明になっていたわけでも、鈴を捨てたわけでもなかったのだ。
その時、控えめなノックの音が思考の海を割った。
「失礼いたします、小鳥遊様。お目覚めでしょうか」
入ってきたのは初老の医師と西園寺家の家政婦長だった。
医師は革鞄を置くと慣れた手つきで鈴の脈を取り、瞳孔を確認し、聴診器を胸に当てる。冷たい金属の感触に鈴は小さく身を震わせた。
「ふむ……熱は完全に下がりましたな。脈も安定している」
「あの、私は……」
「過労と環境の変化によるストレスが重なった、というころでしょう。大事はありませんが今日は安静に」
医師の言葉は事務的だったがその背後で家政婦長がひと息をつくのが分かった。
「あの……西園寺様は?」
「軍の御用があるとのことで昨日のうちに出立されました。ですが……」
家政婦長が言い淀んだその時である。屋敷の玄関ホールの方から軍人らしからぬ慌ただしい足音が響いてきた。それは廊下を渡り、階段を駆け上がり、この客間へと一直線に近づいてくる音だった。同時に勢いよく扉が開かれた。
「鈴!!」
そこに立っていたのは帝都の鬼少佐こと、西園寺景明その人だった。だが、その姿はいつもの冷徹な軍人とは程遠い。軍帽はわずかに傾き、詰襟のホックが一つ外れている。肩には朝霧の湿り気を帯び、端正な顔は蒼白で額には脂汗が滲んでいた。まるで戦場から全力疾走で帰還したかのように肩で息をしている。
「さ、西園寺様……?」
「す、鈴……! 目が覚めたか……! ああ、よかった、本当に……!」
景明は大股でベッドサイドまで歩み寄ると、医師の存在など目に入らぬように鈴の顔を覗き込んだ。その瞳にあるのは獲物を狩る猛禽類の色ではなく、雨に濡れた捨て犬のような、弱々しい焦燥の色だった。
彼は無意識に手を伸ばし、鈴の頬に触れようとして、すぐさま我に返ったように手を引っ込めた。
「い、いや、その、なんだ。……医師の診断は?」
景明は咳払いを一つして、無理やり背筋を伸ばした。その挙動不審さは威厳のカケラもない。医師が「ただの知恵熱のようなものです」と告げて退室すると広い部屋には再び静寂が戻った。いや正確には景明の荒い鼻息だけが響く、奇妙な空間となった。
鈴は布団の縁をぎゅっと握りしめた。目の前にいるのは愛する野中みのるだ。でも彼は今、西園寺景明という“仮面”を被っている。その仮面を少しだけ剥がしてみたくなった。
「……ご心配をおかけしました、西園寺様。お仕事中だったのでは?」
「あ、ああ。いや、その……重要な、任務の報告書を……忘れてな。それを取りに戻っただけだ。決して君が心配で仕事を放り出して飛んで帰ってきたわけではない。断じて違う」
(……言っちゃってる。全部言っちゃってるわ、野中さん)
鈴は口元が緩むのを必死に堪えた。“任務の報告書”を取りに来たはずの彼はなぜか鈴の顔色ばかりを伺い、部屋の出口ではなく、椅子の背もたれを落ち着きなく指で叩いている。
そして、景明の視線がサイドテーブルの上を滑った瞬間。彼の動きが完全に停止した。まるでメデューサに見つめられた石像のように固まった。その視線の先にあるのは例の革張りの手帳と鈴蘭のハンカチ。
「あ……」
景明の喉から蛙が踏み潰されたような音が漏れた。顔色が蒼白から土気色へと急速に変化していく。瞳孔が開いたり閉じたり、忙しなく動いている。鈴はわざとらしく小首を傾げた。
「西園寺様? どうなさいましたの?」
「い、いや、その、あれは……その、なんだ……」
「ああ、これですね」
鈴は華奢な指先で革張りの手帳をそっと撫でた。その瞬間、景明の肩が跳ね上がる。
「昨晩、私が熱に浮かされていた時……西園寺様の書斎で見つけたものですわ。勝手に入ってごめんなさい。でも、どうしても気になって」
「き、ききき、気になったとは!?」
「だって、この筆跡……」
鈴はゆっくりとたっぷりと間を置いて、景明の目を射抜いた。
「私の知っている、ある殿方の文字に瓜二つなんですもの」
景明が息を呑む音が聞こえた。彼は数歩後ずさり、背後の壁に背中をぶつけた。逃げ場はない。
(さあ、どうするの野中さん。素直に白状してくれれば抱きしめてあげるのに)
しかし、西園寺景明という男、あるいは野中みのるという男の思考回路は鈴の想像の斜め上を爆走していた。彼は脂汗を手の甲で拭うと決死の形相で叫んだのだ。
「そ、それは!! 押収品だ!!!」
「……はい?」
鈴は目を丸くした。
「そ、そうだ! それは過激派組織のアジトから私が自ら押収した、危険な証拠物件だ! “野中”という名の極めて凶悪な思想を持つ男の遺留品なのだ!!」
景明はまるで演劇の大根役者のように両手を広げて力説し始めた。声が裏返っている。
