第4話
明けて翌朝。決意の夜から一転、帝都の朝は路面電車のけたたましいベルの音と行商人の野太い掛け声、そして文明開化の煤煙の匂いと共に慌ただしく幕を開けた。
しかし、ここ瑞華女学校の教室には外界の喧騒とは隔絶された、もっと甲高く、もっと切実な小鳥たちのさえずりのごとき騒めきが満ちていた。
「鈴ちゃん……!生きてた、生きてたのねぇ……!」
教室の引き戸を開けた瞬間だった。朝の柔らかな陽ざしが差し込む中、鈴は登校するなり友人である伯爵令嬢・千代子の猛烈な抱擁を受けた。
「ちょ、千代子!?苦しい、苦しいってば!」
黒板のチョークの粉が舞う匂いと少女たちが髪につけた椿油の甘い香りが入り混じる。昨日の“鬼少佐”との死闘(お見合い)の疲労がまだ抜けない身体に親友のフルパワーのハグは予想以上に堪えた。鈴は涙ながらに海老茶色の衣服を揉みくちゃにする。
「だってぇ!あんな恐ろしい“鬼少佐”とお見合いしたって聞いたから……私、今日、鈴ちゃんの机に菊の花を置く覚悟で登校したのよぉ!」
千代子の悲痛な叫びに、周囲にいた友人たちも一斉に深く頷く。色とりどりの銘仙の着物を着た良家の令嬢たちは皆、一様に青ざめた顔で鈴を見ていた。それはまるで激戦地から奇跡的に生還した兵士を見るような、畏敬と憐憫の入り混じった視線だ。
「……あのねぇ。まだお見合いをしただけで、食べられたわけじゃないんだから」
「でも! 相手はあの西園寺景明様でしょう!?」
千代子は瞳孔を開き、声を潜めつつ、力説する。
「噂聞いたことないの?訓練中に素手で羆を絞め殺したとか、反抗的な部下を視線だけで氷漬けにしたとか、主食は生き血だとか……夜な夜な帝都の闇を徘徊して、若者の魂を啜っているとか!」
(……生き血はともかく、視線で氷漬けはあながち間違いじゃないかも)
鈴は内心で苦笑しながら、自分の席に鞄を置いた。友人たちの怯えようは滑稽だが無理もない。景明の名は帝都の社交界においては“死神”と同義だ。
だが、鈴の脳裏には昨日の庭園での出来事が鮮烈に焼き付いていた。不意の転倒、抱きとめられた時の軍服越しにも伝わる硬い腕の感触。
(西園寺景明……。冷酷無比な鬼少佐。でも、あいつの中に“野中さん”がいる)
鈴はあえて鼻を鳴らして胸を張った。千代子たちの心配を吹き飛ばすように、そして自分自身の迷いを振り払うように努めて明るい顔を作る。艶やかな焦げ茶色の髪がその動きに合わせて揺れた。
「みんな、心配しすぎよ!確かにあの人は目つきが悪くて、口も悪くて性格もねじ曲がった“鬼”かもしれないけど……私が更生させてみせるわ!あの“鬼”の仮面を剥いで、その下にある人間らしい部分を引っ張り出してやるんだから!」
(もしあいつが本当に野中さんなら、絶対に尻尾を出させてやる!)
鈴の高らかな宣言に教室中が水を打ったように静まり返り、次の瞬間「おおお……」というどよめきに変わった。
「さすが鈴ちゃん……」
「ジャンヌ・ダルクの再来ね……」
「どうか命だけは大切に……」
それは称賛というよりは無謀な特攻隊を見送るような涙に濡れた視線だった。
◇
昼休み。鈴たちは中庭のベンチに座り、膝の上に広げた漆塗りの弁当箱をつついていた。秋の空は高く澄み渡り、銀杏の葉が金色の雨のように降り注いでいる。のどかな風景とは裏腹に話題はやはり鈴の婚約者のことばかりだ。
「それでね、お父様が言っていたの。西園寺様は先の欧州での任務でたった一人で敵の拠点を壊滅させたんですって」
甘い卵焼きを頬張りながら千代子が声を潜める。鈴は酸っぱい梅干しのおにぎりをかじり、頷きながら聞き流していた。
「なんでも普通の人間には見えない“何か”を使役しているとか……。闇に紛れて移動して、壁をすり抜けるって噂よ」
「壁をすり抜ける?まさか」
鈴は鼻で笑った。けれど心臓が跳ねるのを自覚した。
野中みのる。あの書生と長屋で暮らしていた時、不思議なことがいくつかあった。壊れたはずの真空管ラジオが翌朝には直っていたり、高い棚にある本を取ろうとして踏み台から落ちそうになった時、ありえない速度で支えてくれたり。それに昨日の庭園だ。鈴が転んだ瞬間、彼は少し離れた場所にいたはずなのに瞬きする間に目の前にいた。あれは人間の脚力だろうか?
