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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第二章 覚悟の婚約と忍び寄る幻夢の蝶
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第13話

 翌朝。帝都の朝は硝子戸を震わせる新聞配達の自転車の鈴の音と共に訪れた。だが今日、西園寺邸の重厚な空気を揺らしたのは、もっと異質で甘く、女の勘を逆撫でするような不吉な香りだった。

(……嘘。あれは本当に西園寺様なの?)

 鈴は自身の部屋から続く廊下の角、磨き上げられた黒檀の柱の陰に身を潜め、胸元で着物の襟を強く握りしめたまま、信じられない光景を凝視していた。

 視線の先、玄関ホールに設えられた巨大な姿見の前に立っているのはいつもの冷徹な“鬼少佐”ではない。雪のように白く光沢のある最上級の麻の三つ揃えに生成り色のパナマ帽、首元には瑠璃色のネクタイ。手首からはベルガモットと白檀が混じり合う、都会的で享楽的な香水が漂っている。

「……悪くない」

 景明は鏡の中の自分に向け、顎を少し上げて微かに口角を上げた。懐から鼈甲の櫛を取り出すと、ポマードで撫で付けた黒髪の乱れをミリ単位の精度で直し始める。その瞳は戦場の地図を見る時よりも真剣でどこか熱っぽく浮き足立っていた。

(あんなお顔、私に見せたことない……)

 鈴の心臓が早鐘を打つと同時に冷たい手で握られたように痛んだ。昨日、「君を守る」と言ってくれたばかりなのに。互いの正体を知りながらも知らないふりをする、世界でたった二人の共犯者になったはずだったのに。

 鈴が思わず漏らした足音に気づいたのか、景明が鏡越しに鋭い視線を投げた。だが、そこに鈴の姿を認めると、その鋭さは瞬時に崩れ、どこか気まずそうな、それでいて隠しきれない甘さが滲む表情へと変わる。

「……鈴か。おはよう」

「お、おはようございます。西園寺様。随分と……ハイカラな装いですね。今日は軍務ではないのですか?」

 鈴は努めて冷静を装って柱の陰から姿を現すが声が上擦るのを止められない。

「ああ……。少しな。特務機関の方で野暮用があってな」

(嘘だ)

 鈴の直感が警鐘を鳴らす。彼の視線が僅かに泳ぎ、無意識にネクタイの結び目に触れたのを鈴は見逃さなかった。それは男が女に会いに行く時の顔だ。

「野暮用……ですか。そんなに素敵にお召し替えをして?」

「……変か?」

「いえ!とっても、お似合いです!銀座のモダンボーイも裸足で逃げ出すほどに!」

 精一杯の皮肉を込めたつもりだったが、景明は「そうか」と短く呟き、なぜか安堵したように頬を緩めた。その無防備な笑顔が鈴の胸をさらに抉る。

「では、行ってくる。夕刻には戻る。……いい子で待っているんだぞ」

 彼は大きな掌で鈴の頭を優しく撫でると、逃げるように踵を返した。パナマ帽を目深に被り、ステッキを軽やかに突いて歩き出す背中。軽薄で浮き足立った靴音が響き、重厚な扉が閉まる。

 取り残された広大な玄関ホールに白檀の残り香だけが漂っていた。鈴は拳を握りしめ、震える唇で呟いた。

「……浮気者」

 その言葉が引き金だった。お淑やかな令嬢の仮面が剥がれ落ち、代わりに無鉄砲で行動力溢れる“じゃじゃ馬”の魂が鎌首をもたげる。許さない。絶対に、突き止めてやるんだから。

 鈴は着物の袂を翻すと、氷室のいる執務室へと廊下を風のように駆け抜けた。

 目指すのはこの屋敷のある一室。かつては書庫だったその部屋は現在、景明の「鈴の護衛を万全にするため、常に私の目の届く範囲に拠点を置くべし」という過保護にもとれる鶴の一声により、特務機関の臨時執務室として改装され、氷室が住み込みで詰めているのだ。

 そこにいるはずの唯一の証人を捕獲するために。

「いや、ですから小鳥遊嬢。私は本当に何も……うっ」

 薄暗い執務室で氷室は胃の辺りを押さえながら呻いた。机の上には機密書類が山のように積まれているが、今の彼にとって最大の難敵は目の前で仁王立ちしている小柄な伯爵令嬢だった。

「知らないはずがありません!氷室様は西園寺様の副官でしょう?あの堅物の西園寺様があんなチャラチャラした格好で出かけるなんて、よほどの事態です。相手は誰ですか?どこの女狐ですか!?」

「め、女狐などと……。少佐はあくまで情報収集のために……」

「情報収集なら、いつもの軍服で十分威圧できるはずです。わざわざ香水までつけて、白のスーツを着る必要性がどこにありますか!論理的に説明してください!」

 鈴の追及は鋭く、そして的確だった。

 氷室は脂汗を浮かべ、視線を彷徨わせた。彼の異能は読心。人の心が読めるがゆえに他人の感情の機微には敏感すぎるほど敏感だ。今の鈴の心の中は嫉妬と不安、そして景明への強烈な愛情がない交ぜになり、触れれば火傷しそうなほどの熱嵐となっていた。

 そして何より問題なのは氷室自身も今朝の景明の浮かれポンチぶりには危機感を抱いていたことだ。

(あの方……小鳥遊嬢に良い格好を見せたいがためにまた何か見当違いな方向へ暴走しているのではないか……?)

