第5話
明けて翌朝。帝都は春の嵐を予感させる、重たい乳白色の霧に包まれていた。湿った空気が肌にまとわりつく不快な朝。華族女学校の正門前に周囲のパステルカラーの風景を切り裂くようにして、一台の漆黒の車体が滑り込んだ。
ドイツ製の頑強なボディ、威圧的なエンジン音、そしてボンネットに輝く西園寺家の紋章。それは花の香りが漂う女学校にはあまりにも不釣り合いな鉄とオイルと権威の塊だった。
「……到着いたしました、小鳥遊様」
運転席から聞こえる、抑揚のない事務的な声。後部座席に深く沈み込んでいた鈴は熱を持った重たい瞼を無理やり持ち上げた。最高級の革張りシートは本来ならば雲のような座り心地のはずだ。けれど、今の鈴にとっては熱を持った身体を冷たく締め上げる爬虫類の皮膚のように感じられてならなかった。
(……気持ち悪い)
胃の腑が船酔いのように揺れている。昨夜、一睡もできなかった代償はあまりにも大きかった。思考が熱で溶け出しそうになる中、鈴は震える手で海老茶色の袴の裾を握りしめ、自分を鼓舞した。
「……ありがとうございます」
喉に張り付いた砂のような違和感を飲み込み、鈴は努めて気丈に声を返した。運転手がうやうやしく扉を開ける。車外に出た瞬間、ひやりとした朝の空気が頬を打ち、次いで刺すような視線の集中砲火を浴びた。
「あれ、ご覧になって?西園寺家の……」
「まさか、小鳥遊さん?生きてらしたのね」
「あの“鬼少佐”のお屋敷から登校だなんて……どんな目に遭わされているのかしら」
校門を行き交う令嬢たちのひそひそ話は遠慮というものを知らない。彼女たちの手には色とりどりの日傘や可愛らしい鞄。対して鈴が降り立ったのは死神の馬車のような黒塗りの車。その対比が鈴の孤立感を際立たせた。
(みんな、好き勝手言って……)
鈴は編み上げブーツの靴底でアスファルトを強く踏みしめた。硬質な音が響く。背筋を伸ばせ。顎を引け。小鳥遊鈴はどんな時でも“The 女学生”として快活であらねばならない。
たとえ、その内側が恐怖と高熱でボロボロになっていようとも。
「……おはよう、皆様」
鈴は口角を上げ、精一杯の笑顔を作った。だが、その笑顔が引きつっていることに自分自身が一番気づいていた。一歩、また一歩と校舎へ向かうたびに地面がスポンジのように柔らかく沈み込む錯覚に襲われる。重たい通学鞄が鉛の塊のように肩に食い込んだ。
「鈴ちゃん!」
校舎へ続く桜並木の向こうから弾むような声が飛んできた。その声の主を確認するよりも早く、小柄な身体が鈴の腕に飛びついてくる。鈴の親友であり、この学校で唯一の理解者、千代子だ。
「ち、千代子……」
「よかった!本当によかった!昨日の夜、小鳥遊のおじ様から“鈴が西園寺家に連れ去られた”って聞いて、私、心臓が止まるかと思ったのよ!」
千代子は涙目で鈴の顔を覗き込み、まるで検品でもするかのように鈴の身体を触り始めた。
「怪我はない?鞭で打たれた痕は?まさか、地下牢に閉じ込められて水攻めにあったり……」
「ちょ、ちょっと待って。想像力が豊かすぎるわよ」
鈴は苦笑しようとして、めまいに襲われた。視界が白く明滅する。千代子の高い声が頭の中で反響し、頭痛を加速させた。
「……西園寺様はそんな野蛮な方じゃない。昨日は、その……少し事情があって保護してもらったらだけ」
「保護!?あの“鬼”が?嘘でしょ、鈴ちゃん。騙されてるんじゃないの?巷の噂じゃ、彼は気に入らない部下を視線だけで凍りつかせるとか、夜な夜な生き血をすする吸血鬼だとか言われてるのよ!?」
(生き血って……)
もし彼が本当に野中なら、吸うのは生き血じゃなくて安物の甘い羊羹の蜜くらいだろう。そんな場違いな思考が浮かんで鈴は息を吐いた。だが、その安堵がいけなかったのかもしれない。張り詰めていた緊張の糸がほんの少し緩んだ瞬間、世界が急激に傾いた。
「え……?」
「鈴ちゃん!?」
膝から力が抜けた。地面が顔に向かって迫ってくる。いや、自分が落ちていっているのだ。自分の呼吸音がやけに遠く聞こえる。
(だめ……ッ!ここで倒れたら!)