(……異能。この帝都には稀にそういう力を持つ家系があるって聞いたことがあるけど)
もし、西園寺家がそういう力を持つ一族だとしたら。そして野中みのるという男もその力を使っていたのだとしたら。点と点が繋がり、一つの線になりかけている。
「ねえ、鈴ちゃん。本当に結婚する気なの?」
友人の一人が心配そうに鈴の顔を覗き込む。鈴は口の中のものを飲み込み、膝の上のハンカチに視線を落とした。鈴蘭の刺繍が入ったお気に入りのハンカチ。これと同じものを鈴は野中にあげた。昨日の少佐はそれを持っていなかったけれど……。
「……結婚なんて、しないわよ」
鈴は強がって見せた。けれど、その言葉は以前ほど鋭く響かなかった。
「私はただ、確かめたいだけ。あの人が……あの鬼少佐が本当にただの冷酷な人間なのかどうか。もし、あの中に私の知っている優しい人が隠れているなら……」
そこまで言って鈴は口をつぐんだ。これ以上言うと自分が“野中みのる”というド貧乏な書生に未練たらたらであることが友人たちに露呈してしまう。鈴は慌てて話題を変えるべく、大きめに声を張り上げた。
「そ、それより!今度の期末考査の範囲、聞いた?漢文の先生、また意地悪な問題出すって噂じゃない?」
「ええーっ、嘘でしょう!?」
友人たちが悲鳴を上げ、話題は平和な学園生活の悩みへと移っていく。
鈴はひと息をつき、最後の一口を放り込んだ。塩気の効いたおにぎりの味がなぜか少し切なく、胸の奥に沁みた。
午後の授業は鈴にとって本来なら大好きな裁縫の時間だった。窓の外では校庭のポプラ並木が風に揺れ、音を立てている。
いつもなら布の声を聞くように時間を忘れて没頭できるはずなのに今日ばかりはなぜか針先に集中できない。脳裏に浮かぶのは冷酷な“鬼少佐”の仮面を被った、あの不器用で愛しい書生のことばかりだった。
(野中さん……)
老教師の単調な声が子守歌のように響く中、鈴は小さくため息をついた。運針の手を動かしながらもついぼんやりと外の景色へと視線を泳がせてしまう。
その時、鈴の背筋に冷たいものが走った。誰かに見られている。それは単なる視線ではない。肌にまとわりつくような、湿った、粘着質な気配。鈴は顔を上げ、校門のあたりに目を凝らした。
(……あれ?)
レンガ造りの校門の陰。そこに一人の男が立っていた。学園の使用人ではない。黒っぽい古びた詰襟に目深にかぶった鳥打帽子。
ここからでは表情までは見えないがその男が教室のあるこの校舎を凝視しているのが分かった。ただ立っているだけではない。その纏う空気があまりにも異質だった。陽だまりのような女学校の風景の中にそこだけインクを垂らしたような、ドス黒い澱みがある。
鈴の“異能”に近い勘が警鐘を鳴らしていた。あいつは敵だ。鈴は無意識に手に持っていた針を強く握りしめた。普段の彼女なら絶対にしないような手元の狂い。すると指先に鋭い痛みが走った。指の腹から赤い血が滲み出し、真っ白な布に赤い花を咲かせる。
「痛っ……」
「あら、鈴ちゃん大丈夫?考え事?」
隣の席の友人が心配して声をかけてくれる。鈴は「平気、平気」と笑って指を舐めたが、もう一度窓の外を見たときには、その男の姿は掻き消えるようにいなくなっていた。
(……見間違い? ううん、違う)
心臓の鼓動が早くなる。あの視線は品定めをするような、あるいは獲物を狙うような、執着に満ちたものだった。そして思い出す。家出をしていた時、野中が時折見せていた窓の外を警戒するような鋭い仕草。彼は何かから逃げていた? それとも何かと戦っていた?