 氷室の懸念は的中していた。だが、それを鈴に告げるわけにはいかない。しかし、鈴は氷室の沈黙を肯定と受け取った。

「やっぱり……何か隠しているんですね」

 鈴の瞳が涙で潤む。怒りではない。純粋な悲しみがそこにはあった。その表情を見せられては忠義の男、氷室とて陥落せざるを得ない。

「……はぁ。わかりました。少佐の行き先は把握しております。……案内しましょう」

「本当ですか!?さっすが氷室様!話が早いです!」

 鈴は掌を返したように満面の笑みを浮かべ、氷室の腕を掴んだ。胃薬の瓶を懐に忍ばせながら、氷室はよろよろと立ち上がる。これが地獄への行軍になるとも知らずに。

 帝都の街並みは近代化の波に洗われ、日々その姿を変えている。だが、二人が辿り着いたその場所は時代の流れから切り離されたかのような、濃厚で退廃的な空気を纏っていた。

 浅草の北。巨大な鉄の大門が現世と常世を隔てる結界のように聳え立っている。その向こう側に広がるのは朱塗りの格子と柳並木。そして昼間だというのに纏わりつくような化粧の匂いと三味線の音色。

「ここ……は……」

 鈴は人力車を降りた瞬間、その異様な雰囲気に圧倒され、言葉を失った。道を行き交う人々も銀座とは違う。着崩した着物を纏った男たち、目つきの鋭い用心棒風の男、そして、派手な着物を着て足早に歩く女たち。

「吉原遊廓……公許の遊里です」

 氷室が苦々しげに呟いた。深窓の令嬢である鈴にとってここは御伽噺に出てくる鬼の棲家よりも恐ろしく、そして忌むべき場所だった。父からは「決して近づいてはならぬ」ときつく言い含められていた場所。愛を金で売り買いする、情欲の迷宮。

「西園寺様は……こんなところに?」

 鈴の声が震えた。信じたくなかった。あの不器用で、真面目で、鈴との触れ合い一つにも耳を赤くするような彼がこんな場所に出入りしているなんて。

 だが、現実は残酷だ。メインストリートの雑踏の中にひときわ目を引く純白の背中があった。

 パナマ帽を被った長身の男。間違いない。景明だ。

 彼は迷うことなく、一軒の巨大な楼閣へと吸い込まれていく。入り口には“夢見屋”という看板がある。軒先には赤い提灯が下がり、得体の知れない甘い煙が漂っていた。

「……入りましたね」

 氷室が淡々と事実を告げる。

 鈴は足がすくんで動けなかった。ここで引き返すべきだ。これ以上見てしまえばもう二度と彼を信じられなくなるかもしれない。けれど、鈴の足は意思とは裏腹に前へと進んでいた。

「行きます」

「小鳥遊嬢?」

「西園寺様が……何をしているのか、この目で確かめます。もし……もし本当にやましいことをしているのなら……」

 鈴は唇を噛み締め、涙を堪えて前を向いた。

「その時は思いっきり引っぱたいて、婚約破棄してやります!」

 その瞳には覚悟の炎が宿っていた。氷室は小さく溜息をつき、腹をくくった。

「……承知しました。あの店、夢見屋の楼主とは少々面識があります。客としてではなく、知人として入るのならば怪しまれずに済むでしょう」

「氷室様……!」

「ただし、決して騒がないと約束してください。ここは軍の管轄外。何が起きても不思議ではない場所です」

 二人は目配せをし、景明が消えた夢見屋の暖簾をくぐった。店内は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。磨き抜かれた廊下は鏡のように光を反射し、どこからか焚き染められた伽羅の香りが漂っている。

 氷室の手引きにより、二人は景明が通されたという二階の座敷の近くまで誰にも見咎められることなく潜入することに成功した。

「……あそこです」

 氷室が指差したのは廊下の突き当たりにある上座敷だった。障子が僅かに開いている。

 鈴は忍び足で近づき、息を殺してその隙間から中を覗き見た。心臓が破裂しそうだった。広い座敷の中央。上等な紫の座布団に景明が座っている。帽子は脱いでいるがあの白いスーツ姿のままだ。そして、その正面に一人の女性が座っていた。

(……綺麗)

 鈴の思考が一瞬真っ白になる。その女性は同性の鈴から見ても息を呑むほどに美しかった。

 透き通るような白い肌。愁いを帯びた切れ長の瞳。艶やかな黒髪には豪奢な簪が挿され、身に纏った緋色の打掛には金糸で鮮やかな花々が刺繍されている。彼女こそがこの楼で一番の高級遊女、夕顔だった。

 景明はその夕顔を見つめ、あろうことか優しく微笑んでいた。

 鈴に向けられる不器用な笑顔とは違う。どこか慈愛に満ちた、落ち着いた大人の男の表情。

「……これで足りるか?」

 景明の低い声が聞こえた。彼が懐から取り出したのは分厚い茶封筒だった。その厚みからして、中に入っているのが紙幣の束であることは明白だった。それをすっと夕顔の前に差し出す。

「まあ……。こんなに、よろしいのですか?西園寺様」

 夕顔が袖で口元を隠し、鈴を転がすような艶めいた声で応える。“西園寺様”。その呼び方に親密な響きが含まれているのを聞き逃さなかった。

「構わない。君には……それだけの価値がある」

 “価値がある”その言葉の意味を理解しようとし、鈴は混乱に陥った。自分という婚約者がいながら他の女性に大金を渡しているという事実は鈴にとって受け入れがたいものだった。脳裏に最悪の想像が駆け巡る。

(手切れ金?いいえ、逆だわ。これは身請けの話ではないの?もしかして、私との生活はただの世間体で、この人こそが……彼が本当に愛している女性なの?)