学校側はすぐに保護者に連絡するだろう。今の鈴の保護責任者は西園寺景明だ。あの過保護で心配性で責任感の塊のような男。
『私の目の届かないところで勝手に弱ることだけは許さん』
あの低い声が脳裏に蘇る。もし学校で倒れたなんて知られたら、彼は軍務を放り出してでも飛んでくるに違いない。黒塗りの車で乗り付け、衆人環視の中で鈴を抱き上げ、「管理不足だ」と自分を責めながら、そのまま病院か屋敷へ強制送還だ。そうなれば、週末の計画が崩れる。
彼が任務で不在となる、この週末。あの開かずの書斎を調べる、千載一遇のチャンス。
(確かめなきゃいけないの。彼が野中さんなのかどうか)
その執念だけが崩れ落ちそうになる鈴の身体を空中で繋ぎ止めた。
「……っ、ふぅ!」
鈴は千代子の腕を乱暴なまでに強く鷲掴みにし、歯を食いしばって踏みとどまった。爪が千代子の制服に食い込む。
「す、鈴ちゃん?顔色が真っ白よ!手がすごく熱いし……!」
「……平気」
鈴は荒い息を整えながら、かぶりを振った。冷や汗が背筋を伝い、肌着を濡らしていく。視界の端で心配そうにこちらを見ている他の生徒たちの視線が無数の針のように突き刺さる。
「平気よ、千代子。ただの寝不足。……ほら、昨日は色々あったから」
「でも、立ってるのもやっとじゃない!保健室へ行きましょう?先生を呼んでくるわ!」
「だめ!」
鈴は叫ぶように制止した。その剣幕に千代子が肩をすくめる。
「……先生は呼ばないで。お願い、千代子」
鈴はすがるような瞳で親友を見つめた。熱に潤んだ瞳は今の鈴がどれほど追い詰められているかを雄弁に語っていた。
「もし大ごとになって、西園寺様に連絡がいったら……私、もう学校に通わせてもらえなくなるかもしれない」
「え……監禁、されちゃうの?」
「……そうよ。あの人はそういう人だもの」
嘘だ。景明はそこまで横暴ではない。けれど、鈴の身を案じるあまり、過剰な行動に出る可能性は高い。今は、この誤解を利用するしかない。
「だから、お願い。……今は少しだけ、肩を貸して。教室まで行けば、座って休めるから」
鈴の必死の懇願に千代子は困惑しながらも強く頷いた。
「わかったわ。……でも、本当に無理だと思ったらすぐに言うのよ?私、鈴ちゃんが倒れたら受け止めきれないかもしれないけど、一緒に倒れてあげることはできるから!」
「ふふ、なにそれ……頼もしいわね」
千代子のトンチンカンな友情に鈴は少しだけ救われた気がした。友人の小さな肩に全体重を預けながら、鈴は重い足を引きずって歩き出した。校舎の窓ガラスに映る自分の顔は死人のように青白い。けれど、その瞳だけは熱病と決意で燃えていた。
(待っていなさい、西園寺景明!この熱が下がる前にあなたの仮面を引き剥がしてやるんだから……)
教室までの廊下が果てしない荒野のように長く感じられた。遠くで鳴る予鈴の音がゴングのように頭の中で響き渡った。
古文の授業は緩やかな拷問のようだった。老教師が朗読する源氏物語の単調なリズムが熱に侵された鈴の脳髄をゆっくりと揺さぶる。黒板に書かれた白いチョークの文字はまるで無数の白蟻が這い回っているかのように蠢いて見えた。
(気持ち悪い……)
昼食の時間、他の生徒の弁当から香る匂いは鈴の吐き気を催させる凶器でしかなかった。
友人たちが「今日もお弁当、美味しいわね」と談笑する横で鈴は弁当箱の蓋を開けるふりをして、中身を喉に押し込むことができずにいた。一口でも飲み込めば、せっかく築き上げた“平気な顔”が崩壊してしまう気がしたのだ。
「鈴ちゃん、食べないの?」
「……朝、西園寺邸のシェフが張り切っちゃって。フルコースみたいな朝食だったから、お腹がいっぱいなの」
嘘だ。朝なんて水一杯すら喉を通らなかった。けれど口をついて出るのは貴族令嬢としての見栄と西園寺家での生活を円満に見せるための虚勢。
鈴は笑顔の仮面を付けたまま、午後の授業も放課後の掃除もすべて完璧にやり過ごした。
