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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第二章 覚悟の婚約と忍び寄る幻夢の蝶
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第15話

 帝都の夜は重く湿った闇に包まれていた。 屋敷の外では季節外れの冷たい雨が石畳を濡らし、静かな雨音が絶え間なく響いている。 その音は世界と西園寺邸の書斎を隔てるカーテンのように、室内の静寂をより一層際立たせていた。

 壁一面の本棚には洋書や漢籍が隙間なく並び、部屋全体に古紙特有の甘く乾いた匂いと、インクの鋭い鉄錆のような香りが漂っている。 中央に鎮座する黒檀の執務机の上には普段の決裁書類ではなく、黄ばんだ和綴じの古い文献や軍の極秘印が押された書類の山が築かれていた。

 その山の麓で副官の氷室は小さく呻いた。 眉間には深い皺が刻まれ、顔色は蝋のように青白い。 彼は震える手で軍服の内ポケットから茶色い小瓶を取り出し、誰にともなく呟いた。

「……失礼致します」

 コルクの栓を抜き、中身を直接口へと運ぶ。 褐色の液体が彼の食道を通って荒れ果てた胃へと落ちていく。 強烈な薬草の苦味と鼻に抜けるハッカの刺激臭が胃の腑に熱を持ち、締め付けられるような痛みを一時的に麻痺させていく。

(……これで三本目か。私の胃壁はあとどれだけの心労に耐えられるのだろうか)

 氷室は深いため息をつき、空になった小瓶を机の端に置いた。 すると硬質な音が響く。 その音に反応するように、書類の塔の向こう側から、低く落ち着いているが凍えるような冷たさを帯びた声が届いた。

「足りなければ倉庫からもう一箱持ってこさせろ」

 景明は顔を上げることなく、書類に視線を落としたまま言った。 軍服の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を肘まで捲り上げた姿。 その腕には無数の古傷が走り、鍛え上げられた筋肉がランプの明かりを受けて陰影を描いている。 彼の手には万年筆ではなく、拡大鏡が握られていた。

「お気遣い、痛み入ります……。しかし少佐、問題は私の胃ではなく、この不可解な事実です」

 氷室は手元の報告書を指先で叩いた。そこには先日の“吉原・幻術事件”の詳細な戦闘記録が記されている。

「幻術空間内での戦闘時間は体感でおよそ三十分。胡蝶による精神攻撃は熾烈を極め、本来であれば術中に囚われた精神が肉体にフィードバックされ、心停止や脳死に至ってもおかしくない状況でした。……しかし、現実世界へ帰還した際、あの狭い六畳間で目覚めた少佐と小鳥遊嬢の身体には、外傷一つありませんでした。あれほどの高密度の異能戦が行われたというのに、部屋の畳一枚すら焦げていない。……異常です」

 景明は拡大鏡を置き、組んだ両手の上に顎を乗せた。 その鋭い双眸がランプの炎を映して揺らめく。

「……ああ。だがあの時、私は確かに見た」

 景明の脳裏に愛しい婚約者の姿が浮かぶ。 幻覚の炎に焼かれ、絶望の淵に立たされた時。 意識を失っていたはずの彼女の懐から清冽な光が溢れ出していたのだ。 か細い手で必死に彼を、いや、“野中みのる”を守ろうとした少女の、痛いほどの純粋な想い。

「後で確認したところ、彼女の帯の間には、未完成の雪の結晶のハンカチが収められていたそうだ。……おそらく、あの光の源はそれだ」

「彼女の異能は“壊れたものを直す”だけではないのかもしれない。……“壊れることそのものを拒絶する”力。物理的な干渉すらも弾き返す、絶対的な“守護”の領域だ」

(鈴……。君は無自覚にその領域へと足を踏み入れているのか)

 愛おしさと同時に狂気にも似た強烈な独占欲が景明の胸の奥で黒い炎となって燃え上がる。

「守護、ですか。……もしそうなら、軍上層部は黙っていないでしょう。修復能力だけでも稀有だというのに鉄壁の盾となれば、兵器としての価値は計り知れません」

 氷室の冷徹な事実を突く言葉に書斎の温度が急激に下がる。 景明から放たれる氷の異能の冷気が無意識に漏れ出していた。

「誰にも利用させはしない」

 景明は低く唸るように言った。 その瞳には独占欲と決意が宿っている。

「彼女は私のものだ。その髪一本、指先一つ、能力の欠片に至るまで……全て私が管理する。軍であれ、国であれ、彼女に触れようとする者は全て敵とみなす」

 たとえ、この国を敵に回そうとも。 愛する者を籠の中の鳥にするとしても、外敵からは自分が守り抜く。窓を叩く冷たい雨音に混じり、最強の軍人の決意が、静かに、そして確かに書斎の闇へと溶けていった。

「……はぁ。承知しております。だからこそ、こうして過去の記録を漁っているのでしょう」

 氷室は呆れたように肩を竦め、再び胃のあたりをさすった。主のこの激重な愛情表現には慣れているつもりだが時折その重圧だけで胃酸が逆流しそうになる。

 二人は再び、古文書の解読に戻った。雨音が強くなる中、紙をめくる音だけが響く。

 数時間が経過した頃だろうか。景明の手がふと止まった。彼が手にしていたのは明治初期に編纂された、陸軍省の前身組織による“異能者登録簿・甲種”と記された冊子だった。少々、虫食いがあり、所々墨が滲んで判読不能になっているがあるページの記述に景明の視線が釘付けになった。

「……氷室。これを見ろ」

 氷室が椅子を引き寄せ、景明が指差す箇所を覗き込む。そこには墨書きの流麗な文字である女性についての記録が残されていた。

 “明治四年、帝都守護ノ任ニ当タル一団アリ。ソノ中ニ、特異ナ能力ヲ有スル少女ヲ確認ス。名ハ、カナコ。墨ヲ磨リテ和紙ニ護符ヲ(シタタ)メ、或イハ修復セムトスル物ヤ、護ルベキ者ノ肌ニ直接(ジカ)ニ祈リノ文字ヲ書キ記ス。ソノ墨字ヲ纏ウ者ハ、銃弾ヲ弾キ、刀傷ヲ負ワズト云フ”

「……“肌に直接、祈りの文字を書き記す”。これは……」

 氷室が息を呑む。記述は続く。

 “ソノ力、単ナル加護ニ非ズ。対象ヲ“有ルベキ姿”ニ固定シ、外圧ヲ無効化スル“事象ノ拒絶”ニ近シ。戦時ニオイテ、重要拠点ノ防衛、及ビ国宝ノ修復ニ多大ナル功績ヲ挙グ。シカシ――”

