第14話
「……え?」
鈴は呆然と立ち尽くしていた。足元にあるはずの畳の感触がない。代わりに靴底が踏みしめているのは波打つ、生き物の内臓のような床だった。
(野中、さん……?)
鈴は揺らぐ視界で周囲を探る。先ほどまで二人を包み込んでいた六畳間の壁も、天井も、跡形もなく消え失せていた。そこにあるのは極彩色の悪夢だ。毒々しい紫、血管のような赤、そして目が眩むような黄金色がデタラメに塗りたくられた無限の回廊。壁には無数の目のような模様が描かれ、それらが一斉に鈴を見下ろしている。
天井のような遥か高みから紫色の粉が降り注いでいる。その粉が肌に触れるたび、微弱な電流が走り、思考力を削ぎ落としていく。
熱い。息が苦しい。まるで濃密な香油の中に沈められたかのような息苦しさ。
(西園寺様と口づけをして……。それで……)
記憶の中の彼は鈴を喰らうような情熱で抱きしめてくれていた。あの幸福感だけが冷え切った今の鈴の心を温める唯一の熱源だ。けれどその熱すらも急速に遠ざかり、粘着質な毒の蜜へと沈んでいく。
「うぅ……っ」
鈴は膝をついた。振袖新造の華やかな衣装が不気味な床に広がる。
重い。瞼が鉛のように重い。このままここで眠ってしまえばどんなに楽だろうか。ここにはあの厳格な父もいない。世間の冷たい目もない。ただ甘く、まどろむような虚無があるだけ。
(だめ……。探さなきゃ……。野中さんを……)
鈴は薄れゆく意識を叱咤し、ふらつく足で立ち上がった。愛する人がどこかで自分を呼んでいる気がした。
◇
同時刻。同じ迷宮の深層にて氷点下の殺意が吹き荒れていた。
「失せろ」
低く、地を這うような咆哮と共に青白い閃光が走る。空間を仕切っていた極彩色の障子が内側から爆ぜるように粉砕された。舞い散る破片は空中で瞬時に凍てつき、ダイヤモンドダストとなって虚空へ消える。
その中心に立つ男、景明は白の三つ揃えスーツを鮮血と硝煙で汚しながら、鬼の形相で虚空
を睨み据えていた。
(クソッ、どこだ……!鈴は何処だ……!)
端正な顔立ちは焦燥と憤怒で歪んでいる。額に張り付いた黒髪を乱暴にかき上げ、彼は鋭い視線を走らせた。身に纏った白のスーツは今の彼にとってはただの拘束衣でしかない。軍服では無いため帯びているはずの軍刀はなく、頼れるのは自身の異能と身体能力のみ。だが、彼には武器以上の護り刀があった。
景明の右手には一枚のハンカチが握りしめられている。それは幾何学模様、籠目と矢絣などの刺繍が施された実用的なハンカチだ。かつて蜘蛛との死闘に挑む際、鈴が野中みのるの身を案じて渡してくれたものだ。
(鈴が私の無事を祈って縫ってくれた、守護の布だ。これがあれば幻になど惑わされん)
そして景明の左胸、心臓に一番近い内ポケットにはもう一枚のハンカチが大切にしまわれている。
それは鈴が家出先から連れ戻される際に涙ながらに手渡してくれた鈴蘭の刺繍入りハンカチ。
幸福の再来を意味するその白い花は景明にとって命よりも重い、彼女との愛の原点だった。
右手で“守り”を握りしめ、胸に“愛”を抱く。その二つの熱だけがこの狂った世界で彼を正気に繋ぎ止めていた。
「……少佐ぁ……」
「西園寺様ぁ……お助けぇ……」
通路の奥からねっとりとした声が響く。ゆっくりと現れたのは数人の人影だった。
帝都の紳士、あるいは遊女、そして、かつて戦場で死んだはずの部下たち。彼らは一様に虚ろな瞳で景明に救いを求めるように手を伸ばしてくる。だが、景明の瞳には神の視点とも言うべき、
