表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

第3話

 数時間後。

「西園寺少佐、帰還されました!」

 冷たい石造りの回廊に歩哨の鋭い声が響き渡った。帝国陸軍・特務機関本部。煉瓦と鉄筋で固められたその巨大な建造物は帝都の平和を影から守る“番犬”たちの巣窟だ。

 長く伸びる廊下を規則正しい軍靴の音が叩く。そのリズムには一千分の一秒の乱れもなく、機械時計のような正確さがあった。

 すれ違う下士官や兵卒たちがその姿を認めた瞬間に背筋を凍らせ、壁に張り付くようにして道を空け、直角に肘を曲げた完璧な敬礼を送る。

「……西園寺少佐だ」

「おい、目を合わせるな。魂ごと凍らされるぞ」

「“鬼少佐”のお帰りか……。あの纏っている冷気、いつ見ても人間業じゃないな」

 ひそひそとかわされる恐怖と畏敬の混じった囁き。だが、その歩みの主、西園寺景明の耳にはそれらの雑音は一切届いていなかった。

 仕立ての良い軍服。長身痩躯の体躯は鋼の美しさを一種の“凶器”へと変えていた。

 けれど、その完璧な“鬼少佐”の仮面の下で景明の魂は血を流して泣いていた。

(……寒い)

 心の中で誰にも聞こえない弱音を吐く。軍服の生地は最高級の羅紗であり、防寒性にも優れているはずだ。なのに骨の髄まで凍えるような冷たさが消えない。それは気温のせいではない。つい数時間前まで自分の隣にあった“体温”を失ったからだ。

 景明は軍服の懐の奥、心臓に一番近い場所に忍ばせた一枚の布切れを軍服の上からそっと指先で確かめた。鈴が彼のために縫ってくれた鈴蘭の刺繍入りハンカチ。

 そこにはまだ、彼女が流した涙の湿り気が残っているような気がした。

『さようなら、野中さん』

『私…… お家に帰る。だから、もう二度と会いに来ないで』

 昨夜の別れの言葉が呪詛のように脳裏でリフレインする。大粒の涙を瞳いっぱいに溜めて、それでも懸命に笑顔を作ろうとしていた彼女の顔。なぜか。それは貧乏書生“野中みのる”を守るためだ。

(私は……何をしているのだ)

 景明は奥歯を噛み締めた。本来ならば彼女を守るのは私の役目だ。帝國陸軍のエリートでありながら、か弱い少女一人に守られ、あまつさえ彼女をあんな“黄金の檻”へと送り返してしまった。

 その無力感が屈辱となって胃の腑を焼き焦がす。煎餅布団に残った彼女の髪の匂い。ちゃぶ台の上に置かれたままの飲みかけの湯呑み。それらを見るたびに心臓を素手で握り潰されるような激痛が走ったのだ。

 景明は特務機関本部の最奥、重厚なマホガニーの扉の前で足を止めた。一つ、深く息を吸い込む。肺に入ってきたのはカビ臭い書類と古いワックスの匂い。そこにはあの長屋で漂っていた味噌汁の香りも、石鹸の香りも、日向の匂いもない。ここが、現実なのだ。

(野中みのるは死んだ)

 自分にそう言い聞かせる。あの温かい陽だまりの中で鈴に膝枕をされ、甘えていた書生はもういない。

「失礼します」

 今ここにいるのは冷徹な殺人機械、西園寺景明少佐だけだ。彼は瞳の奥の光を意図的に消し去り、硬質な手つきで上官の待つ執務室の扉をノックした。

「失礼します」

「入れ」

 中から響いたのは岩を擦り合わせたような低く重みのある声だった。景明が扉を開け、執務室へと足を踏み入れる。部屋の中は紫煙で白く霞んでいた。高価な葉巻の甘ったるい香りと麝香の香りが混じり合った独特の威圧的な空間。

 部屋の中央、執務机の向こうに座っていたのは初老の将軍だった。白髪を短く刈り込み、顔には幾多の戦場を潜り抜けてきた証である古傷が刻まれている。その眼光は獲物を狙う老練な鷲のように鋭く、射るような視線が景明を貫いた。

「特務任務、完了いたしました。西園寺景明、ただいま帰還いたしました」

 景明は靴音高く踵を合わせ、完璧な挙手注視の敬礼を行った。指先まで神経の行き届いたその姿勢は教科書の手本そのものだ。

 将軍は無言で葉巻を灰皿に押し付け、ゆっくりと煙を吐き出した。その沈黙の一秒一秒が鉛のように重い。やがて将軍は手元の分厚い書類の束、景明が提出した報告書を指先で叩きながら低い声で唸った。

「報告書には目を通した。……完璧だな」

 意外な出だしだった。しかし、景明は微動だにせず、直立不動を貫く。

「潜入対象となっていた帝都転覆を目論む過激派組織。その資金ルート、構成員名簿、アジトの場所、そして黒幕の正体。すべてが網羅されている。この情報さえあれば奴らを一網打尽にできるだろう。貴様の諜報能力の高さには毎度のことながら舌を巻く」

「はっ。過分なお言葉、恐悦至極に存じます」

「……だがな、西園寺」

 将軍の声の温度が氷点下へと急降下した。空気が張り詰める。

「貴様からの最終定時連絡があったのはいつだ?」

 景明は視線を正面の一点に固定したまま答える。

「……七日前であります」

「そうだ。七日前だ。貴様はその時点で任務に必要な情報は全て揃えていた。本来ならば即座に帰還し、この報告書を提出すべきだった。一刻を争う事態だからな。違うか?」

「……おっしゃる通りです」

「ならば答えろ。西園寺少佐」

 将軍がゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで景明の目の前まで歩み寄ってきた。その威圧感は並の兵士なら立っていることさえ困難なほどだ。

「この空白の七日間。貴様はどこで何をしていた?」

 景明の心臓が鳴った。

 七日間。それは彼が野中みのるとして鈴と共に暮らした夢のような日々のことだ。任務完了の夜、彼は怪異に襲われていた鈴を助けた。

 そこで彼女を警察か実家に引き渡せば、すべては終わっていたはずだった。だが震える彼女を腕の中に抱いた時、どうしても離せなかった。“帰りたくない”と泣く彼女の声が孤独だった自分の心に突き刺さった。

 だから彼は軍規を犯した。任務継続中だと偽り、上官への連絡を絶ち、彼女との同棲生活を選んだのだ。

(言えるはずがない)

 もし真実を話せばどうなるか。軍法会議にかけられるのは自分だけで済むかもしれないが鈴の存在が軍に知られれば彼女もまた監視対象となり、場合によっては“事情聴取”という名の尋問を受けることになるだろう。

 彼女は何も知らない一般人だ。あの清らかな世界に住む彼女をこんな血生臭い世界に引きずり込むわけにはいかない。

 あの日々は自分だけの罪であり、自分だけの宝物だ。墓場まで持っていく秘密なのだ。

「……申し上げられません」

 景明は腹に力を込めて告げた。その言葉を聞いた瞬間、将軍の眉が跳ね上がった。

「申し上げられない、だと?貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか。これは命令だ。行動記録を詳らかにせよ」

