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第2話 焦げた味噌と路地裏の足音

 鼻腔をくすぐるのはどこか懐かしく、けれど彼女の家、小鳥遊の屋敷では絶対に嗅ぐことのない、古びた畳の匂いだった。

「ん……」

 鈴は重たい瞼を持ち上げた。

視界に飛び込んできたのは天井の大きな雨染みだ。煤けた木の板が何枚も張り合わされ、その隙間から細い朝陽がまるで舞台のスポットライトのように埃のダンスを照らし出している。

(ここ、どこだっけ……?)

 鈴は寝ぼけた頭で周囲を見渡した。壁は薄く、隣の部屋からは誰かの咳払いやどこかの子供が駄々をこねる声が筒抜けだ。布団はせんべいのように硬く、いつもの羽毛布団の柔らかさが嘘のようだ。けれど不思議とその硬さが彼女には不快ではなかった。むしろ、背中に伝わる確かな質感が彼女が“自由”を手に入れたのだという実感を伴って迫ってくる。

「あ、そうだ。私、家出したんだっけ」

 昨夜の記憶が鮮烈な色彩を帯びて蘇る。路地裏の湿った空気。異形の怪異が放っていた腐臭。そして「大丈夫ですか、お嬢さん」路地を照らす陽を背負って現れた書生姿の青年。野中みのる。

 気弱そうで不安気で眼鏡の奥の瞳をすぐに泳がせてしまう人。けれど彼は震える手で箒を振り回し、あの恐ろしい化け物を追い払ってくれたのだ。

「野中さん、もう起きてるのかな」

 枕元の風呂敷包みを確認する。中には家出の際に持ち出した最低限の着替えとへそくりが入った財布。そして愛用の裁縫道具。

 鈴は寝癖がついているであろう栗色の髪を指で梳かしながら、頬を優しく両手で叩いた。

「よしっ!新しい生活の始まりだもん。いつまでも寝てられないわ!」

 元気よく布団を跳ね除け、立ち上がる。その拍子に床板が悲鳴を上げた。

 「うわっ」と慌てて足をすくめる。ここは大正帝都の吹き溜まり、貧乏長屋だ。実家のように床板一枚が分厚い檜でできているわけではない。抜き足、差し足。忍び足で鈴は襖と呼ぶにはあまりに頼りない、破れかけた建具に手を掛けた。

 その時だ。土間の方から醤油と味噌が焦げる香ばしい、いや、少しばかり鼻を刺す匂いが漂ってきたのは。

          ◇

(……くそっ、火加減が強すぎたか)

 薄暗い土間で景明は額に滲む汗を拭った。人一人が立つのがやっとの狭い台所。そこに成人男性、それも軍人として鍛え上げられた大柄な体躯を持つ彼が立っているだけで空間は酷く圧迫されていた。

 帝国陸軍少佐にして対怪異特殊部隊の指揮官。鬼少佐と畏れられる彼が今、直面しているのは七輪の機嫌という強敵だった。

 目の前には少し焦げ目のついた焼き魚と男の料理らしく具材を放り込みすぎた味噌汁。

(戦場の野営飯なら多少の焦げなど気にならんが彼女に出すとなると話は別だ。……もう少し繊細にやるべきだったか)

 景明は丸眼鏡の位置を中指で押し上げ、小さく溜息をつく。彼の無骨な手は銃や軍刀を扱うには最適だが菜箸を操るには少々大きすぎる。不器用にかき混ぜていると背後の襖がそっと開いた。

「……あ、おはようございます」

 振り返ると少し大きめの浴衣をだらしなく着崩した鈴が目を丸くして立っていた。寝癖でぴょこんと跳ねた髪が朝日に透けて輝いている。

(無防備すぎる)