冷徹な観察眼にはその“正体”がありありと映っていた。
(……下衆が。私の目を欺けると思うな)
彼に見えているのは人間ではない。それはおぞましい“集合体”だった。遠目には人の輪郭を保っているが近づけばその実態が露わになる。
皮膚に見える部分は数千、数万という紫色の毒蝶がびっしりと重なり合い、蠢いているのだ。
目玉の裏側では羽化したばかりの幼虫が這い回り、口を開けば、言葉の代わりに黒い鱗粉がボロボロとこぼれ落ちる。
関節があり得ない方向に曲がり、歩くたびに虫が潰れるような湿った音が響く。まるで地獄絵図。だが、景明は眉一つ動かさず、ただ絶対零度の軽蔑を向けるだけだ。
「貴様らに割く慈悲はない。鈴の元へ行く邪魔だ」
景明が床を強く踏み抜く。刹那、彼を中心とした空気が凍結した。
氷のような蔦が生き物のように床を走り、蝶の集合体たちへ殺到する。右手に握りしめた籠目のハンカチが景明の異能の伝導率を高め、魔を退ける刃となって冷気を先導する。
「ギ、ギギィィィッ!?」
悲鳴を上げる間もなかった。人の形を模していた蝶の群れは一瞬にして巨大な氷像へと変貌す
る。
次の瞬間、景明は無造作に指を鳴らした。氷像が内側から砕け散る。氷片の中に閉じ込められた蝶の死骸が黒い染みのように虚空へ四散した。その圧倒的な暴力。迷宮を支配する主ですら戦慄するほどの純粋な力の奔流。
だが、その時だった。空間全体を震わせるような鈴を転がすような笑い声が響いた。
「あらあら、ご挨拶ねぇ。西園寺景明様」
どこからともなく響くその声は甘く、鼓膜の奥を舐め回すように響く。
「噂に違わぬ冷酷さ。でも随分と余裕がないご様子」
「……姿を見せろ、毒婦が。その首をへし折ってやる」
景明は足を止めず、回廊の奥へと歩を進めながら唸った。その全身からは氷の冷気だけでなく、紫電が迸り始めている。感情の高ぶりが制御しきれない雷の異能となって漏れ出しているの
だ。
「怖い怖い。……でも、貴方は一つ勘違いをしているわ」
胡蝶の声が嘲笑の色を濃くする。
「貴方がこうして暴れれば暴れるほど、この空間は不安定になる。そして、その歪みは全て……あのか弱い子猫ちゃんへの負担になるのよ?」
「なッ!?」
景明の足が止まる。その反応を楽しむように胡蝶は笑った。
「あの子は今、とても気持ちの良い夢を見ているわ。貴方という“嘘つき”がいなくなった優しくて平和な世界。……そこにはあの子が本当に愛した“ある人”だけがいるの」
空間が音を立てて歪む。砕いたはずの氷の破片が再び紫色の蝶へと戻り、景明の周囲を取り囲むように乱舞し始めた。
「ねえ、少佐。貴方は彼女に何をしてあげられるの?軍人の身分?血塗られた手?それとも正体を隠し続ける欺瞞?……可哀想な子猫ちゃん。あの子は貴方の“嘘”を守るためにどれだけ心をすり減らしてきたのかしら」
言葉のナイフが景明の最も痛いところを正確に抉る。景明の顔から血の気が引いた。
(……ああ、その通りだ。私は……)
鈴は知っている。野中みのるが西園寺景明であることを。それでもなお、彼女は何も言わず接してくれた。
それは鈴の優しさであり、同時に呪いでもあったはずだ。愛そうとする男が嘘をついて騙したままでいる。その事実を飲み込み、笑顔で振る舞うことがどれほどの苦痛だったか。
景明の心が揺らいだ一瞬の隙。それを胡蝶は見逃さなかった。
「さあ、おやすみなさい。無力な騎士様」
ドッ!!