『君は僕が守りますから』
あの日、貧乏長屋の小さなちゃぶ台越しに彼が言ってくれた言葉。あの時の彼はただの貧弱な書生に見えたけれど、その瞳だけは強く、燃えるようだった。あれはこの“影”から守るという意味だったのだろうか。
「……野中さん」
鈴の小さなつぶやきは誰にも届かずに教室の空気に溶けた。もし、あの鬼少佐が野中なら。彼は今、どこで何をしているのだろうか。
そして、あの校門の影は鈴と彼をつなぐ不穏な糸の端なのだろうか。授業終了を告げる鐘の音がいつもより低く、重く、不吉な予兆のように響き渡った。
女子校の校門前はいつものように華やいだ喧騒に包まれていた。迎えの車を待つ良家の令嬢たち、寄り道への期待に声を弾ませる袴姿の女学生たち。そこには平和で甘やかな乙女の園だけの時間が流れているはずだった。
けれど今日、その柔らかな空気は一台の異物によって無残にも引き裂かれた。腹の底に響くような、低く重たいエンジン音。坂の下から現れたのは磨き上げられた漆黒の車体を持つ、巨大な外国製の箱型自動車だった。
当時の帝都において、自動車などまだ珍しい存在だった。ましてや、これほど威圧感を放つ車はそうそうお目にかかれない。優雅な馬車や可愛らしい円タクとは訳が違う。
夕陽を反射して鈍く光るそのボディはまるで闇夜を切り取って固めた鉄の塊のようであり、獲物を狙って音もなく忍び寄る巨大な黒豹のようでもあった。
「な、何あれ……?」
「怖いわ、まるで霊柩車か政府の要人を乗せる護送車みたい……」
生徒たちが蜘蛛の子を散らすように道を開ける。その黒い鉄の塊は我が物顔で校門の真正面に滑り込むと、タイヤが砂利を噛む音を立てて静止した。
静寂。排気ガスの匂いが少女たちの纏う椿油の甘い香りを無遠慮に塗り替えていく。
(……ああ、もう。本当に嫌)
鈴は昇降口の柱の陰で思わず額に手を当てて天を仰いだ。目立ちたくない。平穏に影のように学園生活を送りたい。そんな鈴のささやかな願いをこの男はエンジンの轟音と共に踏み潰していくのだ。
硬質な音が響き、後部座席のドアが開く。最初に地面を踏みしめたのはよく磨かれた革靴。続いて軍服に身を包んだ長身の男がその姿を現した。
西園寺景明。帝都にその名を轟かせる、冷徹無比な“鬼少佐”。軍帽を目深にかぶり、腰には儀礼用のサーベル。その立ち姿はまるで一枚の絵画のように美しいが同時に触れれば斬れるような鋭利な空気を纏っている。
彼がゆっくりと顔を上げ、氷のような瞳で周囲を一瞥した瞬間、校門前の温度が体感で五度は下がった気がした。
「ひぃっ……!」
「め、目が……目が合ったわ、お母様……!」
過剰な想像力を持つ下級生たちが涙目で抱き合って震え上がる。まるで死刑執行人が現れたかのような反応だ。
(違うってば。あいつはただ、私を迎えに来ただけ……多分)
鈴は大きく深呼吸をし、震える友人たちの背中を押して前に出た。逃げれば余計に目立つ。ここは堂々と良妻のフリをして乗り切るしかない。
「……お待たせしました、西園寺様」
努めて淑やかに声をかける。景明の視線が鈴を捉えた。その瞬間、凍てついていた彼の表情筋が動き、ほんのわずかに、顕微鏡でなければ分からないほど微かにその瞳の奥に安堵の色が滲んだのを鈴は見逃さなかった。
「……遅い」
けれど、紡がれた言葉は相変わらずの絶対零度。彼は鈴の鞄を持とうともせず、無愛想に顎で車内をしゃくった。
「乗れ。今日は急ぎの用がある」
「用?伺っておりませんが」
「私の予定はあなたの予定だ。口答えは許さん」
(この傲慢男……っ!)
鈴は心の中で彼に舌を出しつつ、表面上は恭しく頭を下げた。周囲の「鈴ちゃん、生きて帰ってきてね……」「身代金が必要なら言って……」という悲壮な囁きを背中に受けながら、鈴はその漆黒の鉄の箱へと足を踏み入れた。重厚な音と共にドアが閉ざされる。外界から遮断された車内は上質な革の匂いと微かな機械油、そして彼が纏う独特のインクと古書の香りで満たされていた。
車は滑らかに発進し、帝都の目抜き通りへと走り出した。
後部座席は意外なほど広い。だがその空間の半分以上を隣に座る景明の威圧感が占拠していた。
彼は軍帽を膝の上に置き、背筋を定規で測ったように伸ばして前を見据えている。
鈴は窓の外を流れるレンガ造りの街並みを目で追いながら、ガラスに映る彼の横顔を盗み見た。長い睫毛。涼やかな鼻筋。意志の強さを感じさせる薄い唇。その造形はやはり鈴の記憶の中にある貧乏書生・野中みのるそのものだ。けれど、野中はいつも猫背で鈴の顔色を伺うように不安気にしていた。対してこの男は世界そのものを敵に回しても動じないような鉄壁の空気を纏っている。