「そ、その男は……非常に狡猾で! 私の筆跡を真似る特技を持っていた! そう、これは私を陥れるための偽装工作! 敵の罠だ! 決して私が書生に扮して君と逢瀬を重ねていた時の日記などではない!!」
(……自分で“書生に扮して”って言っちゃったわよ)
鈴は呆れを通り越して、感心すら覚えた。ここまで苦しい嘘をよくもまあ瞬時に組み立てられるものだ。だが、鈴はここで引くわけにはいかない。むしろ、この状況を楽しむことにした。
いたずらっ子のような光を瞳に宿し、鈴は手帳を手に取った。
「まあ、そうですの? 凶悪な過激派……。でも中身を少し拝見しましたけれど、とてもそうは思えませんでしたわ」
意地悪を含んでゆっくりページをめくる。景明が「ああっ!」と悲鳴を上げかけたが手遅れだ。
「例えば、ここ。『五月二十四日。今日の鈴ちゃんは新しいリボンをつけていた。空の色のような水色が彼女の透明感を引き立てていて、直視できなかった。僕は爆発しそうだ』……これのどこが過激派の思想なんですの?」
鈴が読み上げると景明は両手で顔を覆い、指の隙間から涙目で見つめ返してきた。耳まで真っ赤だ。だが、彼は退かなかった。軍人としての無駄なプライドと任務延長による査問会への恐怖が彼を修羅の道へと突き動かす。
「そ、それは……暗号だ!!」
「暗号?」
「そうだ! 高度な軍事暗号なのだ!」
景明は歩み寄り、手帳をひったくるように奪い取ると震える指でその一節を指差した。
「い、いいか鈴。よく聞け。……“鈴ちゃんの新しいリボン”というのは新型爆弾のコードネームだ!」
「……まあ」
「“空のような水色”というのは作戦決行時の天候条件! つまり快晴の日に決行せよという指令だ!」
「そ、それで?」
「“直視できなかった”はその爆弾の威力が凄まじく、閃光で目が眩むことを示唆している! そして“僕は爆発しそうだ”というのは……文字通り自爆の予告だ!! なんて恐ろしい男なんだ、野中という奴は!!」
景明は、絶叫に近い声で解説した。その額からは滝のような汗が流れている。目は泳ぎまくり、視線は宙を彷徨っている。あまりの無理矢理さに部屋の空気が凍りついた気がした。柱時計の音さえ、呆れて止まってしまいそうだ。
鈴は口元に手を当てて、必死に笑いを噛み殺した。震える肩を隠すのに全力を注ぐ。
(野中さん……いいえ、西園寺様。貴方、頭はいいはずなのにどうしてそんなにポンコツになるの?)
「そ、そうですの……。そんなに恐ろしいことが書かれていたなんて……」
「そ、そうだとも! だから、君のような深窓の令嬢が読むべきものではない! 没収する! これは軍の機密事項として私が責任を持って処分……いや、厳重に保管する!!」
景明は手帳を軍服の内ポケットにねじ込んだ。その動きは素早かったがポケットが膨らんでしまって不格好だった。
鈴はもう一つ、サイドテーブルに残されたものを指差した。
「では、こちらのハンカチは? これも、私が野中さんに差し上げたものと同じ刺繍に見えますけれど」
そこには可憐な鈴蘭の刺繍。鈴が野中の事を思い縫った、想い出の品だ。景明は視線をハンカチに落とし唾を飲み込んだ。
「こ、これもだ。これも……暗号だ」
「ハンカチが、暗号?」
「そうだ。この……鈴蘭の配置。これこそが帝都の地下水脈を利用した毒物散布ルートを示している!」
「……お花が?」
「茎の曲がり具合が水路のカーブを葉の枚数が投入する毒の量を示しているのだ! なんと悪辣な! このハンカチ一枚で帝都が壊滅する危機があったのだぞ!」
景明はハンカチを恭しく、どこか愛おしむような手つきで拾い上げるとまるで聖遺物を扱うかのようにもう片方のポケットにしまった。
嘘だ。彼の手つきはそれを“汚らわしい証拠品”として扱ってはいなかった。指先が震えていたのは恐怖からではない。大切な、何よりも大切なものを再び手にできた喜びから来ていることを鈴は見逃さなかった。
(もう……本当に嘘つき、なんだから)
鈴はふわりと微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、景明が身を竦ませる。
「西園寺様」
「な、なんだ!?」
「帝都の平和を守ってくださって、ありがとうございます」
「う……ぐ……」
「そんな危険な任務に就かれているなんて、知りませんでした。私、西園寺様のこと、誤解していたかもしれません」
鈴の言葉には最大限の皮肉とそれ以上の慈愛が込められていた。景明はその言葉の裏にある“全部わかってますよ”というニュアンスを感じ取ったのか、あるいは純粋な感謝と受け取って罪悪感に苛まれたのか、顔を歪めて呻いた。
「あ、ああ……。軍人としての務めだからな……」