「嘘つき……」

 鈴の目から堰を切ったように涙が溢れた。銀座でのデートも、婚約成立の日に書斎で交わそうとした口づけも、すべては偽りだったのかという疑念が胸を刺す。書生、野中みのるとして見せてくれたあの優しささえも信じられなくなりそうだった。

(許さない。許さない……ッ!)

 悲しみは一瞬で煮えたぎるような激情へと変わった。

 鈴の感情が沸点に達した、その時だった。彼女の激情に呼応するように周囲の空気が震えだす。本人すら自覚していない力が溢れ出し、空間が軋み、障子の桟が悲鳴のような音を立てた。

「た、小鳥遊嬢!?」

 氷室が慌てて止めようとするがもう遅い。

 鈴は涙を拭うこともせず、勢いよく障子を開け放った。

「そこまでですッ!!」

 派手な音と共に障子が左右に弾け飛ぶ。室内の二人が驚愕に目を見開いてこちらを向いた。

 景明が信じられないものを見る目で立ち上がる。

「す、鈴!?なぜここに……!?」

「黙らっしゃい!この……この嘘つきの女誑かしッ!!」

 鈴は肩で息をしながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔で景明を睨みつけた。美しい遊女と伊達男に変装した婚約者。そして卓上の大金。状況証拠は真っ黒だ。

「帝国の軍人たるものが昼間から遊郭で情事ですか!?しかも、そんな怪しい格好でコソコソと!私には“野暮用”だなんて嘘をついて!」

「いや、これは違うんだ!誤解だ、鈴!」

「何が誤解ですか!そのお金は何ですか!その綺麗な人は誰ですか!『君には価値がある』ですって!?よくもまあ、そんな歯の浮くような台詞がポンポン出てきますこと!」

 鈴の怒号が響き渡る中、景明は狼狽え、両手を挙げて後ずさる。かつて戦場で鬼と恐れられた男が小柄な少女の剣幕に完全に圧倒されていた。

 氷室が頭を抱え、胃薬を取り出そうとする傍らで渦中の美女、夕顔だけが呆けた顔で鈴と景明を交互に見つめていた。そして花が咲くように優雅に微笑んだ。

「あらあら……。これが噂の、可愛い可愛い子猫ちゃんですのね?」

 その言葉に場の空気が凍りついた。

 鈴の動きが止まる。

「……こ、子猫ちゃん……?」

 鈴はぽかんと口を開け、涙で濡れた瞳を瞬かせた。怒りで沸騰していた頭が予想外の単語によって急激に冷却されていく。

 夕顔は鈴の反応を楽しむように小さく笑い、長い煙管を指先で弄んだ。紫煙がゆらりと立ち上り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「ええ、そうですわ。西園寺様ったら、ここへ通うたびに貴女の話ばかり。あんなに怖そうな顔をして『私の婚約者は世界一愛らしい』だの『傷つきやすい硝子細工のようだ』だの。……ふふ、てっきり私はどんな深窓の姫君かと思っておりましたけれど」

 夕顔は流し目で未だに狼狽している景明を見やった。

「まさか、遊郭の二階まで単身乗り込んでくるような元気な跳ねっ返りだとは思いませんでしたわ」

「ゆ、夕顔!余計なことは言うな!」

 景明が顔を真っ赤にして叫ぶ。その反応は百の弁解よりも雄弁に真実を物語っていた。

 鈴は徐々に状況を理解し始めた。何かがおかしい。この雰囲気は愛人関係のものではない。まるで出来の悪い弟を姉がからかっているような……。

「す、鈴。落ち着いて聞いてくれ」

 景明は咳払いを一つし、いつもの威厳を取り戻そうと居住まいを正した。

「彼女、夕顔殿は私の元部下の婚約者だった女性だ」

「えっ……?」

「一昨年の、大陸での戦乱……。その激戦地でその部下は戦死した。彼は死の間際、塹壕の中で私の手を握り、託したんだ。『もし自分が死んだら、故郷に残した彼女を助けてほしい』と」

 景明の言葉に夕顔がふっと寂しげに目を伏せる。その横顔には遊女としての艶やかさとは違う、一人の女性としての深い哀しみが滲んでいた。

 大陸への進軍。多くの血が流れたその戦役の影がこの華やかな遊廓の一室にも落ちている。

「戦後の混乱で彼女の実家は没落し、借金の形にこの吉原へ売られたそうだ。私は軍の情報網を使ってずっと彼女を探していたのだが、ようやく居場所を突き止めたのが先月のことだ。……今日ここに来たのは彼女の身請け金を支払うためだ」

 “身請け”。その言葉の意味を理解した瞬間、鈴の顔から血の気が引き、次の瞬間には湯気が出るほど真っ赤になった。

「じゃあ……その、机の上のお金は……」

「楼主への手付金だ。“君には価値がある”と言ったのは彼女がこれから、我が西園寺家で女中として働く予定だからだ。……鈴、君のために」

「わ、私のため?」

「ああ。今の君は無理やり屋敷に閉じこめられている状態だろ?信頼できる話し相手や姉のような存在が必要だと思ったんだ。だから……その、驚かせようと思って内緒にしていたのだが……」

 景明はバツが悪そうに視線を逸らし、頬を掻いた。そこには浮気心など微塵もない。ただ純粋かつ不器用に鈴のことを想う野中みのるとしての優しさだけがあった。

(やってしまった)

 鈴の脳内で何かが音を立てて崩れ落ちた。愛する人の善意を浮気と勘違いし、尾行の末に怒鳴り込み、あまつさえ「女誑かし」と罵倒してしまったのだ。それは貴族の令嬢として、いや、人としてあるまじき失態であった。

(穴があったら入りたい……いいえ、もう地面と一体化してしまいたい!)

