第16話
数時間後。帝都の朝は残酷なほどに美しく始まった。東の空が白み始め、夜の帳が淡い紫から透き通るような浅葱色へと溶けていく。 屋敷の庭に植えられた松の葉先には昨夜の冷気を孕んだ朝露が真珠のように宿り、昇り始めた太陽の光を受けて七色に煌めいていた。
静寂。それは世界がまだ動き出す前の、ほんの一瞬だけ許された聖域のような時間。
若菜は盆に乗せた白磁のティーセットを慎重に運びながら、自然と口元が緩むのを止められずにいた。 盆の上からは焼きたてのパンの芳ばしい香りと熱い紅茶の湯気が立ち上っている。
「おはようございます、鈴様」
若菜は扉の前で一度足を止め、身だしなみを整えてから、いつものように明るく声をかけた。
返事はない。 まだ夢の中だろうか。 若菜は苦笑しながら、静かにノブを回した。 蝶番が微かな音を立て、扉が開く。
「朝ですよ、鈴様。今日はとびきりの」
言葉は途中で凍りついた。部屋の中は穏やかな秋の朝とは思えないほど異様に冷え切っていた。まるで真冬の海に放り込まれたかのような、肌を刺す不自然で鋭利な冷気。
そして、匂い。 少女の部屋にあるべき石鹸や花の香りではない。 甘く、腐りかけた果実のような、不吉な甘い芳香が部屋中に充満している。
「……鈴、様?」
若菜の視線が部屋の中央にあるベッドへと吸い寄せられた。 純白のシーツは乱れている。 だが、そこにあるべき主の姿がない。
閉め切っていたはずの窓が大きく開け放たれ、朝の光とともに白いレースのカーテンが亡霊の手招きのように揺れている。
若菜の視線が床に落ちている“それ”を捉えた瞬間、全身の血の気が引いた。窓際、フローリングの床にただ一つだけ残されたもの。 それは、中身を失った木製の刺繍枠だけだった。 本来なら白い布が張られているはずの円の中は何もなく、ただ床の木目を虚しく切り取っている。
そして、その剥き出しになった木枠には毒々しい赤黒い染みがべっとりと付着していた。 それは紛れもなく、乾いた人間の血の色だった。
「……噓……」
若菜の唇から形にならない息が漏れる。 布も刺しかけの糸も、針さえも残っていない。 ただ、主の不在と惨劇の痕跡だけを纏った空虚な輪だけが、朝の光の中に取り残されていた。
「あ……ああ……ッ!」
盆が床に落ちた。 静寂を引き裂く破砕音。 白磁が砕け散り、熱い紅茶が床に広がり、血のついた刺繍枠へと忍び寄る。
若菜はその場に崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、悲鳴を上げる代わりに廊下へと振り返った。
「旦那様ッ!!氷室様ぁッ!!」
腹から出た声は屋敷の隅々まで響き渡る絶叫となって空気を震わせた。
普段の西園寺家ではありえない、荒々しい足音が階段を駆け上がってくる。
「若菜さん!敵襲ですか!」
最初に飛び込んできたのは氷室だった。軍服の上着を羽織るのも忘れ、ワイシャツ姿のまま、鋭い視線で部屋を走査する。続いて廊下の奥から老婆の悲鳴に近い声が聞こえる。
「鈴様!?まあ、ああっ!これは一体……!」
トメが顔を青ざめさせ、腰を抜かしそうになりながら壁に手をつく。だが、その場の空気を一変させたのは最後に現れた男だった。
「…退け」
低く、地を這うような声。氷室とトメが弾かれたように左右に道を開ける。現れたのは景明だった。その全身から立ち昇る気配はかつて鈴の前で見せていた穏やかなものではない。
人を殺し、敵を殲滅し、修羅場をくぐり抜けてきた鬼少佐の殺気そのものだった。
景明は無言で部屋の中へと足を踏み入れた。ガラス片を踏み砕き、一直線に窓際へ。彼の視線が床に落ちた刺繍枠、そこに付着した血痕に釘付けになる。
(……血)
景明の瞳孔が収縮する。心臓が早鐘を打ち、胃の腑が焼け付くような感覚が襲う。鈴の血だ。この刺繍枠だけを残して、彼女は消えた。
景明は膝をつき、震える手で刺繍枠を拾い上げた。布に残された血の染みはまるで彼女の叫びが焼き付いたかのようだ。指先から青白い火花、雷の異能が漏れ出し、木枠を焦がす。
「……許さない」
低い唸り声と共に景明が顔を上げた。その瞬間、窓枠に付着した粉が視界に入った。紫色の妖しく燐光を放つ粉末。それを見た瞬間、景明の中で全てのピースが最悪の形で噛み合った。
「……胡蝶か」
景明の声には激情を超えた絶対零度の憎悪が込められていた。彼は立ち上がった。その動作だけで周囲の空気が震える。窓の外、遥か彼方に広がる帝都の空を睨みつける。
「氷室。軍刀を出せ。車も回せ」
「少佐、お待ちください。まずは情報の整理を」
「聞こえんのか!鈴が攫われたんだぞ!あの毒婦の手の中にいるんだ!一刻を争う!」
景明が振り返り、氷室に詰め寄る。その瞳は血走り、理性のタガが外れかけていた。愛する者を奪われた男のなりふり構わぬ狂気。今の彼には鈴を取り戻すためなら帝都全土を焼き払うことさえ厭わない危うさがあった。
「どこだ……どこに連れて行った……!」
景明は焦燥に駆られ、今にも窓から飛び出しそうな勢いで虚空を睨む。手がかりはこの不気味な粉と血痕のみ。広大な帝都のどこに隠されたのか、見当もつかない。それがさらに彼の理性を削っていく。
その時だ。屋敷の玄関ホールから軍靴の音が響き、息を切らせた伝令兵が部屋の入り口に姿を現した。
「西園寺少佐!緊急伝令であります!」
場違いな来訪者に景明は殺気のこもった視線を向ける。
「……今は取り込み中だ。失せろ」
「し、しかし!緊急事態です!第一師団司令部より至急の出動命令が出ております!」