唯一の救いは時折、千代子が心配そうに背中をさすってくれた手のひらの温かさだけだった。
夕刻。迎えに来た黒塗りの公用車に乗り込んだ瞬間、鈴は泥のようにシートに沈み込んだ。
「……出して」
運転手に短く告げる声は枯れ木のように掠れていた。車が動き出すと窓の外を流れる帝都の夕景が赤黒い帯となって視界を濁らせる。これからが本番だ。屋敷に帰れば、彼がいる。あの勘の鋭い“鬼少佐”の目を欺き、彼を安心して週末の任務へ送り出さなければならない。
(負けない。絶対に、悟らせない)
鈴は冷え切った両手で自分の頬を叩き、強引に血色を戻そうと試みた。痛みで少しだけ意識が鮮明になる。戦場へ向かう兵士のような覚悟で鈴は西園寺邸への帰路を耐え抜いた。
◇
西園寺邸の玄関ホールは軍靴の音が響く張り詰めた空気に包まれていた。
鈴が帰宅するとちょうど出立の準備を整えた景明が階段を降りてくるところだった。
「お帰り、鈴」
その声を聞いた瞬間、鈴の心臓が早鐘を打った。軍服に身を包み、腰には軍刀を帯びた完全武装の姿。マントを翻すその立ち振る舞いはどこからどう見ても冷徹な帝国軍人そのものだ。けれど、鈴を見下ろす瞳の奥には隠しきれない憂いが揺らめいている。
「……顔色が悪いな」
景明は階段の最後の一段で足を止め、鋭い視線で鈴を射抜いた。眉間に刻まれた深い皺は疑念と心配の表れだ。彼は大きな手袋の手を伸ばし、鈴の額に触れようとする。
(触れられたら、バレる)
今の鈴の体温は火傷しそうなほど高いはずだ。鈴は反射的に一歩下がり、弾けるような笑顔を作って彼の手を躱した。
「ただいま戻りました、西園寺様!顔色が悪いなんて失礼ね。これは今流行やりの薄化粧ですのよ?」
「化粧……?」
「ええ!女学校ですごく盛り上がってしまって、ちょっとはしゃぎすぎたかもしれませんわ。……あ、もしかして、もうご出発ですか?」
鈴はわざとらしく声を張り上げ、話題を逸らした。努めて明るく、快活に。いつもの“生意気で元気な小鳥遊鈴”を演じ切る。
景明の手が宙を彷徨い、やがて力なく下ろされた。
「……ああ。今週末は連隊本部で泊まり込みの任務がある。帰りは日曜の夜になる予定だ」
「そうですか。ご苦労様です。どうぞ、心置きなくお国のために働いてらしてくださいな」
鈴は胸の前で手を合わせ、大袈裟にお辞儀をした。
(早く行って。早くここから居なくなって。そうでないと、私が倒れてしまう)
景明はしばらくじっと鈴を見ていたがやがて小さく溜息をついた。
「……何かあったら、すぐに使用人に言うんだぞ。無理はするな」
「はいはい、わかってますってば。子供扱いしないでください」
「鈴」
「な、なんですか?」
景明は一瞬、何かを言いかけて口をつぐんだ。その表情がふと野中が見せる困ったような顔と重なり、鈴の胸を締め付けた。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
景明が踵を返し、重厚な玄関扉を開ける。夜の冷気と共に彼は闇の中へと消えていく。
車のエンジン音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで鈴はその場に立ち尽くしていた。
「……行った」
緊張の糸が切れた。
「あ……」
通学鞄が手から滑り落ち、重い音を立てる。同時に鈴の身体も崩れ落ちた。冷たい大理石の床に膝をつき、荒い息を吐く。
「小鳥遊様!?」
影のように控えていた使用人が慌てて駆け寄ってくる気配がした。だが鈴は手を振ってそれを制した。
「だ、大丈夫……。部屋で休むから……夕食はいらない、誰も来ないで」
そう言い残し、鈴は這うようにして階段を上り始めた。ここからが本当の戦いだ。主のいない城で孤独と高熱、そして真実と向き合う週末が幕を開ける。
◇
土曜日の午後、西園寺邸を包み込んでいたのはもはや静寂という生易しいものではなかった。それは深海の底で感じるような、鼓膜を圧迫するほどの無音の圧力だった。