(やっぱり、別人?ううん、騙されない)
鈴は膝の上に置いた通学鞄を握りしめた。鞄の底には今日の昼休み、購買のおばちゃんに頼み込んで取っておいてもらった“切り札”が眠っている。
野中と貧乏長屋で暮らしていた頃。彼が原稿に行き詰まった時や鈴が機嫌を損ねた時になけなしの小銭をはたいて買ってきてくれた安くて甘い菓子パン。
『これほど素晴らしい発明品は文明開化の恩恵ですね』
そう言って目を細めていた彼の顔を鈴は忘れていない。
(さあ、賭けの時間よ。鬼少佐さん)
鈴は静かに息を吸い込み、鞄の留め具を外した。静寂な車内に、紙袋の音が響く。同時に鼻孔をくすぐる甘く香ばしい匂い、イースト菌の発酵した香りと甘く炊き上げられた小豆の香りが漂った。その瞬間。景明の肩が不自然に跳ねた。
前を見据えていたはずの彼の眼球だけが鈴の手元へと動く。その動きは獲物を見つけた肉食獣というよりはマタタビの匂いに抗えない猫のそれに近かった。
「……なんだ、それは」
数秒の沈黙の後、彼はあくまで冷淡さを装って問いかけてきた。だが、その声がわずかに上擦っていることに鈴は気づいている。
「あんぱんです。桜の塩漬けが乗った、庶民の間で流行りのものですわ。ご存知ありませんか?」
鈴はわざとらしく首を傾げ、紙袋から艶やかなきつね色のパンを取り出した。焼きたてではないけれど、まだほんのりと温かい。それを両手で包み込むように持ち、彼の鼻先へと近づける。
「……私は軍人だ。そのような軟弱な甘味など興味はない」
景明は顔を背けた。その横顔、耳のあたりが僅かに紅潮している。そして喉仏が大きく上下した。
(興味がない?嘘つき)
野中だった頃、景明は鈴のあんパンを半分こし、あんこが多い方を鈴に譲ってくれつつも、指についたあんこまで名残惜しそうに舐めていた。
「そうですか?残念ですわ。これ、中のこし餡がとっても滑らかで……一口食べれば、上品な甘さが疲れた脳みそに染み渡って、とろけるような心地になれるのに」
鈴は悪魔の囁きと共にパンをゆっくりと二つに割った。生地が裂ける音。中から現れる艶やかな漆黒の餡。閉ざされた車内という密室において、その甘い香りの暴力性は凄まじい。逃げ場はない。彼の理性に対する徹底的な包囲網だ。
「西園寺様はお仕事でお疲れでしょう?眉間の皺、深くなっておりますよ」
鈴は割ったパンの片方を彼の口元へと強引に差し出した。距離はわずか数センチ。彼の視線があんぱんに釘付けになる。理性と本能の激しい葛藤。冷酷な軍人の仮面の下で甘党の書生が「食べたい!食べたいです!」と叫んでいるのが聞こえてくるようだ。
「いりませんか?“あなた”」
鈴の呼び方に景明の目が大きく見開かれる。動揺で瞳が揺れ、何かを言い返そうと唇が開いた、その時だった。
重厚な高級車のエンジン音など到底及ばない、悲しくなるほど盛大で情けない音が車内に響き渡った。それは紛れもなく、彼の上等な軍服の下にある、空腹の胃袋からの咆哮だった。
時が止まる。運転席の御者が思わずバックミラーを確認するのが見えた。差し出されたパン。凍りつく鬼少佐。景明の顔色が蒼白になり、やがて茹でダコのように真っ赤に染まっていく。帝都を震撼させる冷徹な男の威厳が音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。
「…………」
「…………」
耐え難い沈黙。景明は唇を震わせ、泳ぎまくる視線で必死に言い訳を探している。
(敵の襲撃か?いや、今の音はタイヤの……)
そんな言葉が喉まで出かかっては消えているのが分かる。
(ああ、もう。可愛いんだから)
鈴はこみ上げる笑いを必死に噛み殺し、しかし心の中では勝利の旗を高らかに掲げた。間違いない。この男は野中だ。どんなに怖い服を着ていても、どんなに冷たい言葉を使っても腹の虫とあんパンへの愛だけは隠せない。
「い、今のはエンジンの不調…だ」
「……ふふっ。大変な“エンジンの不調”ですこと」
鈴は聖母のような慈悲深い笑みを浮かべ、硬直する彼の手を取り、強引にパンを握らせた。
「この車、燃費が悪いようですね。すぐに燃料を補給しないと動かなくなってしまいます。さあ、どうぞ。“修理”のために」
景明は手の中のパンを呆然と見つめ、それから観念したように項垂れた。抵抗を諦めた敗北者の背中だ。彼は誰にも聞こえないような蚊の鳴くような声で「……かたじけない」と呟くともそもそとパンを口に運んだ。
一口食べた瞬間。眉間の皺が嘘のように消え去り、その頬が緩み、瞳がとろりと蕩けた。それは長屋のちゃぶ台で見ていた、あの幸せそうな顔そのものだった。
鈴は口元についたあんこを拭ってあげたい衝動を抑えながら、確信に満ちた視線で、愛しい“嘘つき”を見つめ続けた。