 そこから先、ページが不自然に破り取られていた。経年劣化による破損ではない。誰かが意図的に力任せに毟り取ったような、荒々しい痕跡。破れ目の断面は毛羽立ち、変色している。

「……記述が途切れていますね」

「意図的な隠蔽だ」

 景明はその破れたページを指先でなぞった。ざらりとした紙の感触。その向こう側にかつて存在したはずの“カナコ”という少女の末路が隠されている。

「“事象の拒絶”……。祈りを込める媒体が鈴の刺繍とは違うだけで、本質的な力は酷似している。対象の肌に直接冷たい墨を走らせてまで、事象を固定する……。もし、この少女が辿った運命が幸福なものであったなら、記録を抹消する必要はないはずだ」

(おそらく、彼女は利用され尽くしたか……あるいはその力が強すぎて“処分”されたか。……人の血肉に直接、祈りを書き殴らねばならないほどの凄惨な状況下で)

 景明の手の中で古文書が音を立てた。無意識に力が込められ、表紙に霜が降り始めている。想像するだけで胸の奥でどす黒い炎が燃え上がる。鈴が同じ運命を辿るかもしれないという恐怖。そして、そうさせようとする全ての存在への憎悪。

「……胡蝶」

 景明は憎むべき敵の名を呟いた。今回の事件で奴らは鈴の力の特異性に気づいた可能性がある。今は手負いで潜伏しているだろうが追い詰められた獣ほど恐ろしいものはない。奴らは必ず、再び鈴を狙ってくる。その時は単なる誘拐や嫌がらせでは済まないだろう。

「氷室。……掃除の時間だ」

 景明は古文書を閉じ、立ち上がった。その背後に目に見えない氷の竜が鎌首をもたげるような、圧倒的な威圧感が立ち昇る。

 彼は窓辺に歩み寄り、雨に煙る帝都の夜景を見下ろした。ガラス窓に映る彼自身の顔は軍人の仮面を被った冷酷な修羅のそれだった。

「組織の残党、および幹部、胡蝶。その所在を徹底的に洗い出せ。……根絶やしにする」

「……御意。既に憲兵隊の一部と裏の伝手を動かしております。数日中には」

 氷室もまた、表情を引き締め、軍人としての顔に戻った。胃痛は消えていないが主の覚悟に触れ、腹を括ったのだ。

「あと、鈴には何も知らせるな。彼女はただ、陽だまりの中で笑っていればいい」

 景明は窓ガラスに手を当てた。冷たいガラスの感触。隣の部屋に鈴がいる。彼女は今頃、安らかな夢を見ているだろうか。それとも、まだ見ぬ明日への不安に怯えているのだろうか。

(君が見る夢は幸せなものだけでいい。悪夢は全て私が喰らい尽くす)

「私は君を守るためなら……喜んで鬼になろう」

 その呟きは雨音に混じって消えた。だが、その瞳に宿る暗い情熱の炎は雨ごときでは決して消えることはなかった。

 重苦しい静寂が再び書斎を支配する。古文書の山の中で破られたページの余白だけが語られぬ悲劇を沈黙のうちに訴え続けていた。

 嵐の前の静けさは終わりを告げようとしている。守るための戦いが今、静かに幕を開けた。

 帝都を二日間にわたって濡らし続けた冷たい雨は夜明けと共に嘘のように上がり、世界は洗礼を受けたかのような清浄な朝を迎えていた。

 帝都の高台に位置する西園寺邸。その広大な敷地内にある庭園では濡れた黒土が芳醇な香りを立ち昇らせている。樹齢百年を超える楠の巨木は雨水をたっぷりと吸い込んだ葉を重たげにしつつも誇らしげに広げ、その一枚一枚の緑が朝日の逆光を受けてエメラルドの宝石のように輝いていた。

 枝先から滴り落ちる雫が下の羊歯の葉に落ちるたび、水音の硬質で涼やかな音が静寂な朝の空気に波紋のように広がっていく。

 濡れた石畳の匂い。湿った苔の匂い。そしてどこからか漂ってくる沈丁花の甘く重い香り。それら全てが混じり合い、肺いっぱいに吸い込むと体の内側から澱が浄化されていくような錯覚を覚える。

 西園寺邸の二階にある客間、現在は婚約者として滞在している鈴の自室。東向きの大きなガラス窓から、遠慮のない朝日が射し込み、レースのカーテンを通して室内に複雑な幾何学模様の影を落としていた。

「ん……ぅ……」

 鈴は、柔らかな羽毛布団の中で身じろぎをした。糊の効いたシーツの擦れる音が心地よい。頬に触れる枕カバーの冷んやりとした感触と布団の中で作る空気の層が自身の体温を温める。その微睡みの中で鈴は意識の浮上を感じていた。

(……雨、止んだんだ)

 目を開けると視界いっぱいに光の粒子が舞っていた。昨夜までの幻術の後遺症のような重苦しい不安はこの圧倒的な光景の前に霧散していた。

 生きている。今日もまた新しい一日が始まる。そして、その一日はこれまでとは決定的に違う“色”を持っていた。控えめだがリズムの良いノックの音が響いた。

「失礼いたします、鈴様。……いえ、これからは“奥様”とお呼びすべきでしょうか?」

 鈴が返事をするより早く、楽しげな声と共に重厚なマホガニーの扉が開かれた。朝の光を背負って入ってきたその人物を見た瞬間、鈴の眠気は一瞬で吹き飛んだ。

「わぁ……っ!」

 鈴はベッドから飛び起き、思わず声を上げた。そこに立っていたのは数日前まで吉原の最高級遊女、夕顔として君臨していた女性、若菜だった。だが、今の彼女にあの夜のような絢爛豪華な打掛も重たい鼈甲の簪もない。

 彼女が身に纏っているのは西園寺家で給仕するものが着用している西洋式の女中服だった。艶やかで踝まである黒色のロングワンピースは彼女の豊満でありながら引き締まった肢体に吸い付くようにフィットし、歩くたびに裾が優雅な波を描く。その上から純白のフリル付きエプロンが高い位置でウエストを絞り、彼女のスタイルの良さを強調していた。

 襟元は詰まったスタンドカラーで禁欲的なデザインのはずなのに、彼女が着ると隠された肌の白さが逆に際立ち、匂い立つような色香が漂う。かつて遊郭で結い上げていた重厚な日本髪は解かれ、濡れた烏の羽のような黒髪が今は緩やかに編み込まれてシニヨンにまとめられている。その頭上には純白のヘッドドレスが鎮座していた。