「……私的な事情による、独断専行であります。軍務とは一切関係ございません」

「私的な事情?“鬼少佐”ともあろう男が私情で任務を遅らせたと言うのか!?」

 将軍の怒号が部屋を揺らした。唾が飛び散るほどの激昂。だが、景明は瞬き一つせず、ただ静かにその怒りを受け止めた。

「理由を言え!女か?博打か?それとも敵に情でも移ったか!」

「……すべては、私の不徳の致すところであります。いかなる処分も甘んじてお受けいたします」

 景明は頑として口を割らなかった。言い訳もしない。情状酌量も求めない。ただ、鈴を守るために沈黙という名の盾を構え続けた。

「貴様……ッ!!」

 将軍の堪忍袋の緒が切れる音がした。次の瞬間、空気を切り裂くような音が響き、強烈な衝撃が景明の顔面を襲った。

 将軍の握り拳が景明の左頬を全力で打ち抜いたのだ。手加減など微塵もない、軍人の本気の拳。

 景明の首が大きく右に持っていかれ、口の中が切れる感触があった。鉄の味が口いっぱいに広がる。

「ぐっ……!」

 景明はよろめいたが倒れはしなかった。すぐに体勢を立て直し、再び直立不動の姿勢に戻る。左の頬が焼けるように熱い。視界が明滅し、耳鳴りが響いている。

 だが、この程度の痛みが何だというのか。昨夜、鈴が流した涙の熱さに比べれば。彼女が自分の手を振り払う時に見せた、断腸の思いの表情に比べれば。こんな肉体的な痛みなど、むしろ心地よいほどだった。

 これは罰だ。彼女を救えず、彼女に嘘をつき続け、彼女を利用してしまった自分への当然の報いなのだ。

「理由も言わず、ただ殴られるか。……呆れた男だ」

 将軍は赤くなった自分の拳をさすりながら、忌々しげに吐き捨てた。景明の口端からは一筋の鮮血が流れ落ち、軍服の襟を汚していく。

 左の頬は見る見るうちに腫れ上がり、青黒い打撲痕となって浮き上がってきた。それはかつてないほど無様で痛々しい傷だった。

「これほど優秀な男がなぜこんな愚かな真似を……」

 将軍は嘆息し、机の上の封書を乱暴に掴むと景明の胸元へ投げつけた。

「処分は追って軍法会議にて決定する。謹慎ですめば御の字だと思え。だが、その前に貴様には果たすべき義務がある」

「……義務、でありますか」

「ああ、小鳥遊子爵令嬢との見合いが明日に迫っている」

 その名が出た瞬間。景明の全身の血液が逆流したかのように沸騰した。

 小鳥遊鈴。自分が命を懸けて守り、そして無残にも奪われた愛しい女性。

(……鈴さん)

 運命という名の神はなんと残酷な脚本を書くのだろう。自分が野中みのるとして愛した女性と西園寺景明として見合いをする。彼女は縁談を嫌がって家出したのだ。「鬼少佐となんて、絶対に結婚したくない」と長屋で何度もこぼしていた。

 そんな彼女の前に自分がこの姿で現れることの意味。それは彼女の絶望を決定づける行為に他ならない。

「おい、聞いているのか。……その顔はどうだ」

 将軍の声に景明は意識を引き戻した。将軍は景明の腫れ上がった顔を見て、呆れたように眉をひそめている。

「長屋での任務中にゴロツキと喧嘩でもしたかのような酷い面だ。そんな顔で見合いに行くつもりか?先方の令嬢が悲鳴を上げて逃げ出すぞ」

「……」

 確かに今の景明の顔は惨憺たるものだろう。昨夜の暴力による擦り傷に加え、今の鉄拳制裁による大きな打撲痕。唇も切れ、血が滲んでいる。

 名家の嫡男が見合いの席に見せる顔ではない。それは鬼少佐というあだ名を文字通り体現したような恐ろしい形相だった。

 だが、景明はハンカチで口元の血を拭うと自嘲とも狂気とも取れる凄絶な笑みを浮かべた。

「ご心配には及びません、この傷こそが私の覚悟です」

 血に濡れた唇が艶かしく動く。

(逃げ出してくれて構わない。いや、むしろ逃げてくれ)

 彼女に嫌われたい。野中みのるという優しかった書生の幻影を守るために。景明が鬼少佐として徹底的に嫌われれば、彼女の中で野中みのるは綺麗な思い出のまま残るだろう。

 そして、もし彼女が縁談を拒絶し、破談にしてくれれば彼女は自由になれる。だが、もし、もし万が一、彼女がこの傷だらけの顔を見て何かを感じ取ってくれたなら。この顔に刻まれた痛みが彼女への愛の深さゆえだと魂のどこかで気づいてくれたなら。

(私は賭ける)

 この顔のまま彼女の前に立つ。それは彼女への挑戦状であり、同時に言葉にできない愛の告白でもあった。

「……フン。勝手にしろ。ただし破談になれば西園寺家の面汚しだぞ」

「肝に銘じます」

 景明は再び美しい敬礼を捧げ、踵を返した。退出するその背中は入室した時よりもさらに一回り大きく、そして冷たく見えた。廊下に出ると窓の外の雨はさらに激しさを増していた。激しい雨音が建物を叩く。窓ガラスに打ち付ける雨粒がまるで涙のように流れていく。

 景明は窓に映る自分の顔を見た。青黒く腫れた頬。切れた唇。冷え切った瞳。そこにはもう人の好さそうな書生はいない。いるのは傷だらけの修羅。愛する女を奪還するために地獄の底から這い上がってきた“鬼”だった。

(待っていてくれ、鈴さん)

 景明は窓ガラスに手を当て、遠く離れた小鳥遊邸の方角を見つめた。その瞳の奥で青白い炎が静かに激しく燃え上がっていた。

(たとえどんな手を使っても、君を取り戻す……たとえ君が私を憎むことになったとしても)

 彼は軍帽を目深に被り直し、雨の降りしきる中庭へと歩き出した。その足取りは重く迷いはなかった。

 小鳥遊子爵邸の朝は窒息しそうなほどの静寂と鼻につくような高級な香りに支配されていた。東の空が白み始め、雨戸の隙間から薄青い光が差し込んでくる。十畳はある広々とした和室の中央、敷かれたばかりの最高級の絹布団。

 その中で鈴は泥の中から浮上するようにゆっくりと意識を取り戻した。掛け布団は雲のように軽く、部屋には新しい畳のい草の香りと微かに焚き染められた白檀の香りが漂っている。それは帝都の令嬢であれば誰もが羨むような、極上の寝心地のはずだった。

 けれど。鈴の閉じた瞼の裏に浮かんだのは安らぎではなく、強烈な違和感だった。

(……違う)