 景明は一瞬、男としての理性が揺らぎそうになるのを鋼の精神力でねじ伏せ、すぐさま“野中みのる”の仮面を被り直した。肩をすくめ、視線を泳がせ、どもりながら口を開く。

「あ、あ、おはようございます、す、鈴さん……!ご、ごめんなさい、うるさくしてしまって……その、あ、朝餉を用意しようと思ったんですが……」

「わぁ、いい匂い!野中さんが作ってくれてるの?」

 鈴がパタパタと土間に降りてこようとする。狭い土間だ。彼女が降りてくれば間違いなく肩が触れ合う距離になる。

「ああっ、だ、駄目です!こ、ここは狭いですし、危ないですから!」

 景明は慌てて鍋を背中で隠すようにして、彼女を制した。

「えー? でも、手伝うよ?私、お料理だって少しはできるもん」

「い、いいんです!す、鈴さんはお客さんですし、それに怪我も……。そ、それに、男の料理なんて見られたものじゃないですから……っ」

 必死に繕う姿は演技半分、本音半分だった。この狭い空間で彼女と並んで料理をするなど心臓が持たない。それに慣れない手つきを見られるのも恥ずかしかった。

「……ふふ、野中さんってば、必死なお顔」

 鈴はくすりと笑うと、上がり框にちょこんと腰を下ろした。

「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて待ってる。……楽しみにしてるね」

 膝を抱えてこちらを見上げる上目遣い。その信頼しきった瞳に景明の良心がチクリと痛む。

 昨夜、彼女が寝静まった後に確認した釣書。彼女は景明の婚約者候補の一人だ。本来ならこんな煤けた長屋ではなく、屋敷の使用人が運んでくる豪勢な朝食を食べているはずの身分。

(だが、彼女はそれを捨ててここに来た)

「……す、すぐ出来ますから。少々、お待ちを」

 景明は再び七輪に向き直った。背中に彼女の視線を感じながら、不格好な味噌汁を椀に注ぐ。

 質素極まりない男飯。少し焦げた匂い。それでも彼女を守ると決めた以上、今はこれが精一杯のもてなしだった。

「お待たせしました。……粗末なものですが」

 ちゃぶ台の上に並べられたのは焼きすぎた干物と大盛りのご飯そしてネギを刻みすぎた味噌汁。

 二人は向かい合って手を合わせる。

「いただきます!」

「い、いただきます」

 鈴が味噌汁を一口啜り、ほう、と息を吐く。

「……ん! 美味しい!」

「えっ?ほ、本当ですか?少し辛くないですか?」

「ううん、このくらい味がしっかりしてる方が元気が出るよ。……あたたかい」

 彼女は両手でお椀を包み込み、しみじみと呟いた。

「家のご飯はね、いつも冷めてたの。お父様が帰ってくるまで待たなきゃいけないし、広い食堂で一人で食べることも多かったから。……だからかな、こうやって誰かと食べるご飯って、すごく美味しい」

 湯気の向こうで微笑む彼女の笑顔はこの薄暗い部屋に咲いた向日葵のようだった。

 景明は味噌汁の椀で口元を隠し、喉の奥にこみ上げる熱いものを飲み込む。こんな些細なことで喜ぶなんて。彼女がどれほど孤独だったのか、その一端に触れた気がした。

 だがその平穏な時間は唐突に破られる。

 外の通りから、規則正しい足音が近づいてくる。砂利を踏みしめる音。革靴の硬質な響き。一般人の歩き方ではない。統率された複数の人間。

(……来たか)

 景明の背筋に冷たい緊張が走る。軍人としての勘が告げている。この長屋に向かっている。

 小鳥遊家の私兵か。思ったよりも早い到着だ。このままでは、彼女が見つかる。だが、ここで“野中みのる”が過剰に反応しては怪しまれる。

「どうしたの、野中さん?お箸止まってるよ」

 鈴が不思議そうに首を傾げた。

「あ、い、いえ!何でもないです!ただ、その……お、お豆腐!」

 景明はわざとらしく声を裏返らせた。

「そ、そう、お豆腐を買い忘れたなぁって思いまして!やっぱりお味噌汁には豆腐がないと締まりませんから!」

「え?お豆腐なら入ってなくても美味しいよ?」

「い、いやいや!僕のこだわりなんです!す、すぐに買ってきますから!鈴さんはここで待っていてください!ぜ、絶対に外に出ちゃダメですよ!?」

「ちょ、ちょっと野中さん!?まだ食べてる途中だよ!?」

 景明は制止も聞かずに立ち上がり、下駄を突っかけて外へ飛び出した。と引き戸を閉めた瞬間、彼の背中から“気弱な書生”の気配が消え失せる。

 路地裏の影に身を滑り込ませた彼の瞳は冷徹な軍人のそれへと変貌していた。彼は素早く、だが常人には視認できないほどの速度で長屋の死角を移動する。

 壁に張り付き、呼吸を殺し、足音の主たちの背後へと回り込む。

(距離、三十メートル。人数は四名。……穏便に帰ってもらうには少し知恵が必要だな)