「おはようございます。……いかがです?この格好」

 若菜は悪戯っぽく微笑み、スカートの裾を摘んで優雅に膝を折るカーテシーをして見せた。その所作一つとってもまるで舞台女優の演技のように洗練されている。

「すっごく素敵!若菜さん、まるで外国の活動写真に出てくる女優さんみたい!」

 鈴はベッドから降り、裸足のまま若菜の元へ駆け寄った。そして、彼女の周りを回りながら、全方位からその姿を堪能する。

「本当に?なんだか足元がスースーして落ちつかないけど…着物の裾捌きとは勝手が違いますし……それにこのスカート、少し丈が…」

 若菜は恥ずかしそうに頬を染め、足首が見え隠れするスカートの裾を気にした。遊女としての“見せる衣装”には慣れっこだったはずなのに、この西洋式の“隠す衣装”にはまだ不慣れな羞恥心があるようだ。そのギャップがたまらなく愛らしい。

「ううん、大丈夫!銀座のモガたちはもっと膝下を出してるもの!編み上げブーツの組み合わせもとってもハイカラだわ!」

 鈴は目を輝かせて言った。その口調は堅苦しい令嬢のそれではない。女学校の休み時間に友人たちと流行りのファッション誌を見ながら騒ぐ、年相応の快活な“女学生”そのものだ。

「ふふ、鈴様にお褒めいただけると、自信が持てますわ」

 若菜は鈴を転がすように笑った。その笑顔にはもう遊郭の鉄格子に囚われていた頃の陰りはない。朝日の中で笑う彼女はまるで春の野に咲く本物の花のように生き生きとしていた。

「さあ、お着替えをなさいませ。今朝は素晴らしいお天気なので窓辺で朝の紅茶などいかがでしょう?ダージリンのファーストフラッシュが入ったと、トメ様が仰っておりましたから」

 若菜は手際よくクローゼットを開け、鈴の着替えを用意し始めた。その動きには無駄がない。遊郭で培った気配りと持ち前の器用さが女中という仕事に見事に合致している。

「ありがとう、若菜さん。……あ、でも“奥様”って呼ぶのは早いわ。まだ婚約中なんだもの」

 鈴は着替えながら少し拗ねたように唇を尖らせた。

「あら、旦那様からは『いずれそうなるのだから、使用人たちには今のうちから徹底させておけ』と厳命されておりますのよ?あの鉄仮面のようなお顔で耳まで赤くして仰るものですから、氷室様も私も笑いを堪えるのに必死で……」

「えぇっ!?西園寺様ったら、そんなことを……!?」

 鈴の顔が一瞬で真っ赤に染まる。

(あの人、私のいないところでそんな恥ずかしい命令を出してたの……!?)

 想像してしまう。あの眉目秀麗で冷徹無比な鬼少佐が執務室で真面目腐った顔をして「彼女を奥様と呼べ」と指示している姿を。

 それはあまりにも不器用で重たくて、そしてどうしようもなく愛おしい。

「まったく、殿方というのは可愛い生き物ですわね」

 若菜は小さく笑いながら、ティーワゴンの準備に取り掛かった。陶器のポットから、琥珀色の液体がカップに注がれる音が軽快に響く。立ち昇る湯気と共に若草のような爽やかな香気が部屋を満たした。ファーストフラッシュ特有の春の訪れを感じさせる香りだ。

 鈴は窓辺のソファに腰掛け、出された紅茶を一口含んだ。熱い液体が喉を通り、胃の腑に落ちていく。その温かさが体の芯を目覚めさせていく。

「……美味しい。若菜さんが淹れてくれるお茶はなんだか特別に美味しい気がする」

「それは私が“美味しくなあれ”と魔法をかけたから……ではなく、単にトメ様の茶葉の管理が完璧だからですわ」

 若菜は砂糖壺の蓋を開け、銀のトングで角砂糖をつまみ上げた。

「お砂糖は二つ、ミルクはたっぷりでございましたね?」

「ええ、ありがとう!私、甘いのが大好きなの」

 角砂糖がカップに沈む音。ミルクが混ざり合い、琥珀色が柔らかなベージュ色に変わっていく。その渦を見つめながら鈴はふと、昨夜のことを思い出した。

「ねぇ、若菜さん。……ここに来てくれて、本当にありがとう」

 鈴はカップを置き、真剣な眼差しで若菜を見つめた。

「遊郭から出るには借金の返済とか、いろいろ大変だったはずなのに………」

「ええ。……正直、驚きました」

 若菜の手が止まった。彼女は窓の外、輝く庭の緑に視線を移し、遠い目をした。

「身請けの話が出た時、私はまだ半信半疑でした。軍人様なんて、遊女に口先だけの甘い夢を見せて、結局は裏切るものだと相場が決まっておりましたから。……でも、旦那様は違いました」

 彼女の脳裏に浮かぶのは、薄暗い遊郭の一室での光景。甘く重い白粉とお香の匂いが立ち込める中、景明は決して若菜に触れようとはせず、ただ真摯な瞳で彼女を見据え、身請けに十分な額の包みを静かに畳の上に置いたのだ。

「“これで君の自由を買え。そして、屋敷で私の愛する人を支えてやってほしい”と。……あの時、障子の隙間から鈴様が必死のお顔で覗いていらっしゃるのに帝都随一の異能者であるはずの旦那様はちっとも気づいておられませんでしたけれどね。私だけが必死に笑いを堪えておりましたのよ」

 若菜はその時の、鈴の浮気を疑う可愛らしい嫉妬と愛する人の気配にすら気づかない景明の不器用すぎる誠実さを思い出し、愛おしげな笑みをこぼした。

「まるで芝居のようでしたわ。鬼少佐と呼ばれるあの方がただ一人の少女との“守る”という約束を守るためだけに職権濫用も辞さない覚悟で乗り込んでこられたのですから」

「ええっ、西園寺様がそんなことを!?」

 鈴は目を丸くした。いつも冷静沈着で規律を重んじる彼がそんな強引な真似をしたなんて。

 若菜は優しく目を細め、鈴に顔を向けた。

「でも……お座敷の畳にずしりと重い身請け金の包みを置かれた旦那様の大きなお手がほんの僅かに震えていたのを私は見逃しませんでした。……あの帝都随一と恐れられる軍人様も必死だったのですね。私のために、ではなく……愛する貴女様との約束を守るために」

 若菜の穏やかな声が白粉の残り香とともに鈴の耳に届く。その言葉に鈴の胸の奥が甘く締め付けられるように熱くなった。

(あの時の西園寺様は私のためにあんなに不器用で一生懸命になってくださっていたのね……)