 羞恥心のあまり、鈴は全身から火が出るような感覚に襲われた。

 鈴はその場から崩れ落ちるように膝をつくと、両手を畳につき、勢いよく頭を振り下ろした。額が畳にめり込むような、鈍く重い音が室内に響いた。

「も、申し訳ありませんでしたぁぁぁッ!!」

 それはお辞儀などという生易しいものではない。五体投地。完全なる土下座である。

 鈴は額を畳に擦り付け、否、これでもかと押し付けながら絶叫した。い草の匂いが鼻孔を直撃するがそんなことを気にしている場合ではない。

「私、とんだ勘違いを……!西園寺様の優しいお気持ちも知らず、勝手に嫉妬して探偵ごっこをして……ううっ、私なんて最低です!もう小虫です!ダンゴムシとして踏み潰してくださいッ!」

「す、鈴!?顔を上げてくれ!何もそこまで……!」

「いいえ、上げられません!今の私には合わせる顔がありません!このまま畳の染みになって一生を終えます!」

 お尻を高く突き上げ、必死に謝罪する婚約者の姿に景明は慌てふためき、手を彷徨わせている。

 そんな修羅場をようやく胃痛が治まった氷室が呆れ果てた冷ややかな目で見下ろしていた。

「……やれやれ。これで一件落着ですね。しかし少佐、その格好は一体どういうつもりですか? 普段の軍服で行けばこんな誤解も生まれなかったでしょうに」

「う……。それは……遊郭という場所柄、軍服では目立ちすぎると思ってだな……」

「白の麻スーツにパナマ帽の方がよっぽど目立っておりましたよ。まるで三流小説の探偵か、色男気取りの活動弁士です」

 氷室の辛辣なツッコミに景明はぐうの音も出ずに黙り込む。その様子を見て夕顔が再び鈴を転がすような笑い声を上げた。

「ふふっ、本当に面白い方たち。……でも素敵ですわ」

 夕顔は立ち上がり、土下座を続ける鈴の元へと歩み寄るとその手を取って強引だが優しく立たせた。

 間近で見る夕顔はやはり圧倒的に美しかった。伽羅と白粉の香りがふわりと鈴を包み込む。

「小鳥遊様、とおっしゃいましたね」

「は、はい……。お見苦しいところを……」

「貴女のその真っ直ぐな嫉妬、私には眩しいくらいでした。……彼が惚れ込むのも無理はありませんわ」

 夕顔は鈴の額についた畳の跡を紅を差した指先でそっと拭った。そして悪戯っ子のように瞳を輝かせ、とんでもない提案を口にした。

「ねえ、小鳥遊様。せっかくこの夢見屋にいらしたのですもの。少し、遊んでいきませんこと?」

「えっ? 遊ぶ、とは……」

「誤解が解けたとはいえ、お二人の間にはまだ、ぎこちない空気が漂っておりますわ。特に……」

 夕顔は流し目で景明を見た。

「西園寺様は小鳥遊様のことを“守るべき子供”として扱いすぎている節があります。ここいらで少し、大人の女性としての魅力を見せつけて差し上げるのも一興かと」

「お、大人の魅力……ですか?」

「ええ。ちょうどここに、新造……花魁の見習い用の可愛らしい振袖がありますの。少しお化粧をして、お召し替えしてみませんか?」

 変装。その言葉に鈴の心臓が跳ねた。普段の自分なら絶対に断る提案だ。けれど、今日の景明はあんなにも素敵な洒落着を纏っている。それに比べて自分は土下座までして髪も乱れ、着崩れた普段着の着物姿。隣に並ぶにはあまりにも釣り合わない。

(悔しい……。私だって西園寺様をドキッとさせてみたい)

 鈴の中に潜む乙女心と先ほどの失態を挽回したいという焦りが背中を押した。

「……やります。私、変装します!」

「お、おい鈴!?何を言っているんだ!ここは遊郭だぞ、そんな真似は……」

 景明が慌てて止めようと身を乗り出す。だが、夕顔が扇子を広げ、景明の胸元に押し当てて制した。

「あら、西園寺様。女の身支度に口を出すのは野暮というものですわよ?」

「いや、しかしだな、鈴はまだ学生でそのような派手な真似は……それに他の男の目に触れるのも……」

 最強の異能使いであるはずの陸軍少佐が遊女の扇子一本に気圧され、後ずさる。

 景明は戦場の敵には滅法強いが女性の強引な理屈にはからっきし弱いのだ。

「あらあら、独占欲が強いこと。ご安心なさいまし、悪いようにはいたしませんわ。……ほら、氷室様、西園寺様にお茶のおかわりを。私は小鳥遊様に奥の間で少し魔法をかけてまいります」