景明の足元の床が突如として液状化した。底なし沼のように粘りつく極彩色の泥が彼の足首を掴み、引きずり込もうとする。
「チッ……!」
景明は舌打ちし、雷撃を放って泥を焼き払おうとする。だがびくともしなかった。その時、右手に握った籠目のハンカチが微かに熱を帯びた気がした。
(……いや、違う。鈴はそんなに弱くない)
泥に飲まれかけながら景明は胸の奥のハンカチの感触を確かめるように左胸に手を当てた。
あの時、去り際に彼女が見せた瞳。涙を堪え、それでも前を向こうとした、凛とした強さ。
そして蜘蛛との戦いに送り出してくれた時の震えながらも懸命な励まし。彼女はただ守られるだけの姫ではない。景明が愛したのは運命に抗い、泥の中でも咲こうとする気高く美しい野花だ。
「……黙れ」
景明の瞳に理性の光が戻る。迷いは消え、代わりに燃え上がったのは灼熱の如き執着。
「鈴は私が選んだ女だ。貴様の安い幻術ごときで彼女の心が折れるものか!」
景明の全身から凄まじい雷光が爆発した。泥の沼が一瞬で蒸発し、周囲を取り囲んでいた蝶の群れが黒焦げになって墜落する。スーツを焦がし、乱れた髪から煙を上げながら景明は再び大地を踏みしめた。右手に握られた籠目のハンカチは雷撃の余波を受けてなお、傷一つなく彼の手の中にあった。
鈴の祈りが彼の力を制御し、守ってくれているかのようだ。
(待っていろ、鈴。……今すぐ行く)
たとえこの身が毒に蝕まれようとも。地獄の底まで追いかけて、必ず彼女を奪い返す。いままでの独占欲だけを燃料に最強の軍人は再び迷宮の奥へと疾走した。
◇
一方、迷宮のさらなる深層。そこは不気味なほど穏やかな、夕暮れの銀座の景色が広がっていた。カフェの看板、ガス灯の灯り、そして路面電車の音。けれど、行き交う人々には顔がなく、空は毒々しい紫色に染まっている。
「……野中、さん?」
鈴はその風景の中に佇む一つの背中を見つけた。着古した書生服。猫背気味の姿勢。そして優しげな空気。間違いなく、彼女が愛した野中みのるの姿だった。
彼はゆっくりと振り返り、いつもの困ったような照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「おや、鈴さん。……どうしたんですか?そんなに泣きそうな顔をして」
その声は優しく、温かく、鈴の鼓膜を震わせる。だが、鈴の知る本物の野中にはあるはずの奥底に秘めた鋭い光がその瞳には欠けていた。それでも弱りきった鈴の心にはその笑顔があまりにも甘美な救いに見えた。
(ああ、野中さんだ……。私の、好きな人……)
鈴はゆっくりと幻影に向かって歩き出す。
「……鈴さん。どうしました?そんなに泣きそうな顔をして」
その声は春の日差しのように柔らかく、凍てついた鈴の心を溶かしに来た。
鈴の瞳に映るのは憧憬そのものの光景だった。夕暮れ時の銀座とも浅草とも似つかない場所、煉瓦造りの建物や木造の建物が混在するハイカラな街角。
カフェから漏れ聞こえるジャズのレコードの音色が気だるげに空気を震わせている。香ばしい珈琲の焙煎香と甘いバターの香り。ガス灯のガラス越しの蜂蜜のような温かな光。そこは鈴がかつて景明と二人で歩き、ささやかな幸福を噛み締めた思い出の場所に似ていた。
「あ……、野中、さん……?」
鈴の声は震えていた。喉の奥が熱い。張り詰めていた緊張の糸が音を立てて切れていくのを感じる。極彩色の悪夢も、腐臭も、ここにはない。あるのは彼女が何よりも求めていた日常だけだった。
「はい、野中ですよ。……探しましたよ、鈴さん」
彼はそっと手を伸ばし、鈴の頬を濡らす涙を指先で拭った。その指先は記憶にある通り、少しゴツゴツして、ペンダコがあり、そしてインクの匂いがした。あまりにもリアルな愛しい人の感触。
(ああ……本物だ。野中さんだ……)
鈴の脳裏を霞のように覆っていた警戒心が砂糖水に溶けるように消えていく。降り注ぐ紫色の鱗粉が思考の回路を目詰まりさせ“西園寺景明”という厳しい現実を意識の外へと追いやっていくのだ。
「私……怖かったの。野中さんがいなくなっちゃう夢を見て……」
鈴は幼児退行したかのように頼りなく呟いた。そんな彼女を彼は優しく肯定する。
「大丈夫。僕はどこにも行きません。……ずっと鈴さんのだけの“野中みのる”でいますよ」
その言葉には奇妙な引力があった。“鈴さんのだけの”。それは鈴が心の奥底で景明の正体を知って以来、ずっと蓋をしてきた願望だったからだ。