 鈴は重いまぶたを開けずに無意識のうちに右手を横へと伸ばした。指先が探り当てたかったのは硬めの煎餅布団の感触。

 あちこち綿が飛び出し、日に干した藁の匂いがする、あの古ぼけた布団。そして何より、その隣にあるはずの大きく温かい“体温”だった。毎朝、目が覚めるとそこには彼がいた。

 書生の野中みのる。彼はいつも鈴よりも少し早く起きて、布団の中で丸くなっている鈴を愛おしそうに見つめていた。なぜ、鈴がそれを知っているのか、それは寝入りをして、その視線をこっそり楽しんでいたからだ。

「おはよう、鈴さん。今日もいい天気ですね」

 そう言って微笑む彼の笑顔はどんな高価な宝石よりも輝いていて、鈴の一日を照らす太陽だった。だが今、鈴の指先が触れたのはどこまでも冷たく滑るような絹の感触だけだった。

「……っ」

 鈴は勢いよく身を起こした。視界に飛び込んできたのは見飽きたはずの自室の光景だった。それも今は牢獄のように見える。

 格式高い格天井。黒檀の飾り棚。床の間に飾られた陰気な山水画。そこには六畳一間の長屋にあった生活の匂いが一切ない。味噌汁の香りも煮物の匂いも、隣の部屋から聞こえる夫婦喧嘩の声も何もない。あるのは完璧に整えられ、死んだような静寂だけだ。

「ああ……夢じゃ、なかったんだ」

 鈴の口から乾いた絶望が漏れた。昨夜の出来事がフラッシュバックのように脳裏を駆け巡る。暴風雨のように押し入ってきた屈強な男たち。抵抗する鈴と彼女を庇おうとして無抵抗のまま殴られた野中。

 土間に這いつくばり、泥水を啜るようにして耐えていた彼の背中。そして、彼を守るために自ら別れを切り出した自分自身の声。

『さようなら、野中さん。私……お家に帰る』

 あの時の彼の絶望に染まった瞳が忘れられない。まるで捨てられた子犬のように悲痛な色を宿していたあの瞳。今すぐにでも駆け出して彼のもとへ帰りたかった。“嘘よ、大好きよ”と抱きしめたかった。

 けれど、それは許されない。昨晩、屋敷に連れ戻された直後。父・小鳥遊子爵は奥座敷の上座に置かれた紫の座布団に胡座をかき、氷のように冷たい声で鈴に告げたのだ。

「いいか、鈴。よく聞くんだ」

 父の声には親としての情愛など微塵もなかった。あるのは家名を汚された当主としての怒りと冷徹な計算だけだった。

「お前が大人しく西園寺家への嫁入りを承諾し、今日のお見合いを滞りなく済ませるならば……あの薄汚い書生には手を出さん。今のところはな」

 鈴は父を睨みつけた。

「卑怯よ、お父様!野中さんは何も悪くないわ!行き倒れていた私を助けてくれた、命の恩人なのよ!?」

「黙りなさい!華族の娘がどこの馬の骨とも知れぬ男と同棲になど……世間に知れれば小鳥遊家の破滅だ!」

 父は激昂し、脇息(きょうそく)を叩いた。そして、さらに声を低くし、脅しをかけたのだ。

「もし、お前がまた逃げ出したり、先方に失礼を働くような真似をして破談にでもなれば……あの男の将来はないと思え。帝都にいられなくするどころか、社会的に抹殺し、二度と日の目を見られないようにしてやる。特高警察に手を回して、思想犯として投獄することだってできるんだぞ」

 その言葉は鋭利な刃物となって鈴の心臓を突き刺した。父は本気だ。小鳥遊家は腐っても華族。裏社会や警察組織にコネがある。貧しい書生一人を消すことなど、彼らにとっては赤子の手をひねるより容易いことなのだ。

(私が我慢すればいい。私があの人の言う通りにすれば野中さんは助かる……)

 鈴は膝を抱え、高級な夜着の袖に顔を埋めた。涙が溢れて止まらない。高級な羽二重の生地が涙を吸って濃いシミを作っていく。

(会いたい。野中さんに会いたい)

 不器用な手つきで包丁を握る姿。繕い物をしていると、「魔法みたいだ」と目を輝かせて褒めてくれる声。狭いちゃぶ台で二人で一つの焼き魚を突き合った夕餉。あの日々は貧しかったけれど、世界中のどこよりも豊かで幸せだった。

「野中さん……ごめんなさい……うぅっ……」

 嗚咽が漏れる。このまま、この黄金の檻の中で飼い殺され、顔も知らない鬼少佐のもとへ嫁ぐ未来。それは鈴にとって死と同義だった。愛のない結婚。冷え切った家庭。そんな場所で一生を終えるのか。

(……嫌だ、絶対に嫌。私は……私は、野中さんのお嫁さんになりたかったの!)

 心の奥底で小さな火種が燻った。

 鈴は顔を上げた。涙に濡れた瞳の奥にかつて長屋で培った強さが宿り始めていた。あの長屋での生活は鈴を変えたのだ。ただ守られるだけの深窓の令嬢ではない。銭湯の番台のおばちゃんと値切り交渉をし、八百屋の親父のセクハラまがいの冗談を笑顔でかわし、ドブ板を踏んで歩いてきた“長屋の鈴さん”なのだ。

 鈴は立ち上がり、鏡台の前に正座した。大きな鏡に映っているのは泣き腫らして目が赤くなり、髪が乱れた、幽霊のような自分の顔。生気のない、敗北者の顔だ。

「……こんな顔、野中さんが見たら悲しむわ」

 鈴は両手で自分の頬を叩いた。乾いた音が部屋に響き、頬に赤みが戻る。

(思考を巡らせろ。父の脅迫は絶対だ。私から縁談を断ることはできない。そんなことをすれば、即座に野中さんに危害が及ぶ。ならば、どうすればいい?縁談を壊し、かつ野中さんを守る方法は?)

「……相手から断らせればいい」

 その閃きは暗闇に差した雷光のようだった。父は「お前が断るな」と言った。だが“相手に断られるな”とは言っていない。もちろん、そんなことは暗黙の了解だろうが言質は取っていない。

 相手は帝都でも悪名高い鬼少佐こと、西園寺 景明。噂によれば、冷酷無比、合理主義の塊、規律と秩序を何よりも重んじる潔癖症の軍人だという。

 毎晩、部下を竹刀で殴り、反抗する者は容赦なく切り捨てるという噂まである。そんな男が妻として最も嫌悪し、生理的に受け付けないのはどんな女だろうか。

(教養がない女?いいえ、それだけじゃ弱い……品がない女よ。ガサツで派手好きで家の格式を汚すような“悪妻”!)