彼の視線は泳ぎ続け、決して鈴と目を合わせようとしない。その姿はかつて鈴が恋した、不器用で誠実な書生、野中みのるそのものだった。軍服を着ていても言葉遣いが荒くても、本質は変わらない。彼は鈴を巻き込まないために、そして恐らくは彼自身の立場を守るために必死で嘘をついているのだ。
(いいでしょう。その嘘、乗ってあげるわ)
鈴は心の中で決めた。彼がそこまでして隠したいのなら、隠させてあげよう。そして、その下手くそな嘘がいつまで続くのか、特等席で見守ってあげるのだ。
それは婚約破棄を画策していた頃には想像もしなかった、新しい楽しみだった。
「ところで西園寺様」
「な、なんだ、まだ何かあるのか!?」
「お顔色が優れませんわ。それにその軍服……少し濡れています。もしかして昨日からずっと、そのままでらしたの?」
鈴が指摘すると景明は自分の服を見下ろした。
「こ、これは……徹夜で尋問……いや、作戦会議をしていたからだ! 決して、君の事が心配でそのまま寝落ちしてしまったわけではない!」
「ふふ、そうですか。でも、今日は日曜日ですわ。軍務がお忙しいのは分かりますが……少し休まれてはいかがですか?」
鈴はベッドの端を少しだけ空けて、軽く叩いてみせた。大胆な誘い。しかし、今の弱りきった景明にはそれが何よりの毒であり、薬であるはずだ。
「わ、私は……軍人だ。仕事を休むわけには……」
「あら? 先ほどばあやさんが今日は非番であることを電話で確認されているのが聞こえましたけれど」
「なっ!? ばあや、余計なことを……!」
景明は舌打ちをしたがその表情には明らかな安堵の色が浮かんでいた。彼は大きくため息をつくと観念したように肩の力を抜いた。
「……分かった。少しだけ、休憩をもらうことにする」
「ええ、そうしてくださいな。……あ、それと」
「まだ何か!?」
「お腹が空きました。お粥、食べたいな」
鈴が甘えるように言うと景明は一瞬きょとんとして、それから、ふっと表情を緩ませた。それは鬼少佐の顔でも嘘つきな書生の顔でもない。鈴だけが知っている、優しい顔だった。
「……ああ。すぐに用意させよう。……いや、私が持ってくる」
景明はそう言うと逃げるような足取りで部屋を出て行った。扉が閉まると同時に鈴は枕に顔を埋め、足をバタつかせた。
「もう……! 馬鹿なんだから! 大好きよ!」
その声は分厚い羽毛布団に吸い込まれて消えた。けれどサイドテーブルにはもう、日記もハンカチもない。それらは今頃、彼の胸ポケットの中で彼自身の鼓動を聞いているはずだ。これからの生活は今まで以上に騒がしく、そして甘やかなものになりそうな予感がした。
鈴は窓の外の青空を見上げた。彼が“爆破作戦決行の合図”だと言った澄み渡るような青空を。
(さあ、覚悟してくださいね、嘘つきな婚約者様)
鈴の唇にいたずらな笑みが浮かんだ。重厚なオーク材の扉が恐る恐るといった手つきで開かれた。先ほどの嵐のような突入とは打って変わって、その動作は慎重極まりない。まるで極めて不安定な爆発物を搬送しているかのような緊張感が漂っている。
「……失礼する」
入ってきたのは上着を脱ぎ、ワイシャツ姿になった景明だった。詰襟の窮屈さから解放された首元は筋肉質なラインを露わにし、まくり上げられた袖からは血管の浮き出た逞しい前腕が覗いている。軍刀を振るうための腕が今は白磁の器が乗った木製のお盆を震えることなく水平に保持していた。
お盆の上には湯気を立てる土鍋と薬味の小皿、そしてコップ一杯の水。飾り気のない、しかし丁寧に作られたことが一目でわかる卵粥だ。
出汁の優しい香りが客間に漂い、消毒薬のような匂いを追いやっていく。
「使用人に行かせようと思ったのだが……あいつらはその、足音がうるさいからな。君の頭に響くといけない」
景明は誰も聞いていない言い訳を口の中で呟きながら、ベッドサイドに椅子を引き寄せた。その動きの一つ一つが不自然なほどにぎこちない。彼は普段、部下に命令を下す側の人間だ。誰かに奉仕する、ましてや病人の看病などという行為は彼の辞書には載っていないはずの未知の領域なのだろう。
「ありがとうございます、西園寺様。……あの、ご自分で作られたのですか?」
鈴が尋ねると景明は一瞬、肩を震わせ、視線を逸らした。
「ば、馬鹿を言うな。私が厨房になど立つわけがないだろう。これは……そう、ばあやに作らせたものだ。私はただ運んできただけだ」
嘘だ。彼の手の甲に小さな火傷の跡ができているのを鈴は見逃さなかった。それに衣服からは微かに焦げた匂い、恐らく慌てて鍋を火にかけた際の名残が漂っている。
ばあやが作るなら、もっと手際よく、そして火傷などせずに作るはずだ。
(野中さんはお料理が苦手だったものね)
かつて、彼が作ってくれた黒焦げの卵焼きを思い出し、鈴は胸が温かくなるのを感じた。彼は不器用なのだ。嘘をつくのも、料理をするのも、愛を伝えるのも。
「そうですか。では、ばあやさんに感謝しなければなりませんね」
