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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第二章 覚悟の婚約と忍び寄る幻夢の蝶
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第12話

 窓の外を叩いていた雨音はいつしか優しくなり、やがて雲間からは祝福するように一筋の月光が差し込もうとしていた。

 だが、あの甘く優しい月夜の約束から数日。高く澄み渡った秋空には鰯雲が悠々と流れているというのに、西園寺侯爵邸は今、帝都において最も静寂で、かつ息苦しい鳥籠と化していた。

 頬を撫でる穏やかな風さえも遮断するように、屋敷の重厚な門扉は固く閉ざされている。窓から見下ろす庭には、剪定作業を装いながら四六時中鋭い眼光を光らせる私服憲兵たちの姿があった。

「……あの、氷室様」

「なんでしょうか、小鳥遊嬢」

 西園寺邸のサンルーム。豪奢なレースのカーテン越しに庭を睨んでいた鈴は、深く、そしてわざとらしいほど大きなため息をついて振り返った。

 その背後には副官の氷室がまるで影のように控えている。彼の手には懐中時計が握られ、鈴が紅茶を一口飲む時間すら計測していそうな精密さで張り付いていた。

「さっき、お庭で少し日向ぼっこをしようとしただけなのに『外は肌に毒です』って連れ戻されました。昨日は『風が強いから』、一昨日は『湿気が多いから』……。私、このままではカビが生えてキノコになってしまいます」

 鈴が唇を尖らせて抗議すると、氷室は銀縁眼鏡の位置を直し、淡々と告げた。

「少佐の命令です。“令嬢の健康と安全を最優先せよ。蟻の這い出る隙間も与えるな”と」

 数日前の銀座での襲撃未遂。あれ以来、景明の過保護は病的なまでに悪化していた。有刺鉄線を張り巡らせるような野暮な真似はしない。代わりに徹底的な管理と監視。鈴の視界に入るもの、口にするもの、触れるもの全てを検閲せんばかりの勢いだ。まるで壊れかけの硝子細工を扱うような、神経質なまでの庇護。

(守ってくれているのは分かるけれど……これじゃあ、お約束のパフェなんていつ食べに行けるか分からないじゃない!)