窓の外では朝から降り始めた雨が次第に勢いを増していた。窓ガラスを叩く雨粒の音だけがこの巨大な屋敷がまだ時間の流れの中に存在していることを告げる唯一の証だった。
客間のベッドの上で鈴は浅く、短い呼吸を繰り返していた。
「……はぁ、っ……あつい」
吐き出す息が自分のものではないように熱い。最高級のシルクのシーツは汗ばんだ肌に冷たく張り付き、まるで冷血動物の皮膚のように鈴の体温を奪い、また不快な湿り気を返してくる。
視界が揺らいでいた。天井に吊るされたシャンデリアのクリスタルが熱に侵された網膜の奥で歪な形に増殖して見える。
(……静かすぎる)
この屋敷には生活音というものが欠落している。小鳥遊邸ならば雨の日でも台所から漂う出汁の香り、女中たちの笑い声が満ちていたはずだ。
けれど、ここは違う。使用人たちは幽霊のように気配を消し、床板ひとつ軋ませない。主である西園寺景明が不在の今、この屋敷は主を失った墓標のように冷たく沈黙していた。
鈴は自分の脈打つ音だけが響く耳障りな世界で孤独という毒に侵されていた。誰も部屋には入ってこない。食事のトレイがワゴンで運ばれてくる時以外、この部屋は世界から切り離された孤島だった。
(……野中さん)
喉が渇いてひきつる。サイドテーブルの水差しに手を伸ばそうとした指先が空を掴んで震えた。
ふと、視線が壁の方へと吸い寄せられる。壁紙のダマスク模様が熱のせいで蠢いて見える。その壁の向こう側。わずか数十センチの漆喰と木材で隔てられた隣室。
『あの部屋には軍事機密が山ほどある。間違っても入るんじゃないぞ』
景明の警告。だが、今の鈴にはそれが“入るな”という命令ではなく“ここにお前の探しているものがある”という誘惑の囁きに聞こえてならなかった。
(……知りたい)
熱で溶け出した脳髄の中で本能だけが鋭く光った。野中みのるはどこへ行ったのか。景明はなぜあんなにも野中に似ているのか。そして、なぜ鈴をこの部屋に、よりにもよって自分の秘密の真横に住まわせたのか。
鈴は重力に逆らうようにして身体を起こした。世界が回転する。足元のペルシャ絨毯に素足を下ろすと毛足の長い繊維が足指に絡みつき、まるで底なし沼のように鈴を引きずり込もうとした。
「……行かなきゃ」
誰に命じられたわけでもない。ただ、そうしなければ自分が自分でなくなってしまうような焦燥感があった。鈴は肩にショールを引っ掛け、ふらつく足取りでドアへと向かった。
廊下に出るとひやりとした冷気が熱を持った肌を刺した。薄暗い回廊。壁に掲げられた歴代当主の肖像画が不敬な侵入者を睨みつけている。
遠くで鳴る雷鳴が腹の底に響く重低音となって屋敷を震わせた。鈴は壁に手をつき、荒い息を吐きながら進んだ。一歩、また一歩。その距離はわずか数メートルなのに砂漠を横断するかのように遠く感じられた。
重厚な樫の木の扉。そこが、終着点だった。鈴は扉に背中を預けるようにしてもたれかかった。
分厚い木の板越しに微かな匂いが漏れ出しているのを感じた。
(……匂う)
鼻腔をくすぐる、その香り。磨き上げられた廊下のワックスの匂いではない。もっと古めかしくて埃っぽくて……そして胸が締め付けられるほど懐かしい、鉄錆のようなインクの香り。
それは鈴の記憶の奥底に刻まれたあの六畳間の下宿の匂いそのものだった。
「野中さん……そこにいるの?」
鈴は涙声で呟いた。返事はない。あるはずがない。けれど匂いだけがそこに彼がいることを雄弁に語っていた。鈴は震える手で冷たい真鍮のドアノブを握りしめた。氷のような金属の冷たさが掌の熱を奪っていく。回るはずがない。“鬼少佐”と呼ばれる男が重要機密の部屋の鍵を掛け忘れるなんて天地がひっくり返ってもありえない。
力を込めてみるが当然のようにノブは動かない。硬質な拒絶。それが現実だ。
「……開けてよ」
鈴は額を扉に押し付けた。熱い涙が頬を伝い、冷たい木材に吸い込まれていく。悔しさと、もどかしさと、恋しさと。あらゆる感情がごちゃ混ぜになって胸の中で暴れまわっていた。