「うむ。……さあ、冷めないうちに食べるがいい」
景明は土鍋の蓋を取った。黄金色の卵が半熟状態で絡まったお粥が姿を現す。
鈴は身体を起こそうとしたが病み上がりの体は思うように力が入らない。姿勢が崩れかけた瞬間、景明の手が素早く伸び、鈴の背中と肩を支えた。
「っ、無理をするな!」
強い力。けれど触れる箇所は壊れ物を扱うように優しい。固い腕の感触と彼から漂う微かなインクと鉄、そして男性特有の香りが鈴の鼻腔をくすぐった。心臓が跳ねる。
「……すまない。クッションを背中に当てるから、寄りかかるといい」
彼は鈴をベッドヘッドに預けると手早く枕やクッションを調整し、楽な姿勢を作ってくれた。 その手つきは先ほどの爆発物処理のような慎重さではなく、どこか慣れた、かつて狭い長屋での生活時の手つきそのものだった。
「さて……」
景明は椅子に座り直すとレンゲでお粥をすくい息を吹きかけ始めた。その表情は真剣そのものだ。敵の陣地を双眼鏡で偵察する時よりも遥かに険しく、そして熱心な眼差しでお粥の温度を見定めている。
「……西園寺様? あの、自分で食べられますけれど」
「駄目だ。病人は手を動かすのも億劫だろう。それに万が一こぼして火傷でもしたら軍法会議ものだ」
「軍法会議……?」
「比喩だ。……ほら、口を開けて」
差し出されたレンゲ。そこには完璧な温度に冷まされた一口分のお粥。鈴は少しだけ躊躇ったが無自覚の期待に満ちた彼の瞳を見て、観念した。
「……あーん」
口の中に広がる、優しい出汁の味と卵の甘み。胃の腑に染み渡るような、温かい美味しさだった。
「……おいしい」
「そうか! ……いや、そうか。ばあやも喜ぶだろう」
景明の頬が緩んだ。目尻が下がり、口元がへの字から一直線になり、そして微かな笑みの形を作る。その瞬間、彼は鬼少佐ではなく、ただの恋する男になっていた。
鈴は口の中のお粥を飲み込みながら、次の一手を考えた。この甘やかな空間に浸っていたい気持ちもある。けれど、彼が頑なに被り続けるその仮面をもう少しだけ揺さぶりたいという衝動が抑えきれない。
これは、ただの意地悪ではない。彼が“野中みのる”であることを認めさせるための、愛ある尋問なのだ。
「西園寺様」
「ん? どうした、熱いか?」
「いいえ、とても美味しいです。……でも、少し不思議なんです」
「何がだ?」
景明は次の一口を冷ましながら、無防備に尋ね返した。
「このお粥の味付け……以前、野中さんが作ってくださったものと、そっくりなんです」
景明の息が止まった。レンゲを持つ手が空中で凍りつく。
「野中さんが私が風邪を引いた時に作ってくれたんです。お米の芯が少し残っていて、でも卵がふわふわで……。隠し味に昆布茶を少し入れるのが彼流でした」
鈴は風を引いたという盛大な話を作り、景明の目をじっと見つめた。野中と過ごした七日間で風邪は引いたことないし、ましてや粥も作ってもらったことがない。だが今の彼なら何かしらの反応を期待できるだろうと言う魂胆があった。そして、彼の瞳孔が極限まで収縮した。
「あ、あー……それは……偶然、だな。奇遇だ。世の中には似たような味付けを好む人間もいるということだ。それに、これは一般的な帝都風の味付けであり……」
「そうですか? でも、野中さんは確か……」
鈴は言葉を切り、わざとらしく視線を天井に向けた。記憶の糸を手繰り寄せるふりをして、彼を追い詰めるための罠を張る。
「野中さんは、『お粥には絶対にお醤油を一滴垂らすのが通の食べ方だ』って仰ってましたわ」
その瞬間、景明の反応は劇的だった。彼は勢いが余り、椅子を揺らした。そしてレンゲに乗っていたお粥を自身のワイシャツの袖にポタりと落とした。
「あっ」
「な、なにっ!? しょ、醤油だと!?」
景明は袖の汚れなど気にも留めず、身を乗り出した。その顔には信じられないものを見るような驚愕と隠しきれない動揺が張り付いている。
「醤油……? 野中が醤油派だと……?」
「ええ。そう仰ってました」
これも嘘である。景明の反応をみる限り、野中みのるは生粋の塩派だ。それに居候期間中、野中は「素材の味を楽しまなきゃ、お米に失礼だよ」と笑っていたのを鈴は鮮明に覚えている。これはカマかけだ。もし彼が本当に野中みのるなら、この嘘に違和感を覚えるはずだ。
そして、もし彼が“西園寺景明”として振る舞い続けるなら“他人の好みなど知らん”と一蹴すればいいはずだ。しかし、彼は野中みのるとしての記憶と西園寺景明としての立場の狭間で盛大にバグを起こした。
「そ、そんな馬鹿な……! あいつは……いや、その野中という男は塩派だったはずだ! 報告書にはそう書いてあった!!」
「報告書?過激派のアジトから押収した手帳にお粥の好みまで書いてありましたの?」