伝令兵は景明のあまりの迫力に怯みながらも必死に言葉を紡いだ。
「今朝未明、吉原遊郭を中心とした台東区一帯で、原因不明の“集団昏睡”が発生!住民が次々と倒れ、目覚めぬまま衰弱していくという奇病が爆発的に広がっています!」
「……何?」
景明の眉がピクリと動く。
「現場はパニック状態です!暴動も起きかけており、警察だけでは手に負えません!軍による封鎖と治安維持、および原因の究明が求められています!少佐の異能による鎮圧が必要なのです!」
「吉原……」
若菜が口元を押さえる。“吉原”という単語が景明と氷室、そして若菜の頭の中で一本の線となって繋がった。
胡蝶。鱗粉。幻覚。そして、吉原での集団昏睡。偶然であるはずがない。これは宣戦布告だ。あるいは罠か。
「……ふざけるな」
景明が低い声で吐き捨てる。
「軍人である前に私は一人の男だ。私のすべてである女性が攫われている時に任務になど行けるか!」
景明は伝令兵を無視し、廊下へ歩き出そうとする。その背中に、鋭い声が飛んだ。
「お待ちください、少佐!」
氷室が呼び止めた。普段は冷静沈着な副官が必死の形相で上官の前に立ちはだかる。
「退け、氷室」
「退きません。少佐、貴方は今、冷静さを欠いている」
氷室は冷や汗を流しながらも一歩も引かずに景明を直視した。胃のあたりを押さえながら、しかしその瞳は忠実な部下としての覚悟を宿している。
「いいですか、落ち着いてください。吉原での汎流行と小鳥遊嬢の誘拐。この二つは間違いなく繋がっている。犯人は十中八九、胡蝶でしょう」
「だからこそ私が行くんだ!今すぐに!」
「行ってどうするのです!吉原は迷路のような場所です。具体的な居場所もわからぬまま、闇雲に探し回るつもりですか?その間に小鳥遊嬢に何かあったらどうするのです!」
「だったらどうしろと言うんだ!」
景明の怒号に部屋の窓ガラスが共鳴して震える。氷室は深呼吸をし、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「……役割分担です」
氷室は静かにしかし力強く告げた。
「敵の狙いは少佐を誘い出すこと、そして帝都を混乱に陥れることです。ならば少佐は正面から堂々と吉原へ乗り込んでください。軍の指揮官として、その異能で道を切り拓くのです。それが最も派手な囮になり、同時に民衆を救う唯一の道です」
「囮になれと言うのか……」
「そうです。少佐が派手に暴れれば暴れるほど、胡蝶の意識は貴方に向く。その隙に私と若菜さんが“裏”から潜入し、捜索します」
氷室は視線を若菜に向けた。
「若菜さん。貴女の知識が必要です。表の地図にはない抜け道や、あくどい連中が使いそうな隠し場所……心当たりを探っていただけますか?」
若菜は思いついたように顔を上げ、そして強く頷いた。
「……具体的な場所まではわかりません。ですがあの街の影の濃さは骨の髄まで知っています。軍靴では踏み込めない場所へ私が氷室様をご案内します」
若菜の言葉に景明の瞳の揺らぎがわずかに収まる。論理的だ。景明一人で暴走するよりも確実に成功率が高い。だが、感情がそれを拒否しようとする。自分が鈴のそばに行きたい。自分が助け出したい。その焦燥が胸を焼き尽くす。
「……頼めるか、若菜」
景明は絞り出すような声で言った。場所も分からぬ、雲を掴むような捜索だ。だが、今の彼には部下と鈴を慕う若菜を信じるしか道はない。
「お任せください、旦那様。鈴様は我々の大事な奥様になられる方です。あの方に指一本触れさせはしません。この身に代えても必ず見つけ出してみせます」
景明は次に未だ震えているトメを見た。
「…ばあやは屋敷を守れ。鈴が帰ってきた時、すぐに温かい食事と湯を用意できるように」
「だ、旦那様……!はい、はい……!必ず、必ずや……!」
トメは涙をぬぐいながら、何度も頷いた。
景明は大きく息を吐き出し、閉じていた瞼を開いた。そこに先ほどまでの混乱の色はない。あるのは氷のように冷徹で雷のように激しい決意だけだった。
「いいだろう」
景明は伝令兵に向き直り、軍人としての顔で命令を下した。
「西園寺景明、ただいまより出動する。第一師団に伝達。私が現場に到着するまで一般兵は風上に退避させろ。毒気に触れれば死ぬぞ」
そして彼は床に落ちていた血のついた刺繍枠を拾い上げると懐の深い場所、心臓に一番近い位置へとしまい込んだ。
(待っていろ、鈴。どこに隠されていようと必ず見つけ出す。……たとえこの身がどうなろうとも君だけは)
「行くぞ」
景明が翻した軍服の外套が風を切る。その背中は愛する者を奪われた悲しみよりも奪った者への確実な死の宣告を語っていた。一行は動き出す。
◇
帝都の北、遊郭吉原。かつては艶やかな女たちの笑い声と三味線の音が響き、男たちの欲望を飲み込んできた不夜城。
しかし今、その入り口である大門の前に広がる光景はこの世の終わりのように静かで、そしておぞましいものだった。
空からは雪が降っていた。季節外れの雪ではない。それは太陽の光を吸い込み、妖しく紫色の燐光を放つ粉塵、胡蝶が撒き散らした毒の鱗粉だった。
舞い落ちるその美しさは見る者の視神経を焼き切るような極彩色。だが、その正体は触れるものすべてを腐食させる劇薬だ。
「う、うあぁぁぁ……!!」
大門の前で警備にあたっていた警官隊の一人が絶叫を上げて転げ回る。防毒マスクの隙間に入り込んだ一片の鱗粉が彼の首筋に触れたのだ。たったそれだけで皮膚が音を立てて焼け爛れ、紫色の斑点が蜘蛛の巣のように広がっていく。