「西園寺様……」

 鈴は愛しい人の名を零し、膝の上で自身の着物の裾を握りしめた。

「私はこの屋敷に来て良かった。……ここは空気が澄んでいます。淀んだ欲望の匂いがしない。……鈴様と旦那様が作り出す、この清らかな空気が私は好きです」

 若菜の言葉に鈴は胸の奥が熱くなるのを感じた。彼が裏で動いていたのは部下の婚約者だった彼女を救うためだった。何も言わずに泥を被り、鈴さえも知らぬ間にその願いを先回りして叶えてくれていた不器用な優しさ。

 その深い愛の結果が今、こうして若菜という頼もしい味方となって、自分自身を支えてくれている。その時、廊下から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。軍靴の硬質で規則正しい足音と革靴の少し早足な足音。

「……鈴、入るぞ」

「し、失礼いたします……!」

 重厚なノックの後、扉が開かれた。現れたのは軍服を完璧に着こなした景明とその後ろには抱えきれないほどの古びた書物や書類の山を抱え、今にも倒れそうなほど顔色の悪い氷室だった。

「あ、西園寺様!それに氷室様も!」

 鈴は椅子から立ち上がった。

 景明の姿を見ると、条件反射で背筋が伸びる。今日の彼はいつにも増して精悍に見えた。濡れたような黒髪は後ろに撫で付けられ、鋭い双眸は理知的で冷ややかな光を宿している。だが、その瞳が鈴を捉えた瞬間、氷が解けるように微かに和らぐのを鈴だけは知っていた。

「……鈴。顔色は良さそうだな」

 景明は部屋に入るなり、鈴の姿を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように観察した。怪我はないか、疲れは残っていないか、何か変わったことはないか。その視線は獲物を狙う猛禽類のようでもあり、宝物の無傷を確認するコレクターのようでもある。

(相変わらず、視線の温度が高い……っ。若菜さんが見ているのに……!)

 鈴は頬が熱くなるのを感じた。

「は、はい!おかげさまで、ぐっすり眠れました。西園寺様も……お変わりなく?」

「私は問題ない。……氷室、資料を」

「は、はい……!」

 氷室は呻き声を上げながら、抱えていた書類の山をローテーブルの上に置いた。古い紙の匂いと埃っぽい匂いが紅茶の香りに混じる。

「おはようございます、小鳥遊嬢。……そして若菜さん、今朝の紅茶はダージリンですか。良い香りだ……胃が少し落ち着く気がします」

 氷室は青白い顔で額の汗を拭いながら、懐から茶色い小瓶を取り出し、慣れた手つきでグイッとあおった。胃薬だ。彼の主食と言っても過言ではない。

「氷室様、お疲れ様です……。すぐに新しいお茶を淹れますわね」

 若菜が心配そうに声をかけると氷室は「助かります……」と弱々しく微笑んだ。

「さて、鈴。……朝早くからすまないが君に話しておかなければならないことがある」

 景明は部屋にあるソファーに腰を下ろし、真剣な表情になった。その空気に鈴も背筋を正してソファーに座る。

「君の…異能についてだ…」

「私の……異能、ですか?…ん…私の?」

 鈴は呆けた顔をして、オウム返しに尋ねた。身に覚えがなさすぎる。自分はただの華族の娘で少しお針子が得意なだけの凡人だと思っていたからだ。

「そうだ。先日の幻術空間での戦闘……君と私は幻影の中を走り抜けた。普通なら大怪我を負っていてもおかしくない状況だった。だが、見ての通り、我々は無傷だ」

 景明は自分の手を広げて見せた。そこには新しい傷は一つもない。

「た、確かに……。でもそれは西園寺様がお強かったから……」

「私の氷の防壁でもあの爆炎を完全に防ぐことは不可能だ。……守ったのは私ではない、君だ」

「え……?」

「氷室が徹夜で過去の文献を洗い出した結果、ある一つの仮説……いや、確信に近い結論に至った」

 景明は氷室が広げた古い和綴じの本を指差した。そこには墨書きの文字と、護符や人の肌に直接祈りの文字を書き入れる、痛々しくも神秘的な呪術の挿絵が描かれている。

「小鳥遊嬢。貴女はご自身を無能力者だと思っておられたようですが……それは間違いです」

 氷室が眼鏡の位置を直しながら解説を引き継ぐ。その声は事務的だが、隠しきれない熱を帯びていた。

「文献によれば、かつて明治初期に存在した特殊能力者に類似の記述がありました。その者は墨と筆を用い、対象の肌に直接祈りを書き記したそうですが……発現する能力の本質は貴女と同じです。“事象の拒絶”、あるいは“概念的な守護”……極めて稀有な異能です」

「概念的な……守護?それが私の力……?」

 鈴は小首をかしげた。難しい言葉以上に自分が異能者であるという事実がまだ飲み込めない。

「簡単に言えば、君が“守りたい”、“直したい”と強く願った対象は世界から隔離され、あらゆる外敵からの干渉を弾く“聖域”となる、ということです」

 景明が補足する。その目は熱っぽく鈴を見つめていた。

「あの時、私の腕の中で……君の懐にあったハンカチが光り輝いたのを覚えているか?」

「あ……はい。なんだか温かい光が……。あれは夢じゃなかったんですか?」

「夢ではない。あれこそが君の祈りが形になった瞬間だ。過去の異能者が直接肌に墨を滑らせたように、君は得意とする針と糸で普段から布に想いを込めている……。その純粋な祈りが物理的な炎や衝撃すらも無効化する最強の盾となっていたんだ」

(私が……彼を守っていた?この手が?)

 鈴は自分の手を見つめた。か細い指。長年絹糸に触れ、一度たりとも自身を傷つけることなく、寸分の狂いもなく針を運んできたしなやかで小さな手。

 彼女はこれまで、自分はいつも守られているばかりだと思っていた。か弱くて、何もできなくて、ただ彼に助けられるだけの足手まといだと。だが、もし本当に彼女の紡ぐ温かい祈りが彼を守る力になっていたのだとしたら。

「……私の刺繍が、盾になる」

 鈴の呟きに景明は深く頷いた。

「特に君が特定の“意味”を持つ文様を刺繍した時、その効果は最大化されるようだ。……花柄なら“癒やし”。ならば、もっと強固な“守り”の意味を持つ伝統的な文様なら……」

 その言葉を聞いた瞬間、鈴の頭の中で何かが弾けた。インスピレーションの閃き。彼女は思いっきり顔を上げ、瞳を輝かせた。

「……あるわ!私、知ってる!」

 鈴は立ち上がり、部屋の隅にある裁縫箱へと駆け寄った。中から取り出したのはまだ何も描かれていない生成りの丈夫な木綿布と三角チャコ。

「鈴、何を……?」

「待ってて、西園寺様。今、図案を描くから!」

 鈴は迷いなくペンを走らせた。定規を使い、彼女の手は正確な六角形を描き出していく。中心から放射状に伸びる線。それを繋ぐ線。三角形が集まり、星のようにも結晶のようにも見える幾何学模様が布の上に浮かび上がる。