「えっ、ちょ、待っ……!」

 景明が何か言いかけたが夕顔の「お黙りなさいませ」と言わんばかりの妖艶な微笑みに言葉を飲み込んでしまった。彼は助けを求めるように氷室を見たが氷室は「私は関知しません」とばかりに明後日の方向を向いて胃薬を飲んでいる。

 完全に孤立無援。景明は肩を落とし、座布団の上で小さくなるしかなかった。

 鈴が通された奥の間は衣装部屋を兼ねているようで色とりどりの着物が所狭しと並んでいた。

 夕顔は手際よく箪笥を開け、一着の着物を取り出した。

「これなんか、どうかしら。振袖新造の衣装よ。本職の花魁ほど重くないけれど、町娘の着物よりずっと艶やかで華があるわ」

 それは目にも鮮やかな桃色と朱色のぼかし染めに四季の花々が散りばめられた振袖だった。帯は黒繻子に金の刺繍。

「素敵……」

「さあ、脱いで。ちゃちゃっと着付けちゃうわね」

 夕顔の手際は魔法のようだった。あっという間に鈴の普段着は脱がされ、滑らかな正絹の感触が肌を包む。帯をきつく締められると下腹に力が入り、自然と背筋が伸びる。

 そして、化粧。鏡台の前に座らされ、水白粉を刷毛で塗られる。ひんやりとした感触と共に鏡の中の自分が徐々に別の誰かへと変わっていく。

 目尻には紅を差し、唇にも鮮やかな赤を。髪は夕顔の手によって、あどけなさを残しつつも色気のある“桃割れ”に結い上げられ、歩くたびにチリチリと鳴る銀のビラ簪が挿された。

「……はい、出来上がり」

 夕顔が満足げに鏡を覗き込む。そこに映っていたのはいつもの地味で真面目な小鳥遊鈴ではなかった。

 白粉によって陶器のように白くなった肌、朱色の着物に負けないほど紅潮した頬。まるで錦絵から抜け出してきたような、可憐で、それでいて妖艶な一輪の蕾。

「これが……私?」

 鈴は震える手で自分の頬に触れた。自分の中にこんな表情が眠っていたなんて。ただ鏡を見ているだけなのに胸の奥が熱くなり、指先が痺れるような高揚感がある。

「ふふ、とっても可愛いわ、子猫ちゃん。これなら、あの堅物の西園寺様も理性が飛んでしまうかもね」

 夕顔は鏡越しに鈴と目を合わせ、姉のように優しく、そして悪戯っぽく微笑んだ。

「いいこと、小鳥遊様。男の人というのはね、守るだけの存在には安心してしまうものよ。時々こうして手の届かない“女”の顔を見せて、焦らせてあげるのも……愛を深める秘訣ですわ」

「焦らせる……」

「ええ。貴女はもう、ただの子供じゃない。彼を翻弄できるだけの魅力を持った、一人の女性なのですから」

 夕顔の言葉が魔法のように鈴の心に染み渡る。

(そうだ。私はもう、ただ守られるだけの硝子細工じゃない。彼と共に歩き、時には彼を驚かせ、ドキドキさせるような、そんな人になりたい)

 鈴は鏡の中の自分に向かって、にっこりと微笑んでみた。そこには、決意を秘めた大人の女性の笑顔があった。

「さあ、行きましょう。愛しい旦那様が首を長くして待っていますわ」

 夕顔に手を引かれ、鈴はゆっくりと立ち上がった。絹の裾が擦れる音が心臓の鼓動と重なる。

 ふすまが絹を擦る様な微かな音を立てて、ゆっくりと左右へ滑った。薄暗い廊下から差し込む光が畳の目の一つ一つを舐めるように走り、その中心に佇む色彩の暴力を浮かび上がらせた。

「……お待たせいたしました、西園寺様」

 鈴の声が蜜を含んだように甘く、湿り気を帯びて鼓膜を揺らす。

 景明は口元に運びかけた湯呑みを空中で静止させたまま、瞬きすら忘れてその光景に見入った。世界から音が消え、色彩だけが網膜に焼き付く。

 そこにいたのはもはや先ほどまで畳に額をめり込ませていた少女ではない。

 宵闇に咲く徒花の如き、妖艶な乙女だった。身に纏うのは振袖新造の豪奢な衣装。京友禅で染め抜かれた鮮烈な朱と淡い桃色のグラデーションはまるで夕暮れの空を切り取って仕立てたかのよう。その上を金糸銀糸で刺繍された桜や牡丹が呼吸に合わせて艶めかしく波打っている。

 黒繻子の帯が彼女の細い腰をきつく締め上げ、少女特有の華奢なラインを残酷なほどに強調していた。結い上げられた漆黒の髪には銀細工のビラ簪が挿されている。

 彼女がわずかに首を傾げるたび、銀の薄片が涼やかな音を奏で室内灯の光を反射して、うなじの透き通るような白さを際立たせていた。白粉の粒子が肌の上で微かに煌めき、目尻に差された紅がその清純な顔立ちに背徳的な色香を添えている。

(……なんと、いうことだ)

 景明の喉が音を立てて渇いた。湯呑みを持つ指先に力が籠る。陶器が悲鳴を上げる寸前だ。彼は鈴を“守るべき無垢な硝子細工”だと信じていた。だが、今目の前にいるのは触れれば指が溶けてしまいそうなほど熱を帯びた、一人の“女"だった。