 鈴は鏡の中の自分を睨みつけ、口角を上げた。その笑みには涙の跡が残っているものの、確かな反骨精神が宿っていた。

(やってやろうじゃないの。帝都一の嫌われ女になって、あっちから土下座して「こんな女、願い下げだ!」って言わせてやるわ!そうすれば縁談は白紙、父様も西園寺家からの断りなら文句は言えないし、野中さんも守れる!)

 名案だ。いや、これしかない。これは、鈴なりの戦争なのだ。武器は銃でも剣でもない。化粧と演技だ。

 鈴は鏡台の小引き出しを勢いよく開け放った。そこには母が「年頃の娘なのだから」と買い与えたものの鈴が「色が濃すぎてお岩さんみたいになる」と敬遠していた化粧道具一式が手付かずのまま眠っている。

「さあ、変身の時間よ」

 鈴は白粉の蓋を開けた。微細な粉末が舞い上がり、独特の甘ったるい香料の匂いが鼻腔を刺激する。普段、化粧などほとんどしない鈴だが今日ばかりは違う。

 彼女はパフにたっぷりと粉を含ませるとそれを親の敵のように顔面に叩きつけた。

「もっと、もっと厚く!肌の色なんて見えなくなるくらいに!」

 透明感のある健康的な肌色が瞬く間に能面のように真っ白に塗りつぶされていく。首の色との境目がくっきりと分かるほど、厚く、重く。

 それは化粧というよりは左官屋が壁に漆喰を塗る作業に近かった。美しく見せるためではない。自分という人間を隠し、化け物を作るための作業だ。

 次は紅だ。椿の花を煮詰めたような赤色の紅筆を手に取る。本来ならば唇の中央に慎ましやかに点すべきそれを鈴は唇の輪郭を大きくはみ出して塗りたくった。まるで生き血を啜ったばかりの妖怪のように。鏡の中で口元だけが異様に浮き上がって見える。

(まだまだ!もっと派手にもっと下品に!)

 鈴の心の中の演出家が叫ぶ。こんなものでは鬼少佐の度肝は抜けない。眉墨を手に取り、なだらかなアーチを描くはずの眉を太く、凛々しすぎるほどの一本線に書き換える。

 最後に目元には紫色のアイシャドウを殴られた痣のようにまぶた全体に塗り広げた。

 数十分後。鏡の中に完成したのは可憐な華族令嬢の姿など微塵もない。そこには厚化粧の道化師か、あるいは京劇の悪役のような奇怪な女が立っていた。

(……うん、最悪!我ながら寒気がするわ!)

 鈴は鏡に向かって「イーッ」と歯を見せて笑ってみた。白い顔に赤い口、紫の目元。その笑顔は夜道で出会ったら悲鳴を上げて逃げ出すレベルのホラーだった。これなら鬼少佐も一目見ただけで裸足で逃げ出すに違いない。

「仕上げは衣装ね」

 鈴は満足げに頷くと次は桐の衣装箪笥へと向かう。選び出したのは祖母の若い頃のものであろう、目が痛くなるような鮮やかな紫色の振袖だ。

 柄は大輪の牡丹が所狭しと描かれており、金糸銀糸がふんだんに使われているため、今の流行とはかけ離れた成金趣味のような野暮ったさがある。

 それを羽織り、帯はわざと苦しくないようにダラリと緩く締めた。襟元も大きく開け、だらしなさを強調する。足元に真っ赤な長襦袢が見えるように裾をからげた。

 最後に髪を結い上げることもせず、乱れたまま椿油を塗りたくった。

(見てなさい、鬼少佐。貴方の理想の“大人しい人形のような花嫁”なんて私が木っ端微塵に砕いてあげる)

 その時、部屋の襖の向こうから控えめな声が聞こえた。

「お嬢様……そろそろお支度は済みましたでしょうか?旦那様がもう玄関でお待ちです」

 老齢の女中の声だ。彼女は鈴の乳母代わりでもあり、今回の縁談を誰よりも心配してくれていた。

 鈴は深呼吸を一つし、鏡の中の“化け物”に向かってウィンクをした。

「ええ、バッチリよ!今行くわ!」

 鈴はわざと足音を高く響かせ、畳を踏み鳴らして襖を開け放った。襖が開いた瞬間、目の前にいた女中が息を呑んだ。

「ひっ……!」

 女中の瞳が見開かれ、顔色が青ざめる。彼女は持っていた羽箒を取り落とし、震える手で口元を押さえた。

「お、お嬢……様……?その、お顔は……一体……?」

「あら、ごきげんよう、ばあや!今日のお見合い、とっても楽しみだこと!気合を入れてお化粧してみたんだけど、どうかしら?ハイカラでしょう?」

 鈴は笑い、歯を見せた。そのあまりの変貌ぶりに女中は言葉を失い、石像のように硬直してしまった。

 成功だ。身内ですらこの反応なのだ。初対面の、しかも厳格な軍人であれば卒倒すること間違いなしだ。

「さあ、行きましょうか!お父様を待たせちゃ悪いもの!」

 鈴は女中の反応を気にも留めず、いや、その反応こそが最高の称賛だ!とばかりに胸を張って、磨き上げられた廊下を大股で歩き出した。

 淑やかな足音ではない。その歩き方は長屋で野中さんと追いかけっこをした時のような、生命力に満ちた躍動感というよりは山賊のような荒々しさに溢れていた。

 廊下を歩きながら、鈴はそっと懐に手を当てた。帯の間には鈴蘭の刺繍が施された小さな巾着。野中に渡した鈴蘭のハンカチと同じ柄だ。

 鈴はそれに手を当て誓いを立てた。今から演じるのは愛を知らない愚かで滑稽な悪女だ。野中への想いを知られるわけにはいかない。

(行ってきます、野中さん。私、戦ってくる)

 長い廊下の先に式台のある広い玄関ホールが見えてくる。そこには父がイライラした様子で待っているはずだ。

 父の絶望する顔が目に浮かぶようで、鈴は少しだけ胸が空く思いがした。

(このふざけた化粧の下には貴方を想う気持ちだけを隠して。……必ず、この縁談をぶち壊して、自由になって帰ってくるから!)