「……麻の葉の文様ですか」

 後ろから覗き込んだ氷室が感心した声を上げた。

「はい!麻はね、とっても成長が早くて、真っ直ぐに空へ伸びるの。だから、子供の健やかな成長を願う柄として使われることが多いんだけど……」

 鈴は布を掲げ、景明に突きつけるように見せた。

「この柄にはもっと強い意味があるの。三角形の集合体は“魔除け”の力を持つと言われているわ。邪悪なものを寄せ付けない、結界のような力!この柄で西園寺様の新しいお守りを作るわ。……絶対、傷一つ付けさせないんだから!」

(西園寺様がもう二度と傷つかないように。体の傷がこれ以上増えないように)

 鈴の宣言は力強く、そして眩しかった。彼女の全身から目に見えない光の粒子が溢れ出し、部屋の空気を震わせるような気配さえ感じる。

「……麻の葉、か。真っ直ぐに伸び、折れない心。……今の君にふさわしい」

 景明は眩しそうに目を細めた。胸の奥から熱い塊がこみ上げてくる。愛おしさがダムが決壊したように溢れ出しそうになるのを必死に理性の堤防でせき止める。

「……氷室。若菜。すまないが席を外してくれないか」

 景明の声が少し震えていた。

「え?ですが少佐、まだ文献の後半部分の解説が……」

「いいから行け。……今すぐにだ」

 景明の絶対零度の視線、ただし、その奥には「早く二人きりにさせろ」という子供じみた懇願が見え隠れしているのを受け、氷室は瞬時に状況を察した。

「……御意。胃薬のストックを確認してまいります。……若菜さん、参りましょう」

「ふふ、かしこまりました。……ごゆっくり、奥様」

 若菜は悪戯っぽくウィンクをし、氷室と共に静かに退室した。扉が閉まる音が二人きりの世界の始まりを告げる。静寂が戻った部屋で景明はゆっくりと立ち上がり、鈴に歩み寄った。その威圧感に鈴は思わず一歩後ずさる。だが彼は鈴の手首を優しく掴み、引き寄せた。

「……西園寺、様……?」

「ありがとう、鈴」

 彼の腕が鈴の背中に回された。抱擁。硬い胸板の感触とそこから伝わる彼の体温、そして速い心臓の音がダイレクトに伝わってくる。

「君に守られるなど、軍人としての沽券に関わるが……君のその“守りたい”という気持ちが何より嬉しい。……どんな勲章よりも」

 耳元で囁かれる低音ボイスが鈴の脳髄を溶かしていく。

 彼の吐息が首筋にかかり、背筋に電撃が走るような甘い痺れが全身を駆け巡る。

「私だって……西園寺様に守られてばかりじゃ嫌ですもん」

 鈴は顔を真っ赤にしながら、彼の胸に顔を埋めた。白檀の微かな香りと彼自身の男らしい匂いが鼻腔をくすぐる。

「ああ、そうだ。……君は私の……私の全てだ」

 景明の手が鈴の髪を梳くように撫でる。その指先は戦場で敵を屠る凶器と同じものとは思えないほど優しく、繊細だった。

「……覚悟、してて。私すごい“盾”を作っちゃうんだから」

「楽しみにしている。……だが、あまり根を詰めて指を刺さないように。君が痛がると私の方が痛い」

「もう、過保護なんだから……」

 窓の外では小鳥たちがさえずり、陽光が庭の緑をさらに鮮やかに照らし出していた。穏やかな午前のひととき。紅茶は少し冷めてしまったかもしれないが二人の間にはそれよりも遥かに温かく、甘美な時間が流れていた。

 鈴は決意を新たに彼から離れて刺繍台に向かった。針に糸を通す。

(真っ直ぐに。強く。……迷いなく)

 最初の一針が布を貫いた。その瞬間、微かな光が糸を伝って広がるのを鈴は確かに感じた。これはただの手芸ではない。愛する人を守るための聖なる儀式の始まりだった。

 その平穏な光景の裏で帝都の闇の底では羽をもがれた蛾が最後の狂気を孕んで蠢き始めていることを彼らはまだ知らない。

 嵐の前の静けさはあまりにも優しく、残酷なほどに美しかった。

 帝都の光が決して届かぬ場所がある。華やかな銀座の煉瓦街やガス灯が灯る大通りから遥かに離れ、隅田川の支流が澱み、腐臭を放つ吹き溜まり。深川の貧民窟のさらに奥、地図にも記されぬ廃屋の地下にその闇は広がっていた。

 湿ったカビの臭いとドブ川特有の硫黄のような臭気が混じり合う地下室。

 天井からは錆びた水が一定のリズムで滴り落ちている。その音だけがここが時間の止まった墓場ではないことを示していた。

「……あ゛、あぁ……ッ、ぎぃ……!」

 石床に転がる肉塊が苦悶の声を上げた。かつて胡蝶という名で帝都の裏社会を支配し、その妖艶な美貌で数多の男を狂わせてきた女。しかし今、その姿に蝶の優雅さは微塵もない。あるのは羽をもがれ、火に焼かれた蛾の無残な姿だけだった。

 胡蝶は自身の右肩から腕にかけてを狂ったように掻きむしっていた。爪が皮膚を裂き、赤い血が滲む。だが、彼女が取り除こうとしているのはそんな生易しいものではなかった。

「消えろ……消えろよッ!なんで……なんで消えないんだいッ!」

 彼女の右腕には白い陶磁器のように凍りついた雪のような火傷が広がっていた。

 先日の戦いで小鳥遊鈴の光によって負わされた傷だ。

 通常の火傷であれば皮膚がただれ、赤黒く変色するはずだ。しかしこの傷は異常だった。焼かれた皮膚は硬質化し、白く輝きながら周囲の健常な肉を侵食しているのだ。

 まるで鈴の清浄な祈りが胡蝶という穢れをこの世から浄化しようとしているかのように。

「熱い……熱いのに、寒いんだよ……ッ!」

 胡蝶は悲鳴を上げ、手元にあった薬瓶を掴んだ。中身は組織が密造した強力な鎮痛剤と細胞を活性化させる劇薬の混合液だ。

 彼女はそれを躊躇なく患部にぶちまけた。肉が焼ける音と共に鼻をつく刺激臭と白煙が上がる。皮膚が泡立ち、溶け落ちる。通常の人間ならショック死するほどの激痛が走るはずだが胡蝶は恍惚とした表情で笑い声を漏らした。