「これは愛の巣ではなく、独房と呼ぶのではありませんか?」

「少佐に言わせれば“聖域”だそうです」

「聖域という名の軟禁ですわ!」

 鈴は柳眉を吊り上げ、ソーサーをカチンと鳴らしてティーカップを置いた。

 大好きなあの人が、自分を守るために柔らかな笑顔を捨てて、ただひたすらに冷徹な“鬼少佐”として振る舞おうとしているのが、鈴には何より許せなかった。

 しおらしく守られているだけのお姫様でいるつもりはない。鈴は勢いよく立ち上がった。その瞳に、恋する乙女の決意が宿る。

「氷室様。西園寺様は書斎ですね?」

「……執務中です。現在、帝都防衛網の再編について軍令部と……」

「構いません。私にとってはこちらのほうが国家の一大事です」

 鈴は足音高く、サンルームを後にした。目指すは過保護な鳥籠の主の元。あの夜の甘い約束を盾にこの堅苦しい扉を内側からこじ開けるために。

「失礼いたします!」

 ノックの音も強く、鈴は扉を開け放った。部屋の中は白檀とインクの匂いが澱んでいた。

 執務机の向こう、書類の塔に囲まれた景明が驚愕に目を見開いて顔を上げる。

「す、鈴……?どうした、何かあったのか!?」

 彼は反射的に立ち上がり、腰の軍刀に手を掛けかけた。その顔色は蒼白だ。目の下には色濃い隈が刻まれ、完璧に整えられていたはずの軍服も襟元がわずかに乱れている。

 鈴の姿を確認しただけで彼の瞳が安堵と恐怖に揺れるのを鈴は見逃さなかった。

「敵襲か?気分が悪いのか?すぐに氷室に車を……」

「いいえ。敵はいませんし、体調も万全です。ただ一つ、不満があることを除けば」

 鈴は机の前まで進み出ると彼を真っ直ぐに見据えた。

「西園寺様」

 あえて、他人のような響きで名を呼ぶと景明の肩が小さく跳ねた。

「いつまで私を閉じ込めておくおつもりですか?私は装飾品ではありません。貴方が愛してくださったのはショーケースの中の人形でしたか?」

 静かだが芯の通った声。景明は苦渋に満ちた表情で視線を逸らした。その横顔にふと、自信なさげな書生、野中の影が重なる。

「……君を失うわけにはいかないんだ。奴らはまだ潜んでいる。君を狙う影がある限り、私は……」

「だからって、一生ここから出さないおつもり?」

「必要ならばそうする。君が私を恨もうとも君が生きていてくれさえすれば……」

 悲痛なまでの独白。彼は本気だ。鈴に嫌われることよりも鈴が傷つくことを恐れている。その歪で深い愛に胸が締め付けられる。だが、ここで引くわけにはいかない。鈴は一歩踏み込んだ。

 彼が一番恐れている心の距離というナイフを突きつける。

「……嘘つき」

 潤んだ瞳でぽつりと呟く。その言葉は銃弾よりも鋭く景明の心臓を穿った。彼が目を見開く。

「……な」

「約束、してくださいましたよね?“パフェ”を食べに行こうって」

 先日、彼が自ら提案したデートの約束。鈴はその記憶を二人の未来を繋ぐ栞のように大切にしていた。

「それは……覚えている。だが今は時期が悪い。ほとぼりが冷めるまで……」

「その“いつか”はいつ来るんですか?来年も、再来年も、そうやって理由をつけて、私との約束を後回しになさるの?」

 鈴は声を震わせ、机に手をつき、身を乗り出した。至近距離。さらに瞳に涙を溜めてみせた。これは演技ではない。彼に届いてほしいという、切実な願いだ。

 景明が息を呑む気配がする。

「約束を破る殿方は嫌いです。……私が恋したのは不器用だけど、いつだって約束を守ってくれた野中さんでした。貴方は、西園寺様は平気で嘘をつくような大人になってしまわれたの?」

「ッ……!」

 景明の喉から、押し殺したような呻きが漏れた。野中みのるという仮初めの、しかし真実の人格。そこに対する鈴の信頼と愛情を人質に取られ、彼の鉄壁の理性が軋みを上げる。

「ち、違う……!私はいつだって君に対して誠実でありたいと……!君を悲しませることなど、断じて……!」

「じゃあ、証明してください。今すぐに」

 鈴は涙を指先で拭い、濡れた瞳で彼を見上げた。懇願するように、決して逃がさないという意志を込めて。

「場所は銀座のカフェー“パウリスタ”がいいです。……私、貴方と一緒に日の当たる場所を歩きたいんです。隠れるような恋なんて、もう嫌」

 その言葉に景明は崩れ落ちるように椅子に手をついた。長い沈黙。葛藤の末、彼はゆっくりと顔を上げる。その表情からは鬼少佐の冷徹さは消え失せ、愛する女に屈した一人の男の顔があった。