「もう、無理をしなくていいんです。あんな怖い軍人の顔色を窺って、嘘をつき続けるなんて……辛かったでしょう?」
彼は鈴の痛いところを甘い毒を塗った指で優しく撫でるように指摘する。
「彼の正体を知りながら知らないふりをして笑う。……彼がつく嘘に合わせて、貴女まで嘘を演じる。それはとても苦しいことだ」
(……っ、そう。そうなの……)
鈴の胸に鋭い痛みが走る。愛しているからこそ、苦しかった。彼が必死に隠そうとしているから気づかないふりをした。でも、それは共犯という名の孤独な演技だった。
「そうよ。ここは貴女のための揺籃」
脳髄に直接響く、胡蝶の甘美な囁き。それは母親の子守唄のように思考停止へと誘う。
「現実の彼は貴女に嘘をつき続ける。貴女を騙し、戦場へ赴き、いつか貴女を置いて死ぬかもしれない。……でも、この世界の彼は死なない。嘘をつかない。貴女が愛した優しくて弱気な書生様のまま、永遠に貴女を崇拝してくれるわ」
「永遠に……」
鈴の瞳孔が開き、ハイライトが消えていく。視界の端で紫色の蝶が舞う。一匹、また一匹。それらは鈴の周りを祝福するように旋回し、視界を美しい菫色に染め上げていく。
「さあ、鈴さん。こちらの世界へ行きましょう。……西園寺景明なんていない、僕と君だけの世界へ」
野中が両手を広げた。その背後には夕闇に沈む銀座の街並みがどこまでも優しく広がっている。
(もう、いいかな……。嘘をつくのも疲れてしまったし……)
鈴は一歩を踏み出した。その一歩は現実への裏切り。けれど、あまりにも魅力的な堕落への一歩だった。
◇
「鈴ッ!!そいつに近づくなッ!!!」
その光景を目撃した景明は己の喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。血管が切れそうなほどの怒号が極彩色の迷宮を震わせる。
彼の目に映っているのは美しい夕暮れの街並みではない。赤黒い肉壁が脈打ち、腐った臓器のような臭気が充満する地獄の回廊だ。そして鈴がうっとりと見つめ、今まさに抱かれようとしている“それ”は野中みのるなどという生易しいものでは断じてなかった。
景明にはおぞましい真実が克明に見えていた。
鈴の目の前に鎮座するのは人間よりもふた回りほど巨大な不定形の蟲の集合体だった。数万、数億という毒蛾と毒蝶が密集し、無理やり人の形を模しているだけの化け物。
野中の顔にあたる部分には眼球の代わりにぽっかりと空いた空洞があり、そこから無数の芋虫が零れ落ちている。広げられた両手は鋭利な鉤爪を持った節足動物の脚が絡み合ったもので、その隙間からは紫色の消化液が糸を引いている。
鈴はあろうことかその化け物に向かって、頬を染め、涙を流しながら身を委ねようとしているのだ。それは食虫植物の蜜壺に自ら飛び込む羽虫の姿そのものだった。
「やめろ……ッ!それは私じゃない!目を覚ませ、鈴ッ!!」
景明は駆けた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、足裏が摩擦熱で焦げ付くほどの速度で床を蹴る。
だが距離が縮まらない。空間そのものがゴムのように引き伸ばされ、走っても走っても鈴の背中が遠ざかっていく。
胡蝶の支配領域における、絶対的な距離の断絶。
「あら、必死ねぇ。見苦しいわよ」
空間全体から響く嘲笑と共に景明の足元の床が再び液状化する。今度は泥ではない。無数の蝶の羽が鋭利な刃物となって床から隆起し、景明の全身を切り刻もうと襲いかかる。
「邪魔だァァァッ!!」
景明は止まらない。防御さえしない。襲い来る刃の羽を身に纏った高電圧の雷衣で焼き払いながら、ただ一点、鈴の元へと突き進む。スーツが切り裂かれ、鮮血が滲むが痛みなど感じている暇はない。
鈴はもう、化け物の目の前だ。化け物の胸部、蛾の集合体が左右に割れ、巨大な口のような空洞が露わになる。そこには獲物を溶かして啜るための紫色の海が広がっていた。
「野中、さん……大好き……」
鈴の唇が幸福そうに紡ぐ。その言葉は胡蝶によって景明に届いた。だが彼にとってそれは心臓に杭を打ち込まれるような激痛だった。
彼女は野中を愛している。だからこそ、偽物だと気づかずにそのおぞましい腕の中へ飛び込もうとしている。本物がどれだけ叫んでも届かないほどに彼女は幻影を愛してしまっている。
(私のせいだ……。私が嘘をつき続けたから……!私の弱さが鈴をあんな化け物に引き合わせたんだ!)