◇
銀座の街は夜の帳が下りると共にまばゆいネオンとガス灯の光で極彩色に彩られていく。最新流行のモボ・モガが行き交い、ジャズの音色が漏れ聞こえる煉瓦街。
漆黒の高級車は人波をゆっくりと分け入り、その華やかな喧騒の中心にある一軒の瀟洒なカフェの前で滑らかに停止した。運転席の御者が素早く降りてきて、後部座席のドアをうやうやしく開ける。
「……降りろ」
先ほどまでの車内での“あんパン失態”などなかったかのように景明は軍帽を目深にかぶり直し、冷徹な仮面を貼り直して言った。だが、その口元には微かにこし餡の甘い余韻が残っているのを鈴だけは知っている。
(はいはい、鬼少佐殿。今はそういうことにしておいてあげる)
鈴は内心で笑いながら景明のエスコートを受けて車を降りた。御者に「そのまま待っていろ」と短く指示を出す景明の横顔は憎らしいほど様になっている。
店内に足を踏み入れるとそこは別世界だった。磨き上げられた大理石の床。高い天井から下がるシャンデリアの煌めき。焙煎された珈琲の芳醇な香りと甘いバニラ、そして淑女たちの白粉の匂いが混ざり合い、濃厚な文明の空気を醸し出している。
案内されたのは店の一番奥にある、ビロード張りのソファ席だった。鈴の目の前には、鮮やかな緑色のソーダ水と銀の器に盛られたプリン・ア・ラ・モードが運ばれてきた。さくらんぼの赤、メロンの緑、プリンの黄色。宝石箱のような輝きに鈴の瞳が輝く。
「……用事というのはこれ?」
「ああ。あなたのような子供には餌を与えておけば大人しくなるだろうと思ってな」
景明はブラック珈琲を啜りながら、憎まれ口を叩く。しかし、その視線が鈴の食べるプリンの上の生クリームに、一瞬だけ吸い寄せられたのを鈴は見逃さない。
(素直じゃないわね。本当は自分が食べたかったくせに)
鈴がわざと生クリームをたっぷりスプーンですくい、口に運ぼうとした、その時だった。
「あら、あらあらあら!まさかと思いましたがやはり景明様ではありませんこと!?」
店の空気を震わせるような甲高く、よく通る声が響き渡った。衣擦れの音と共に濃厚な香水の香りが漂ってくる。
鈴と景明が同時に顔を上げるとそこには一輪の巨大な牡丹の花のような女性が立っていた。目が痛くなるほど鮮やかな深紅の振袖に金糸で刺繍された大輪の薔薇。首元には真っ白な狐の毛皮を巻き、髪は複雑に結い上げられた洋髪に大きなリボン。
財閥令嬢らしい最高級の和装に西洋の小物を合わせた大正モダンな装いだがその存在感は周囲の客を圧倒するほどに仰々しい。
「……宝生。なぜここにいる」
景明が露骨に眉をひそめた。彼女の名は宝生麗華。財閥の令嬢であり、景明の幼馴染。そして自称“西園寺景明の許嫁”を名乗る、自意識の塊のような女性である。
「なぜって、私、お茶を楽しんでおりましたら愛しの景明様の気配を感じたのですもの!ああ、今日も素敵ですわ、その軍服姿!冷徹なる氷の瞳!まさに帝都の至宝!」
麗華は長い袂を翻し、景明のテーブルに身を乗り出した。うっとりと彼を見つめるその視線がゆっくりと対面に座る鈴へと移動した瞬間、温度が急激に下がった。
「……して?そちらのドブネズミのようなお嬢さんは、どちら様ですの?」
「ドブネ……ッ!?」
鈴は危うくスプーンを落としそうになった。仮にも女学校の制服を着た子爵令嬢に対して、ドブネズミとは何事か。
「彼女は小鳥遊鈴。私の婚約者だ」
景明が淡々と告げる。その瞬間、麗華の目が見開かれ、手に持っていた扇子が音を立てて歪んだ。
「こ、婚約者ぁ!?お聞きしておりませんわ!いえ、認めません!このような……見てください、この貧相な体つき!色気のかけらもない顔立ち!景明様の隣に並ぶにはあまりにも格が違いましてよ!」
麗華は鈴の頭の先からつま先までを舐めるように見下し、鼻を鳴らした。
「景明様に相応しいのは幼き日より貴方様をお慕いし、教養も美貌も兼ね備えた、この宝生麗華ただ一人!さあ、どきなさいドブネズミさん。そこは私の席ですわ!」
言うが早いか、麗華は強引に鈴と景明の間に割り込もうとした。振袖の長い袂が暴れ、鈴の視界を塞ぐ。狭いテーブル席で香水のきつい匂いと白粉の匂いが充満する。
「やめろ、宝生。迷惑だ」
「いいえ、やめません!目を覚ましてくださいませ!きっとこの女に何か弱みを握られているのでしょう?私が排除して差し上げますわ!」
麗華の手が景明の軍服の袖を掴み、さらに鈴を押し退けようと暴れる。テーブルが揺れ、ソーダ水の氷が音を立てた。鈴も負けじと踏ん張る。
(なによこの人!綺麗な着物が泣いてるわよ!野中さんのこと何も知らないくせに!)