 薄汚れた着物の袖から、一瞬だけ鋭い眼光が覗く。長屋の裏手に広がる路地は帝都の華やかな表通りとは無縁の場所だ。

 ドブ川の淀んだ臭い、湿った土壁、そして朝霧に混じって漂う煮炊きの煙。そこは光の当たらない都市の影そのものだった。

 景明は路地の角に張り付き、呼吸の音すら完全に消して、その一団を観察していた。

(男が四人。全員が黒の背広姿。懐の膨らみからして、拳銃ではなく警棒か短刀を携帯しているな。歩き方に癖がない……軍あがりか、あるいは小鳥遊家が雇った興信所の荒事担当か)

 彼らは無言で手分けして長屋の表札を確認している。その鋭い眼光は獲物を探す狩人のそれだ。

 このままでは野中の部屋、“野中”の表札に行き着くのも時間の問題だった。

 力で排除するのは簡単だ。今の景明なら彼らに気づかれることなく全員の意識を刈り取るのに十秒もかからない。だが、それでは“野中みのる”という存在が怪しまれてしまう。ただの貧乏学生の住処周辺で熟練の男たちが四人も昏倒していれば、間違いなく警察沙汰になるからだ。

(ならば、演じるまで)

 景明は懐から手拭いを取り出し、首にだらしなく巻き付けた。そして、丸眼鏡を指で少しだけ斜めに歪ませる。

 髪をあえてボサボサにかき乱し、表情筋を緩める。瞬時に、冷徹な鬼少佐の気配が霧散し、どこにでもいる“うだつの上がらない書生”が出来上がった。

 彼は大きく息を吸い込むとタイミングを計って路地に飛び出した。

「わ、わわっ!遅刻だ、遅刻だぁ〜!」

 計算通りのタイミング。計算通りの角度。景明は曲がり角で先頭を歩いていたリーダー格の大男に盛大にぶつかった。しかも、ただぶつかるのではない。相手の足の運びを一瞬だけ阻害し、体勢を崩させつつ、自分は派手に転ぶという高等技術だ。

「うわぁっ!」

「ぐっ……!?」

 男がよろめき、景明は水溜まりの中に尻餅をついた。泥水が跳ね、袴の裾を汚す。

「い、いったぁ……。あ、あ、ごめんなさい! 急いでて……!め、眼鏡、眼鏡……」

 景明は四つん這いになり、地面を手で探る演技をしながら、男たちの足元を観察した。

 革靴の汚れ具合。付着した赤土。

(……帝都の東側、埋立地の方から来たな。あそこには小鳥遊家の倉庫がある。拠点はそこか)

「おい、気をつけろ小僧!」

 リーダー格の男が舌打ち混じりに景明の襟首を掴み上げた。至近距離で睨みつけられる。普通の学生なら震え上がるような威圧感だ。景明は期待に応えて小刻みに震えてみせた。

「ひぃっ!す、すみません、すみませんっ!お金なら持ってません!あるのは教科書と借用書だけで!」

「チッ、貧乏書生か。……おい、お前」

 男は景明を乱暴に放すと懐から一枚の写真を取り出した。そこには美しい振袖姿の鈴が写っていた。

「この(あま)を見なかったか?背格好はこのくらい、栗色の髪をした生意気そうな女学生だ」

(生意気そう、とは失礼な。……いや、否定はできんか)

 内心で苦笑しつつ、景明は眼鏡を掛け直し、写真を覗き込むフリをしてわざとらしく首を傾げた。

「えっ、と……。あ!こ、この人なら!」

「見たのか!?」

 男たちの色めき立つ気配。景明は長屋とは正反対の大通りへ抜ける方向を指差した。

「さ、さっき!向こうの大通りで、人力車に乗ってるのを見ました!す、すごい勢いで走ってて……駅まで!って叫んでましたよ!」

「駅だと……!?マズい、高跳びする気か!」

 リーダーの男が仲間に目配せをする。

「行くぞ!逃がしたら旦那様に殺される!」

「お、おい小僧!嘘だったらただじゃおかねぇからな!」

 足音を立てて、男たちが走り去っていく。その背中が見えなくなるまで景明は「ひぃぃ」と情けない声を上げ続け、彼らの気配が完全に消えた瞬間、静かに立ち上がった。

 泥だらけの袴を払う手つきは優雅ですらあった。歪んだ眼鏡を指一本で直す。その瞳は氷のように冷たく澄んでいる。

「……駅に向かうと分かれば、人員を分散させるはずだ。これで半日は稼げる」

 だが、安心はできない。「旦那様に殺される」という言葉。小鳥遊家の当主は娘の意思など歯牙にもかけず、何が何でもこの縁談を成立させるつもりらしい。

(そこまでして、西園寺家との繋がりを欲するか。……愚かな)