 上がり(かまち)を降りる鈴の背中は奇抜な着物とは裏腹に戦場へ向かう兵士のような悲壮な覚悟を纏っていた。

 外の世界へ続く格子戸が開かれる。眩しい日差しが、厚化粧の顔を照らす。いざ、決戦の地、高級料亭へ。愛する人を守るための一世一代の大芝居が今まさに幕を開けようとしていた。

 帝都の喧騒から遥か隔絶された静寂という名の結界の中にその料亭はあった。

名を花月楼。

 古くから皇族や華族、そして政財界の重鎮のみが足を踏み入れることを許される、格式高い会員制の社交場である。

 門をくぐるとそこには別世界が広がっていた。手入れの行き届いた黒松の枝ぶりは数百年の時を超えて龍のようにうねり、足元には塵ひとつ落ちていない白砂の枯山水が波紋を描いている。

 前夜からの雨を含んだ苔は鮮やかな緑色に輝き、池の水面には色鮮やかな錦鯉がまるで動く宝石のように優雅に泳いでいた。

 静寂を縫って鹿威しの乾いた音が響く。竹筒が石を叩くその音は余計な雑念を払い落とすかのように凛としており、訪れる者の背筋を自然と伸ばさせる威厳に満ちていた。

 漂うのは雨上がりの土の匂いと、どこからともなく香る高級な沈香の香り。

 そんな、わびさびを凝縮したような幽玄な空間にまるで極彩色のペンキをぶちまけたような暴力的なまでの“異物”が一つ、紛れ込んでいた。

「あらあら、ここがお見合いの会場?なんだか湿気臭くて、カビが生えそうなお庭ねぇ!もっとパーッとした音楽でもかけたらどうなの!?」

 静寂を切り裂くような、金切り声。それは風流な鹿威しの音さえも掻き消すほどの破壊力を持っていた。

 鈴が身に纏っているのは目が明滅するような鮮やかな紫色の振袖だ。金糸で刺繍された巨大な牡丹の花は主張が激しすぎて品性のかけらもない。帯はだらしなく下がり、裾からは真っ赤な長襦袢が覗いている。

 そして何より、その顔。白壁のように厚塗りされた白粉に、血を啜ったような真っ赤な口紅。眉は一本線。その姿は高貴な料亭の庭園に迷い込んだ悪趣味な道化師そのものであった。

「お、おい鈴……!声が大きい!少しは慎まんか!」

 隣を歩く父・小鳥遊子爵が顔を真っ青にして慌てて娘の袖を引いた。彼は周囲の視線を気にし、冷や汗を滝のように流している。すれ違う仲居たちが鈴の姿を見た瞬間に「あっ」と声を上げ、慌てて口元を押さえて目を逸らす。廊下の向こうから歩いてきた老紳士などは鈴を見て「ヒッ」と短く悲鳴を上げ、そそくさと道を譲ったほどだ。

 その反応こそが今の鈴にとっては最高の勲章であり、勝利への第一歩だった。

(ふふん、いい気分!これなら間違いなく、鬼少佐も開いた口が塞がらないはずよ)

 鈴は扇子を仰ぎながら、内心でガッツポーズをした。だが、その実、彼女の心臓は早鐘のように激しく打っていた。本当はこんな場所で大声を出すのも着物を着崩すのも死ぬほど恥ずかしい。

 彼女は本来、厳格な教育を受けた華族の令嬢だ。公共の場で騒ぐことがどれほど非常識かを骨の髄まで理解している。この振る舞いは自らの誇りと羞恥心を削り取るような過酷な自傷行為に等しかった。

(でも、やるしかないの)

 鈴は扇子の陰で唇を噛み締めた。すべては野中を守るため。あの長屋で鈴のために傷ついた彼。何も持っていなかったけれど、誰よりも温かい愛をくれた彼。

 彼が二度と権力という理不尽な暴力に晒されることのないよう、自分がこの身を挺して“嫌われ役”を全うするのだ。

 この縁談を破談にし、“野中みのる”を守るために彼女は自分の美しさもプライドも投げ捨てて、道化を演じているのだ。

「あらお父様、何かおっしゃいました?私、お腹が空いて耳が遠くなっちゃったみたい!早く美味しいもの食べさせてくださらない?」

 父の小言をわざとらしい大声で遮り、鈴は大股で玉砂利を踏みしめる。

 案内されたのは庭園を一望できる離れの個室だった。渡り廊下を進むにつれて空気が変わっていくのを感じる。ひんやりとした研ぎ澄まされた刃物のような気配。それは部屋の中に待ち受けている人物が放つ、特有の威圧感だった。

(来た……!)

 鈴の足が一瞬だけ竦む。障子の向こうに感じる冷たく鋭い“何か”。それは長屋で感じた野中の温かな空気とは対極にある、人を斬ることを生業とする者、あるいは死線を潜り抜けてきた者だけが纏う、殺気にも似た重圧だった。

 相手は“鬼少佐”。帝都中の令嬢が恐れおののく冷血漢。父でさえ頭が上がらない西園寺家の嫡男。

(怖い……)

 本能が警鐘を鳴らす。逃げ出したい。けれど、ここで逃げたら野中は殺される。

(負けない。私は野中さんのために戦うのよ!長屋の鈴さんはこんなことじゃへこたれないんだから!)

 鈴は大きく息を吸い込み、白粉の下の素顔を引き締めた。震える膝に力を込め、戦闘態勢を整える。そして、案内役の仲居が障子に手をかけるよりも早く、自らの手で乱暴に障子を開け放った。

「ごめんあそばせ〜!お待たせしちゃったかしらぁ!?」

 障子が悲鳴を上げるような破壊音と共に鈴は部屋の中へ踊り込んだ。畳の上を土足で上がり込みそうな勢いで踏み入り、仁王立ちになって部屋の主を見据える。

 そこに座っていたのは一人の軍人だった。逆光を背負い、端然と正座する男。

 その姿勢はまるで大地に根を張った大樹のように微動だにしない。身に纏う軍服は皺ひとつなくプレスされ、肩章の金糸が窓から差し込む陽光を反射して鋭く輝いている。

 膝の上に置かれた手は白手袋に包まれていてもなお、その骨格の逞しさと武人としての強さを隠しきれていない。

 景明がゆっくりと顔を上げた。その動作一つ一つが舞踏のように洗練され、無駄がない。

(……え?)

 鈴の喉の奥で用意していた次の悪態が凍りついた。想像していた“鬼”の顔。確かにその眼光は鋭く、氷河のように冷徹だった。整いすぎた顔立ちは人間的な感情を一切排した、精巧な彫刻のような美しさと冷たさを併せ持っている。

 だが、鈴の視線を釘付けにしたのはその美貌ではなかった。ましてや、その冷徹さでもなかった。傷だ。彼の左の頬、端正な頬骨の上に赤黒く腫れ上がった痛々しい打撲痕があった。さらに形の良い唇の左端が切れ、かさぶたになりかけている。

 額の髪の生え際にも何か硬いもので殴られたような裂傷が見え隠れしていた。完璧な軍服姿とはあまりに不釣り合いな、生々しい暴力の痕跡。

 それはまるで美しい絵画にナイフで傷をつけたような、強烈な違和感となって鈴の目に飛び込んできた。

(なんで……?)