彼は喉を掻きむしり、白目を剥いて痙攣するとやがて糸が切れた人形のように動かなくなった。死んだのではない。深い、悪夢の底へと強制的に引きずり込まれたのだ。
「ひ、退避ぃ!退避せよ!この雪に触れるな!!」
指揮官の怒声が飛ぶが逃げ惑う人々で現場はパニックに陥っていた。地面にはすでに数十人の男たちが折り重なるように倒れている。彼らは一様に苦悶の表情を浮かべ、うわ言のように誰かの名を呼び、あるいは泣き叫んでいる。
(痛い、熱い、助けてくれ……)
(嫌だ、見ないで、私は悪くない……)
彼らは眠りながら、それぞれの精神の弱みを突く悪夢を見せられているのだ。この鱗粉は肉体を蝕むだけでなく、精神を破壊する遅効性の猛毒。
物理的な防壁では防げない呪いの吹雪が愛欲の街を死の街へと変えていた。その地獄の入り口に一台の黒塗りの軍用車が轟音を立てて急停車した。
重厚なドアが開く。軍靴が鱗粉の積もった地面を容赦なく踏み砕く。
「状況は」
降り立った西園寺景明の声は周囲の喧騒を凍りつかせるほどに低く、凪いでいた。駆け寄ってきた現場指揮官が景明の姿を見るなり安堵と恐怖がない交ぜになった顔で敬礼する。
「さ、西園寺少佐!お待ちしておりました!ご覧の通りです。大門より先は高濃度の鱗粉が充満しており、防護服なしでは一歩も進めません!突入を試みた部隊は全滅……生存者はいますが全員昏睡状態です!」
「……そうか」
景明は軍帽のつばを指で押し上げ、紫色の靄に包まれた遊郭のメインストリートを見据えた。視界の端で紫の雪が彼の軍服の肩に落ちようとする。瞬間。硬質な音が響き、鱗粉が空中で凍結し、粉々に砕け散った。
景明の半径二メートル。そこだけが絶対的な不可侵領域となっていた。彼の全身から溢れ出る冷気が大気中の水分を瞬時に凍らせ、目に見えない氷の結界を作り出しているのだ。
「道を開けろ」
景明が右手を軽く振るう。猛吹雪のような冷風が彼の手のひらから一直線に噴出した。それは大門を吹き飛ばし、通りに充満していた紫色の毒霧を強引に凍らせ、地面へと叩き落としていく。
毒の雪景色の中に透明な氷の道が一本、真っ直ぐに切り拓かれた。その圧倒的な力、自然現象さえもねじ伏せる鬼少佐の異能に兵士たちは言葉を失い、ただ畏怖の念を抱いて立ち尽くす。
景明はその氷の道へと足を踏み入れた。その姿が紫の霧の奥へと消えていくのと同時に遊郭の奥から甲高い耳障りな羽音が響き始めた。
胡蝶の眷属たち、異形化した信者たちが新鮮な獲物の臭いを嗅ぎつけ、動き出したのだ。その騒ぎを背に大門の脇にある崩れかけた土塀の影。二つの人影が音もなく滑り込んだ。
「……胃が、痛い……」
氷室は懐から胃薬の包みを取り出し、飲み込むと苦虫を噛み潰したような顔で眼鏡を直した。彼の視線は景明が暴れている表通りではなく、薄暗く湿った裏路地へと向けられている。
「若菜さん、大丈夫ですか?呼吸は?」
「ええ、平気です、氷室様」
若菜は口元を特殊な薬液を染み込ませた厚手の布で覆っていた。西園寺家を出る前、氷室が用意してくれた簡易防毒マスクだ。だが彼女が平気な理由はそれだけではない。
彼女の瞳はかつてこの街で生き抜いた頃の鋭く冷ややかな光を宿していた。
「この匂い……普通の鱗粉とは違います。もっと濃くて、粘り気のある……まるで腐った蜜のような甘さが混じっている」
若菜は鼻を鳴らし、迷うことなく路地の奥へと進んでいく。そこは一般客が決して足を踏み入れない裏の世界。
遊女たちが生活する長屋の裏手、業者がゴミを搬出する獣道や身寄りのない遊女が病で果てた時に運び出される投げ込みへのルート。
「あちらの表通りは華やかな地獄ですが……こっちは、澱のような場所です。足元にお気をつけあそばせ」
若菜が裾をたくし上げ、驚くほど身軽な動作で廃材の山を乗り越える。
氷室は軍刀の柄に手をかけ、油断なく周囲を警戒しながら彼女に続いた。
「鱗粉の濃度が低い場所を選んでいるのですね」
「ええ。風の通り道を知っていますから。……それに胡蝶という女、私は現役時代に少しだけ噂を聞いたことがあります」
若菜は早足で進みながら、忌々しげに言った。
「“幻を見せる女”。客を夢中にさせるのが上手いと評判でしたが同時に……彼女の部屋からは時折、奇妙な音が聞こえると」
「奇妙な音?」
「何かが擦れるような……虫が這うような音です。今思えば、あれは最初から異能の片鱗だったのかもしれません」
二人は腐った板塀の隙間を抜け、かつては茶屋の倉庫として使われていたであろう区画へと出た。そこは紫色の雪がうっすらと積もり、異様な静寂に包まれている。
「!……氷室様、止まって」
若菜が鋭く囁き、氷室の腕を掴んで物陰に引きずり込んだ。直後。彼らが進もうとしていた道の先を異形の集団が横切っていく。それは人間だった。しかし、皮膚は紫色に変色し、背中から透き通るような羽を生やし、焦点の合わない目で彷徨う“成れの果て”たち。彼らは何かを探すように鼻をひくつかせている。
「……“マダム”が呼んでいる……」
「……新しい“糸”が必要だ……」
「……軍人様の……心臓……」
うわ言のような言葉が聞こえ、氷室の背筋が凍る。マダムとは胡蝶のことか。そして“軍人様”とは。
(奴らの狙いは、やはり景明か。……だが、それ以上に)
氷室の脳裏に景明が持っていた“血のついた刺繍枠”が浮かぶ。そして“新しい糸”という言葉。それは鈴の異能、修復の力を指しているのではないか。
胡蝶は鈴を殺すためではなく、何かを利用するために攫った?