悔恨が胸を引き裂く。だが、今は悔やんでいる時間すらない。化け物の腕とおぼしき蟲の塊が鈴の華奢な肩に触れようとした。その指先から滴る毒液が鈴の美しい振袖に落ち、嫌な音を立てて生地を溶かす。
「触れさせるか、下衆がァッ!!」
物理的な距離は遠い。走っても間に合わない。ならば、空間ごと貫くしかない。
景明は足を止めた。右手に握りしめた籠目のハンカチが媒介となって彼の全魔力を収束させる。
(氷よ、雷よ。我が憤怒を糧に因果を断て!)
景明の周囲の空気が一瞬で凍結し、乾燥する。大気中の水分が凝固し、彼の頭上に一本の巨大な氷の槍が形成された。それはただの氷ではない。内部で青白い雷光が激しく明滅し、唸りを上げる爆発的なエネルギーの塊だ。
「穿て、氷雷・穿孔ッ!!」
景明が右腕を振り抜くと同時に氷の槍が射出された。それは音速を超えた一撃だった。纏わせた雷がレールガンのように氷槍を加速させ、空間の歪みすらも強引にねじ伏せて直進する。
紫色の迷宮を切り裂き、光の帯となって化け物へと殺到する。氷槍は化け物の肩口、鈴に触れようとしていた不浄な腕の付け根を正確に貫いた。着弾の瞬間、氷の中に封じ込められていた雷撃が炸裂する。
「ギ、ギギギギギギァァァァァッ!!!」
化け物が鼓膜をつんざくような悲鳴を上げた。数千の蝶が黒焦げになって弾け飛び、蟲の集合体だった腕が根こそぎ吹き飛ぶ。衝撃波が広がり、鈴の髪を激しく揺らす。
だが再生が速い。吹き飛んだ腕の断面からすぐさま新しい蝶が湧き出し、瞬く間に元の形へと修復されていく。物理的な破壊など無意味だと言わんばかりの圧倒的な物量。
「無駄よ。ここは私の夢の中。私の許しなく壊れることはないわ」
胡蝶の声が勝ち誇ったように響く。そして再生した化け物の腕が今度こそ鈴の体を抱きすくめようと伸びる。
鈴は目の前で起きた爆発にも気づいていないかのように虚ろな瞳で微笑んだまま、手を伸ばし続けている。
「鈴ッ!!ダメだ!そいつの手を取るな!!頼む、私を見ろ!!鈴!!」
景明は血を吐くような思いで叫びながら、再び駆け出す。右手に雷を、左手に氷を纏わせ、捨て身の突撃を敢行する。しかし、空間の断絶は非情なまでに二人を隔てていた。伸ばした指先は虚空を切り、愛する人が死へと抱擁される瞬間をスローモーションのように見せつけられる。
鈴の指先が化け物の、蟲が蠢く指に触れる。その瞬間、景明の視界が絶望で真っ白に染まった。
鈴がそれに触れる寸前だった。彼女の細く白い指先が優しく微笑む野中の手、現実には腐汁を滴らせる蟲の集合体へと届こうとした、その刹那、世界が凍りついたような静寂に包まれた。
(あ……つ、い……?)