 鈴は息を呑んだ。帝都のエリート軍人が、名家・西園寺家の嫡男が見合いの席に傷だらけで現れるなど前代未聞だ。普通なら白粉で隠すか、あるいは怪我が治るまで見合いを延期するはずではないか。それなのに彼は隠す素振りさえ見せず、その傷を晒して堂々と座っている。

 景明は道化のような格好をした鈴を見ても、眉一つ動かさなかった。軽蔑するでもなく、驚くでもなく。ただ、静かな湖面のような瞳で彼女のすべて、厚化粧の下にある震えや派手な着物の下にある華奢な身体を見透かすようにじっと見つめている。

「……西園寺景明だ」

 低く腹の底に響くような声。それは長屋で聞いた野中のおどおどとした高い声とは似ても似つかない、絶対的な支配者の声だった。

「お初にお目にかかる、小鳥遊嬢。……待っていた」

 彼は深く、優雅に頭を下げた。その所作のあまりの美しさに鈴は思わず見惚れそうになり、我に返った。いけない、ペースを乱されてはならない。この男は敵。野中の敵であり、鈴の自由を奪う看守だ。

「あら、ご丁寧にどうも!私が噂の小鳥遊鈴よ!見ての通り、お行儀なんてこれっぽっちもないんだから!ガッカリしたでしょう?」

 鈴は座布団の上にあろうことか胡座をかいて座った。着物の裾が割れ、赤い長襦袢と足首が丸見えになる。

 同席した父が「ひぃっ」と悲鳴を上げて卒倒しそうになっているが鈴はお構いなしに景明を睨みつけた。

「ねえ、少佐さん?貴方、そのお顔はどうしたのよ。まさか、昨日どこかの路地裏で喧嘩でもして負けてきたんじゃありませんこと?みっともないわねぇ!」

 精一杯の嫌味。野蛮な男だと罵り、相手のプライドを傷つけて怒らせるための言葉。「貴様、無礼だぞ!」と怒鳴られることを期待して、鈴は挑発的な視線を送った。だが、景明は怒らなかった。

 ゆっくりと顔を上げ、傷ついた唇を微かに歪めた。それは自嘲のようでもあり、どこか誇らしげでもある、不思議な笑みだった。

「……喧嘩、か。そう見えるか」

「ええ、見えるわよ。軍人さんが顔に傷なんて、弱っちい証拠じゃない!野蛮で、乱暴で、紳士の風上にも置けないわ!」

「否定はしない。私は不器用な男だ。……守りたいものを守るためにはこうして泥にまみれ、傷つくことしかできん」

 守りたいもの。その言葉の響きに鈴の心臓が跳ねた。冷酷な鬼少佐の口から出たとは思えない、熱を帯びた、ひどく人間臭い言葉。

(守りたいものって……誰のこと?)

 鈴は無意識のうちに彼の傷を目で追った。左頬の青黒い打撲。唇の左端の切れ。その傷の位置に既視感が走る。脳裏に蘇る昨夜の光景。大男たちが野中を取り押さえ、殴りつけた場面。

 その時、野中は鈴を庇って右側に立ち、左側から殴られた。使用人の革靴が野中の左頬を踏みつけた。拳が野中の口元を斜めに殴打した。

(……左の頬……唇の端……)

 位置があまりにも一致しすぎている。

(……まさか)

 鈴の背筋に冷たい戦慄が走った。偶然だ。偶然に決まっている。野中は貧乏な書生だ。猫背で丸眼鏡をかけていて、いつも不安気にしている。

 目の前にいるのは帝國陸軍の少佐。背筋は槍のように伸び、眼鏡もなく、周囲を圧する覇気を纏っている。

 別人だ。住む世界が違う。月とスッポンだ。けれど、なぜだろう。彼が纏う香りは料亭の沈香でも軍人特有の革の匂いでもない、もっと個人的な体臭に鼻の奥がツンとするような懐かしさを感じてしまうのは。

 それは長屋で毎日嗅いでいた、日向のような匂いに似ていた。

(違う。野中さんは今頃きっと長屋で泣いているわ。私がしっかりしなきゃ)

 鈴はかぶりを振り、疑念を振り払った。こんな恐ろしい男が鈴の大好きな野中であるはずがない。頬の傷はきっと軍の訓練か何かでついたものだ。そう自分に言い聞かせる。

「ふ、ふん!何が守るよ!自分の顔も守れない人が妻を守れるわけないじゃない!口だけは達者なのね!」

 鈴は扇子で口元を隠し、高笑いをした。だが、その瞳だけは笑っていなかった。

 景明の顔にある傷がどうしても気になって仕方がない。まるでその傷一つ一つが鈴に対して何かを訴えかけているように見えて。

 一方、景明はそんな鈴の様子を静かに熱い視線で観察していた。

(鈴さん……)

 白粉でコテコテに塗り固められた顔。似合わない派手な着物。その滑稽な姿が彼には痛いほど愛しく、美しく映っていた。彼女がなぜこんな格好をしているのか彼には痛いほど分かる。景明に嫌われるためだ。

 この縁談を破談にし、“野中みのる”を守るために彼女は自分の美しさもプライドも投げ捨てて、道化を演じているのだ。

(君はそこまでしてあいつを守ろうとしてくれているのか)

 胸が熱くなる。今すぐ彼女を抱きしめ、「私が野中だ」と告白し、その厚い白粉を涙と接吻で拭い去ってやりたい衝動に駆られる。

 だが、それはできない。今ここで正体を明かせば彼女は混乱し、さらに小鳥遊子爵の手前、事態は収拾がつかなくなるだろう。何より、今は軍規違反の処罰待ちの身だ。彼女を正式に妻として迎え、誰にも文句を言わせない立場になるまでは決して隙を見せてはならない。

 この傷だらけの顔はその覚悟の証なのだ。

「……小鳥遊嬢」

 景明はあえて冷徹な仮面を被り直した。しかし、その瞳の奥にある揺らめくような炎だけは消さずに彼女を射抜く。

「外見を取り繕うのは勝手だが……君のその瞳までは塗り潰せていないようだ」

「えっ……?」

「強い目をしている。私はそういう目は嫌いではない」

 鈴の心臓が、早鐘を打った。野中がよく言ってくれた言葉。

『鈴さんの目はどんな宝石よりもキラキラしていて、真っ直ぐで……僕は好きですよ』

 言葉遣いは違う。声のトーンも違う。なのにどうしてこんなにも心がざわつくのだろう。どうして、この男の言葉が野中の言葉のように心に染み込んでくるのだろう。

「さあ、料理が冷める前に食べてしまおう」

 景明は手袋を外し、素手を晒した。その手にはいくつもの小さな切り傷やささくれがあった。

 武人の手ではない。生活感のある傷。それは慣れない包丁を握り、鈴のために不格好な野菜を切った時の痕跡であり、鈴が渡したハンカチを夜なべして見つめていた時のささくれだった。

「……いただきます」

 鈴の声は先ほどまでの大声とは打って変わり、少しだけ震えていた。仲居が恭しく配膳したのは季節の彩りを極限まで凝縮したような、芸術品のごとき懐石料理だった。

 朱塗りの御膳には初夏の気配を感じさせる鮎の塩焼き、透き通るような鯛の薄造り、そして繊細な飾り包丁が施された煮物が並んでいる。

 器もまた一級品であり、古伊万里の皿や輪島塗の椀が料理の美しさを引き立てていた。

 本来ならば箸先を濡らさぬように淑やかに音ひとつ立てずにいただくのが良家の子女としての最低限のマナーである。この静寂に包まれた料亭の個室においては衣擦れの音さえも躊躇われるほどなのだから。

だが、鈴はまるで獲物を前にした飢えた野獣のように音を立てて箸を構えた。

(見てなさい、鬼少佐。貴方のその涼しい顔を恐怖と嫌悪で歪ませてあげるわ。百年の恋も冷めるような、浅ましい食べっぷりを見せてあげる!)