 景明は小さく吐き捨てると路地裏の豆腐屋へと足を向けた。嘘を真実にするために本当に豆腐を買わなければならない。

「……絹ごしでいいか。鈴さんは柔らかいのが好きそうだしな」

 呟いた言葉が自分でも驚くほど優しく響いたことに、彼は少しだけ戸惑った。

          ◇

「…………」

 一方、取り残された長屋の一室。

 鈴は空になったお茶碗の前にぽつんと座っていた。

 静かだ。先ほどまで野中が慌てふためいたり、ドジを踏んだりしていた賑やかさが嘘のように部屋の中は静寂に包まれている。

「野中さん、遅いなぁ……。お豆腐買うだけなのに」

 少しの不安が彼女の胸をよぎる。まさか、鈴を置いて逃げたわけではないだろうか。

 いや、あの善良そうな目を見れば分かる。そんなことをする人じゃない。きっと、またどこかで転んで小銭をばら撒いたり、迷子になったりしているに違いない。

「……ふふっ、想像できちゃう」

 鈴は立ち上がり、食べ終わった食器を片付けようと流し台へ向かった。冷たい水で茶碗を洗いながら、ふと部屋の中を見渡す。

 六畳一間の狭い部屋。壁際には本が山積みにされている。文学全集、哲学書、そして。

「え? これ……」

 積み上げられた本の隙間に一冊だけ異質な背表紙が見えた。分厚い洋書だ。タイトルはドイツ語だろうか。

(Clausewitz(クラウゼヴィッツ)?Vom Kriege(戦争論)?野中さん、外国語も読めるのね……。文学部じゃなくて、法学部なのかしら?)

 何気なくその本を手に取ろうとして鈴の手が止まった。背表紙に触れた指先に微かな違和感があったからだ。

 埃がない。他の本にはうっすらと埃が積もっているのにこの本とその周辺だけは綺麗に拭き清められている。まるで毎日欠かさず手入れされているかのように。それに部屋全体を見回してみると奇妙なことに気づく。

一見散らかっているように見えるけれど物が置かれている位置が不思議と整然としているのだ。

 床に転がっている座布団もインク瓶の向きもまるで定規で測ったかのように壁と平行だ。

「……几帳面なのかな。それとも神経質?」

 あの不安気な野中の姿からは想像がつかない。

 鈴はちゃぶ台の上に置かれた彼の書きかけの原稿用紙に目を落とした。

“吾輩ハ猫デアル”

「……これ、漱石先生のパクリじゃない?」

 思わずツッコミを入れる。けれど、その文字は意外なほど達筆だった。細くて繊細で、けれど一本一本の線に迷いがない、美しい文字。

 インクの匂いが、ふわ、と鼻をくすぐる。それは父の書斎でするような重苦しい匂いではなく、もっと実直で静かな知性を感じさせる匂いだった。

「野中みのるさん……」

 鈴は彼の名前を口の中で転がしてみる。昨日は暗くてよく分からなかったけれど彼は不思議な人だ。

 気弱で、頼りなくて、ドジばかり踏んで。でもあの怪異に襲われた時、鈴の前に立ってくれた背中は震えていたけれど逃げなかった。

『大丈夫ですか、お嬢さん』

 あの時の声。少し低くて、安心感をくれる響き。

(……私、あの人のこと、もっと知りたいかも)

 縁談から逃げるための、一時的な避難場所。そう思っていたけれど、この空間は思ったよりも居心地がいい。誰も彼女に「小鳥遊家の娘らしくしろ」とは言わない。「焦げた味噌汁だね」と笑い合える、等身大の時間がここにはある。

 突然、玄関の引き戸が開いた。

「た、ただいま戻りましたぁ……!」

 息を切らした野中が飛び込んでくる。袴の裾は泥だらけで眼鏡も少し曇っている。手には竹の皮に包まれたお豆腐が大事そうに握られていた。

「野中さん!どうしたの、その泥!?」

「あ、いや、その……!急ごうと思ったら、盛大に転んでしまいまして……あはは、面目ない……」

 彼は頭を掻きながら、照れくさそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、鈴の胸の奥で何かが鳴った。