「あはっ……あははッ!痛い……痛いねぇ!でも、これなら……!」

 だが、煙が晴れた後、彼女の目に映ったのは絶望だった。溶け落ちた肉の下からさらに白く、輝きを増した硬質化した皮膚が露わになっていたのだ。薬液による腐食すらもその光は不純物として弾き返していた。

「嘘だ……嘘だろ……?」

 胡蝶は震える手でその白い肌に触れた。冷たい。まるで氷のようだ。鈴の異能は単なる修復ではない。対象をあるべき姿に戻す力だというなら、今の胡蝶にとってのあるべき姿とはこの白い呪いに蝕まれ、消滅することなのか。

「あの小娘……ッ!泥棒猫め……ッ!!」

 憎悪が喉の奥から噴き出す。景明を奪い、存在そのものを奪おうとしている。

(許せない。許せるはずがない)

その時、重厚な鉄扉が軋んだ音を立てて開いた。

 地下室の淀んだ空気が揺らぎ、硬質な靴音が響く。

「……随分と楽しそうじゃないか、胡蝶」

 冷ややかな声が降ってきた。胡蝶は顔を上げる。脂汗で濡れた前髪の隙間から見えたのは黒い山高帽を目深に被り、丸眼鏡をかけた小男だった。

 手には象牙のステッキ。仕立ての良い洋装だがその背後にはドス黒い闇が蠢いている。組織の連絡役にして処刑人“蜻蛉”だ。

「蜻蛉……!助けておくれ!薬が……もっと強い薬が必要なんだ!」

 胡蝶は床を這いずり、蜻蛉の足元に縋り付いた。かつての誇り高い幹部の姿はない。ただ生に執着し、痛みに怯える惨めな生き物がそこにいた。

 蜻蛉は足元にすがりつく胡蝶の手を汚物でも見るような目で見下ろした。そして、無言のままステッキを振り上げ、ステッキの石突が胡蝶の火傷を負った肩に突き立てられた。

「ぎゃぁっ!?」

 硬質化した皮膚にヒビが入り、そこから白い光ではなく、赤い血がようやく噴き出した。

「……組織はね、無能には厳しいんだよ」

 蜻蛉はステッキを力強く傷口にねじ込みながら淡々と言葉を紡ぐ。

「吉原の拠点は壊滅。貴重な実験体であった遊女たちも逃亡、長年の資金源のルートも亀裂が入った。……お前の失態の損害額、計算してみたことはあるかい?」

「ぐ、うぅ……ッ!わ、私は……まだ……!」

「“まだ戦える”?“挽回できる”?……聞き飽きたよ、そういう負け犬の遠吠えは」

 蜻蛉はステッキを引き抜き、ハンカチで血を拭った。

「長からの伝言だ。『胡蝶は羽をもがれた。もはや飛ぶことも、蜜を運ぶこともできぬ。……処分せよ』」

 “処分”。その二文字が胡蝶の脳内で反響する。

(切り捨てられる。私が?この私が?)

「待って……待っておくれ!報告があるんだ!重要な報告が!」

 胡蝶は必死に叫んだ。

「あの小娘……小鳥遊鈴の能力だ!あれはただの治癒じゃない!“拒絶”だ!物理法則を無視して、事象を書き換える神の力だ!今のうちに確保するか殺さなければ組織にとって最大の……!」

「はいはい、すごいね。怖いね」

 蜻蛉はあくびを噛み殺しながら、興味なさそうに手を振った。

「自分の失敗を正当化するために敵を怪物に仕立て上げる。……よくある手口だ。西園寺が強いのは分かっている。だが、たかが没落華族の小娘一人が神の力?……笑わせるな」

「本当なんだ!この傷を見ろ!これが普通の異能の傷に見えるかい!?」

 胡蝶は白い火傷を突き出した。だが、蜻蛉の瞳には何も映っていない。彼にとって胡蝶はもう死体と同義だった。

「さよならだ、胡蝶。……せめてもの情けだ。苦しまずに死ねる薬を置いていってやる」

 蜻蛉は懐から小さな小瓶を取り出し、床に転がした。乾いた音が響く。それが胡蝶と組織との繋がりの最後の音だった。

「……あ」

 胡蝶は転がった小瓶を見つめた。蜻蛉は背を向け、出口へと歩き出す。鉄扉が閉まり、鍵がかかる音が重く響いた。

 完全な静寂。残されたのは絶望と肉が腐る臭い。

「……ふ、ふふ」

 胡蝶の唇から乾いた笑いが漏れた。体が震える。恐怖ではない。怒りだ。マグマのように煮えたぎる、どす黒い怒りが全身を駆け巡る。

「馬鹿どもが……。どいつもこいつも私を見下しやがって……」

 胡蝶は床の小瓶を拾い上げた。

(“苦しまずに死ねる薬”?ふざけるな。誰がそんな慈悲を乞うた)

「私は胡蝶だ……。帝都の夜を支配する女王だ……!誰にも……誰にも殺させないッ!」

 彼女は小瓶を壁に叩きつけ、粉々にした。そして自らの懐を探り、隠し持っていた“別のもの”を取り出した。それは禍々しい赤色をしたガラスのアンプルだった。

 “赤色液体(スカーレット)”。組織が開発した異能を暴走させ、生命力と引き換えに爆発的な力を生み出す禁忌の劇薬。

「西園寺景明……。お前が私を選ばなかったからだ。お前があんな小娘に現を抜かすから……!」

 胡蝶の瞳孔が開く。脳裏に浮かぶのは鈴の笑顔。景明に守られ、愛され、呑気に生きている鈴の顔。

(全て奪ってやる。私のこの痛み、絶望、そして屈辱を千倍にして返してやる。)

「私の命が尽きるのが先か……お前たちの愛が砕けるのが先か……競べようじゃないか」

 胡蝶はアンプルを奥歯で噛み砕いた。ガラス片が口内を切り裂き、鉄の味と共に焼き尽くすような熱が喉を流れ落ちる。

「ギィッ……ガァァァァァァッ!!!!」

 絶叫。心臓が早鐘を打ち、血管が破裂しそうなほどに膨れ上がる。白い火傷の痕が、体が強張るような音を立てて割れた。そこから噴き出したのは血ではない。黒い泥のような闇だ。

 背中の肉が盛り上がり、服を突き破る。骨が軋む音と共にそこから生え出したのは優美な蝶の羽などではない。蛾のような毛羽立ち、毒の粉を撒き散らす禍々しい四枚の翼。

「……あぁ……力が……力が溢れる……!」

 胡蝶は立ち上がった。その姿はもはや人間ではない。復讐という妄執に取り憑かれた哀れで醜悪な怪物(モンスター)