 鈴の狙いは中央に鎮座する尾頭付きの鯛の塩焼きだ。

 通常であれば背びれや骨を丁寧に取り除き、一口大にほぐしてから口に運ぶのが作法である。しかし、鈴はそんな手順を無視し、いきなり鯛の頭の部分に箸を突き刺した。

 そして、そのまま頭ごとかぶりついたのだ。静寂な部屋に魚の骨を砕く咀嚼音が不快なリズムで響き渡った。

「ん〜!やっぱりお魚は頭からに限るわねぇ!硬くて口の中が痛いけど、栄養たっぷりって感じがするわ!」

 鈴は口いっぱいに頬張ったまま、わざとらしく大声を上げた。咀嚼した身の破片が飛び散りそうになり、同席している父は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、顔を覆って俯いてしまった。もはや卒倒寸前である。

(ごめんなさい、お父様。でも、これで破談になればお父様だって助かるんだから!)

 鈴は心の中で謝りつつ、さらに追い打ちをかける。次は上品な澄まし汁だ。器を両手で包むように持つ作法など知らぬ存ぜぬとばかりに、片手で鷲掴みにし、蕎麦でもすするかのような盛大な音を立てて啜り込んだ。

「ぷはぁーっ!おいしい!でも量が少ないわねぇ。私、もっとドカッとしたカツ丼とか、脂ぎった天ぷら蕎麦のほうが好きなんだけど!こんな上品な味じゃ、力が出ないわ!」

 鈴は口の周りについた汁をナプキンではなく、着物の紫色の袖でグイッと拭った。高級なちりめんの生地に油のシミが広がる。

(さあ、どうだ。名門・西園寺家の嫡男として、潔癖と規律を重んじる軍人として、これほど不作法で汚らわしい女は許せないはずだ。「出て行け」と怒鳴りつけるか、あるいは侮蔑の眼差しを向けて席を立つか)

 鈴は挑戦的な視線を正面の男に向けた。心臓がうるさい。嫌われるための演技とはいえ、品位を捨てる行為は彼女自身の自尊心をさらに傷つけていく。

「……よく食べるな」

 しかし、景明は湯呑みをゆっくりと傾けながら静かにそう呟いただけだった。その表情は相変わらずの鉄仮面であり、怒りも、軽蔑も、嫌悪も見当たらない。それどころか、その切れ長の瞳は細められ、どこか……温かい光を宿しているようにさえ見えた。

(えっ?なんで?なんで怒らないの?)

 鈴が拍子抜けして瞬きを繰り返していると景明は淡々とした口調で続けた。

「戦場では食える時に食い、眠れる時に眠るのが鉄則だ。帝都の華族令嬢たちは小鳥の餌のような量しか食べず、すぐに貧血を起こすが……君のように生命力に溢れ、健啖な女性の方が軍人の妻には相応しい」

(はあ!?)

 鈴はあんぐりと口を開けた。まさかの高評価。この男、美的感覚が根元から狂っているのだろうか?それとも、この程度の嫌がらせでは動じないほどの筋金入りの鈍感なのだろうか。

「それに魚を綺麗に食べる人間は信用できると言うが君のように骨ごと噛み砕く気概がある人間もまた頼もしいものだ」

 景明は口元の傷を微かに歪めて微笑んだ。その笑顔は決して嘲笑ではない。本心からの称賛に見えた。

 一方、景明の内心は鈴の想像とは全く別の意味で激しく揺さぶられていた。

(可愛い……)

 鉄仮面の下で景明は悶絶していた。口いっぱいに頬張り、リスのように頬を膨らませるその姿。

長屋のちゃぶ台で「野中さん、これ美味しいよ!漬物最高!」と安物の大根の漬物を満面の笑みで食べていた鈴と完全に重なる。

 厚化粧で隠してはいるがその生き生きとした瞳も食べ物を前にした時の純粋な喜びも、愛しい鈴そのものだ。上品ぶって作り笑いを浮かべ、腹の探り合いしかしない貴婦人たちとは違う。

 彼女には血の通った“生”がある。その生命力が冷え切った景明の心を溶かしていくのだ。

「……口元に飯粒がついているぞ」

 景明は懐から懐紙を取り出し、あまりにも自然な動作で鈴の方へ手を伸ばした。その手つきには迷いがなかった。まるで今まで何度もそうしてきたかのような親密な距離感。

 鈴は差し出された手に思わず身を委ねそうになった。野中がいつも手ぬぐいで汚れを拭いてくれた時のように。「あ、ありがとう」と言いかけた唇が驚いて止まる。

(いけない!この人は野中さんじゃない!)

 鈴は慌てて身体をのけぞらせ、彼の手を避けた。

「じ、自分で取れるわよ!子供扱いしないで!」

 鈴は乱暴に顔を擦る。作戦失敗だ。この男、手強い。こちらの攻撃をすべて好意に変換して受け流してしまう。まるで暖簾に腕押しだ。これ以上の失態を見せるには場所を変えるしかない。それに彼の視線、あの傷だらけの顔で見つめられる視線に耐えられそうになかった。

「あーあ、お腹いっぱいになったら急に眠くなっちゃった!私、ちょっとお庭でも散歩してくるわ!お父様、後はよろしく!」

 鈴は逃げるように席を立ち、草履を突っかけて縁側から庭へと飛び出した。

 雨上がりの庭園はひんやりとした空気に満ちていた。初夏の風が火照った鈴の頬を撫でる。池のほとりまで歩いてきた鈴は大きな松の木の陰に隠れるようにして深く、重いため息をついた。

「……はぁ。疲れたぁ……」

 どっと疲れが押し寄せる。慣れない厚化粧が皮膚呼吸を妨げているような息苦しさ。わざと緩く着付けたとはいえ、重たい振袖の重量感が肩に食い込む。そして何より、愛してもいない男の前で道化を演じ続け、神経をすり減らす徒労感。

(野中さん……会いたいよ)

 鈴は池の水面を覗き込んだ。そこに映っているのは白塗りで口紅が滲み、髪が乱れた滑稽なピエロの姿。

 こんな姿、野中が見たらどう思うだろう。「鈴さん、どうしたんですか?」と驚くだろうか。それとも、「鈴さんはどんな姿でも素敵ですよ」とあの優しい声で笑ってくれるだろうか。

(会いたい。あの優しい声が聞きたい。あの温かい背中に触れたい)