(意地悪。なんで隠すのよ。あたしはただ……本当のあなたに会いたいだけなのに)
その純粋であまりにも強烈な想いが熱と共に指先から溢れ出す。彼女はまだ知らない。自分の想いが物理法則すらねじ曲げる力を持っていることを。壊れたものを直すだけではない。
あるべき姿、つまり彼女が望む“繋がった状態”へと世界を修復してしまう力を。
鈴はふと、自嘲気味に笑った。熱に浮かされた頭が現実逃避のために幼い頃に読んだ絵本の一節を引っ張り出してきたのだ。
「……開け、胡麻」
それは、誰もいない廊下で吐き捨てた、ただの冗談だった。どうせ開きっこない。そんなことは分かっている。けれど、その言葉が唇を離れた瞬間、指先から、奇妙な振動が伝わってきた。
まるで扉の奥深くで眠っていた複雑な歯車たちが一斉に目を覚ましたかのような微細な音。
「……え?」
硬く閉ざされていたはずのシリンダー錠の中で何かが弾けた。いや、金属が自ら形を変え、噛み合い、閂を外したかのような不可解な感触。次の瞬間、重いはずの樫の扉がまるで最初からロックなどされていなかったかのように音もなく内側へと吸い込まれていく。
「……うそ、でしょ?」
鈴は目を丸くして自分の掌とドアノブを交互に見つめた。
(魔法?まさか!…それともあの几帳面な西園寺様が鍵を掛け忘れた上に内部のバネが壊れていたとでもいうの?)
混乱する頭では合理的な答えなど導き出せそうになかった。ただ一つ確かなのは今、禁断の領域への道が鈴を招き入れるように開かれたということだけ。開いた隙間から濃密な空気がどっと流れ出してくる。
それは埃と古書、そして安インクの匂いが混じり合った鈴にとっての酸素だった。
(……呼ばれてる)
鈴の足は思考よりも先に動いていた。禁忌を犯す背徳感よりも愛しい人の残り香に触れたいという本能が恐怖を凌駕した。
「……お邪魔します、野中さん」
蚊の鳴くような声で呟き、鈴は暗がりの中へと一歩を踏み出した。そこは冷徹な軍人の執務室などではない。嵐の日に迷い込んだ少女だけが知る秘密の隠れ家への入り口だった。
書斎の中は廊下までの凍てつくような冷気とはまるで別世界だった。足を踏み入れた瞬間、鈴の全身を包み込んだのは埃と古書の甘く乾いた匂い。そして何より胸の奥を鷲掴みにされるほど懐かしい安物のインクの匂いだった。
(……ここ、なに?)
“鬼少佐”と恐れられる景明の執務室。てっきり、針一本落ちていないような、冷徹で無機質な空間を想像していた。壁には巨大な戦術図が貼られ、机の上には軍事機密が整然と並んでいるのだと。けれど、目の前に広がっていた光景はそんな想像を根底から覆す雪崩だった。
床のペルシャ絨毯が見えないほどに洋書や和綴じの本が塔のように積み上げられている。
あちこちに散乱した紙束。飲みかけで放置され、縁に褐色の輪染みがついた珈琲カップ。そのカオスな光景を見た瞬間、鈴の脳裏にかつて愛した下宿での日々が暴力的なほどの鮮明さでフラッシュバックした。
『またこんなに積んで!崩れたらどうするのよ!』
『あはは、ごめんごめん。あとで片付けるよ』
そう言って、彼はいつも困ったように眉を下げ、結局片付けない。あの無頓着でどこか憎めない散らかし方がこの最高級の屋敷の一室にそのまま再現されている。
それは“几帳面な西園寺景明”という仮面の下に隠された“野中みのるという男”の指紋そのものだった。
「……変わってないじゃない」
鈴は熱い息を吐きながら、よろめく足で部屋の奥へと進んだ。足元で埃が舞い上がり、窓から差し込む稲妻の光に照らされて光る。まるで彼と過ごした日々の残像の中を歩いているようだった。
部屋の中央には大きなマホガニーの執務机が鎮座している。そこだけは奇妙なほど生活感に溢れていた。高価な万年筆が転がっている脇に、一冊の重厚な革表紙のノートが置かれている。誰かに見せるための公文書ではない。個人的な、あまりにも個人的な気配を纏ったノート。
(……軍事機密?)