「……負けたよ」

 彼は深く息を吐き出し、震える指先で卓上のベルを鳴らした。

「……氷室、氷室はいるか」

「はっ」

 いつの間にか背後に立っていた副官に景明は観念したように告げた。

「車を出せ。目的地は銀座。パウリスタだ」

「……本気ですか?警戒レベルは……」

「特級のままだ。だが、鈴の望みだ……。沿道の警備を強化、店内の安全確認を徹底しろ。私の全神経をもって、彼女の休日を死守する」

「……了解いたしました」

 氷室は一瞬だけ呆れたように目を細めたがすぐに恭しく一礼した。鈴は顔を輝かせ、机を回り込んで景明の手を取った。

「ありがとうございます、西園寺様!大好きです!」

 その無邪気な笑顔に向けられた瞬間、景明の顔が赤く染まり、目尻がだらしなく下がるのを書斎の空気すらも呆れて見守っているようだった。

 こうして鉄壁の鳥籠は乙女の涙と一言によって内側からこじ開けられた。

 帝都・銀座。そこは煉瓦造りの建物が並び、ガス灯とアーク灯が競うように輝き、活動写真の弁士の売り声と路面電車のベルが交錯する、この国で最もハイカラな通りである。

 モボやモガたちが闊歩し、自由という名の香水が漂うこの街に一際異質な空気を纏う男女が降り立った。

 黒塗りの高級車がカフェ・パウリスタの前に音もなく滑り込む。

 先に降り立った景明は軍服ではなく、仕立ての良い英国製の背広にソフト帽という富豪の紳士風の装いだったがその纏う空気は完全に戦場のそれだった。

 彼は油断なく周囲を一瞥した。その視線はショーウィンドウを眺める学生や談笑する婦人たちの背後に潜むかもしれない影を探っている。

「……さあ、鈴。足元に気をつけて」

 差し出された手は白手袋越しでも分かるほど熱く、そして微かに強張っていた。エスコートされて降り立った鈴は、眩しい午後の陽射しに目を細める。

 久しぶりの外の世界。肺いっぱいに吸い込みたいところだが現実には彼女の周囲一メートル以内は景明という名の見えない結界で密封されていた。通行人たちは「何ごとか」と振り返るか、高貴な身分の行幸かと道を空ける。

 鈴の腰に回された手はまるで彼女が風に飛ばされるのを恐れるかのように痛いほど強く握られている。

(ううっ、恥ずかしい……!銀座中の視線が集まってる気がする……!)

 鈴は頬を赤らめ、帽子を目深に被った。普通のデートからは程遠い、重々しい大名行列。けれど隣を歩く景明の横顔は真剣そのもので額にはじっとりと脂汗さえ滲んでいる。彼は本気で怯えているのだ。鈴が小石につまずくことさえも。

「……西園寺様。そんなに怖い顔をしないでください。道行く人が振り返っています」

「すまない。だが、君の姿が陽の下にあると、どうも落ち着かない。硝子細工を嵐の中に置いたような気分だ」

 景明は苦しげに眉を寄せ、鈴の肩を抱き寄せた。その指先が食い込むほど強い。周囲には買い物客を装った氷室や部下たちが散開している。だが、景明の神経は休まることを知らない。

 愛されている心地よさと真綿で首を絞められるような息苦しさ。その二つがない交ぜになり、鈴は小さく吐息をもらした。

 カフェ・パウリスタ。重厚なドアを開けるとそこは芳醇な香りの楽園だった。珈琲豆が醸し出す深く香ばしい匂い、紫煙の甘い香り、そして銀のスプーンが陶器に触れる涼やかな音色。だが、景明にとってはそこは戦場に他ならなかった。

 店内は満席に近い賑わいだった。政治談議に熱を上げる書生たち、原稿用紙を広げる文士、身を寄せ合う恋人たち。彼らの視線、話し声、そして動き回る給仕。

 情報量が多すぎる。不確定要素の塊だ。景明の足が止まる。背筋に冷たい緊張が走った。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