 ドイツ語の本のことも、整然としすぎた部屋のことも、どうでもよくなるくらい、彼のその情けない笑顔に酷く安堵してしまったのだ。

「もう……!気をつけてよ?野中さんが怪我したら、誰が私を守ってくれるの?」

 冗談めかして言うと、彼は一瞬だけ真顔になり、すぐに眉を下げた。

「……はい。肝に銘じます」

 その言葉がやけに真摯に響いて、鈴は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。

「さ、さあ!お豆腐、切りますね!冷奴にしましょう!」

「うん!あ、お醤油取ってくる!」

 狭い台所で、二人の肩が触れ合う。焦げた朝食の続きがまた始まる。その平穏が嵐の前の静けさだということを鈴はまだ知らない。

そして目の前の青年がその嵐の中心人物であることも。

 日が落ちると、貧乏長屋の夜は早い。大通りのガス灯の明かりもここまでは届かず、頼りになるのは部屋の中央に置かれた石油ランプの頼りない灯火だけだ。

 チロチロと揺れる炎が二人の影を煤けた壁に大きく映し出している。

「はい、できた!」

 静寂を破ったのは、鈴の弾んだ声だった。

 彼女は手に持っていた針と糸を置くと、満足げにその布地を広げて見せた。

「見て、野中さん。朝、転んで破いちゃったところ。もう分からないでしょ?」

 ちゃぶ台を挟んで向かい側に座り、難しい顔で書物を読んでいるふりをしている景明が顔を上げる。

 彼は丸眼鏡の位置を直し、鈴の手元にある袴を受け取った。

 今朝、追手を撒くために彼が派手に転んで見せた際、袴の裾が鍵裂きになってしまっていたのだ。泥汚れは落ちても、破れまでは戻らない、はずだった。

「……これは」

 景明は言葉を失った。ランプの光にかざしてみる。透かしてみる。指でなぞってみる。

 だが、傷跡がない。縫い目が見えないどころの話ではない。まるで最初から破れてなどいなかったかのように生地の繊維一本一本が完全に繋がり、修復されていたのだ。

(熟練の職人でも、ここまでのかけつぎは不可能だ。魔法でも使わない限りは……)

 軍人としての冷徹な観察眼がありえない事実を捉えて警鐘を鳴らす。だが目の前でニコニコと笑っている少女の屈託のない表情を見るとその警鐘も霧散してしまう。

「すごいですね、鈴さん。まるで新品同様だ」

「えへへ、すごいでしょ?私、お裁縫だけは誰にも負けない自信があるんだもん。針を持ってるとね、なんだか布の声が聞こえる気がするの。“ここを繋げてほしい”って」

「布の声、ですか」

「うん。心を込めて縫うとね、指先から温かいのが流れ込んで、布が喜んでくれるの。……変かな?」

 鈴は少し恥ずかしそうに首を傾げた。その“温かいもの”こそが彼女自身も無自覚な異能“癒やしと修復”の力であることをこの時の二人はまだ知らない。

「いえ、変じゃありません。とても……素敵な才能です」

 景明は修復された袴を丁寧に畳みながら心からの言葉を紡いだ。嘘で塗り固めたこの生活の中で彼女の才能だけが紛れもない真実のように思えたからだ。

「よかった!じゃあ、次はこれを作るね」

 鈴は嬉しそうに、新しい布を取り出した。真っ白で上質なハンカチだ。おそらく、家出の荷物の中にあった彼女の私物だろう。

 彼女は慣れた手つきで木枠に布をはめると色とりどりの刺繍糸を選び始めた。

「それは?」

「お礼の品。野中さん、私を泊めてくれたお礼にお金はいらないって言うじゃない?だから、せめてもの気持ち。……魔除けのお守りみたいなものかな」

 鈴は悪戯っぽく笑うと一針、一針、丁寧に糸を通し始めた。微かな音が、静かな部屋に心地よく響く。選ばれた糸は、白と緑。

「鈴蘭……ですか?」

「当たり。私の名前の一文字だし、花言葉知ってる?“再び幸せが訪れる”なんだって」

 鈴の手元で、小さな白い花が咲いていく。その一針ごとに、彼女の祈りのようなものが込められていくのを景明は眩しいものを見るように見つめていた。

(再び幸せが訪れる、か……)