「うっ……! そ、そうだ! 食生活の記録も詳細に残されていた!『◯月✕日、今日のお粥も塩加減が絶妙だった。やはり塩こそ至高』と! 奴は塩派だ! 断じて醤油など垂らさない!! 醤油など入れたら、繊細な出汁の風味が台無しではないか!!」
鈴は目を細めた。景明はまるで自分の尊厳を傷つけられたかのように熱弁を振るった。その必死な姿は自分が野中みのるであることを全力で証明してしまっていることに気づいていない。
野中の名誉を守ろうとするあまり、西園寺の立場を忘れてしまっているのだ。部屋の入り口付近で様子を伺っていたばあやと数名の女中たちが戦慄の表情で顔を見合わせているのが視界の端に入った。
普段、冷徹無比で食事中に私語など一切発しない鉄の男、西園寺景明が粥の味付けごときで顔を真っ赤にして叫んでいる。しかも袖には粥がついたままで。
彼女たちの目には主人が何らかの未知のウイルスに感染し、人格が崩壊したように映っているに違いない。鈴はこみ上げる笑いを必死に飲み込み、悲しげな表情を作ってみせた。
「……私の勘違いだったのかしら。熱で記憶が混同してしまったのかもしれません」
肩すらも落としてみせた。すると景明の勢いは風船が割れたように萎んだ。彼は自分の熱弁と言う失態と鈴の落ち込んだ姿を見比べ、狼狽えた。
「い、いや! 責めているわけではない! 病み上がりだ、記憶が曖昧になることもあるだろう! そ、それに……人の好みは変わるものだ! その野中という男もある日突然、醤油の魅力に目覚めたのかもしれない!」
彼は慌ててフォローを入れようとし、なぜか敵であるはずの野中の改宗の可能性まで示唆し始めた。支離滅裂だ。
「……そうですね。西園寺様のおっしゃる通りかもしれません」
鈴は顔を上げ、演技半分、笑い泣き半分の潤んだ瞳で彼を見上げた。
「でも、西園寺様はお詳しいんですね。野中さんのことに」
「ぐっ……」
「まるでご自分のことのように話されるから……私、なんだか嬉しくなってしまいました」
「…………」
景明は口を開閉させたがもはや言葉が出てこないようだった。彼は諦めたように息を吐くと汚れた袖を鈴が刺繍したものではないハンカチで拭い、再びレンゲに粥をすくった。
「……冷めるぞ。口を開けろ」
「はい。あーん」
再び口に運ばれるお粥。先ほどよりも少しだけ塩味が強く感じられたのは、彼の動揺が隠し味として加わったからかもしれない。あるいは彼の額から滲んだ冷や汗のせいか。
「……おいしいです。西園寺様」
鈴が微笑むと景明はふいっと顔を背けた。だがその耳たぶが熟れたトマトのように赤いことは隠しようがなかった。
「……そうか。なら、いい」
ぶっきらぼうな物言い。けれど、彼が次の粥をすくう手つきは先ほどにも増して慎重で優しかった。窓の外ではいつの間にか空模様が怪しくなり始めていた。遠くで低い雷鳴が聞こえる。嵐の予兆だ。この甘く、平和で少しスリリングな粥の時間はまもなく訪れる招かれざる客によって無惨にも破られることになる。けれど今はまだ、この不器用な鬼少佐との時間をもう少しだけ味わっていたい。
鈴は次の一口を待ちながら、心の中で彼に囁いた。
(ごちそうさま、野中さん。……でも、嘘つきの罰はまだこれからですわよ?)
その時、玄関の方でけたたましいベルの音が鳴り、ヒステリックなほどに甲高い声が響いた。
「どきなさい! この泥棒猫がどこにいるかくらい、分かっているのよ!」
階下から響く怒号。それに続いて複数の足音が階段を乱暴に駆け上がってくる音が聞こえる。
西園寺家の執事が「お、お待ちください、宝生様! 旦那様は今、取り込み中で……!」と制止する声も虚しく、その足音は躊躇うことなく客間へと迫ってきた。
景明が眉根を寄せ、不機嫌そうに立ち上がる。彼の手にはまだお粥の入ったレンゲが握られたままだ。その間抜けな姿と瞳に宿る剣呑な光のアンバランスさが事態の混沌を物語っていた。
「……チッ。やかましい客だ」
景明が舌打ちをして、扉の方へ向かおうとした、その時だった。先ほどの景明の突入よりもさらに乱暴に客間の扉が開け放たれた。
現れたのは鮮烈な真紅の振袖を纏った、一人の令嬢、宝生麗華。自称・景明の未来の妻である。
彼女は肩で息をしながら、部屋の中を見回し た。綺麗に結い上げられた髪には高価な珊瑚の簪が揺れている。白粉で白く塗られた肌は怒りで紅潮し、紅を差した唇は歪んでいた。
「……景明様!」
彼女の視線が景明を捉える。そしてすぐにその背後のベッドに横たわる鈴へと移動した。その瞬間、麗華の瞳に浮かんだのは明確な殺意と生理的な嫌悪だった。
「やっぱり……! やっぱり、ここにいたのね! このドブネズミ!!」
麗華は高価な草履を履いたまま、土足で客間の絨毯を踏みしめて入ってきた。その後ろでばあやが悲鳴に近い声を上げるが麗華は意にも介さない。