 給仕の少年が近づいてくる。景明は鋭い視線で店内を一巡すると、低い、しかしよく通る声で告げた。

「……席が近すぎる。これでは隣の客の会話が丸聞こえだ。それに入り口からの射線が通りすぎている」

「は、はあ……?」

「店長を呼べ」

 給仕が慌てて奥へ走る。鈴は景明の袖を強く引いた。

「西園寺様、やめてください。普通に席に座ればいいではありませんか」

「ならん。不特定多数の人間と君を接触させるわけにはいかない。誰が刺客とも限らんのだ」

 景明は聞く耳を持たない。その瞳は鈴を守るという使命感で血走っている。やがて、店の奥から一人の老紳士が現れた。

 白髪をオールバックに撫でつけ、カイゼル髭を蓄えた、いかにも頑固そうな店主である。彼は景明の放つ軍人特有の覇気にも怯むことなく、静かに一礼した。

「お呼びでしょうか、お客様」

「すまないが、急ぎで頼みがある。……今いる客の代金はすべて私が持とう。この店を一時的に貸し切りにしてほしい」

 景明は真剣な眼差しで店主を射抜いた。金で解決することも可能だった。たが、これは一人の男としての切実な嘆願を優先した。

「私の連れは……事情があって、人目に晒すことができない。静寂と安全が必要なんだ。頼む」

 店内の空気が凍りついた。周囲の客たちが固唾を飲んで見守る中、店主はゆっくりと首を横に振った。

「……お客様。当店はパウリスタです。ポルトガル語で“サンパウロっ子”という意味です。貴族も平民も、学生も、軍人さんも、等しく一杯の珈琲を楽しむ場所。それが創業時からの信念でございます」

「そうではない、これは安全上の……」

「ええ、わかっております、ですが他のお客様を追い出して特定の御仁だけを優遇するなど、珈琲屋の矜持に関わります」

 店主の声は静かだが鋼のような芯があった。景明の目が細められる。彼の論理では鈴の安全こそが至上命題。それを矜持などで危険に晒すなど許容できるはずがなかった。全身から隠しきれない殺気が滲み出る。

(だめ、このままじゃ……!)

 鈴が一歩前へ出ようとした、その時だ。

「……ですが」

 店主がふと、景明の背後で不安げに震える鈴に目を留めた。そして再び、景明の顔を見る。権力や傲慢さで店を支配しようとしている男の目。そう思っていたがよく見れば違った。

 その瞳はただひたすらに焦燥に駆られていた。背後の少女を守れなかったらどうしようという、悲痛なほどの怯え。頑固な店主はかつて自分が恋女房を守ろうと必死だった若き日を思い出したのか、ふっと表情を緩めた。

「……お連れ様をそこまで大切に想っていらっしゃるのであれば。一つだけ提案がございます」

「提案?」

「ええ。一般のお客様には開放していない、とっておきの席がございます。そこならば誰の目にも触れず、かつ最高の日当たりを楽しめます」

 店主は顎で店の奥、従業員用の扉のさらに向こうを示した。

「元々は貴賓室として設けたサンルームです。ガラス張りですが中庭に面しており外部からの視線は通りません。出入り口も一箇所。……これならお客様の望む“要塞”としても合格点ではございませんか?」