「……氷室様」
若菜が耳元で囁く。彼女の指先が路地の奥、ひときわ暗い闇に包まれた一角を指し示していた。そこは今は使われていない廃業した見世。建物全体が黒い蔦植物に覆われ、まるで巨大な繭のように見える。そして、その建物の隙間からだけ、周囲とは明らかに違う濃度の燐光が漏れ出していた。
「あそこです。私の勘があそこが一番“臭い”と告げています」
「……あそこは?」
「“蟲愛づる館”……かつて珍しい虫や動物を集めて客に見世物にしていた、悪趣味な座敷があった場所です」
若菜の顔が嫌悪感で歪む。
「あそこに鈴様がいらっしゃる」
確信に近い響き。氷室は頷き、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「行きましょう。……ここからは隠密行動は捨てます。私が道をこじ開ける」
氷室が軍刀を抜き放つ。その刀身が微かな月明かりを受けて冷たく輝いた。
◇
一方、吉原の大通り。そこは既に氷と雷、そして毒の嵐が吹き荒れる戦場と化していた。
「ハァアアッ!!」
景明が一歩踏み込むたびに地面から巨大な氷柱が槍のように突き出し、襲いかかる異形たちを串刺しにする。さらに彼が腕を振るえば、紫電一閃。青白い雷撃が空を切り裂き、舞い散る鱗粉ごと敵を焼き払う。
圧倒的だった。軍人として鍛え上げられた体術と規格外の異能出力。それは戦闘というより、一方的な蹂躙に近かった。だが景明の表情に余裕はない。焦燥だけが彼の内側で黒い炎となって燃え盛っている。
(鈴……ッ!どこだ、どこにいる!)
彼は敢えて派手に暴れていた。自分の異能の光を、音を、吉原の隅々まで届かせるように。もし鈴が意識を取り戻していれば、この雷鳴が聞こえるはずだ。自分が来たことを知らせるために。
「あらあら、随分と乱暴な愛し方ねぇ、少佐様」
不意に脳内に直接響くような粘り着く声が聞こえた。
景明の動きが止まる。周囲の紫色の霧が渦を巻き、一箇所に凝縮していく。その中から幻影のように浮かび上がったのは半身が蛾のように変異し、歪んだ笑みを浮かべる胡蝶の姿だった。
「胡蝶……ッ!!」
景明は即座に雷撃を放つ。しかし稲妻は胡蝶の体をすり抜け、後方の建物を破壊しただけだった。
幻影だ。
「ふふふ。そんなに怖い顔をしないで。……貴方の大事な“お人形”なら、預かっているわよ」
「鈴を返せ!!」
景明の怒号が轟く。周囲の氷が共鳴して砕け散る。
「返して欲しければここまでいらっしゃい。……私の可愛い“繭”の中へ。そこで貴女の愛するあの子がどうやって壊れていくか……特等席で見せてあげる」
胡蝶の幻影が妖艶に唇を舐める。
「急がないと中身が空っぽになっちゃうかもねぇ?あの子、とっても良い“糸”を吐き出すんですもの」
「貴様ァアアアッ!!」
景明の理性が弾け飛んだ。彼は幻影がかき消えた方向、街の最奥、最も毒気の強い場所へと向かって爆発的な加速で駆け出した。氷の道を作る手間さえ惜しみ、全身に雷を纏って、毒の霧の中を突き進む。その背中にはもはや軍人の冷静さはない。ただ愛する女を奪われた、傷ついた獣の咆哮だけが毒の雪降る夜空に木霊していた。
◇
意識の底から浮上する感覚は冷たい泥沼から素手で引きずり上げられるそれに似ていた。
「……っ、う……」
鈴の唇から微かな呻きが漏れる。重い瞼が、体が、そして空気そのものが鉛のように重い。先ほどまで感じていたはずの、指先を焼くような痛みや鼻腔を突く甘ったるい花の腐臭が消えている。代わりに漂ってくるのは古びた木材が湿気を吸った匂いと安っぽい線香、そしてカビの混じった澱んだ空気の臭いだった。
(ここは……どこ?)