「離してください!西園寺様が困っていらっしゃいます!」
「黙りなさい!この泥棒猫!」
もみ合いの中、麗華の長い爪や帯締めが景明の胸元に引っかかった。
乾いた音が響く。景明の軍服の第二ボタン。金色の装飾が施された重厚なボタンが無理な力で引きちぎられ、弾け飛んだ。
金色のボタンはスローモーションのように宙を舞い、鈴の目の前のテーブルクロスの上に落ちて転がった。
「あ……」
「しまった……」
麗華と景明が動きを止める。軍人にとって軍服は誇りそのもの。ましてや公衆の面前でボタンを引きちぎられるなど、最大の不名誉であり、だらしないことこの上ない。
景明の顔色が曇る。麗華も青ざめ「あ、あら、私……」と口元を扇子で隠す。鈴は迷わずそのボタンを拾い上げた。
手のひらに乗ったそれはまだ景明の体温を含んで微かに温かい。布地の方は糸が切れ、無残にほつれてしまっている。
(野中さんの大事な服なのに…せっかく、私のためにめかしこんで迎えに来てくれたのにこんな格好悪いままじゃ可哀想)
「……動かないでください」
鈴は鞄の中から、小さな巾着袋を取り出した。女学校の嗜みとして常に持ち歩いている、携帯用のソーイングセットだ。中から銀色の縫い針と、黒い糸を取り出す。
「おい、何を……」
「いいから。じっとしてて…あ!ぬいだと3回唱えてください!」
「…ぬいだ…ぬいだ…ぬいだ…こ、これでいいのか…」
鈴は景明の胸元に手を伸ばし、取れたボタンを元の位置に当てた。その瞬間、鈴の胸の奥で熱いものが渦巻いた。怒りではない。目の前の不器用な男、野中みのるの晴れ姿を守りたいという、純粋で強い想い。それが指先に伝わり、針へと流れ込む。
(元通りになあれ。……ううん、もっと丈夫にもっと綺麗に!)
鈴の指が動いた。針が布地を通る音さえ置き去りにするような速度だった。
常人ならば、ボタン付けには数分はかかる。糸を通し、布をすくい、玉止めをする。その工程が必要だ。だが、鈴のそれは違った。銀色の針が閃光のように瞬いたかと思うと黒い糸がまるで生き物のように踊り、千切れた繊維を絡め取っていく。
縫う、というよりは糸が布と融合していくようだった。ほつれた糸は修復され、切れた繊維は繋がり、ボタンは岩に根を張る巨木のように強固に固定されていく。
(つながれ!)
鈴が心の中で強く念じ、最後に糸を引き絞った瞬間。小さな音がして作業が終わった。所要時間はわずか数十秒。
「……はい、出来上がり」
鈴は糸を切り、針を収めて笑った。そこにはまるで新品のように、いや最初からそこにあったかのように完璧に縫い付けられたボタンがあった。
裏側を見ても縫い目の乱れ一つない。ただ“直った”のではない。生地の傷みさえ消え失せている。
「なっ……!?」
息を呑んだのは、景明だった。彼は自分の胸元を見下ろし、信じられないものを見る目で鈴を凝視した。常人には手際が良い程度に見えたかもしれない。だが、歴戦の軍人であり、動体視力に優れた景明には見えていた。
針が通るたび、布の傷が塞がっていったのを。糸が自ら意思を持ったかのように千切れた繊維を結びつけていたのを。それは単なる裁縫ではない。“修復”という名の人智を超えた現象だった。
「……今……なにを…」
景明の声が震えている。一方、興奮状態の麗華はその異常性に気づいていない。
「あら?もう付け直しましたの?まあ貧乏人の娘はこういう小細工だけは得意なのですね。でも、所詮は素人の応急処置!景明様、後で私が最高級の仕立て屋に……」
麗華は一人で勝手に納得し、振袖を翻して再び騒ぎ始めたが景明の耳にはもう入っていなかった。彼は目の前の小柄な少女、鈴をまるで未知の脅威、あるいは希望を見るような複雑で強烈な眼差しで見つめていた。
鈴はといえば急激な脱力感に襲われ、ソファに深く沈み込んでいた。指先が熱い。針を持っていた指が脈打っている。
(ふぅ……なんか、すっごく疲れた)
(でも、よかった。野中さんにかっこ悪い思いさせなくて)
鈴は崩れた笑みを見せ、残っていたプリンのさくらんぼを口に放り込んだ。
甘酸っぱい味が疲れた体に染み渡る。銀座のカフェの喧騒の中、一針の奇跡は二人の運命をより深く縫い合わせようとしていた。
カフェを出ると銀座の街はすっかり夜の帳が下りていた。表通りはアーク灯のモダンな白光と行き交う路面電車の窓明かりで華やかに彩られている。人力車の梶棒を引く威勢の良い声や活動写真館から流れる音楽が混ざり合う、光と音の奔流。