 その言葉に景明は虚を突かれた顔をした。彼は鋭い視線をその扉へと走らせる。構造、位置、そして店主の目。数秒の沈黙の後、彼は深く息を吐き出して肩の力を抜いた。

「……非礼を詫びる。その席を使わせていただきたい」

「承知いたしました。……お連れ様、愛されておいでですな」

 店主は鈴に向かってウインクを一つ投げるとこちらへと案内を始めた。

 通された幻の特等席はまさに秘密の花園だった。白い漆喰の壁とアール・ヌーヴォー調の曲線を活かしたガラス窓。

 外の喧騒が嘘のように遮断され、窓の外には手入れされた中庭の緑と遅咲きの薔薇が風に揺れ、レースのカーテンが優しく光を透かしていた。

「わあ……!素敵……!」

 鈴は歓声を上げて、ビロード張りのソファに駆け寄った。ここなら誰の目も気にしなくていい。景明の張り詰めた糸も緩むはずだ。

 景明もようやく警戒を解いたようだった。帽子を脱ぎ、鈴の対面の席に腰を下ろす。

「……悪かったな、鈴。少し、気が立っていたようだ」

「ふふ、少しじゃありませんよ。店長さんを食べてしまいそうな顔でした」

 鈴は含み笑いをしながら、テーブルの上で彼の手をそっと包み込んだ。大きな手。今はまだ微かに震えている。

「でも……ありがとうございます、西園寺様。私のために必死になってくれて」

 鈴が景明の名を呼ぶと彼の表情が緩む。そこにはもう、鬼少佐の仮面はない。ただの、恋に不器用な一人の青年がいるだけだ。

「君との約束だからな。……それに私も食べたかったんだ。そのパフェとやらを」

「パフェー、です!ほら、メニューを見てください!」

 鈴は卓上のメニュー表を広げた。そこにはハイカラな文字で“王冠の如き甘味、特製パフェ”と記されている。

「ふふふ、美味しそう……!私、これにします!」

「では私は珈琲を……いや、同じものも頼もう。毒味……ではないが君と同じ味を共有したい」

 言い訳を付け加える彼が愛おしくて、鈴は胸の奥が温かくなるのを感じた。外の世界は危険がいっぱいかもしれない。けれど、この小さなサンルームの中だけは二人だけの甘く優しい時間が流れていた。

 やがて運ばれてきたのは、背の高い硝子の器に盛られた宝石箱のような一品。色鮮やかな果実、冷たくて甘い氷菓子、そして頂上で白く輝く生クリーム。それは過保護な鳥籠から抜け出した二人へのささやかな祝福のようだった。

 兎の形に飾り切りされた林檎や皮の剥かれた蜜柑、そして鮮やかな赤色のチェリー。

 それは帝都の乙女たちが夢見る“憧れ”を具現化したような器だった。

「わぁ……っ!食べるのがもったいないくらい綺麗……!」

 鈴は瞳をキラキラと輝かせ、胸の前で小さく手を合わせた。

 サンルームの窓から差し込む午後の陽光が、パフェの美しい層を宝石のようにきらきらと照らし出している。甘いバニラと瑞々しい果実の香りが鼻腔をくすぐり、それだけで鈴の頬が緩んだ。

「さあ、西園寺様も召し上がれ。溶けてしまいます」

「……ああ」

 しかし、対面の西園寺景明は長いスプーンを手に取ろうとしなかった。代わりに彼は鈴の手元をじっと凝視し、眉間に深い皺を刻んでいる。まるで時限爆弾の解体手順を検討するかのような真剣さだ。

「……鈴。そのスプーンを貸しなさい」

「え?どうしてです?」

「柄の長い金属食器は意外に重い。それに冷えた金属が君の柔らかな指先を冷やしてしまうかもしれない」

 景明は大真面目な顔で言い放ち、鈴の手から専用の長いスプーンを奪い取った。そして器用にパフェの頂点にある苺とクリームを掬い取り、それを鈴の口元へと差し出したのだ。

「さあ、口を開けて。私が食べさせよう」

「は、はいぃっ!?」

 鈴は素っ頓狂な声を上げてのけぞった。差し出されたスプーンの上では、真っ赤な苺と純白のクリームが甘い誘惑を放っている。

「な、なな、何を仰るんですか!子供じゃないんですから!」

「君の手を煩わせたくないんだ。それに万が一こぼして洋服を汚したら大変だ」

「汚しません!それにここは個室とはいえ、お店の中ですよ!?」

「誰も見ていない。……ほら、あーん」

「あーん、じゃありません!」

 鈴は顔を真っ赤にして、スプーンを奪い返そうと手を伸ばした。だが、景明の手は鋼のように動かない。鬼少佐の腕力と反射神経がこんな馬鹿げた過保護のために遺憾なく発揮されている。

「西園寺様!私は自分のペースで味わいたいんです!このクリームと冷たい氷菓子の層の重なりを計算しながら、長い匙を下へと掘り進めていくのが醍醐味なんです!」

「……む。そうなのか?」

「そうです!お願いですから、その過保護な手を引っ込めてください!」

 鈴の必死の抗議に景明は渋々とスプーンを返した。

 しゅん、と効果音がつきそうなほど肩を落とす彼を見て鈴は少し罪悪感を覚えたがこればかりは譲れない。これは乙女の聖戦(おやつ)なのだ。

「い、いただきます……」

 気を取り直して、鈴はスプーンを口に運んだ。滑らかなクリームの舌触りとともに、冷たい氷菓子の爽やかな甘みが口いっぱいに広がる。最後に瑞々しい果実の甘酸っぱさが鼻に抜け、完璧な調和を奏でる。