鈴は喉を鳴らし、震える指先でその表紙をめくった。そこに走っている文字を見た瞬間、鈴の呼吸が止まった。
『五月二十日。雨。ずぶ濡れの子猫を拾った』
(え……?)
それは作戦計画書でも暗号文書でもなかった。右上がりの癖字。勢いがあるけれど、どこか丸みを帯びた優しい筆跡。紛れもなく鈴が恋した“野中みのる”の文字だ。
そしてその日付は鈴が家出をして、彼の下宿に転がり込んだあの日。ページをめくる手が止まらない。そこに記されていたのは五月雨のわずか一週間。たった七日間の記録だった。
『五月二十三日。鈴さんが作った肉じゃがは少し甘かった。だが、悪くない。……いや、今まで食べた何よりも美味い』
『五月二十五日。彼女が笑うと薄暗い六畳間に花が咲いたようだ。ずっと見ていたい』
『五月二十六日。小鳥遊家が雇ったと思われる大男たちに嘘をついた、ここがばれるのも時間の問題か…』
そこに綴られていたのは帝都大学生・野中みのるとしての鈴との日々の記録だった。多忙なはずの彼が寝る間を惜しんで書き残したであろう、鈴への想いの欠片。
嘘の身分で出会ったはずなのにそこに記された感情には嘘などひとつもなかった。
「たった七日間のこと、こんなに丁寧に書いて……馬鹿みたい」
鈴の瞳から熱い滴が零れ落ち、ノートのページにじわりと染みを作った。
(どうして“鬼少佐”がこんな日記を書いているの?どうして野中みのるの文字で私のことばかり書いているの?やっぱり、あなたは野中さんなんでしょう?じゃあ、どうして隠すの……?)
混乱と熱で頭が割れそうになる中、ふとノートの横に無造作に置かれた布切れが目に入った。それは白絹のハンカチだった。
「あっ……」
鈴は息を呑み、それを手に取った。角には白と緑の絹糸で繊細な鈴蘭の刺繍が施されている。
鈴が小鳥遊家の人間に無理やり連れ戻されることになった、あの日、泣きじゃくりながら彼に渡した別れの品だ。
『これ、私だと思って……忘れないで!』
そう言って渡したハンカチ。本来なら几帳面な彼のことだ。大切に肌身離さず持ち歩いているはずのもの。それがどうしてこんな机の上に読みかけの日記と一緒に置かれているのか。
(忘れちゃったの……?)