「待っていろ、鈴……。お前のその白い肌に私が極彩色の絶望を刺繍してやる」

 怪物は歪んだ笑みを浮かべ、天井を見上げた。その視線の先には地上の光がある。そして愛憎渦巻く西園寺邸がある。地下室の闇の中で復讐の鬼が産声を上げた。

 理性を焼き尽くしたその瞳にはただ一点、鈴の死だけが映っていた。

 西園寺邸の中は深夜特有の静寂に支配されていた。一階の広間にある大きな古時計が重厚な音を立てて十時を告げる。その音は長い廊下を渡り、階段を上り、屋敷の隅々にまで染み渡るように響いた後、再び静けさの中に溶けて消えた。

 二階、鈴の居室。

 真鍮製のランプシェードから溢れる暖色の光が円を描くように床を照らしている。その光の輪の中心で鈴はソファに深く腰掛け、一心不乱に手元を動かしていた。

 庭先で鳴く虫の声が涼やかなリズムで鼓膜をくすぐる。忍び込む夜気の澄んだ匂いとランプの油が微かに焦げる匂い。それらが混じり合った秋口の夜特有の静謐な空気がこの部屋には満ちていた。

「……ふぅ」

 鈴は小さく息を吐き、凝り固まった首を回した。小さな音が鳴る。彼女の視線の先にあるのは生成りの丈夫な木綿布。そこには金糸だけで刺された幾何学的な文様がランプの光を受けて鈍いが力強く輝いていた。

 麻の葉文様。正六角形を基本とし、その中心から六つの頂点に向かって放射状に伸びる直線。さらにその間を縫うように線が交差し、無数の三角形が連なって、まるで夜空に煌めく星々のような、雪の結晶のような、美しい形を描き出している。

 これまでの可憐な花柄とは一線を画す、構築的で、理知的で、そして何よりも“強い”柄だ。

(……難しい。でも、迷ってはいけない)

 鈴は再び針を握り直した。指先にはすでに無数の細かい傷がある。針ダコが硬くなり、皮膚が少し厚くなっているのはここ数日、寝食を惜しんで針を動かし続けてきた証だ。

 この柄は誤魔化しが効かない。花びらの一枚くらいなら、曲線で柔らかく修正できる。だが幾何学模様は違う。

 一本の線の角度がわずかでもズレれば隣り合う三角形が歪み、全体の均衡が一瞬で崩壊する。完璧な秩序と寸分の狂いもない正確さ。それはまるでこの刺繍を贈ろうとしている相手、景明そのものを表しているようだった。

「西園寺様……」

 鈴は無意識に愛しい人の名を口の中で転がした。その響きだけで胸の奥が温かくなる。彼は今頃、隣の書斎で山のような書類と格闘しているはずだ。

 夕食の時、彼は少し疲れた顔を見せていた。目の下には薄っすらと隈があり、整った眉間には深い皺が刻まれていた。

 「少し、厄介な事案があってね」と彼は短く言っただけだったがその瞳の奥には鈴には見せないようにしている鋭い光、軍人としての殺気にも似た警戒色が宿っていたのを鈴は見逃さなかった。

(彼は戦っている。私の知らないところで私を守るために)

 彼が戦っているのは目に見える敵だけではない。軍内部の政治的な駆け引き、組織の残党狩り、そして何より、彼自身の過去や血塗られた運命と。たった一人で。誰にも弱音を吐かず、冷徹な仮面の下に孤独を隠して。

(だから、私も戦うの。……この針と糸で)

 鈴は祈りを込めるように針を布に突き立てた。布が針を受け入れ、金色の糸が吸い込まれていく。その感触は指先を通して鈴の脳髄に直接響くようだった。

 “強くあれ”、“何者にも折れぬように”、“彼の心と体をあらゆる害意から守る盾となれ”。

 一針刺すごとに鈴の体内にある不思議な力が指先から糸へと流れ込んでいくのが分かる。

 それは熱く躍動する光の粒子だ。以前、氷室が説明してくれた“事象の拒絶”という言葉が脳裏をよぎる。

 鈴が強く念じることでこの刺繍は単なる糸の集まりではなくなる。物理法則を無視し、世界からその対象を隔離するほどの強固な結界へと昇華するのだ。

(あと少し……。あと数センチ四方を埋めればこのお守りは完成する)

 鈴は焦る気持ちを抑え、一針一針を丁寧に置きに行った。三角形の頂点と頂点がピタリと重なる瞬間。そこに生まれる完璧な調和。その瞬間に感じるカタルシスは何物にも代えがたい。

「……鈴様。まだ根を詰めていらっしゃるのですか?」

 ふいに、背後から静かな声がかけられた。鈴は肩を震わせ、振り返った。

「わ、若菜さん!……もう、びっくりさせないで」

「ふふ、申し訳ありません。あまりに真剣なお顔まるで何かに取り憑かれたように針を動かしていらしたので……お声をかけるのを躊躇ってしまいましたわ」

 そこには盆を手にした若菜が立っていた。数日経った今、完全に彼女の一部として馴染んでいる。夜の薄暗い部屋の中でも彼女の存在は白百合のように際立っていた。

「はい、お夜食です。氷室様から『小鳥遊嬢は集中すると食事を忘れる悪癖がある』と伺いましたので消化に良い林檎の砂糖煮をご用意しました」

 若菜は盆をサイドテーブルに置き、ガラスの器に入った黄金色の果実を差し出した。甘酸っぱい林檎の香りとシナモンのスパイシーな香りが漂う。

「わぁ……美味しそう!ありがとう、若菜さん。……氷室様ったら、余計なことを」

「あら、愛されている証拠ではありませんか。あの胃痛持ちの副官殿も、奥様のことを娘のように心配しておいでですよ」

 若菜は悪戯っぽく微笑み、ポットから温かいハーブティーを注いだ。カモミールの優しい香りが部屋の空気を柔らかくする。

「……ねぇ、若菜さん。西園寺様たちはまだ書斎に?」

 鈴はコンポートをスプーンで掬いながら尋ねた。

「ええ。先ほど夜食のサンドイッチをお持ちしましたが、お二人とも鬼気迫る表情で古文書を睨みつけておいででした。……まるで見えない敵と戦っているかのように」

 若菜の言葉に鈴の手が止まった。見えない敵。

「……そう」

「でも、ご安心ください。あの方々は強い。……特に旦那様は鈴様という“帰る場所”を得て、以前よりもずっと強くなられたように見受けられます」

 若菜は窓辺に歩み寄り、重厚なベルベットのカーテンの隙間からそっと外の様子を窺った。その背中が一瞬だけ強張ったのを鈴は見た。

「……若菜さん?どうかした?」

「……いえ。気のせいでしょう」

 若菜はすぐに振り返り、いつもの穏やかな笑顔を作った。だが、その瞳の奥には微かな翳りがあった。

「ただ……外の空気が少し淀んでいる気がして」

「淀んでる?」

「ええ。湿気とは違う、もっと……粘りつくような。遊郭にいた頃、時折感じた気配に似ています。……人の情念や届かない欲望が渦巻く夜のあの独特の臭い」

 若菜は元遊女だ。人間の愛憎、嫉妬、絶望といった負の感情が吹き溜まる場所で生きてきた彼女の感覚は鋭敏だ。彼女が“淀んでいる”と言うならそれは単なる気象の話ではない。