「……んんっ、美味しい……!」

 思わず漏れた吐息。至福の表情で頬を緩める鈴。その瞬間、向かいの席から刺さるような視線を感じて、鈴は目を開けた。

 景明が見ていた。自分のパフェには一切手を付けず、頬杖をついて、ただひたすらに鈴が食べる様子を凝視している。

 その瞳は熱っぽく、獲物を観察する獣のようでもあり、聖女を崇める信徒のようでもあった。

「……あ、あの。西園寺様?ご自分の分は?」

「君が食べているのを見ているだけで胸がいっぱいだ」

「……っ!」

「その唇が動くたびに私の心臓は跳ねるようだ。……続けてくれ。君が幸せそうにしている姿こそが私にとっての最上の甘味だ」

 歯の浮くような台詞を彼は真顔で吐息交じりに囁いた。これはこれで別の種類の拷問だ。

 鈴の顔が一気に林檎のように赤く染まる。

(み、見ないで!そんな熱っぽい目で見られたら、味がしないわ!)

 鈴は視線のやり場に困り、部屋の中を彷徨わせた。白壁、レースのカーテン、観葉植物。そして部屋の隅に置かれた古びた柱時計。

 それは重厚な黒檀で作られた大きな振り子時計だったが針は止まっており、ガラス戸も曇っている。何より目についたのは装飾としてぶら下がっている絹の飾り紐だった。

 紫色の房飾りがついた美しい紐だが経年劣化のせいか結び目が解け、だらしなく垂れ下がっている。

(……かわいそう)

 鈴の裁縫好きの血が騒いだ。彼女にとって解けた結び目やほつれた糸は迷子の子猫が泣いているのと同じくらい放っておけないものなのだ。

「……西園寺様。少し、失礼しますね」

 鈴は逃げるように席を立つと、時計の前へ歩み寄った。鞄からいつも持ち歩いている携帯用の裁縫セット、小さな鋏と針山が入った巾着を取り出す。

「鈴?何をしているんだ」

「この時計の飾り紐、解けちゃってます。なんだか寒そうで可哀想だから……」

 鈴はそう言うと垂れ下がった飾り紐を手に取った。複雑な組み紐だ。普通なら元の形に戻すのは困難だが鈴の指先は迷いなく動く。紐をくぐらせ、引き絞り、形を整える。

(ここはこうして……こっちを通して……)

 無心に指を動かしている間だけは景明の熱視線を忘れられた。

 鈴の異能、修復。それは本人が“針子が得意なだけ”と信じ込んでいる無自覚の力。彼女はただ、あるべき形に戻してあげたいと願うだけ。

「……よし、できました」

 数分後。そこには新品同様に美しく結い上げられた吉祥結びが完成していた。

 鈴が満足げに手を離した、その瞬間だった。突如、重々しい鐘の音がサンルームに響き渡った。

 止まっていたはずの時計の針が動き出し、振り子が力強いリズムを刻み始めたのだ。

「えっ……?」

 鈴は驚いて目を丸くした。ゼンマイを巻いたわけではない。ただ、外側の飾り紐を結び直しただけだ。

「わ、びっくりした……。偶然かしら?壊れてたわけじゃなかったのね」

 鈴は無邪気に笑って席に戻ろうとした。だが、景明の反応は違った。彼は鋭い眼光でその時計を見据えていた。

「……偶然、ではない」

 彼の背中から、冷や汗が流れるような戦慄が伝わってくる。景明はこの部屋に通された時、職業病として室内のすべての備品を点検していた。

 あの時計は完全に壊れていたはずだ。内部の歯車が錆びつき、ゼンマイが切れているのを彼の雷の異能による微弱な磁気感知で確認していたのだから。

(外装の紐を結び直しただけで内部の機構まで修復された……?)