 孤独感が潮満ちるように胸を満たしていく。ふと、鈴は自分の手を見た。昨夜まで野中さんの手を握っていた手。今、その手にあるのは虚空だけだ。

「……ここで何を想っている?」

 不意に背後から声をかけられた。肩を跳ねさせ、鈴は振り返った。いつの間にか松の木の陰に景明が立っていた。

 軍靴の音もなく、気配もなく忍び寄るその姿はまさに鬼少佐の名にふさわしい隠密行動だ。

「な、なによ!ストーカーみたいについてこないでよ!淑女の散歩を邪魔するなんて無粋ね!」

「婚約者が庭に出たまま戻らないのでな。広大な庭で迷子にでもなったかと案じたまでだ」

 景明は一定の距離を保ったまま鈴を見つめる。木漏れ日が彼の顔の傷を鮮明に照らし出していた。室内で見た時よりもその傷はさらに痛々しく見えた。左頬の赤黒い打撲痕。かさぶたになりかけた唇の傷。額の裂傷。

(やっぱり、あの傷……)

 鈴の視線が吸い寄せられるように彼の傷へと向かう。昨夜、長屋で野中さんが蹴られた場所。殴られた場所。位置があまりにも一致しすぎている。そして、その傷を見ていると胸が締め付けられるように痛む。

「……その傷、本当に喧嘩なの?」

 鈴は演じることを忘れて、思わず問いかけていた。その声色は悪女のものではなく、心配そうな素の鈴のものだった。

「もし……誰かを守るためにできた傷なら、ちゃんと手当てしないと……。消毒して軟膏を塗って……」

 無意識に出た言葉だった。野中が怪我をして帰ってきた時、いつもそうして薬を塗ってあげたように。

 その言葉を聞いた瞬間、景明の瞳が大きく揺らいだ。彼は何かを言いかけ、口を噤む。その沈黙が鈴の疑念をさらに深める。

「……答えられないの?」

 鈴が一歩、彼に近づこうとした。その時だった。苔むした庭石に慣れない草履が滑った。

「あっ」

 身体がバランスを崩し、宙に浮く。転ぶ。そう覚悟して目を瞑った瞬間。強い力が鈴の腕を引き寄せた。硬い腕。たくましい胸板。鈴の身体は地面に叩きつけられることなく、景明の腕の中に抱き留められていた。

時が止まったようだった。

 風の音も鹿威しの音も消え失せ、世界には二人だけが存在していた。

「……気をつけてくれ。君はよく何もないところでつまずく」

 耳元で降ってきた言葉。その声の響きに鈴の時間が凍りついた。

(え……?)

 記憶の扉が激しい音を立てて開く。

『気をつけてください、鈴さん。君はよく何もないところでつまずくから』

 それは長屋の前のデコボコ道で野中さんがいつも苦笑しながら言っていた言葉と一字一句同じだった。

 声の高さは違う。口調も軍人の低い声だ。でもその“間”と隠しきれない“呆れを含んだ優しさ”が完全に重なった。さらに決定的な証拠が鈴の嗅覚を襲う。

 至近距離で触れ合った、彼の胸元から漂う匂い。料亭の沈香でも軍人特有の革や油の匂いでもない。彼の体温と共に立ち上る、微かな香り。

 それは安物の石鹸の香りと野中が内職で使っていた古本のインクと糊の匂い。

(嘘……でしょ?)

 鈴は抱き留められたまま、恐る恐る顔を上げた。至近距離にある、景明の顔。整った眉、切れ長の目、そして傷ついた唇。眼鏡はない。髪型も違う。雰囲気も別人だ。

 けれど鈴を見下ろすその瞳の奥にある、不器用なほど真っ直ぐな光。それは鈴が恋した書生、野中みのるの瞳そのものだった。

「野中……さん……?」

 鈴の唇が音にならない声でその名を紡いだ。景明の身体が石のように硬直したのが伝わってきた。彼の腕の筋肉が強張り、呼吸が一瞬止まる。彼は否定しなかった。

 “人違いだ”とも“何を言っている”とも言わなかった。ただ、苦しげに眉を寄せ、悲痛な色を瞳に宿して鈴を見つめている。その表情は正体が露見した焦りというよりも、愛する人に嘘をつき続けなければならない罪悪感に満ちていた。

「答えて……貴方は……」

 鈴の手が景明の軍服の胸元を掴む。厚い生地越しに伝わる鼓動。そのリズムさえも、あの夜、背中合わせで眠った時に感じた鼓動と同じだった。

(貴方なのね。貴方が野中さんなのね)

 歓喜と混乱とそして怒りが同時に押し寄せる。

(なぜ黙っているの。なぜ他人のふりをするの。こんな傷だらけになって、なんで一人で抱え込んでいるの)

 鈴がさらに詰め寄ろうとしたその時。

「おーい!お二人とも!そろそろ車の時間だぞー!」

 遠くから、父の呑気な声が空気を切り裂いた。魔法が解けるように二人の間に流れていた濃密な時間が霧散する。景明は驚いたように鈴の身体を離した。

「……失礼した。怪我はないか」

 彼は慌てて冷徹な仮面を被り直した。その声は先ほどまでの温かさを消し去り、冷ややかな軍人のものに戻っていた。

「私は西園寺景明だ。……それ以外の何者でもない」

 彼はそう言い捨てると逃げるように背を向け、屋敷の方へと歩き出した。その背中はかつて長屋で見た、頼りなげだけど温かい背中とは違い、大きく、遠く、そして孤独に見えた。

 だが、その歩き方、右足をほんの少し庇うような歩調までもが昨夜の怪我を引きずっているように見えたのは鈴の気のせいだろうか。残された鈴は自分の指先を見つめたまま立ち尽くす。

 指先に残る彼の体温。鼻孔に残る、石鹸とインクの匂い。そして耳に残る“君はよくつまずく”という言葉。

(違う。貴方は嘘つきだ)

 鈴は遠ざかる背中を睨みつけた。厚化粧の下で唇を噛み締める。涙が込み上げてくるがそれを怒りの炎で蒸発させる。

(野中さんはそこにいる。あの冷たい仮面の下に私の野中さんが隠れている)

 確信は得た。あとは証拠を掴んであの鉄仮面を引き剥がすだけだ。そして「参りました」と言わせてやる。その時こそが本当のプロポーズの時だ。

「待ってなさいよ、嘘つきな婚約者!」

 鈴は汚れた草履を脱ぎ捨て、裸足で砂利を踏みしめた。足の裏に感じる小石の冷たさと鋭い痛みが今の彼女には戦うための燃料だった。

 指先に残る彼の体温。鼻孔に残る、石鹸とインクの匂い。そして耳に残る“君はよくつまずく”という不器用な気遣いの言葉。

(野中さんはそこにいる。あの冷たい仮面の下に私の野中さんが隠れている。……私がその仮面を叩き割ってあげるから!)

 最悪のお見合いは終わった。しかし、本当の恋の戦いはここから始まるのだと鈴は暮れゆく帝都の空に向かって固く誓った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