 伏し目がちに長い睫毛を震わせる仕草。着物の裾からほんの数センチだけ覗く白足袋の爪先。その全てが景明の理性の留め金を一本、また一本と外していく。

「……似合い、ますか?」

 鈴が上目遣いに問いかける。その破壊力は戦艦の主砲直撃にも勝る衝撃となって景明の脳髄を揺さぶった。心臓が肋骨を内側から殴りつけるように早鐘を打つ。全身の血液が沸騰しそうだ。

「あ……、あ、ああ……」

 帝国陸軍少佐としての威厳はどこへやら、口から漏れたのは少年のように上擦った吐息だけ。

(似合う、などという言葉では陳腐すぎる。美しい。狂おしいほどに)

 そして同時にどす黒い独占欲がコールタールのように胸の底から湧き上がった。

(……誰にも見せたくない)

 この遊廓に蠢く有象無象の男たちの目にこの姿を一秒たりとも晒したくない。今すぐ自分の上着で包み込み、外界から遮断して、自分だけの秘密の場所に閉じ込めてしまいたい。

「……西園寺様?」

「ッ!あ、いや……すまない。あまりにも、その……綺麗だったもので、言葉を失ってしまった」

 景明が必死に絞り出した言葉に鈴の頬が音を立てそうなほど赤く染まる。その初々しい反応だけが彼女がいつもの“鈴”であることを証明していた。室内に白檀と甘い白粉の香りが混じり合い、濃厚な沈黙が満ちていく。

 そんな二人を夕顔は扇子で口元を隠し、眼だけで妖しく笑って眺めていた。

「うふふ。言葉を失うほど見惚れるなんて作戦は大成功ですわね。……ねえ、氷室様?」

「……ええ。おかげで少佐の血圧が心配ですが」

 氷室が諦めたように茶を啜る。平和な、あまりにも平和な一瞬だった。だが、その静寂は野卑な暴力によって唐突に引き裂かれた。

 雷鳴のような轟音と共に廊下側の障子が蹴破られ、木っ端微塵に砕け散った。舞い上がる埃。そして座敷になだれ込んできたのは腐った酒と脂汗の臭気を纏った三つの影だった。

「おい夕顔ぉ!いつまで待たせるんだよぉ!俺たちの席に来ねえでこんな客とシケこんでんじゃねえよ!」

 顔をドス黒く赤らめた男たちが畳を踏み荒らす。着物ははだけ、下卑た腹が見えている。濁った眼球が獲物を探して動いた。

 夕顔を指名し、待ちきれずに乱入してきた酔客だ。美しい座敷の空気が一瞬にして淀む。

「あら、困りましたわ。お客様、ここは貸切ですのよ?」

 夕顔がすっと立ち上がり、凛とした声で制する。だが、獣と化した酔っ払いには言葉など通じない。

「うるせえ!金なら払ってんだよ!」

 先頭の大男が怒鳴り散らし、ふと視線を横に向けた瞬間、その動きが止まった。

 男の網膜が鮮烈な朱色を捉えたのだ。そこには恐怖に身を竦ませる振袖姿の鈴がいた。

「おっ……なんだこの上玉は!新しい新造か?へっへぇ、夕顔よりこっちの方が初々しくて美味そうじゃねえか」

 男の顔がなめ回すような粘着質な欲情に歪む。口の端から涎が垂れそうだ。

 鈴は背筋が凍るのを感じ、後ずさろうとした。だが、足が竦んで動かない。その怯えた様子が男の嗜虐心に火をつけた。

「いい声で鳴きやがる。おい、こっちに来て酌をしな。たっぷり可愛がってやるからよぉ!」

 男が踏み込み、汚れた太い腕を伸ばす。

 そして鈴の細く白い手首を万力のような力で乱暴に掴んだ。

「きゃっ!痛っ……!」

「へへっ、柔らかい手だなぁ。逃げるんじゃねえよ!」

「や、やめて、ください!離して……ッ!」

 鈴の悲鳴が上がる。男の指が食い込み、白い肌に赤い跡が刻まれる。恐怖で視界が歪み、酒臭い息が顔にかかるのを鈴はただ耐えることしかできない。

(誰か、助けて……西園寺様!)

 鈴が心の中で悲痛な叫びを上げた、その瞬間だった。世界が凍結する音がした。比喩ではない。実際に床の間の活け花の水が一瞬で氷塊へと変わり、花瓶が内側からの圧力で破裂したのだ。

 室内の温度が急激に低下し、吐く息が白く染まる。畳の上を、霜の結晶が生き物のように這い広がり、男たちの足元へと侵食していく。

「あ……?」

 男が呆気にとられて動きを止める。その背後には絶対零度の殺気を纏った“鬼”が立っていた。

「……離せ」

 それは人間の声ではなかった。地獄の底、あるいは極寒のシベリアの風雪が唸るような、低く、重い響き。

 景明の全身から、青白い雷光が迸っている。雷光の明滅がストロボのように室内を照らし出し、彼の影を巨大な魔物のように壁に投影していた。

 白の麻スーツは冷気ではためき、端整な顔立ちは感情の一切が削ぎ落とされた能面のような冷酷さを湛えている。ただ、その瞳だけが、その双眸だけが青白く静かに燃え盛っていた。

「ひっ……!?」

 男たちは本能的な恐怖に喉を鳴らした。生物としての格が違う。捕食者を前にした小動物のように、膝が震え出す。

 景明の視線は鈴の腕を掴んでいる男の指一点に注がれていた。

「その汚らしい手で私の婚約者に触れるな」

 言葉と同時に放たれた殺気が物理的な衝撃波となって男たちを襲った。天井の電球が破裂し、ガラスの雨が降り注ぐ。男の手首が見えない氷の鎖に締め上げられたかのように蒼白になり、激痛に耐えかねて鈴の手を離した。男の手から離れた鈴は腰を抜かし、畳に尻をついた。