 その言葉は皮肉にも彼自身に向けられているように感じられた。彼には鬼の少佐としての血塗られた過去と義務だけの未来がある。幸せなどという言葉とは無縁の人生だ。

 だが今、この小さな灯火の下で温かいお茶を飲みながら彼女が自分のために針を動かしている。その光景は彼が今まで知らなかった安らぎそのものだった。

「……鈴さん」

「ん?」

「もし、そのハンカチが完成したら……僕に、一番に触らせてくれませんか」

「ふふ、もちろんよ。これは野中さんのために作ってるんだから」

 鈴は針を止めずに答える。ランプの灯りに照らされた彼女の横顔は慈愛に満ちた聖母のようでもあり、同時に今にも消えてしまいそうな儚さを帯びていた。

 景明はふと懐に手を入れた。

 そこには今朝、追手の男に見せられた彼女の写真が入っている。それは男が落としたものを回収していたのだ。

 写真の中の彼女は豪華な振袖を着て、窮屈そうに澄ましている。けれど、今、目の前で粗末な浴衣を着て、楽しそうに刺繍をしている彼女の方が何倍も美しかった。

(私は……いつまで、この嘘を続けられるだろうか)

 彼は修復された袴を強く握りしめた。この傷は直った。けれど、彼が彼女につき続けている嘘が暴かれた時、その傷は鈴のその不思議な力でも治すことはできないだろう。

「……あ、痛っ」

 不意に、鈴が小さく声を上げた。指先に赤い血が滲む。針で突いてしまったようだ。

「鈴さん!」

 景明は反射的に身を乗り出し、彼女の手を取った。

 軍人として怪我には慣れているはずなのに、彼女の指先に浮かんだ小さな血の玉を見ただけで心臓が大きく跳ねた。

「だ、大丈夫ですか!?消毒を……いや、水で洗って……!」

「だ、大丈夫よ、野中さん。大げさだなぁ」

 鈴は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。

「野中さんの手、大きいね」

 自分の手を包み込む、景明のごつごつとした手。書生の手にしてはあまりにも硬く、タコだらけのその感触に鈴はまたしても微かな違和感を覚える。

 ペンだこではない。もっと別の重い何かを握り続けてきた手。けれど、その手は今、震えるほど優しく彼女を気遣っていた。

「……ごめんなさい。驚かせてしまって」

 景明はハッとして手を離そうとしたが鈴はその手をそっと握り返した。

「ううん。……ありがとう。野中さんって、やっぱり優しいね」

 その言葉は景明の胸に鋭く突き刺さった。優しいのではない。ただ、失うのが怖いだけだ。この借り物の幸福な時間を。その日の夕暮れは不吉なほどに重く湿っていた。

 遠くで低い雷鳴が唸り声を上げ、生温かい風が長屋の隙間風となって入り込んでくる。嵐が来る。誰もが雨戸を閉ざし、息を潜めていた。

           ◇

「できた……!」

 六畳一間の薄暗い部屋で、鈴が弾んだ声を上げた。彼女の手元には、一枚の純白のハンカチ。その右隅には白と緑の糸で繊細な鈴蘭の刺繍が施されている。

 ここ数日、野中との会話を楽しみながら、一針一針、祈るように縫い上げたものだ。

「野中さん、見て!やっと完成したよ!」

「おお……これは見事ですね。まるで本物の花が咲いているようだ」

 向かいで書き物をしているふりをしている景明が眼鏡の奥の目を細める。彼もまた、この数日間の穏やかな空気に浸りきっていた。

 焦げた料理を笑い合い、古本屋で買った安い菓子を分け合い、夜はランプの下で語り合う。

 鬼少佐としての仮面を外し、野中みのるとして過ごす時間は彼が久しく忘れていた、いや、生まれて初めて知る“人間らしい生活”そのものだった。

「はい、これ。約束通り、野中さんにあげる」

「え、本当にいいんですか?こんなに綺麗なものを僕みたいな貧乏書生が……」

「野中さんがいいの。……野中さんが持っていてくれないと、意味がないから」

 鈴が少し照れくさそうにハンカチを差し出す。彼女の頬がランプの灯火を受けてほんのりと染まる。

 景明がそのハンカチを受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。

(……足音?)

 景明の手がピタリと止まる。軍人としての研ぎ澄まされた聴覚が雨音に混じる微かな異音を捉えた。

 複数の足音がこの長屋を取り囲むように配置されている。しかも迷いがない。

(まさか……バレたのか?)