「……でも、ここは西園寺邸ですもの、旦那様の結界もありますし、私の思い過ごしですわ」

 若菜は自分に言い聞かせるように明るく言い、テーブルの上を片付け始めた。

「さあ、鈴様。その刺繍が終わったら、今夜はもうお休みくださいね。……明日、目の下にクマを作っていたら旦那様が悲しまれますよ」

「うん、分かった。……おやすみなさい、若菜さん」

「おやすみなさいませ、鈴様」

 若菜は深々と一礼し、静かに部屋を出て行った。扉が閉まる音がいつもより大きく響いた気がした。

 鈴は一人残された部屋で再び窓を見た。黒いガラスに自分の不安そうな顔と背後の部屋の明かりが映り込んでいる。

 その向こう側。ガラス一枚隔てた外の世界には底知れぬ闇が広がっている。

(……若菜さんの勘違い、だよね)

 鈴は首を振り、胸のざわめきを無理やり押し込めた。

(大丈夫。この屋敷には西園寺様がいる。氷室様もいる。そして何より今の私にはこの力がある)

 鈴は再び刺繍枠に向き直った。あと少し。あと数センチ。この三角形を埋めれば全てが終わる。

 いや、全てが始まるのだ。彼を守るための新しい日々が。

(集中して。……一針、一針に命を込めて)

 部屋の中に糸が布を擦る音だけが響き始めた。その音は次第に大きく、そして鋭くなっていく。

 鈴の意識は刺繍という小宇宙の中に深く沈み込んでいった。

 その頃、屋敷を取り囲む鬱蒼とした木々の影、月光さえ届かぬ闇の底にその異形は潜んでいた。

「……あぁ、見えル……見えルよぉ……」

 闇の中で何か重たく湿ったものを引きずる音がした。かつて胡蝶と呼ばれた女。だが、今の彼女に人間の面影はない。

 背中の肉は裂け、そこから生えた四枚の翅は濡れたボロ雑巾のように垂れ下がっている。翅の表面には極彩色の粉、猛毒の鱗粉がびっしりと付着しており、それが微かに発光することで周囲の闇を毒々しい紫や緑に染め上げていた。

 彼女の顔の右半分は美しい美女のままだ。だが、左半分は異様に膨れ上がり、皮膚が白く硬質化してひび割れ、その隙間から複数の眼が覗いている。

 鈴の光によって負わされた火傷は彼女の肉体を崩壊させると同時に彼女の中の異能を暴走させ、人間という種から逸脱させていたのだ。

「景明……景明……」

 胡蝶は樹皮に爪を立てながら、屋敷の二階を見上げた。

 彼女の複眼には世界が万華鏡のように歪んで見えている。熱源、魔力の流れ、そして感情の色。その全てが混ざり合い、強烈な色彩の奔流となって彼女の脳を焼き尽くす。

「どうして……どうして私のところに来てくれないんダイ……?」

 彼女の脳裏にかつての記憶、いや妄想がフラッシュバックする。

 『君は美しい』と囁く景明。『君の力が欲しい』と手を伸ばす景明。『愛している』と微笑む景明。妄想が記憶へと改変され、都合の良い愛の物語が紡がれている。

 そして、その物語の結末で必ず邪魔をするのが鈴だ。

「小鳥遊……鈴……ッ!!」

 憎悪が沸騰した泥のように溢れ出す。

(あの小娘さえいなければ。あの娘がいなければ、景明は私を選んだはずだ!私が一番美しい。私が一番強い。私が一番、彼を愛しているのに)

「……殺シてやる。八つ裂きにして、その白い肌を赤く染めテやる……」

 胡蝶は翅を大きく広げた。重い音と共に大量の鱗粉が舞い上がる。それは風に乗り、音もなく屋敷の方へと流れていく。

 物理的な結界では防げない、精神干渉の毒。吸い込んだ者の深層心理にある恐怖を具現化し、狂気へと誘う“悪夢の粉”。

「……行きなサイ、私の可愛い子供たち。……あの幸せな屋敷を地獄に変えテおいで」

 胡蝶の口からおぞましい笑い声が漏れた。彼女の体から無数の小さな蛾が生まれ出る。

 それらは鱗粉の風に乗り、開かれた隙間、換気口やわずかな窓の隙間を求めて、屋敷へと侵入を開始した。

 鈴の部屋。刺繍の手は止まらない。金色の麻の葉文様はすでに完成形に近づいていた。

 最後の一角。あと数針ほどで六角形の全てが繋がり、強固な結界が完成する。

(あと一針。最後の一針を刺せばこのお守りが機能する、だから早く。早く完成させなきゃ)

 焦りが鈴の呼吸を乱した。彼女は祈りを込めるように最後の一針を突き立てようとした。その時だった。窓の隙間から吹き込んだ風に乗って、見えない刃、鋭利に硬質化した毒の鱗粉が鈴の左手を無慈悲に掠めた。

「あっ……」

 鈴は短く声を上げ、反射的に手を引いた。白魚のような指先から、赤い珠が膨れ上がる。

 鮮血。それは重力に従って滴り落ち、鈴が命を削って縫い上げた、純白の布の上に落ちた。

 金色の糸で描かれた、神聖な麻の葉文様。その中心に赤い染みが広がっていく。 繊維の奥深くまで、穢れが侵食していくように。

「……噓」

 鈴は呆然とそれを見つめた。血のついた魔除けの刺繍。 それはまるで結界が完成する直前に内側から破られたことを暗示しているかのよう。

「……みつけた……」

 耳元で女の声がした。粘着質で湿り気を帯びた聞き覚えのある声。あの幻術空間で鈴を焼き尽くそうとした、あの女の声。

「……胡蝶?」

 鈴は弾かれたように顔を上げ、部屋を見渡した。誰もいない。 若菜も景明もいない。 だが、気配だけが充満している。部屋の四隅から、天井から、床下から。 濃密な殺意と狂った愛着が泥のように溢れ出してくる。

 突如、窓ガラスが激しく振動した。風ではない。何かが外から窓を叩いている。

無数の羽音。無

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