だが、そこから一本路地に入ると空気は一変する。頼りないガス灯が揺れるだけの湿った闇と静寂の世界だ。
「……車は向こうの通りに回させてある」
景明は短く告げると鈴の半歩前を歩き出した。その背中は先ほどまでのあんパンやボタン騒動で見せた隙など微塵も感じさせない、冷徹な軍人のものに戻っている。革の靴が石畳を叩く音が静まり返った路地裏に反響する。
鈴は直したばかりの彼の背中のボタンを見つめながら、その後ろをついて歩いた。甘いプリンの余韻と先ほどの異能発動による心地よい疲労感。だが、それ以上に胸を占めるのは確信に近い予感だった。
(あの背中。あの歩幅。……間違いないわ)
もし彼が本当にただの冷酷な鬼少佐なら、あんな風に私の歩く速度に合わせて、絶妙な距離を保って歩くだろうか。
野中みのるはいつもそうだった。鈴がショーウィンドウに見とれて立ち止まれば、彼も自然に足を止め、鈴が歩き出せば、また歩き出す。まるで呼吸を合わせるように二人が古い煉瓦造りの倉庫の陰に差し掛かった時だった。
「……おい」
闇の奥から低い擦れた声が響いた。風が止まる。路地の湿った空気の中に鉄錆のような殺気が混じる。景明が足を止め、鈴を背に隠すように身を滑らせた。
闇の中から現れたのはボロボロの外套を纏った男だった。無精髭に覆われた顔。ぎらつく瞳。その手には月明かりを反射して鈍く光る短刀が握られている。
「……何の用だ」
景明の声は氷点下の冷たさだった。男は虚ろな目で笑い、間合いを詰めてくる。
「“鍵”だ……。貴様らが持っている、“鍵”をよこせ……」
「鍵?」
鈴が思わず声を上げる。心当たりなどない。だが、男の目は狂気を帯びていた。過激派の残党か、それとも闇社会の人間か。男は「西園寺の女なら知っているはずだ!」と叫び、理性を失った獣のように地面を蹴った。
「死ねぇッ!」
男が跳躍する。切っ先を狙ったのは景明ではなく後ろにいる鈴だった。それも鈴の右側面。そこは鈴の利き目ではない方であり、かつて野中と歩く時にいつも彼が守ってくれていた死角だ。
「鈴!」
景明が叫んだ。その瞬間、世界がスローモーションになる。通常の軍人であれば、抜刀して敵を斬り伏せるか、あるいは正面から受け止めるだろう。だが、景明の動きは違った。彼は敵を見ることなく、後ろ手で鈴の腰を抱き寄せたのだ。それも鈴が驚いて右側に倒れそうになる癖を完全に予知した動きで。
鈴の体が右に傾くその寸前、景明の左腕が彼女の体を支え、同時に自身の体を鈴の右側へと割り込ませていた。金属音が火花と共に散る。
景明はサーベルを抜いていなかった。男の短刀を左腕のガントレットで弾き、そのまま流れるような動作で男の懐に入り込むと掌底を顎に叩き込んだのだ。
「がっ……!?」
男が吹き飛び、石畳の上を転がる。一撃。無駄がない、があまりにも“鈴を守ることに特化しすぎた”動き。
「……っ、怪我はないか!?」
男が気絶したことを確認するより早く景明は振り返り、鈴の両肩を掴んだ。その瞳は鬼少佐の冷酷な瞳ではない。焦燥と、恐怖と、そして深い愛情に満ちた、あの優しい書生の瞳。
「右側は……ぶつかっていないか?君はいつも驚くと右足がもつれるから……」
そこまで言って景明はハッとしたように口をつぐんだ。路地裏に静寂が戻る。遠くの表通りから路面電車の警笛が微かに聞こえてきた。鈴は掴まれた自分の肩を見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、景明の顔を見た。
彼は真っ青な顔をして、慌てて手を離し、咳払いをした。
「……い、いや。一般人を巻き込むわけにはいかないからな。軍人としての義務だ」
苦しすぎる言い訳。鈴は何も言わず、ただじっと彼を見つめた。その沈黙が何よりも雄弁な答えだった。
◇
待機していた車に戻ると景明は御者に向かって短く告げた。
「……屋敷へ戻る」
「えっ?」
鈴は思わず声を上げた。屋敷とはつまり西園寺家の屋敷のことだ。
「待ってください私の家は逆方向です。小鳥遊邸へ送ってください」
「ならん」
景明は隣に座りながら言い放った。運転席との仕切り窓を閉め、誰にも聞かれない密室を作ると彼は低い声で続けた。
「先ほどの賊の言葉を聞いただろう。“鍵”と言っていた。奴らは明らかに君を標的にしている」