彼女の視界には鈴と、鈴に甲斐甲斐しく粥を食べさせていた景明の姿しか見えないようだった。
「宝生。……靴を脱げ。ここは神聖な場所だ」
景明が氷点下の声で告げる。しかし、興奮状態にある麗華の耳には届かない。彼女は足音を鳴らしながらベッドサイドまで歩み寄ると鈴を見下ろした。
「聞いたわよ。昨日の夜、ずぶ濡れになって転がり込んできたんですって? まるで捨てられた野良犬ね。いえ、野良犬の方がまだ愛嬌があるわ」
扇子を広げ、口元を隠しながら、麗華は蔑みの言葉を吐き捨てる。その言葉の一つ一つが毒を含んだ矢のように放たれる。鈴は布団を引き上げ、じっと麗華を見つめ返した。言い返したい言葉は山ほどあったが今は喉が引きつって声が出ない。何より、この場の空気が異様すぎた。
「身の程を知りなさい、小鳥遊鈴。貴女のような没落同然の貴族娘が西園寺家のベッドで寝るなんて……汚らわしいにも程があるわ!今すぐシーツを焼却処分しなくては!」
「いい加減にしろ、宝生! ここは病人の部屋だ、出て行け!」
景明が声を荒らげ、麗華の腕を掴もうとする。だがその拒絶が逆に彼女の激情に火をつけた。
「景明様! どうして庇うのですか!この女は貴方様をたぶらかして……!ああ、許せません! そのワイシャツだって、さっきまでこの女のために……!」
麗華は錯乱したように景明の胸元にすがりついた。鍛え上げられた胸板を真っ赤な爪が引っ掻くように掴み、揺さぶる。
「離せ!」
景明は反射的に強く麗華を振り払った。その拍子である。激しい揉み合いの中、景明のワイシャツの胸ポケットから何かがひらりと舞い落ちた。
それは彼が軍服を脱ぐ際、これだけは肌身離さず持っていたいとわざわざ内ポケットから移し替えていた大切な“証拠品”。
可憐な鈴蘭の刺繍が入ったハンカチだった。そのハンカチがスローモーションのように宙を舞った白い布は無情にも麗華が先ほど土足でつけた泥の足跡の上に着地した。
「あ……」
景明の喉から凍りついたような声が漏れる。彼の視線が床のハンカチに釘付けになった。麗華もまた、落ちたものを見た。最初はゴミかと思ったであろう視線が景明の異常な硬直を見て、鋭く細められる。
「……何、これ」
麗華は泥の上に落ちたそれを親指と人差し指の爪先だけで摘み上げた。高級な絹ではなく、よくある木綿のハンカチ。しかし、そこに施された鈴蘭の刺繍は素人目に見ても異常なほどの執念と愛情が込められていた。
麗華の視線がハンカチとベッドの上の鈴を往復する。彼女の直感が最悪の真実を導き出した。
“これは鈴が作ったものであり、景明がそれを心臓の真上に隠し持っていた”のだと
「……なんて、貧乏くさい。汚らわしいゴミ!」
「待て! ……それに触るな!」
景明が叫んだ。その声の切迫さは尋常ではない。それは所有物を守るための声ではなく、自身の臓器を抜き取られそうになったかのような、悲痛な叫びだった。だが、その必死さが決定的に麗華の破壊衝動を刺激した。
「触るな? これを? ……まさか景明様。このドブネズミが作ったゴミをそんなに大事になさっていたのですか!?」
「返せ、宝生。それは……私の……」
麗華の顔が、嫉妬で醜く歪み、景明が一歩踏み出す。彼にとってそのハンカチはただの布ではない。鈴と離れ離れになっていた後、彼が毎晩頬を寄せ、鈴の温もりを求めて縋り付いた、鈴の分身そのものだ。
「嫌よ。こんなゴミ、こうしてやるわ!」
麗華は冷酷に笑うとわざとらしくハンカチを床に投げ捨てた。湿った泥の上に白い鈴蘭が再び横たわる。そして、彼女は右足を高く上げた。底の厚い、硬い草履の裏。それが狙うのは一番丁寧に縫い上げられた、鈴蘭の花の部分。そこに込められた想いごと、物理的に破壊しようというのだ。
「やめ……っ!」
ベッドの上で鈴が悲鳴を上げた。自分の身を引き裂かれるような痛みが走り、手を伸ばす。しかし、それより速かったのは一陣の殺風だった。鈍い衝撃音が部屋を揺らし、麗華の体がまるで紙切れのように弾き飛ばされた。彼女は「きゃあっ!?」と短い悲鳴を上げ、数メートル後ろのソファに無様に転がり込む。
何が起きたのか、一瞬、部屋の時間が止まった。ただ、ハンカチの落ちた場所には今、一人の男が立っていた。
西園寺景明。彼は麗華を突き飛ばした体勢のまま、肩を激しく上下させていた。
「……か、景明様……?私を、突き飛ばしたのですか……?たかが、あんな汚い布切れのために……?」
麗華が信じられないものを見る目で震える。景明は答えない。彼女の方を見ようともしない。彼はゆっくりとその場に膝を折った。まるで瀕死の重傷を負った恋人を抱き起こすかのように泥だらけの床に落ちたハンカチへ手を伸ばす。