「う、うわあああぁぁッ!!化け物だぁぁッ!!」

「ひいいぃぃッ!助けてくれぇぇ!」

 男たちは悲鳴を上げ、転がるようにして廊下へと逃げ出した。恐怖のあまり失禁している者もいる。嵐のような暴力が去った後、部屋には静寂と冷え切った空気、そして微かに焦げたオゾンの匂いだけが残された。

 景明はゆっくりと息を吐き、纏っていた雷光を霧散させる。そして震える鈴の方へと向き直った。

「……鈴」

 名を呼ぶ声。それは先ほどまでの氷雪のような冷徹さとは打って変わって、春の日差しのように温かく、甘い響きだった。

 彼は膝をつき、腰を抜かしている鈴の体をそっと掬い上げるように抱き上げた。視界が高くなる。お姫様抱っこだ。

 鈴の体が宙に浮き、景明の逞しい胸板にピタリと押し付けられる。冷え切った部屋の中で彼自身の体温だけが火傷しそうなほど熱く、力強く伝わってくる。鼻先をくすぐるのはあの洒落た白檀の香りと彼自身の雄々しい匂い。

「さ、西園寺様……?」

「怖かっただろう。すまなかった……君を危険な目に遭わせて」

 景明の腕に力がこもる。振袖ごしに伝わるその力強さは鈴を二度と離さないという意志の表れだった。

 彼はそのまま、呆気にとられる夕顔に向かって短く告げた。

「夕顔殿。……すまないが空いている部屋を一つ借りるぞ」

「あら……。それは構いませんけれど、どちらへ?」

「少し、頭を冷やしてくる。……それに」

 景明は腕の中の鈴を見下ろした。その瞳にはもはや隠しきれない熱情の炎が揺らめいている。

 彼は鈴の乱れた襟元に視線を落とし、低く、掠れた声で囁いた。

「彼女の着物が乱れてしまった。……直してやらなければならないのでな」

 それは誰が聞いても分かる建前だった。だが、今の彼にはもう鈴を離すつもりなど微塵もなかった。

 驚いたことに鈴もまた、彼から逃れようとはしなかった。むしろ、その胸に顔を埋め、小さな手で彼の白いスーツの襟をぎゅっと握りしめている。

「……氷室。あとは頼む」

「……はぁ、承知いたしました。後始末は私の仕事ですからね」

 氷室の重い溜息を背に受けながら、景明は鈴を抱えたまま、廊下の闇へと消えていった。

 通されたのは廓の喧騒から切り離された、静寂に満ちた離れの一室だった。雪見障子からは中庭の竹林が透けて見え、風が笹を揺らす音だけがささやかに響いている。

 景明は鈴を抱いたまま部屋に入ると慎重に、まるで壊れ物を扱うような手つきで彼女を畳の上へと降ろした。

「……もう、大丈夫だ」

 その声はまだ微かに熱を帯びて掠れていた。

 鈴は名残惜しさを感じながらも彼の腕から離れようと白足袋に包まれた足を畳につける。だが、その瞬間だった。慣れない振袖新造の衣装。普段の着物よりも格段に長く、重たい裾が鈴の足元にまとわりついていた。

「あっ……!」

 畳についた右足が自分の着物の裾を無慈悲に踏みつける。逃げ場を失った重心が揺らぎ、鈴の体は制御を失った。

「鈴!?」

 景明が咄嗟に手を伸ばす。だが、引力には逆らえない。鈴はそのまま真っ直ぐ、景明の胸元へと倒れ込んでいった。

 予期せぬ衝撃。白の麻スーツと鮮やかな振袖がもつれ合う。鈍く、柔らかな音が室内に響いた。

 世界が反転する。気がつけば二人は畳の上で重なり合っていた。下になったのは景明。上になったのは鈴。

 鈴は景明の逞しい胸板の上に両手をついて覆いかぶさるような体勢になっていた。

「……っ、す、すみません!私、裾を踏んでしまって……!」

 鈴は顔を真っ赤にして、慌てて身を起こそうとした。しかし、起き上がれない。腰に回された景明の腕が鋼鉄の如き強さで鈴を拘束していたからだ。

「……西園寺、様……?」

 至近距離。あまりにも近い。目の前には少し乱れた黒髪と苦悶に歪んだ景明の端整な顔があった。

 彼の呼吸は荒く、白檀の香りと共に雄々しい熱気が鈴の顔に降りかかる。普段の冷静沈着な鬼少佐の仮面は剥がれ落ちていた。そこにあるのは愛しい獲物を前にして、理性の鎖を引きちぎろうとしている一人の男の顔だった。

「……動くな」

 命令形の言葉なのにそれは懇願のようにも聞こえた。

「これ以上動かれたら……私はもう、自分を抑えきれない」

 景明の瞳の奥で青白い炎が揺らめいている。その視線は鈴の瞳から震える睫毛へ、そして朱を差した唇へと滑り落ち、そこで釘付けになった。

 その瞳に見つめられただけで鈴の体の芯が熱く疼く。逃げなければ。これ以上は危険だ。

 本能がそう告げている。けれど鈴の身体は動かなかった。いや、動きたくなかった。彼の下敷きになっているこの状況が彼の体温を感じるこの距離がたまらなく愛おしかったから。

「……抑えなくて、いいです」

 鈴の唇から無意識にそんな言葉がこぼれ落ちた。それは共犯者としての覚悟か、あるいは一人の女としての誘いか。

「鈴……」

「私……西園寺様になら、何をされても……」

 その言葉は最後までは紡がれなかった。景明の理性の糸が音を立てて断ち切られたからだ。彼の手が鈴の後頭部に添えられ、強引に引き寄せられる。

 抵抗する間もなかった。視界が彼の顔で埋め尽くされ、鈴の唇に熱いものが重なった。

「……んッ!?」

 鈴の目が限界まで見開かれ、全身が石のように硬直した。

(!!?これが接吻!?)