 いや、違う。景明は鈴を見た。彼女はぼんやりとスプーンを咥えている。

 彼女の力は物理的な修理ではない。壊れたものを、古びたものを、“本来あるべき姿”へと回帰させる“概念的な修復。

 時すらも巻き戻すかのようなその力。もしそれが敵に知られれば、彼女は兵器として、あるいは不老不死の鍵として、世界中から狙われることになる。

(……やはり、君を外に出すべきではなかったのか)

 景明の中で恐怖と独占欲がどす黒く渦巻いた。この無垢な少女を誰にも渡したくない。このまま屋敷の奥深くに閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたい。

「……西園寺様?どうなさいました?顔色が……」

 鈴が心配そうに覗き込んでくる。その瞳に映る自分の顔がひどく強張っているのを自覚して、景明は無理やり口角を上げた。

「……いや、なんでもない。時計が動いてよかったな。君は本当に.....“.手先が器用”だ」

 震える声でそう告げ、彼は鈴の手を握りしめた。その温もりだけが今の彼を正気に繋ぎ止めていた。だが、二人の甘くも不穏な時間を破ったのは無慈悲な現実だった。

 サンルームの入り口から氷室が顔色を変えて飛び込んでくる。普段の冷静な彼にしては珍しく、足音が荒い。

「少佐!失礼します!」

「氷室、ノックもなしに何事だ。今は作戦(デート)中だぞ」

「緊急事態です。……屋敷から連絡が」

 氷室は鈴を一度見て、言いにくそうに口を閉ざした。だが、その手には見覚えのある封筒が握られていた。

「小鳥遊嬢宛に手紙が届きました」

 その言葉に景明の纏う空気が一瞬にして鬼へと変わった。氷室が差し出したのは見るからに禍々しい封筒だった。上質な和紙でできているがその色はドギツイほどの江戸紫。封蝋の代わりに金色の揚羽蝶の紋章が押されている。

 そこから漂う甘ったるい香りに鈴の背筋が凍りつく。何より異様なのはその封筒から漂う強烈な芳香だった。熟れすぎた果実と、白粉を混ぜ合わせたような甘ったるくも鼻をつく腐臭に近い香り。

「……差出人は?」

「不明です。ですが屋敷の郵便受けにこれが入っていた時、警備の犬たちが怯えて吠えもしなかったそうです」

 氷室の報告に景明の表情が凍りついた。犬が吠えない。それは相手が“人間ではない”気配を纏っていたか、あるいは犬ごときでは逆らえない上位の捕食者であったことを意味する。

「毒物の可能性が高い。鈴、下がっていろ」

 景明は低い声で命じると懐から白い手袋を取り出して装着し、氷室から封筒を受け取る。

 指先から微かな音が鳴った。景明の異能である氷が発動し、封筒の表面を極薄の氷膜で覆っていく。万が一、爆発物や液体が仕込まれていてもこれで封じ込める算段だ。

「……開けるぞ」

 景明は凍らせた封蝋を指先で器用に弾き飛ばした。

 封筒の口が開く。その瞬間だった。ふわり。中から手紙と共に輝く“紫色の粉”が舞い上がった。

 それはただの粉ではない。蛾や蝶の羽についている鱗粉だ。サンルームの陽光を受けて妖しく煌めくその粉はまるで意思を持っているかのように景明の防壁をすり抜けて鈴の方へと漂っていく。

 瞬間の出来事だった。青白い電光が迸る。それは景明の雷の異能だった。熱と衝撃波が鱗粉を焼き払い、空中で霧散させた。焦げた臭いが甘い香りを上書きする。

「……大丈夫か、鈴」

「は、はい……。あの、今のは……」

「幻夢の鱗粉だろう。吸い込めば三日は悪夢にうなされることになる」

 景明は忌々しげに吐き捨てると封筒の中に残っていた便箋を抜き出した。そこには達筆でどこか粘着質な墨跡で短い文が綴られていた。

 “愛しい子猫ちゃんへ。随分と楽しそうに鳴いているようだけれど、その首輪は誰のものかしら?貴女の可愛らしい鳴き声が、いつまで続くか楽しみにしていてね。夢見鳥より、愛を込めて”