 脳裏に数日前の路地裏での出来事が蘇る。

 あの時、自分は完璧に演じきり、追手を別方向へ誘導したはずだった。だがもし、あの一団の中に自分の演技を見抜くほどではないにせよ、「念の為に監視を残す」ような慎重な男が混じっていたとしたら?

 あるいは豆腐を買って急いで戻る自分の背中を遠くから執拗に目で追っていた者がいたとしたら?

(失策だ。……彼女との生活を守りたい一心で確認を怠ったか)

 悔恨が胸を焼く。だが後悔している時間はない。

 突然、薄い玄関の戸が蹴破られるような音と共に長屋全体が揺れた。静まり返っていた長屋の空気が一瞬で凍りつく。

「おいコラァ!いるのは分かってんだぞ!」

 耳をつんざくような怒号。鉄筋コンクリートの屋敷ならいざ知らず、ここは板壁一枚で隣と接している長屋だ。その大声はこの空間においては爆音にも等しい暴力だった。

 隣室の赤子の泣き声が一瞬で止まり、息を殺す気配が伝わってくる。近隣の誰もが恐怖し、関わり合いになるまいと雨戸を固く閉ざす気配。

 それが鈴を孤立させる。

「ひっ……!」

 鈴が短く悲鳴を上げ、景明の袖を掴んだ。

「野中さん……!」

「大丈夫。鈴さんは下がっていてください」

 景明は青ざめる鈴を背に隠し、演技を交えて震える手つきで立ち上がった。

「な、な、何事ですか……!いきなり乱暴な……!」

「うるせぇ! 出てこい!」

 土足のまま上がり込んできたのは先日撒いた男たちではなく、さらに増援された屈強な男たち六人だった。小鳥遊家が本気を出して雇った、本職の荒くれ者たち。その目つきは獲物を追い詰めた獣のそれだ。

「へへっ、見つけたぞ。狐野郎が」

 リーダー格の男が泥だらけの革靴で畳を踏みにじりながらニヤリと笑う。

「先日、あっちへ逃げたと言ってたなぁ?だがな、ウチの若いのが見てたんだよ。お前がニヤニヤしながら豆腐を買って、この巣に戻るのをな」

 やはり、尾行されていた。景明は唇を噛む。あの時、鈴の待つ家へ帰る喜びで背後への警戒がおろそかになっていたのだ。

「あ、あの……ご、誤解です!僕は本当に……!」

「黙れ!」

 男の裏拳が景明の顔面を捉えた。眼鏡が飛び、景明は派手に畳の上を転がる。

「かはっ……!」

「野中さん!!」

 鈴が駆け寄ろうとするが別の男に腕を掴まれ、乱暴に突き飛ばされた。

「きゃあっ!」

「お嬢様、やっと見つけましたぞ。……こんなむさ苦しい場所に隠れているとは」

「触らないで!野中さんに何をしたの!?」

「何をした、じゃありませんよ。我々を欺き、お嬢様を誘拐した罪は重い。制裁を加えてやらんと気が済まんのでね」

 リーダーの男が倒れている景明の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。その口元からは血が流れている。

(……効いてはいない。だが、ここで反撃すれば鈴に正体がバレる)

 景明は無力な青年を演じ続けるしかなかった。どれだけ屈辱でも、どれだけ相手を殺したい衝動に駆られても。

「や、やめてください……お金なら、ありません……!」

「金じゃねぇよ。俺たちの顔に泥を塗った落とし前だ」

 男は容赦なく、景明の腹部を革靴で蹴り上げた。

 鈍い音が響くたび、長屋の薄い床がきしむ。それは鈴の心を直接踏みつけるような音だった。

「う、あぐっ……!」

「やめて!! お願い、やめて!!」

 鈴の絶叫が響く。けれど近所の誰も助けには来ない。この怒号と暴力の気配に怯え、嵐が過ぎ去るのを待つように沈黙している。

 それが長屋の現実であり、非力な者の限界だった。

 男はさらに懐から警棒を取り出し、冷酷な笑みを浮かべる。

「お嬢様、さあ帰りましょう。旦那様がお待ちです。……その前にこいつの手指を全部へし折ってからですが」

「!」

「書生ってのは筆を持つのが商売だろう?二度と字が書けなくしてやるよ」

 男が警棒を振り上げる。景明は泥と血にまみれた顔を伏せたまま、拳を固く握りしめた。

(指を折らせるか?右手の指五本と引き換えにこの場が収まるなら、それで彼女が傷つかずに済むのなら)