鈴はゆっくりと恐怖に震える睫毛を持ち上げた。視界がぼやけている。まるで水底から水面を見上げているように景色が歪んで揺らいでいる。
何度か瞬きをして、焦点を合わせる。そこに広がっていたのは鈴の網膜に焼き付いて離れない忌まわしい原風景だった。
黒く煤けた天井板。太く威圧的な輝きを放つ黒檀の梁。磨き上げられているが故にかえって冷たさを強調する廊下の床板。
「……小鳥遊、の家……?」
鈴の喉が引きつったように鳴った。間違いようがない。ここは彼女が生まれ育ち、そして逃げ出したはずの場所、小鳥遊邸だ。だが、何かが決定的に狂っていた。
窓がない。あるはずの明かり取りの窓や庭に面した硝子戸がすべて分厚い杉の雨戸で打ち付けられている。その隙間から外光の代わりに毒々しい紫色の燐光が筋のように差し込み、廊下に不吉な縞模様を描き出していた。
音もない。使用人たちの足音も、話し声も、庭の松が風に鳴る音も聞こえない。ただ、家全体が生き物のように軋む音だけが静寂の底で響いている。
「……夢、よね……?」
鈴は上半身を起こそうとして、違和感に気づいた。着ているものが違う。西園寺家で着ていた肌触りの良い寝間着ではない。袖を通しているのは実家にいた頃に強制されていた、重苦しい友禅の振袖だった。色鮮やかだが帯がきつく締め上げられ、鳩尾を圧迫して呼吸を妨げる。それは衣服というより、美しい拘束具だった。
鈴は裸足のまま、冷たい廊下に立ち尽くした。足の裏から伝わる冷気が骨の髄まで浸透してくる。逃げなければ。本能がそう告げている。ここは家ではない、ここは墓場だ。
鈴は走り出した。廊下の角を曲がる。そこにはまた同じ廊下が続いていた。さらに角を曲がる。また、同じ廊下。どこまで行っても同じ木目、同じシミ、同じ紫色の光の筋が繰り返される。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
息が切れる。心臓が早鐘を打ち、肋骨を内側から激しく叩く。おかしい。小鳥遊邸は確かに広大だがこんな無限回廊のような構造ではないはずだ。これは迷路だ。鈴の記憶にある恐怖を抽出して再構築された出口のない鳥籠。
ふと、廊下の壁に掛けられた古い柱時計が目に入った。振り子は止まっている。文字盤の数字はすべて「四」と「九」だけが乱雑に書き殴られている。その時計のガラスに鈴の顔が映った。
「……ひっ」
鈴は短く悲鳴を上げ、口元を押さえた。映っている自分の顔。その口元には口紅ではなく、黒い糸で×印が縫い付けられていたのだ。
慌てて自分の唇を触る。糸はない。だが鏡の中の自分はうつろな瞳で鈴を見つめ返し、縫われた口の隙間から赤い血を流していた。
「お前は黙って座っていればいいのだ」
心臓が跳ねた。背後から聞こえたその声は鈴の鼓膜ではなく、脳髄の柔らかい部分に直接針を突き立てられるような響きを持っていた。
恐る恐る、振り返る。廊下の突き当たり、紫色の闇が凝縮した場所に人影が立っていた。仕立ての良い背広。威厳と冷酷さを固めたような立ち姿。父、小鳥遊子爵だ。
「……お、父様……?」
鈴の声が震える。父は無言で立っていた。だが、近づくにつれてその異様さが露わになる。
顔がない。目も鼻も口もない。ただ、のっぺらぼうの顔面に墨で書かれたような家という一文字だけが張り付いている。
それは彼にとって家族とは個人の集合体ではなく、ただ家という概念を守るための道具でしかないことを示しているかのようだった。
「鈴。どこへ行く?」
顔のない父から声が出る。それは腹の底に響くような絶対的な命令者の声。
「お前の部屋はあちらだ。客間へ戻りなさい」
「い、嫌……!私はもう、戻りません……!」
鈴は首を振った。後ずさりする。足元の畳が、泥沼のようにぬかるみ、鈴の足首を掴もうとする。
「戻りなさい。お前には教育が必要だ。……出来損ないには厳しい躾が」
父が一歩踏み出す。その足音は軍靴の音のように重く、そして巨大な鉄槌が落ちるような響きで廊下を揺らす。
家全体が共鳴し、壁から埃が舞い落ちる。壁の木目がぐにゃりと歪み、無数の目となって鈴を睨みつける。
“出来損ない”、“恥さらし”、“男勝りのじゃじゃ馬”、“誰もお前なんて愛さない”。
無数の視線と言葉の刃が鈴の肌を物理的に切り裂くような痛みを伴って襲いかかる。
「やめて……!やめてよぉッ!」
鈴は耳を塞ぎ、蹲った。存在しないはずの記憶が映し出される。暗い押入れに閉じ込められた夜。破れた刺繍。否定され続けた自分の言葉、自分の感性、自分の存在。
“お前が生まれたせいで”、“お前は疫病神だ”、“お前の刺繍など誰も喜ばない”
「あぁ……ああぁ……ッ!」
鈴の喉から声にならない悲鳴が漏れる。
(そうだ。私はいらない子だ。私が笑うと父は不機嫌になった。私が泣くと父は罵倒した。私が息をしているだけでこの家は不幸になった)
「わかったなら、償いなさい」
父の影が鈴の真上に覆いかぶさる。その手には巨大な“刺繍針”が握られていた。鈍い銀色に光る、長さ一メートルほどの鉄の杭のような針。
「お前のその手は余計なものを作る。その口は余計なことを喋る、だから私が直してやろう。……立派な“人形”になれるように」
「いや……!嫌ぁッ!!」
鈴は這いつくばって逃げ出した。着物の裾が乱れるのも構わず、四つん這いで廊下を駆ける。背後から重い足音と金属が床を引きずる嫌な音が迫ってくる。
(助けて……誰か、助けて……!)
鈴の脳裏に愛する人の顔が浮かぶ。不器用で優しくてでも誰よりも強いあの人。
(西園寺様……!野中さん……!)