 名前こそ、書かれていない。だが、その文面から滲み出る怨念と紫色の鱗粉。相手は明白だった。敵対組織の幹部にして、景明に歪んだ執着を抱く妖女、胡蝶。

「……ふざけた真似を」

 景明の手の中で便箋が音を立てて握りつぶされ、瞬時に凍りついて砕け散った。彼の全身から怒りのオーラが陽炎のように立ち上る。

 サンルームの気温が一気に数度下がった気がした。

「ここがカフェーでなければ今すぐ帝都中を焼き尽くしてでも探し出すところだが……」

 景明の瞳は完全に鬼少佐のそれに戻っていた。鈴との穏やかな時間を汚された怒り。そして何より、明確に鈴個人を標的とした宣戦布告に対する激しい憎悪。

 彼はゆっくりと立ち上がり、目の前に居る鈴の肩を抱いた。

「……帰ろう、鈴。やはり外は危険だ。これからは屋敷の警備を倍に……いや、地下シェルターの建造を急がせる。君の安全が確保されるまでは一切の外出を禁ず」

「嫌です」

 鈴の声は震えていたがはっきりとしていた。景明が驚いて目を見開く。

「……鈴?」

「地下に隠れるなんて嫌です。一生、震えて暮らすなんて御免です」

 鈴は顔を上げた。その瞳は潤んでいたが恐怖に屈してはいなかった。先ほど、時計を直した時の不思議な感覚。そして景明が必死に守ろうとしてくれているこの温もり。

 それらが鈴の中で混ざり合い、一つの強固な芯となっていた。

「あの手紙、私のことを子猫って書いてありましたよね」

「……ああ。だが妄言だ。気にする必要はない」

「気にします!だって私、立派な淑女を目指す幼気な乙女ですもん!」

 鈴は拳を握りしめ、声を張り上げた。

「それにこの手紙の人、勘違いをしています!私は自分の意思で西園寺様を、西園寺様が私を選んでくださったんです!正真正銘、婚約者なんです!それをコソコソ隠れてるなんて死んでもしたくありません!」

 サンルームの空気が震えた。それは単なる強がりではない。愛する男の隣に立つ者としての矜持の叫びだった。

 景明は呆気にとられたように鈴を見つめ、やがて、その瞳に深い慈愛と新たな決意の光を宿した。

「……そうか。君は強いな」

 彼は優しく鈴の頭を撫でた。守るべき硝子細工だと思っていた少女はいつの間にか嵐の中でも砕けない宝石のような輝きを放っていたのだ。

「分かった。撤回しよう。……隠れるのはやめだ。氷室、車を回せ。ただし、帰りのルートは表通りを堂々と通る」

「……よろしいのですか?敵への挑発になりますが」

「構わん。コソコソ逃げ隠れするのは西園寺の流儀ではない。それに……」

 景明は鈴の腰を力強く引き寄せ、不敵に笑った。それは帝都を震え上がらせる鬼少佐の、そして最高に頼もしい婚約者の顔だった。

「私の愛する女が“戦う”と言っているんだ。ならば私も全力でその背中を支えるまでだ」

「西園寺様……!」

「鈴、蝶だか蛾だか知らんが私の“おやつ”の時間を邪魔したことを地獄の底で後悔させてやる」

 景明のエスコートで鈴はサンルームを後にした。

 出口へ向かう二人の背中は来た時よりもずっと寄り添い、そして力強く見えた。店主に見送られ、店を出る。

 銀座の風はまだ夏の名残を含んで熱かったが、二人の手はしっかりと繋がれていた。その結び目はどんな敵の悪意も、決して解くことのできない運命のように固かった。パフェの甘い余韻と銀のスプーンに残った微かな苦味を噛み締め、二人は完全な“共犯者”として歩み始めたはずだった。


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