震える指先が泥のついた端に触れる。彼はそれを両手で大事にすくい上げると自分のワイシャツの胸元へ再び、心臓に一番近い場所に押し当てた。
純白のワイシャツに黒い泥のシミが広がるが彼は全く気にしていない。
「すまない……すまない……痛かっただろう……」
うわ言のように呟きながら、彼はハンカチを撫でる。その手つきは怪我をした鈴の手当てをする時と全く同じ、慈愛とそして自分への激しい怒りに満ちていた。
部屋の空気が一変した。その背中から立ち昇るオーラは先ほどまでの“ポンコツな嘘つき書生”のものではない。帝都の闇に生き、敵を屠ってきた、本物の“鬼”の気配。
景明は泥だらけのハンカチを胸に抱いたまま立ち上がるとゆっくりと麗華の方を振り返った。
「……宝生」
低く地を這うような声。それは鼓膜ではなく、背骨に直接響くような重低音だった。麗華が息を呑んで縮こまる。
「これはゴミじゃない」
景明の瞳は暗い光を宿していた。それは瞬間的な激昂ではない。静寂なる憤怒。触れれば凍りつくような絶対零度の怒りだった。
「私の……」
言いかけて景明は言葉を飲み込んだ。“恋人”と言えば、全てが露見する。だが、そんな理屈はもう彼の中にはなかった。彼は震える声で魂からの事実を告げた。
「……私の命よりも大切な“半身”だ」
その言葉に部屋中の空気が張り詰める。鈴は涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
(ああ、やっぱり。貴方は野中さんだ。どんなに嘘をついても貴方が大切にしてくれているものは何一つ変わっていない)
外では雷鳴が轟いていた。稲光が部屋を一瞬白く照らし出し、ハンカチを胸に抱く景明の影を巨大な鬼のように壁に投影した。嵐はまだ始まったばかりだ。
しかし、この部屋の中にある嵐の中心には不器用でどうしようもなく重い、一つの恋心だけがあった。雷鳴が頭上で炸裂した。その轟音さえもがかき消されるほど、部屋の中を支配する静寂は重く、そして鋭利だった。
景明は麗華を見下ろしていた。彼が纏う空気は先ほどまでの右往左往していた書生のものではない。戦場で幾多の修羅場を潜り抜け、敵の喉元を掻き切ってきた、生粋の軍人の殺気だ。その瞳は深海のように暗く、光を一切反射していなかった。
「……ひっ……」
ソファにへたり込んだ麗華の喉から短い悲鳴が漏れる。彼女は知っていた。社交界で見せる冷淡だが礼儀正しい西園寺景明の顔を。同時に彼女は知らなかった。彼が本気で敵対者を排除しようとする時、どのような顔をするのかを。
景明は泥に汚れたハンカチを左手で大切に抱きかかえたまま、右手で腰の軍刀の柄に手をかけた。抜いたわけではない。ただ親指で鯉口を切る音が響いただけだ。その微かな金属音が麗華の心臓を鷲掴みにした。
「宝生。私は貴様に一度でも私の妻になる資格があると言ったか?」
低い声。感情の起伏がない分、それは事実としての宣告だった。
「わ、私は……宝生家の娘として……貴方様にふさわしいと……」
「私に必要なのは家柄でも美貌でもない」
景明は一歩、踏み出した。軍靴の音が死刑執行の足音のように響く。
「私の魂を踏みにじるような女は視界に入るだけで不快だ」
「そ、そんな……!たかがハンカチ一枚で……!」
麗華が涙目で抗議しようとした瞬間、景明の姿がブレた。瞬きする間もなく、彼は麗華の目の前に立っていた。そして彼女の顔の横、ソファの背もたれに勢いよく拳を叩きつけた。
「ひぃっ!!」
「いいか。よく聞け」
景明は麗華の耳元で甘く囁くように地獄の底から響く声で告げた。
「その足だ」
「え……?」
「次にその汚らわしい足で私の大切なものに触れてみろ」
景明の視線が麗華の履いている草履、ハンカチを踏みつけた右足へと落ちる。
「二度と歩けなくしてやる」
比喩ではない。軍刀で腱を断ち切るか、あるいはその手で粉砕するか。どちらにせよ、彼なら躊躇なく実行するという確信が麗華の全身を総毛立たせた。彼女のプライドは生存本能の前に粉々に砕け散った。
「い、いやぁぁぁぁぁっ!!!」
麗華は悲鳴を上げ、転がるようにソファから飛び退いた。
「ばけもの! 鬼! 頭がおかしいわ!!」
麗華は喚き散らしながら脱兎のごとく客間を飛び出し、階段を転げ落ちるようにして逃げ去っていく。やがて、玄関の扉が乱暴に閉まる音がして屋敷に静寂が戻った。
残されたのは荒い息を吐く景明とベッドの上で呆然とする鈴だけ。嵐のような激情が去った後、景明の背中がふっと小さくなった。
鬼の覇気が霧散し、そこに残ったのはただの傷ついた男の背中だった。彼はゆっくりと振り返ることなく、窓辺へと歩み寄った。雨が窓ガラスを叩きつけている。彼は左手に抱いていたハンカチをそっと顔の高さまで持ち上げた。
「……すまない」