彼女は必死にその名を呼ぼうとした。だが、恐怖で喉が引きつり、声が出ない。廊下の先、角を曲がったところでふと景色が開けた。
そこは小鳥遊邸の玄関ではなく、なぜか見覚えのある長屋の風景、野中みのるが住んでいたあの貧乏長屋の入り口だった。
「……あ」
鈴の瞳に希望の光が灯る。あそこに行けば。あのちゃぶ台のある、狭くて温かい部屋に行けば彼がいるかもしれない。
「野中さん……ッ!」
鈴は最後の力を振り絞ってその扉に手をかけた。引き戸が音を立てて開く。そこにいたのは文机に向かい、背中を丸めて本を読んでいる懐かしい書生の姿だった。
擦り切れた着物。丸眼鏡。猫背の背中。紛れもない、野中みのるだ。
「……野中、さん……?」
鈴の呼びかけに彼はゆっくりとページを繰る手を止め、振り返った。丸眼鏡の奥の瞳が優しく鈴を捉え、微笑んだ。
「おや、鈴さん。……ずいぶんと泥だらけですね」
その穏やかな声を聞いた瞬間、鈴の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。助かった。ここはあの優しい日常だ。怖い父も、歪んだ屋敷も、全部悪い夢だったのだ。
鈴はよろめきながら部屋に入り、野中の足元に崩れ落ちるように縋り付いた。彼の着物の古着特有の匂い。温かい体温。すべてが愛おしい。
「怖かった……怖かったです、野中さん……っ!」
「よしよし、可哀想に。もう大丈夫ですよ」
野中の大きな手が鈴の頭を優しく撫でる。その掌の感触に鈴は魂ごと溶けるような安堵を覚えた。だが、鈴はまだ気づいていなかった。頭を撫でる野中の指先が徐々に、徐々に冷たくなっていることに。
そして部屋の隅、天井の四隅から粘液を帯びた白い糸が垂れ下がり、音もなく鈴の背後に忍び寄っていることに。優しかったはずの野中の口元が三日月型に歪む。
「……やっと、網にかかりましたね」
その声は野中みのるのものでありながら、底知れぬ悪意を含んだ別人のものだった。
「……網?」
鈴は自分の背中を撫でていたはずの野中の手を見上げた。その手はいつの間にかどす黒く変色し、指先が鋭利な鉤爪のように変形していた。そして、その鉤爪は鈴の帯に突き立てられ、彼女を逃さないように食い込んでいた。
「痛っ……!野中さん、何を……?」
「野中?まだそんな幻を見ているのですか」
男の声が低く冷たく響く。鈴の目の前で愛しい書生の姿が陽炎のように揺らぎ、崩れ去った。ボロボロの着物は軍服へ。丸眼鏡は冷徹な双眸へ。猫背だった背中は威圧的なほどに真っ直ぐな立ち姿へ。
そこに立っていたのは景明の幻影だった。だが、それは鈴が知っている、不器用で情熱的な彼ではない。冷酷無比。感情の一切を削ぎ落とした文字通りの鬼としての景明だった。
「西園寺、様……?」
「君は本当に愚かだ。少し優しくすれば尻尾を振って罠にかかる」
景明の幻影は汚い物に触れるかのように鈴を突き飛ばした。鈴は畳の上を転がり、壁に背中を打ち付ける。
「あ……」
見上げると、あの温かかった長屋の部屋は消え失せていた。畳は腐り果て、壁は溶け出し、天井からは無数の白い糸が垂れ下がっている。そこは巨大な蟲の腹の中のような粘液と悪臭に満ちた空間だった。
「どうして……どうして、そんな目で私を見るの……?」
鈴の瞳から涙が溢れる。突き飛ばされた痛みよりも彼に向けられた侮蔑の視線が心臓を直接抉られるように痛かった。
「君が邪魔だからだ、小鳥遊鈴」
幻影の景明が軍刀を抜き放ち、切っ先を鈴の喉元に突きつける。
「君の存在が私の武勲に泥を塗る。君の刺繍は呪いだ。私の足を引っ張る鎖だ。……君さえいなければ私はもっと自由でいられたのに」
「あ……ぅ……」
鈴の喉から、空気の漏れるような音がした。否定したかった。けれど言葉が出てこない。現に今、自分は敵に捕まり、彼を呼び寄せる餌になっている。自分の存在が彼を危険に晒している。その事実が幻影の言葉に説得力を持たせてしまう。
(ああ、そうだ……私はやっぱり……)
「疫病神なのよ」
今度は天井から女の嘲笑が降ってきた。胡蝶の声だ。
「かわいそうな鈴ちゃん。愛する男に拒絶されて、居場所もなくて。……生きている意味、あるのかしら?」
「……ない」
鈴は虚ろな目で呟いた。
「そうよ。でも、死ぬのはもったいないわ。……お前には素晴らしい才能があるもの」
空間が歪み、鈴の目の前に一本の巨大な針が現れた。鈴が愛用していた刺繍針。それが処刑道具のように巨大化し、宙に浮いている。
「お前の口は余計なことを喋って彼を苛立たせる。お前の目は見なくていいものを見て彼を困らせる。……だから縫ってしまいましょう?」
「…縫う?…お、人形…みたぃ…」
「そう。何も言わない、何も見ない、ただ綺麗な糸を吐き出し続けるだけのお人形。そうすれば彼はもう怒らないわ」
(お人形になれば愛してもらえる?静かにしていればそばにいていいの?)
鈴の理性が音を立てて崩壊していく。彼女の右手が持ち上がり、巨大な針を掴まされた。
「……はい」
鈴は微笑んだ。それは心が壊れた人間にしかできない、空虚で美しい聖女のような微笑みだった。針の切っ先を自分の唇へと向ける。
幻覚の中の激痛。針が唇を貫き、鮮血が滴る。続いて、右目。視界が赤く染まり、そして闇に閉ざされる。
(これでいい。これで私は良い子)
鈴は自ら心を殺し、生きたままの屍となろうとしていた。完全に精神が砕け散り、彼女が“モノ”に成り果てようとした、その刹那。
「鈴!!どこだ!!」
世界に亀裂が入った。繭の外壁、その遥か向こうから、物理的な衝撃波と共に響いてきた雷のような咆哮。
鼓膜をつんざく爆音と共に幻影の壁が粉々に粉砕された。吹き込む風。それは腐った湿気ではなく、すべてを浄化するような冷たく澄み切った凍気だった。
粉塵と氷の礫の中から一人の男が飛び込んでくる。軍服はボロボロに破れ、肩からは血を流し、けれどその全身から青白い雷光を迸らせた“鬼”。本物の西園寺景明だった。
「……鈴ッ!!」
景明は部屋の中へとなだれ込み、愛する女の姿を探した。だが次の瞬間、彼の足が凍りついたように止まった。そこにあったのは鈴の姿ではなかった。
部屋の中央。腐肉のような床の上に高さ二メートルほどの巨大な白い繭が鎮座していた。その繭は半透明で内側から赤い光を明滅させている。まるで、巨大な心臓だ。
そして、その白い繊維の奥に胎児のように丸まり、無数の管に繋がれた鈴の姿が透けて見えた。
「……な、んだ……これは……」
景明の喉が渇く。鈴は繭の中でうつろな瞳を開けたまま微動だにしない。
彼女の体からは血管のような赤い糸が無数に伸び、繭の内壁へと吸収されている。彼女の命が、精神が、吸い上げられているのだ。
「鈴ッ!!」
景明が駆け寄ろうとした、その時。
「動かないで」
部屋の四方八方から、胡蝶の声が響いた。壁に張り付いた無数の蛾が一斉に羽を擦り合わせ、その振動が声となって聞こえてくる。
「その繭はね、あの子の心臓と直結しているの」
「……何?」
「私の特製よ。あの子の“拒絶”の力を増幅させるための増幅器であり、あの子の命を維持する生命維持装置でもある。……下手に触ればどうなるか、わかるかしら?」
景明の指先から雷が走る。だが、彼はそれを放つことができない。
「貴方のその乱暴な雷で繭を壊せば、あの子の心も一緒に焼け焦げて、二度と戻らなくなるわ、……あるいは私が指をパチンと鳴らすだけで繭を収縮させてあの子をミンチにすることもできる」
「き、貴様……ッ!!」
景明は歯ぎしりをする。力が強すぎる。彼の異能は破壊に特化している。敵を殲滅することはできても、この繊細かつ悪趣味な硝子の檻から鈴を無傷で取り出す術を持たない。
(手が出せない……!)