鈴はハンカチをそっと撫でた。生地は少し毛羽立ち、何度も何度も指で触れられたように柔らかく馴染んでいた。きっと彼は今日もこれを懐に入れて出かけるつもりだったのだ。けれど昨日の鈴の登校準備でバタバタしていたせいか、あるいは連日の鈴への気苦労がたたったのか、うっかり机に置き忘れてしまったのだろう。
彼がこれを忘れたという事実。それは彼にとってこのハンカチが特別な時に見る記念品ではなく、“日常の一部として常に身につけている必需品”であることを如実に物語っていた。
いつも心臓に近い場所にしまっていたからこそ、ふとした拍子に忘れてしまった時の不在は彼の心をかき乱しているに違いない。
「……野中さん、会いたいよ」
ハンカチを顔に寄せると、そこから微かに彼の匂いがした。高級なポマードの匂いではない。五月雨の湿気を帯びた空気と安インクの匂いが混じった、鈴の大好きな匂い。
心臓が早鐘を打ち、視界が急激に暗転する。限界を超えていた高熱が感情の爆発と共に鈴の身体を蝕んだ。
(あ、だめ……)
足の力が抜け、世界が回転する。鈴はその場に崩れ落ちた。手をついた拍子に積み上げられた本の塔にぶつかり、雪崩が起きた。重たい洋書が次々と崩れ落ち、鈴の身体を埋めるように散らばる。
(片付けなきゃ……怒られちゃう……)
薄れゆく意識の中で鈴は革のノートとハンカチを宝物のように胸に抱き寄せた。冷たい床板が頬に触れる。けれど、その冷たささえ気持ちよかった。
(嘘つき……。でも大好き……)
窓の外で雷鳴が轟いた。それはまるで禁忌を犯した鈴への断罪のようであり、同時に何かが近づいてくる足音のようでもあった。
握りしめたハンカチの刺繍の凸凹した感触だけを命綱にして、鈴の意識は熱い闇の中へと溶けていった。
◇
帝都の上空を粘度のあるコールタールのような黒雲が覆い尽くしていた。午後三時だというのに世界は黄昏よりも深く、不吉な暗がりに沈んでいる。
西園寺家の紋章が入った漆黒の公用車が泥水を跳ね上げながら街道を爆走していた。窓ガラスを叩きつける雨音はまるで無数の礫のように車内を閉塞させていく。
後部座席に座る景明は苛立ちを隠そうともせず、貧乏揺すりを繰り返していた。革手袋を嵌めた指先が膝の上で何度も握られては開く。
「……まだか」
「は、はい!あと五分ほどで……」
運転手の怯えきった声など、今の彼の耳には届かない。景明は無意識のうちに自分の軍服の左胸、心臓の上のポケットをまたしてもまさぐっていた。
(……無い)
空っぽだ。いつもそこにあるはずの柔らかい感触がない。鈴蘭の刺繍が入った、あのお守りが。
あれがないと景明はまるで丸腰で最前線の塹壕に放り出されたかのように呼吸すらままならなくなる。
昨日、鈴の顔色の悪さが気になり、使用人に細かな指示を出したりしているうちに書斎の机の上に置き忘れてしまったのだ。それに気づいたのは連隊本部に到着してしばらくしてからのことだった。
「……重要書類を忘れた、取りに帰る」
呆気にとられる部下たちに大嘘をつき、視線を振り切り、彼は戻ってきた。たかがハンカチ一枚。されど彼にとっては命よりも重い一枚。あれは彼が野中みのるであった証であり、鈴と繋がっている唯一のへその緒なのだ。
車が屋敷の正門をくぐり抜ける。同時に空が裂けるような激しい雷鳴が轟いた。
「少佐、傘を……!」
「構わん!」
景明は車が完全に止まる前に飛び降りた。激しい雨が容赦なく全身を打ち付け、完璧に整えられた軍服を一瞬で濡れ鼠に変える。だが、そんなことはどうでもいい。彼は濡れるのも厭わず、玄関ホールへと駆け込んだ。
重厚な扉を閉めると嵐の音が少しだけ遠のいた。屋敷の中は静寂に包まれているはずだった。
「……なんだ?」
景明は眉をひそめた。二階から微かで異質な気配が漂ってくる。風の音ではない。何かが崩れるような音と甘く重たい空気の流れ。
(書斎か?)
景明の軍人としての勘がけたたましい警鐘を鳴らす。彼は腰の軍刀に手を添え、濡れた軍靴が床を汚すのも構わず、階段を二段飛ばしで駆け上がった。
廊下の突き当たり。稲妻が窓の外で閃光を放ち、その一瞬、景明の表情が凍りついた。開いている。
厳重な鍵がかかっているはずの書斎の扉がだらしなく半開きになり、そこから中の空気が漏れ出している。
(馬鹿な……鍵を掛け忘れたのか?私が?)