その声の、なんと弱々しいことか。さっきまで麗華を威圧していたドスの効いた声とは別人のような震える声。
「守れなくて、すまない……。痛かったろう……冷たかったろう……」
彼は軍服の袖口でハンカチについた泥を拭い続けた。力を入れれば生地が傷むと分かっているのか、その動作は指の腹で撫でるように優しい。けれど泥は繊維の奥に入り込み、完全には落ちない。
景明は焦燥に駆られたように自分の額をハンカチに押し当てた。
「くそっ……私が、私が目を離したばかりに……!」
その姿を見て、鈴の胸は張り裂けそうだった。彼は泣いていた。涙は見えないが心が泣いているのが分かった。たかがハンカチ。けれど彼にとっては連れ去られた鈴を思った日々の唯一の支えだったのだ。
あれはハンカチではない。彼の中で生き続けていた“小鳥遊鈴”そのものだったのだ。
(ああ、もう……馬鹿ね、野中さん)
鈴は熱いものが頬を伝うのを感じた。
(彼は何のために正体を隠しているの? 何が怖くて嘘をついているの?でもそんなことは、もうどうでもいい)
彼はただ、不器用なほどに一途でそして誰よりも鈴を愛している。それだけの真実があれば、十分だった。
鈴は軋む体を起こした。ベッドから降りようとすると足がもつれる。その音に景明が弾かれたように振り返った。
「鈴!?なぜ起きる!安静にしていろと……!」
彼は慌てて駆け寄り、鈴を支えようとした。しかし、その手は鈴に触れる寸前で止まった。自分の手が汚れているとでも思ったのか、あるいは自分が“鬼”であることを自覚して躊躇ったのか。
鈴はそんな彼のためらいを無視して、彼の手首を掴んだ。そして、彼が握りしめている泥だらけのハンカチに触れた。
「……汚れてしまいましたね」
「あ、ああ……。すまない。これは、その……証拠品が……」
景明はまだ、条件反射のように言い訳をしようとした。けれど、その声にはもう力がない。鈴は首を横に振った。
「貸してください、西園寺様」
「え?」
「私が洗います。……私、シミ抜きには自信がありますの」
鈴は景明の手からハンカチを優しく抜き取ろうとした。景明の指が一瞬だけ抵抗する。手放したくないと叫ぶように。けれど鈴が微笑むと彼の指から力が抜けた。
鈴はハンカチを受け取るとそれを胸元、心臓の音を聞かせるように抱きしめた。
「大切な“証拠品”なんでしょう?だったら、綺麗にしておかないと解析班が困ってしまいますものね」
「……っ」
景明が息を呑んだ。鈴は“野中さん”とは呼ばなかった。“西園寺様”と呼び、彼のついた証拠品という苦しい嘘をあえて肯定したのだ。それは無言のメッセージだった。
(貴方が隠したいなら、隠させてあげる。貴方が軍人として生きるなら、私はその嘘に付き合ってあげる)
鈴は確信犯的な笑みを浮かべて、彼を見上げた。
「この汚れ、きっと綺麗になりますわ。……だって、持ち主の方がこんなに大切に想ってくださっているんですもの」
その言葉に景明の瞳が揺れた。彼は何かを言いかけて口を噤んだ。肯定も否定もできない。けれど、その瞳の奥にある熱だけは隠しようがなかった。
二人の視線が絡み合う。外の嵐など、もう遠い世界の出来事のようだ。ここには嘘という薄氷の上に成り立つ、何よりも強固な二人だけの秘密の城が築かれていた。
「……頼む」
長い沈黙の後、景明が絞り出すように言った。
「その……証拠品は、私にとって……かけがえのないものなんだ」
「はい。存じております」
鈴は深く頷いた。その瞬間、二人の間に共犯関係が成立した。彼が任務と嘘を抱えるなら、鈴はその嘘ごと彼を抱きしめる。彼が“鬼”にならざるを得ないなら、鈴はその鬼が帰るための“鈴蘭”であり続ける。
「さて、西園寺様」
鈴は少しだけ悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「綺麗にする間、寂しくないように……私のお話相手になっていただけますか?まだお粥の途中でしたし、野中さん……いえ、“過激派の野中”という殿方のお話、もっと聞かせていただきたいですわ」
「……う、うむ。……仕方ないな」
景明はバツが悪そうに鼻をこすった。その耳は真っ赤で口元は隠しきれない安堵と喜びで緩んでいる。
彼は椅子を引き寄せ、再び鈴のそばに座った。窓の外では雨が降り続いている。けれど、この部屋の中は甘く、温かく、そして少しだけスリリングな恋の温度で満たされていた。
(覚悟してくださいね、嘘つきな婚約者様。……もう、絶対に逃しませんから)
鈴は泥だらけのハンカチを握りしめ、心の中で愛おしい“敵”に宣戦布告をした。
泥を落とせば、そこには変わらない純白の鈴蘭が咲いているように。二人の不器用な恋もまた、嘘と波乱の泥にまみれながら、より強く美しく咲き誇るのだと確信していた。