目の前にいるのに。手を伸ばせば届く距離にいるのに。最強の軍人であるはずの自分が何もできない。
「ふふふ。いい気味ね。……さあ、そこで指をくわえて見ているがいいわ。貴女の大事な光が私のものになる瞬間を」
繭の明滅が早くなる。鈴の体からさらに大量の光が吸い出されていく。
「……あ……」
繭の中から、微かな声が漏れた。景明が繭に張り付くように顔を近づける。
「鈴!私だ!聞こえるか!」
鈴のうつろな瞳がぼんやりと景明を捉えた。しかし、そこに宿っていたのはかつての強い光ではない。完全に壊れかけ、諦観に塗りつぶされた死人のような色。
幻影の中で口を縫われ、目を縫われ、絶望に突き落とされた彼女の唇が動く。
「……こ…して」
「……え?」
ガラス越しのような、くぐもった声。景明の全身の血が凍りつく。
「……ころ、して」
「……っ!!」
それは救助を求める声ではなかった。あまりの苦痛と絶望に耐えかね、愛する人の手で終わらせてほしいという、魂の敗北宣言。
「……鈴、お前……」
景明は膝から崩れ落ちそうになった。守ると誓った。誰よりも幸せにすると決めた。その彼女にここまで言わせてしまった。自分の無力が、油断が、彼女をここまで追い詰めたのだ。
(私は……私はなんてことを……!)
絶望が景明を支配しかけた、その時。
「諦めるんですか」
背後で冷徹な声が響いた。景明が振り返るよりも早く、二つの影が左右から飛び出した。
「右翼、遮蔽物クリア。換気ルート確保!」
「左翼、魔力供給ライン特定!切断準備!」
冷静な分析を行う男の声と凛とした女の声。氷室と若菜だ。
「……氷室、若菜!?」
「遅くなりました、少佐」
氷室は眼鏡を上げ、軍刀を構えて繭の背後の闇、胡蝶の気配が最も濃い場所を睨みつけた。
「少佐は“盾”になってください。胡蝶の攻撃をすべて受け止め、繭を守る。……その間に私たちがこの悪趣味な風船の空気を抜きます」
若菜もスカートの裾をたくし上げ、遊女でも女中でもない、戦う女の顔で景明を見た。
「旦那様、鈴様の声を真に受けてはなりません。あれはあの方の本心ではない。……あの方はまだ生きておられます!」
二人の言葉が景明の凍りついた心に火を灯す。
(そうだ。殺してくれなんて言わせない。生きて、また笑って、私を罵ってくれ)
景明は立ち上がった。その瞳に再び鬼の光が宿る。
「……分かった」
景明は繭の前に立ち、両手を広げた。それは敵を倒すための構えではない。背後の鈴を己の肉体すべてを使って守り抜く、鉄壁の守護の構え。
「胡蝶!!貴様の相手はこの私だ!!かかってこい!!」
咆哮と共に景明の全身から氷壁が展開される。反撃の狼煙が上がった。硝子の檻を砕くのは破壊の雷ではない。三人の絆という名の新たな力だ。
「氷の、盾だと……?」
部屋の虚空から、胡蝶の嘲笑が降ってくる。それは天井を這う無数の蛾の羽音と重なり、神経を逆撫でするような不協和音となって景明の鼓膜を叩いた。
「笑わせないでよ。貴方の異能は“破壊”でしょう?全てを凍らせ、砕くことしか知らない不器用な破壊兵器。……それが何かを守る?」
胡蝶の言葉と共に部屋の壁という壁から、赤黒い衝撃波、凝縮された毒の鱗粉の奔流が放たれた。
それは物理的な質量を持って、景明が展開した氷の障壁に直撃する。氷が悲鳴を上げる。表面が溶解し、毒の紫煙が上がる。
「くっ……氷室!コアはどこだ!」
景明が叫ぶ。彼は背後の繭を守るため、全魔力を防御につぎ込み、一歩も動けない。
氷室は軍刀を構え、若菜と共に部屋の奥へ走ろうとする。
「行かせるわけないじゃない!」
床板が捲れ上がり、無数の蛾が竜巻となって氷室たちの行く手を阻んだ。鋭利な鱗粉が刃となって襲いかかり、氷室の頬を切り裂く。
「くそっ、数が多すぎる!これでは近づけません!」
「旦那様!このままではジリ貧です!」
若菜が簪を投擲するが蛾の壁に阻まれて弾かれる。物理的な接近が不可能。かといって広範囲攻撃を行えば背後の繭ごと鈴が吹き飛ぶ。
「あはははは!どうしたの?手詰まり?じゃあ、そろそろ終わりにしましょうか」
胡蝶の勝ち誇った声。部屋の四隅に隠された 核が脈打ち、繭への魔力吸収速度を上げた。鈴の体から大量の光が吸い出されていく。
「……ぐ、うぅ……」
繭の中で鈴が苦痛に顔を歪める。それを見た瞬間。景明の瞳の中で青白い炎が揺らめいた。
「氷室」
景明が低く、静かな声で呼んだ。
「コアの位置を特定しろ。……座標だけでいい」
「少佐?まさか、ここから撃つつもりですか!?そんなことをすれば、衝撃波で繭が砕けます!小鳥遊嬢の心臓が止まります!」