「待って!!」

 振り下ろされそうになった警棒の下へ、鈴が滑り込んだ。小さな体でうずくまる景明に覆いかぶさるようにして庇う。

「お嬢様、どいてください!汚れます!」

「やめてって言ってるの!!汚れているのはあなた達よ!」

 鈴は顔を上げ、男たちを睨みつけた。その瞳は恐怖で潤んでいる。震えも止まらない。けれど、その声には気高い響きがあった。

「この人に手を出さないで!この人は何もしてない!私が勝手に転がり込んで、私が勝手に居座っただけなの!」

「しかし、旦那様の命令で……」

「お父様の命令?それが何よ!弱い者いじめをして、恥ずかしくないの!?あなた達にも家族がいるでしょう!?」

 彼女は一歩も引かなかった。震える背中。華奢な肩。本当は今すぐにでも泣き出してしまいたいほどの恐怖の中で彼女は必死に景明を守ろうとしている。

 その姿が血の味を噛み締める景明の目にはあまりにも眩しく、そしてどうしようもなく愛おしく映った。

「……わかったわ」

 ふと、鈴の声から力が抜けた。何かを決意したように彼女は静かに告げる。

「帰るわ。……大人しく家に帰る」

「す、鈴さん……!?」

 景明が掠れた声で呼ぶ。

「だから、その人にはもう何もしないで。この部屋からもすぐに出ていって。……もし約束を破って指一本でも触れたら、私、舌を噛んで死んでやるから!」

「……っ!」

 男たちが息を呑む。商品価値のある花嫁に傷がつければ、それこそ彼らが当主に殺される。鈴の目にはやるなら今ここでやってみせると言わんばかりの死を賭した覚悟があった。

 リーダーの男は忌々しそうに舌打ちをし、警棒を収めた。

「……チッ。分かりましたよ。お嬢様がそう仰るなら、この貧乏書生は見逃してやりましょう」

「……ありがとう」

 鈴は肩の力を抜くとゆっくりと振り返り、景明の前に屈み込んだ。

 自分の着物の袖で景明の顔についた血と泥を優しく拭う。

「ごめんね、野中さん。……巻き込んじゃって」

「す、鈴さん……行っちゃダメだ……。僕は、大丈夫ですから……!」

 景明は必死に声を絞り出す。今ならまだ間に合う。この男たちを全員倒して、彼女を連れて逃げることもできる。だが、その選択肢は野中みのるという人格の死を意味する。

 そして何より、彼女が最も嫌う暴力を振るう軍人の正体を晒すことになる。

 葛藤し、動けない彼の手に鈴は何かをギュッと押し付けた。

「これ、持っていて」

 先ほど完成したばかりの鈴蘭のハンカチだ。まだ彼女の指の温もりが残っている。

「え……」

「あげたものだもん。返さないでね。……それが私の代わりだと思って」

 鈴は涙のこぼれそうな瞳で精一杯の笑顔を作った。それはこの数日間で景明に向けられたどの笑顔よりも美しく、そして悲しいものだった。

「野中さん、ご飯ちゃんと食べてね。お味噌汁、焦がしちゃダメだよ」

「鈴さ……」

「さようなら、野中さん」

 彼女は立ち上がり、もう二度と振り返らなかった。男たちに囲まれ、激しくなり始めた雨の中へと連行されていく。

 夕闇と豪雨の中に消えていくその小さな背中を景明は這いつくばったまま見送ることしかできなかった。

雨脚が強まる。壊された戸口から吹き込む雨が部屋の畳を濡らし、景明の顔の血と泥を洗い流していく。

 男たちの気配が完全に消えた後。泥の中でうずくまっていた気弱な書生はゆっくりと体を起こした。

 その手には白と緑の刺繍が施されたハンカチが泥に汚れぬよう強く、強く握りしめられている。

 そこには彼女の“守りたい”という祈りが込められていた。

「…………」

 割れた眼鏡を拾い上げ、無造作に放り捨てる。前髪をかき上げたその表情に、もはや野中みのるの頼りなさはない。そこにあるのは凍てつくような殺意とそれ以上に深い、煮えたぎるような愛執だった。

「……約束する」

 彼はハンカチを唇に押し当て、雷鳴にかき消されるほどの低い声で誓う。

「必ず、迎えに行く。……鬼少佐(わたし)のやり方で」

 闇に光る双眸はもはや獲物を狙う獣のそれですらなかった。それは愛する者を奪われた修羅の目だった。


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