鈴の意識の深淵で何かが明滅した。それは彼女の胸元。堅く締められた帯の上、振袖の合わせ目である懐の奥深くから心臓の鼓動に呼応するように強烈な熱が脈打ち始めたのだ。
最初はカイロのような温かさだった。だが、鈴が幻影の手を取ろうと身を乗り出し、心が“偽りの安らぎ”に傾いた瞬間、その熱は火傷しそうなほどの灼熱へと変貌した。
「っ、あつッ!?」
鈴の懐から上質な絹の生地を透かして、視界を全て白く染め上げるほどの猛烈な閃光が迸った。それはただの光ではない。冬の朝の清冽な空気と春の陽だまりのような温かさを同時に孕んだ純白の輝き。
「ギ、ギグァァァァァァッ!?」
直視不能な輝きを浴びた瞬間、野中みのるの形をしていた化け物が焼けただれるような音と共に後退した。
光が当たった箇所から擬態していた蝶たちが灰になって崩れ落ちていく。
「な、に……?」
鈴は呆然と自身の胸元を両手で押さえた。帯の間に忍ばせていた“それ”がまるで主人の危機を知らせる鐘のように激しく震えていたのだ。
(これ……ハンカチだわ。私が持ってきた……)
閃光の中で鈴の記憶が鮮明に蘇る。そうだ。吉原へ乗り込む前、彼女はこのハンカチを懐に入れたのだ。
“西園寺様が浮気をしているかもしれない”。
そんな不安に押しつぶされそうになりながら、せめてもの心の支えとして縋るように身につけた
未完成の刺繍。モチーフは六角形の雪の結晶。景明の異能である氷雪を象った意匠。
“貴方をお慕いしています。怖くて、憎らしくて、でも大好きなんです”
一針、一針。夜なべをして水色に近い銀の糸を通すたびに鈴は彼への想いを縫い込んでいた。
完成させる時間はなかった。けれど、そこには“彼を守りたい”、“彼の無事を祈りたい”という混じりっ気のない純粋な恋慕が力となって宿っていた。
浮気への不安から持ち出したはずのそれは皮肉にも鈴がどれほど彼を愛しているかを証明する最強の守護となった。
「思い、出した……。私は貴方を守るために……」
鈴が懐の熱を感じながら呟くと光はいっそう強く輝きを増した。強烈な光に当てられ、彼女の眼を覆っていた幻術のフィルターが硝子が割れるように粉砕される。まばたきを一つする間に世界が反転する。優しかった野中さんの顔がゆっくりと崩れ落ちる。
そこから現れたのは憎悪に満ちた複眼と牙をむき出しにした昆虫の顎。ロマンチックな銀座の風景は赤黒い肉壁と無数の羽虫が蠢く地獄絵図へと変貌した。
「ヒッ……!?」
鈴は短い悲鳴を上げ、後ずさる。今まさに自分が触れようとしていたものが愛しい人ではなく、おぞましい怪物だったという事実に背筋が総毛立つ。崩れかけた化け物は半分だけ野中の顔を残したまま、忌々しげに舌打ちをした。
「チッ……!小娘の分際でなんだその光は……!私の可愛い子供たちが焼けるではないか!」
その口調はもはや温厚な書生のものではない。下卑た響きを含んだ明らかな敵意。
「嘘……。貴方、野中さんじゃ、ない……」
鈴の目から涙が溢れる。安らぎだと思っていたものが全て罠だった。自分の心の弱さがこの化け物を招き入れ、あろうことか本物の景明を拒絶してしまったのだという後悔が津波のように押し寄せる。だが、胸元の熱が、未完成の雪の結晶が、彼女に語りかけてくる。
“大丈夫。貴女の想いはここにある”と。
(私はなんて愚かなの……。幻影に逃げて本物の想いを手放そうとするなんて)
鈴は顔を上げ、懐の上からハンカチを押さえるように強く握りしめた。その温もりは幻ではない。確かな重みとそこに込めた自分の愛情の温度だ。
「……消えて」
鈴が睨みつけると懐から漏れ出る光が物理的な衝撃波となって周囲の空間を震わせた。
「私の好きな人は貴方みたいな化け物じゃない。……不器用で、嘘つきで、でも誰よりも優しい、西園寺景明という人よ!!」
その叫びと共に鈴の懐から放たれた光が一条のレーザーのように闇を貫いた。
◇
「ッ!?」
遠く離れた場所で西園寺景明もまた、その光を見ていた。空間の断絶に阻まれ、手出しができずにいた彼の目の前で鈴を中心とした純白の爆発が起きたのだ。それは暗黒の迷宮に生まれた、たった一つの恒星のようだった。そして景明の右手もまた熱く脈動し始めた。
「……なんだ?」