「砕かせん」
景明は背後の繭を振り返ることなく、右手に雷を左手に冷気を収束させ始めた。その力量はこれまでの比ではない。空気が震え、部屋中の水分が凍り始める。
「私が膜を作る」
「膜……?」
「繭の表面を“絶対零度"で瞬間凍結し、物理的な遮断壁を作る。……鈴の神経ごと一瞬だけ凍らせて、外部からの衝撃を完全に遮断する」
景明の言葉に氷室が息を呑んだ。それは狂気の沙汰だ。生きている人間を、しかも精神が不安定な状態の鈴を凍らせるなど、一歩間違えばショック死させる。
さらに、その繊細な氷の制御を行いながら、同時に最大火力の雷撃を放つなど、人間の処理能力を超えている。
「失敗すれば彼女は死にますよ」
「させない。……私を信じろ」
景明の瞳に迷いはなかった。その目はかつて戦場で無数の敵を葬ってきた修羅の目であり、同時にたった一人の少女を愛し抜くと決めた男の目だった。氷室は一瞬だけ沈黙し、そしてニヤリと笑った。
「……承知しました」
氷室が読心の異能を全開にし、部屋の魔力の流れを視覚化する。彼の視線が部屋の奥、崩れた化粧台の裏にある一点を射抜いた。
「目標、前方十二時の方向!距離二メートル! 障害物多数、だが直線射線上にコアあり!」
「優秀で助かる」
景明が動いた。まず、左手から猛烈な冷気が繭を包み込む。だが、それは乱暴な吹雪ではない。
顕微鏡レベルで制御された、繊細にして強固な氷のコーティング。鈴の体、繋がれた管、そして繭の表面が一瞬にしてダイヤモンドのように硬質な氷の膜で覆われた。
(痛くはないぞ、鈴。……一瞬だけ、眠っていろ)
そして、右手からは圧縮された雷が槍の形をとって唸りを上げる。
「な、何をする気!?私の繭は無敵よ!」
胡蝶が悲鳴を上げる。景明は口の端を吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「無敵?……私が貫けないものなど、この世にない」
景明が右手を突き出す。狙うのは蛾の壁の向こう側。
「穿て、雷神の杭!!」
放たれたのは稲妻ではない。極限まで圧縮され、物理的な質量すら持った雷のレーザーだった。それは轟音と共に空間を切り裂き、蛾の壁を蒸発させ、床板を抉り取り、一直線に化粧台の裏へと突き刺さった。
「ぎゃあああああああああああああっ!?!?」
断末魔。雷撃は正確に紫色の核を貫き、さらにそのまま建物の壁をぶち抜いて、夜空へと突き抜けた。
部屋全体が真っ白な光に包まれる。凄まじい衝撃波が逆流し、爆風となって部屋を蹂躙する。だが、その爆心地にいながら、鈴を包む白い繭は微動だにしなかった。
景明が作り出した氷の絶縁結界がすべての熱と衝撃を完璧に弾き返していたのだ。光が収まり、静寂が訪れる。
胡蝶の気配は消滅していた。蛾の死骸だけが黒い灰となって降り注ぐ。
景明はふらつく足で繭に近づき、震える指で氷の膜に触れた。役目を終えた氷がガラス細工のように儚く砕け散る。中から現れたのは無傷の繭とその中心で眠る鈴。
「……鈴」
景明が呼びかけると拘束していた白い糸がサラサラと砂になって崩れ落ちた。核を失った繭はもはや彼女を縛る力を持たない。支えを失った鈴の体がゆっくりと倒れてくる。
景明はそれを壊れ物を扱うように優しく抱き留めた。
「……ん……ぅ……」
鈴の瞼が震え、薄く開かれる。その瞳に景明の顔が映った。傷だらけで、煤で汚れ、けれど安堵に歪んだ泣きそうな顔。
「……西園寺、様……?」
「……ああ。私だ」
「……氷の、匂いがします」
鈴が崩れた笑みを見せ、景明の胸に顔を埋めた。
「冷たくて、気持ちいい……」
「……馬鹿者。冷やしすぎたかと肝が冷えたぞ」
景明は鈴を強く抱きしめ、その温もりが確かにそこにあることを確かめた。生きている。守りきった。自分の手で、傷つけることなく。
「……見事でした、少佐」
「旦那様、さすがですわ」
灰まみれの氷室と若菜が瓦礫の山から這い出してくる。二人ともボロボロだが、その表情は晴れやかだった。
「……お前たちのおかげだ」
景明は短く礼を言い、腕の中の婚約者を見た。彼女は安心したのか、すでに寝息を立て始めている。その寝顔は悪夢にうなされていた時のものではなく、あどけない少女のそれだった。
吉原の空を覆っていた毒の雲が晴れ、朝日が差し込んでくる。その光は瓦礫だらけの廃屋を、まるで祝福するように黄金色に染め上げていた。
白き繭の悪夢は雷光と共に去った。残されたのはより強く、より深く結ばれた共犯者たちの絆だけだった。
だが、その温かな光に包まれた凱旋の裏側で冷酷な夜の闇はまだ蠢いていた。