 知識としては知っていても、いざ触れられると鈴はどう反応していいか分からなかった。息は止まり、手は行き場を失って空を彷徨う。

 唇が触れ合うだけの小鳥がついばむような愛らしい接触。だが、それはほんの序章に過ぎなかった。

「……ん、ぅ……」

 景明が首の角度を変え、さらに深く押し付けてきたことで鈴のパニックは加速する。唇の隙間をこじ開けるように彼の熱が侵入してくる。

(ど、どうしよう、息ができない、目を開けてていいの?手は?舌が……っ!)

 しどろもどろになりながら、鈴は無意識に景明の胸を押そうとした。けれど、景明はそれを許さない。後頭部を支える手が優しく、だが絶対的な力で鈴を逃がさず、彼の舌が鈴の甘さを貪り始めた。経験の差は歴然としていた。

 景明に翻弄されるまま、鈴の思考回路は白く弾け飛んでいく。最初は驚きと戸惑いで強張っていた鈴の身体から徐々に力が抜けていく。

 白粉の香り、整髪料の匂い、畳のい草の匂い。それら全ての感覚が遠のき、鈴の意識は互いの熱と味、そして鼓膜を支配する水音だけに集中していった。

(ああ、だめ……。溶けちゃう……)

 抵抗しようとしていた手はいつの間にか彼の白いスーツの襟を握りしめている。恐怖にも似た緊張と抗いがたい甘美な感覚。彼の舌が絡みつくたびに鈴は背骨が痺れるような感覚に襲われ、思考が溶かされていくのを感じた。

「……ぷはっ、……あ……」

 一瞬、唇が離れる。

 鈴が酸素を求めてあえぐと景明は熱っぽい瞳で見つめ返し、すぐさま再び唇を塞いだ。二度目はもっと深く、もっと濃密に。もう鈴に思考する力は残っていなかった。全てを彼に委ねよう。彼の愛に、彼の独占欲に、身も心も明け渡してしまおう。

 鈴は震える腕を景明の首に回し、自ら身体を預けた。それは無言の降伏宣言。それに応えるように景明の抱擁がさらに強くなる。

 二人は今、婚約者という枠を超え、共犯者という枠さえも溶かし合い、ただの男と女として一つになっていた。

 永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた口づけが終わり、景明がゆっくりと唇を離した。二人の間に銀色の糸が艶めかしく引いては切れる。

「……、鈴……」

「西園寺……さま……」

 互いに肩で息をし、熱に潤んだ瞳で見つめ合う。白粉の香り、整髪料の匂い、畳のい草の匂い。それら全ての感覚が遠のき、鈴の意識は互いの熱と味、そして鼓膜を支配する水音だけに集中していた。

 景明が愛おしげに鈴の頬を親指で拭い、再びその唇を奪おうと顔を近づけた、その時だった。

「あらあら。見せつけてくれるじゃないの」

 頭の中に直接響くような、粘着質な女の声。二人の熱を氷水で冷やすようなその響きに、景明が弾かれたように顔を上げ、鈴を庇うように抱きすくめた。

「誰だッ!」

 景明の殺気が膨れ上がる。だが、答える声はどこにもない。いや、部屋全体から響いている。

「甘すぎて、吐き気がするわ。……そんなに愛し合っているなら、地獄までご一緒なさいな」

 その声の主を鈴は知っていた。あの銀座で脅迫状を送りつけてきた、敵対組織の幹部。

「胡蝶……ッ!?」

 鈴が叫んだ瞬間、硝子が砕けるような鋭利な音と共に世界は完全に反転した。部屋の風景が鏡の破片のように砕け散り、畳が、障子が、天井が、無数の蝶の群れとなって渦巻き始める。

「鈴、離れるな!」

 景明が叫び、異能を発動させようとするが景色は既に歪みきっていた。 つい刹那までそこには確かに愛しい人の体温があったはずだ。唇に残る痺れるような熱。腰を抱きすくめる剛健な腕の力強さ。互いの吐息が混ざり合う、湿り気を帯びた密室の安らぎ。

 それらすべてが、一瞬の間に掻き消えた。優雅な遊廓の一室は消え失せ、二人の周囲には無限に続く毒々しい極彩色の回廊が広がっていた。

 後に残されたのは鼓膜を圧迫する静寂と鼻をつく異様な甘さだけ。腐りかけた百合の花と焦がした砂糖を煮詰めたような胸焼けのする芳香が充満している。

「ようこそ、私の箱庭へ。……ここが出口のない愛の墓場よ」

 どこかで嘲笑う声が響く中、鈴と景明は歪んだ空間の中で身を寄せ合った。甘い初キスの余韻は瞬く間に戦慄へと塗り替えられていく。


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