彼が握りしめていた籠目なとが織り込まれたハンカチ。かつて鈴が蜘蛛との戦いに赴く彼に持たせてくれた、魔除けの幾何学模様。その籠目の網目の一つ一つが黄金色に発光し始めたのだ。
鈴の懐にある雪華のハンカチと景明の手にある籠目のハンカチ。二つの布は同じ作り手の力を帯び、同じ対象者を想って作られた一対の呪具。空間がどれほど
歪もうとも二人の想いが共鳴した今、物理的な距離など無意味だった。
景明の手の中のハンカチから、一本の光の糸が伸びた。それは一直線に空間を渡り、遥か彼方の鈴の胸元へと繋がった。極彩色の闇を切り裂いて架けられた、輝く光の道。
(……鈴が私を呼んでいる)
景明は確信した。あの光は鈴の魂の輝きだ。彼女は幻影を拒絶し、私を選んでくれた。その事実だけで景明の全身の細胞が歓喜に打ち震えた。
「……く、ククッ」
景明の喉から獰猛な笑みが漏れた。絶望は消え去り、全身の血が沸騰するような高揚感が駆け巡る。
「よくやった、鈴。……そうだ、それでこそ私が惚れた女だ」
景明はスーツの襟を正し、乱れたネクタイを指で引き千切った。邪魔な拘束具はもういらない。道は繋がった。あとは迎えに行くだけだ。
「おい、蟲ケラども」
景明は目の前で光に怯んでいる化け物を見据え、氷のように冷たく宣告した。
「道あけろ。……私の婚約者が待ってる」
景明は右手のハンカチを握りしめ、地面を蹴った。異能ではない。雷速の縮地でもない。ただの足で、鍛え抜かれた肉体で、西園寺景明として愛する女の元へ駆け出した。
邪魔をする蝶の群れを走りながら放つ雷撃で薙ぎ払い、氷の礫で撃ち落とす。だが、その足は止まらない。呼吸が荒くなり、肺が熱くなる。それでも異能で空間を跳躍するよりも、こうして一歩
一歩、泥臭く地面を踏みしめて近づく方が今の彼の激情には相応しかった。遠く、光の道の先で。鈴もまた化け物に背を向け、光の道を辿ってくる景明の姿を見つけたようだった。
「……西園寺、様ッ!!」
鈴が着物の裾をまくり上げ、駆け出した。帯の奥の熱に導かれるように彼女もまた彼に向かって走り始める。お互いがお互いを求め合い、光の道の上で二つの魂が加速していく。
「鈴ッ!!」
「西園寺、様ぁッ!!」
互いに名前を叫び、なりふり構わず駆け抜ける。着物の裾が乱れるのも息が切れて肺が焼けるのも構わない。ただ、目の前の愛しい熱量だけを求めて、二人は衝突した。
それは抱擁というより、激突に近かった。加速がついたまま、鈴は景明の胸に飛び込み、景明はそれを全身で力強く受け止めた。
「……っ、捕まえた」
景明の腕が鈴の背中を痛いほど強く締め上げる。獲物を二度と逃がさないと誓う、景明という男の剥き出しの独占欲だった。
「あ……、温かい……」
鈴は彼の胸板に顔を埋め、その鼓動を聞いた。早鐘のように激しく、荒々しい心音。硝煙と汗、そして微かな血の匂いが混じった、生身の男の匂い。それは甘ったるい幻影の香水とは違う、生きている人間の証だった。その時、二人の胸の間で二枚のハンカチが重なり合った。
鈴の懐にある雪華と景明が握りしめている籠目。未完成の刺繍と魔除けの幾何学模様が互いの体温を通じて共鳴し、目も眩むような輝きを放つ。
その光は波紋のように広がり、世界を侵食していた極彩色の毒を浄化していく。赤黒い肉壁がガラスのように砕け、蝶の群れが光の粒子となって昇華されていく。
「……ふふ、あはははは!」
崩壊する世界の彼方から、胡蝶の楽しげな笑い声が響いた。
「まさか、私の毒を“愛”などという不確定な感情で中和するなんてね。……計算外だわ」
毒々しい紫色の空に亀裂が走り、音を立てて崩落していく。
「今回は引いてあげる。でも覚えておきなさい、西園寺景明。……その甘い弱点はいつか必ず貴方の喉笛を食い破るわよ」
捨て台詞と共に最後の蝶が闇に溶けて消えた。同時に二人の体を支えていた光の床がふわりと消失する。
「鈴、離れるなよ!」
景明が鈴の頭を抱え込み、自身の体をクッションにするようにして身を翻す。二人は浮遊感の中、現実という重力の底へと堕ちていった。
◇
「…………」
「…………」
感覚が泥の中から浮上するように戻ってくる。最初に感じたのは古畳の硬さと埃っぽい匂い。次に遠くから聞こえる祭囃子のような喧騒と鼓膜を打つ静寂。そして自分の左手を握りしめる、骨が軋むほどの強い力。
(戻って、きた……?)