ハンカチを忘れた動揺で施錠まで忘れていたというのか。自分のたるみ具合に歯噛みしながら、景明は軍刀から手を離し、慎重に扉を押し開けた。
「……誰だ」
低く鋭い声で問いかける。だが返事はない。代わりに聞こえてきたのは苦しげな熱を帯びた荒い呼吸音だけだった。
再び稲妻が走り、部屋の中を青白く照らし出した。その光景に景明は息を呑んだ。本が雪崩を起こして散乱した床。その中心で小さな影が倒れ伏している。見間違うはずもない。この屋敷で最も守るべき存在、鈴だった。
「鈴!?」
思考が真っ白になった。侵入者への警戒など一瞬で消え失せた。景明は軍靴のまま部屋に飛び込み、本の山を踏み越えて彼女のそばに膝をついた。
「おい、鈴!どうした!しっかりしろ!」
抱き起した体は、燃えるように熱かった。濡れた髪が頬に張り付き、顔色は死人のように青白い。完全に意識を失っているが苦しそうに眉を寄せ、うわ言のように何かを呟いていた。
「……ん……のなか、さ……」
その唇が紡いだ名前。そして、彼女が胸元で大事そうに握りしめているものを見て、景明は心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
彼女の小さな手の中には彼が鈴への想いを書き綴った日記と彼が忘れ、取りに戻ってきた鈴蘭のハンカチがあった。二つを抱きしめるようにして、彼女は倒れていたのだ。
「……見たのか」
すべてを。この部屋の惨状を。日記の中身を。彼がまだ、この部屋の中だけで“野中みのる”として生きていたことを。
そして、このハンカチが彼にとって決して忘れてはならないものであったことを。
(私が追い詰めたのか……?)
彼女の顔色の悪さには気づいていた。だが正体がバレるのが怖いという自分の保身のために彼女と深く向き合うのを避けていた。その結果がこれだ。
「……くそッ!」
景明は自分自身への激しい怒りで奥歯が砕けそうなほど噛み締めた。今は正体だの言い訳だのを気にしている場合ではない。そんな些末なことは彼女の命に比べれば塵にも劣る。彼は鈴を軽々と横抱きに抱え上げた。華奢な身体は以前抱きしめた時よりもずっと軽くなっている気がして、恐怖で指先が震えた。
「死なせない。……絶対に」
景明は書斎を出て、隣にある鈴の客間へと走った。ベッドに彼女を寝かせると乱暴にマントを脱ぎ捨て、濡れた軍服の上着も放り投げる。
シャツのボタンを一つ、二つと外し、彼は自ら洗面器に水を汲み、タオルを絞ると震える手つきで彼女の額を拭った。
「うぅ……ん……あつい……」
「大丈夫だ、ここにいる。もう大丈夫だから……」
冷たいタオルが触れると鈴はわずかに安堵したように表情を緩めた。窓の外で稲光が走り、遅れて雷鳴が屋敷を揺らす。
鈴が肩を震わせ、空中に手を伸ばして何かを探すような仕草をした。景明はとっさにその小さな手を両手で包み込んだ。
彼女の手は熱く、対照的に景明の手は雨で冷え切っていた。
「怖くない。僕がついている」
普段の冷徹な“鬼少佐”の口調ではなかった。意識の混濁した彼女にはどうせ聞こえていないだろう。誰も見ていない密室。雷雨の音がすべての音を消し去ってくれる。ふと、魔が差した。あるいはそれが彼の本心からの叫びだったのかもしれない。
景明は握りしめた彼女の手を自分の頬に押し当て、愛おしげに目を細めた。その瞳から傲慢な光が消え、気弱で優しかったあの頃の色が戻る。
「……ごめんね、鈴さん」
口をついて出たのはもう二度と言わないと誓ったはずのあの日々の口調だった。
「無理をさせて、ごめん。……気づいてやれなくて、ごめん」
その声は震えていた。帝都を震撼させるエリート軍人の威厳など、欠片もない。ただの恋人に心配をかけた情けない男の声だった。
「野中さんはここにいるよ。……ずっと君のそばにいるから」
彼は祈るように彼女の熱い手のひらに口づけを落とした。鈴の呼吸が少しずつ、穏やかなリズムへと変わっていく。窓の外では嵐が激しさを増していた。雷鳴が世界を引き裂こうとも、この部屋の中だけは皮肉なほどに穏やかで、優しい嘘と真実の愛が満ちていた。
後ろ髪を引かれる思いで鈴の事を使用人に任せ、景明は一度、連隊本部へと戻っていった。ただ、愛しい彼女が再びその瞳を開く事だけを、狂おしいほどに切に願って。