「だからこそ、家に帰らなければ……」
「小鳥遊子爵邸の警備などザルも同然だ」
景明は冷たく言い切った。
「過激派の残党か、あるいはもっと厄介な組織か……いずれにせよ、君を狙う勢力がいる以上、あのような無防備な屋敷に帰すわけにはいかん。我が西園寺家の警備下に入ってもらう」
「そ、そんな勝手な!外聞が悪いわ!まだ祝言も挙げていないのに!」
「命あっての物種だ。……文句は言わせん」
有無を言わせぬ圧迫感。だが、その強引さの裏に、「絶対に君を死なせない」という悲痛なまでの決意が見え隠れしていることに鈴は気づいていた。
(……ズルいわよ、そういうところ)
車は進路を変え、西園寺家の重厚な洋館へと向かっていく。図らずも始まった強制的な同居。鈴は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。これは好機だ。彼のテリトリーに入り込めば、逃げ場はない。正体を暴くには絶好の機会だ。
◇
西園寺家邸の車寄せに到着する。重厚な洋館の扉が開かれ、執事が出迎える中、二人は玄関ホールへと入った。
「……私は書斎で今回の襲撃について調査する。夕食は客間で取れ」
景明は逃げるように階段を登ろうとした。屋敷に連れ込んだ勢いはどこへやら、二人きりになるのを避けているようだ。その背中に、鈴の声が突き刺さる。
「お待ちください」
凛とした、しかし震える声。景明の足が止まる。彼はゆっくりと、錆びついた機械のように振り返った。
「……なんだ」
「どうして、知っていらしたのですか?」
鈴は一歩、彼に近づいた。広大な玄関ホール。高い天井。冷たい大理石の床。二人の間には身分という高い壁と嘘という深い溝がある。けれど今の鈴にはそんなものは関係なかった。
「私の、右側のこと」
「…………」
「私が驚くと右に倒れる癖があること。右目の視力が少し弱くて、右側からの気配に鈍いこと。……それを知っているのは家族と私の親友と…」
鈴は一度言葉を切り、潤んだ瞳で彼を射抜いた。
「私が愛した、あの方だけです」
景明の喉仏が動く。彼は視線を逸らし、軍帽の鍔に手をかけた。
「……軍の情報網を舐めるな。婚約者の身体的特徴など、調査済みだ」
「嘘です」
鈴は即座に否定した。一歩、また一歩と階段に近づく。
「調査報告書に、そんな細かい癖まで書きますか?それにあの時のあなたの動き……。あれは訓練された動きではありませんでした。何度も何度も私の隣を歩いて、私を守り慣れた人の動きでした」
鈴は階段の一段目に足をかけ、彼を見上げた。その距離はわずか数メートル。
冷徹な鬼少佐の仮面がガラス細工のようにヒビ割れていくのが見える。
「答えてください。……あなたは誰ですか?」
「私は西園寺景明だ」
「いいえ」
鈴は首を横に振った。そして、あの日、彼に渡せなかった言葉を祈るように紡いだ。
「あなたは……私の、野中さんでしょう?」
その名はこの屋敷において禁句にも等しい響きを持っていた。景明の瞳が揺れる。肯定も否定もできない。
肯定すれば彼は軍規違反と欺瞞の罪を認めることになる。否定すれば目の前の愛しい少女の想いを永遠に踏みにじることになる。長い、長い沈黙。やがて景明は深く息を吐き、苦渋に満ちた表情で低く呟いた。
「……今日は疲れているようだ。休みなさい」
それは実質的な逃亡だった。彼は答えず、背を向けて階段を駆け上がっていった。書斎の扉が閉まる音が屋敷中に虚しく響き渡る。
残された鈴はその場に立ち尽くしていた。けれど、その顔に悲壮感はなかった。彼の逃亡こそが何よりの肯定だったからだ。
(逃げたわね。…… でも、もう逃がさない。ここはこの人の家。つまり、私の逃げ場もないけれど、この人の逃げ場もないってことだもん)
鈴は着物の襟を握りしめた。確信は決意へと変わった。一つ屋根の下、あの分厚い扉の向こうにいる、不器用で臆病な“彼”を引きずり出し、私の婚約者としてひざまずかせてやる。
しかし、その強気な決意とは裏腹に案内された豪奢な客室のベッドに潜り込んでも鈴の脳裏には様々な光景が渦巻き、一睡もすることができなかった。
路地裏での攻防。自分を庇った男の背中。そしてあの書斎へと逃げ込んだ怯えたような瞳。
“あなたは、野中さんでしょう?”
問いかけた時の、あの男の痛切な沈黙が耳の奥で反響し続け、華奢な身体を内側から少しずつ蝕んでいたのだ。