鈴は重い瞼を持ち上げた。そこは見慣れた六畳間だった。間違いなく現実の世界だ。二人は畳の上で互いに向き合って倒れ込んでいた。
景明は鈴を庇うように下になり、目を閉じたまま荒い呼吸を繰り返している。その右手は鈴の左手をまるで命綱であるかのように握りしめたままだった。
「さ、西園寺……様……?」
鈴が掠れた声で呼ぶと景明のまつ毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。瞳が焦点を合わせるように鈴を映す。そこには安堵とまだ消えやらぬ激情が渦巻いていた。
「……鈴」
彼は鈴の名前を呼んだ。たった一言。それだけで十分だった。彼は握っていた手にさらに力を込め、鈴の手の甲に自身の額を押し当てた。
それは神への祈りよりも切実な、愛の確認行為だった。その時。部屋の空気を震わせるほどの轟音と共に閉ざされていたはずの襖が外から蹴破られた。
「少佐!!小鳥遊嬢!!」
飛び込んできたのは氷室だった。普段の冷静沈着な副官の仮面をかなぐり捨て、髪を振り乱し、鬼気迫る形相で踏み込んでくる。
彼の手には軍刀が握られていたが部屋の中の惨状、というより、ただならぬ雰囲気で絡み合い、倒れ込んでいる二人を見て、その動きがピタリと凍りついた。
「あ……」
氷室の視線が男女が密着して横たわっている光景を凝視する。部屋には雷撃による焦げ臭さと情事の後のような湿った熱気が充満していた。加えて鈴の着物は乱れ、景明のスーツはボロボロ。どう見ても事後か、あるいは最中にしか見えない。
しばしの沈黙。氷室は軍刀をそっと鞘に収めるとこめかみを押さえて深いため息をついた。
「……ご無事、でありますか」
「……ああ。問題ない」
景明は鈴の手を握ったまま、上半身だけを起こして答えた。その表情はいつもの不機嫌な鬼少佐に戻っているが耳の先が僅かに赤いことを鈴は見逃さなかった。
「敵は?」
「撤退したようだ。……幻覚の類だ。後処理を頼む」
「了解いたしました。……まったく寿命が縮む思いです」
氷室は呆れたように首を振りつつも、その瞳には明らかな安堵が浮かんでいた。彼は「では、外で見張っておりますので」と気を利かせ、壊れた襖を申し訳程度に立てかけて部屋を出て行った。
再び、二人きりになる。隙間風が火照った頬に心地よい。
「……すまなかった」
景明が呟いた。彼は鈴の手を離そうとはせず、むしろ指を絡ませた恋人繋ぎに変えながら視線を伏せた。
「私の不覚で君を危険な目に遭わせた。……あんな幻を見せて怖がらせてしまった」
その声には深い自責の念が滲んでいた。彼は知っているのだ。
鈴が幻の中で“偽物の彼”に心を許しかけたことを。そして、それを止められなかった自分の無力さを彼は噛み締めている。
鈴は繋がれた手をそっと引き寄せ、自分の胸元、帯の間に押し当てた。そこにはまだ、あのハンカチの熱が残っていた。
「……怖く、ありませんでした」
鈴は嘘をついた。本当は怖かった。でも、それ以上に温かかった。
「西園寺様が、来てくださると信じていましたから」
「……鈴」
「それに……」
鈴は少し悪戯っぽく微笑み、上目遣いで彼を見つめた。
「私はやっぱり不器用な人が好きみたいです。甘い言葉ばかり囁く幻の王子様より……傷だらけになって怒鳴り散らしてでも走って助けに来てくれる、嘘つきな軍人様の方が」
その言葉に景明の目が大きく見開かれる。一瞬の空白の後、彼は手で顔を覆い、肩を震わせて低く笑った。
「……は、くくっ。……かなわんな、君には」
彼は顔を上げ、今度こそ穏やかな、野中みのるの時と同じ優しさで微笑んだ。けれどその瞳には西園寺景明としての強い意志が宿っている。
「帰ろう、鈴。私たちの家に」
「はい……。帰りましょう、西園寺様」
二人は強く、痛いほど強く手を握り締め合う。
鈴の帯の奥、未完成の刺繍の糸が少し解れていたが、それは二人の絆がより強固に縫い合わされた証のように思えた。
窓の外では夜明けの光が吉原の街を白く染め始めていた。 悪夢の夜は明け、二人の共犯関係はまた新しい朝を迎える。
しかし、吉原で迎えたあの温かな夜明けの光はその日の夕刻には分厚い雲に飲み込まれていた。




