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婚約破棄したい私が恋したのは嘘つきな書生(フィアンセ)でした  作者: アカツキ千夏
第二章 覚悟の婚約と忍び寄る幻夢の蝶
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第11話

 帝都の朝霧がまだ晴れやらぬ時刻。西園寺邸の食堂は針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂と張り詰めた緊張感に包まれていた。

「……味噌汁の温度は適温か」

「はい、旦那様。鈴様が火傷なさらぬよう、かつ香りが最も立つ温度に調整しております」

「焼き魚の骨は?万が一にも喉に刺さるようなことがあってはならん」

「はっ。小骨一本残さぬよう、料理長が二重に確認を済ませております」

 重厚な上座に腰掛けた西園寺景明は眉間に深い皺を刻みながら、給仕の女中たちに確認を繰り返していた。その口調は威圧的ではないものの、軍人特有の厳格さと何より“失敗は許されない”という悲壮なまでの真剣さが滲み出ている。

 あの日、二人が婚姻予約誓約書に署名し、正式な婚約者として同居を始めてから早一ヶ月。季節は移ろいつつあるというのに西園寺家の朝だけは壊れたレコードのようにこの光景を繰り返していた。

 彼は今、帝都の平和を守る作戦を指揮しているわけではない。ただ、愛する婚約者・小鳥遊鈴との朝食を完璧なものにしようと一ヶ月間一日も欠かさず、この厳重なセレモニーを行っているだけなのだ。

(……野中さん、一ヶ月経ってもまだすごく緊張してる……むしろ悪化してない?)

 そのすぐ隣に席を用意された鈴はカチコチに固まっている景明の横顔を見て、愛おしそうに微笑んだ。

 豪華絢爛なシャンデリアの下、磨き上げられたテーブルには一般市民が見れば目を丸くするような豪勢な和朝食が並んでいる。だが、空気があまりに重すぎて、美味しい湯気さえも遠慮がちに立ち上っているように見えた。

 景明は理想の夫になろうと必死だった。かつて貧乏長屋で鈴に見せてしまった“情けない書生、野中みのる”の姿を払拭し、頼れる名家の当主として、彼女をエスコートせねばならない。

 その責任感と鈴への溢れんばかりの愛情が化学反応を起こした結果、彼は“絶対にミスをしてはならない”という強迫観念に囚われ、食事を楽しむどころか検閲官のような顔つきになってしまっていたのだ。

「す、鈴」

 不意に名を呼ばれ、鈴は背筋を伸ばした。

「は、はい、西園寺様」

「……口に合わぬか?もし味付けが濃いようなら、すぐに作り直させるが」

「いいえ、とっても美味しいです!……ただ、その、西園寺様があまりに真剣なお顔をされているので私も少し緊張してしまって」

 鈴が正直に伝えると景明はハッとしたように目を見開いた。鉄仮面のような無表情の下で彼が激しく動揺しているのが分かる。耳の先が赤くなり、視線がわずかに泳いだ。

「そ、そうか……すまない。私はただ、君に最高の朝を迎えてほしくて……」

(ああ、もう。本当に不器用な人)

 この男は本質的にはあの長屋で一緒にちゃぶ台を囲んでいた野中みのるそのままだ。ただ、着ているものが立派な軍服になり、背負っているものが大きくなっただけでその根底にある優しさは何一つ変わっていない。けれど、このままではせっかくの朝食が味気ないものになってしまう。

 鈴は決意した。この張り詰めた空気を長屋仕込みの“温かい無作法”でほぐしてあげようと。

「あの、西園寺様。私、一つお願いがあるんです」

「なんだ。言ってみろ。君の願いなら、可能な限り叶えよう」

「ふふ、そんな大層なことじゃありません。その代わり……“猫まんま”をしませんか?」

 鈴は悪戯っぽく瞳を輝かせ、とんでもない提案を口にした。一瞬、食堂の空気が止まった。控えていた執事が目を丸くし、女中が息を呑む。

 猫まんま。それは味噌汁をご飯にかけるという、日本料理におけるマナー違反。ましてや格式高き西園寺家の食卓において、それは許されざる行為にも等しい提案だった。

「ね、こ……まんま……?」

「はい。お行儀が悪いのは分かっています。でも、昔、本で読んだんです。温かいご飯にお味噌汁をかけて、ふぅふぅしながらかき込むのが一番美味しい食べ方だって。……西園寺様と一緒にやってみたいんです」

 景明が呆然と復唱する。鈴は知っていた。かつて長屋で野中がお金のない時、冷やご飯に残り物の味噌汁をかけて「これが一番のご馳走だ」と笑っていたことを。あれは貧乏だからこその知恵だったけれど、二人で食べたあの味はどんな高級料理よりも温かく、幸せだった。

 鈴はあの時の飾らない笑顔をもう一度彼に見せてほしかったのだ。

 景明は数秒間、硬直していた。脳内で“公爵家当主としての品位”と“鈴の願いを叶えたいという本能”が激しく衝突しているのが手に取るように分かる。そして、勝ったのは当然、愛だった。

「……よろしい」

 景明は重々しく頷くと執事に向かって厳かに告げた。

「聞いたな?これより、当家の朝食メニューを変更する」

「は……はい?」

「鈴が所望したのはただの汁かけ飯ではない。“究極の猫まんま”だ。ならば西園寺家の総力を挙げて、最高の一杯を用意するのが当主の務め!」

 彼の瞳に奇妙な熱意が宿る。それは軍人としての決断力と恋する男の盲目さが融合した瞬間だった。

「米は最高級の新米を使用せよ!味噌は秘蔵の赤味噌だ!そして……鰹節だ!料理長に伝えろ。最高級の本枯節を今すぐ用意させろと!」

「か、畏まりました!」

 執事が慌てて厨房へと走った。屋敷中がざわめき立つ中、景明だけが大真面目な顔で鈴に向き直った。

 やがて、恭しい足取りで料理長が現れた。その手には、桐箱に入った琥珀色に輝く削り節が捧げ持たれている。

「待たせたな、鈴。……最高の準備をさせよう」

 削りたての芳醇な香りがふわりと食堂に広がった。それは不思議とあの長屋の匂いに似ていた。

「旦那様、枕崎産の本枯節、極薄削りでございます」

「うむ。ご苦労」

 景明は立ち上がると自らその器を受け取った。

「だ、旦那様?それは私どもが……」

「いや、いい。……最後は私がやる」

 景明は器を手に鈴の元へと歩み寄った。そして彼女の目の前にある、味噌汁がたっぷりとかけられた丼の上へ、自らの手で削り節を散らし始めた。

 その手つきはまるで宝石を扱うかのように慎重で優しかった。舞い落ちる黄金色の削り節が湯気の上で踊る。香ばしい香りが立ち上り、鈴の鼻腔をくすぐった。

「……軍人の手は人を傷つけるためだけにあるのではない。愛する妻の食事を彩るためにもあるべきだ」

 小さく呟かれた言葉に鈴の胸がときめく。

 この人はどこまで真面目で、どこまで愛おしいのだろう。

「……はあ」

 部屋の入り口から、深いため息が聞こえた。そこには銀縁眼鏡をかけた冷徹な男、景明の副官である氷室が立っていた。彼は額に手を当て、呆れたように首を振っている。

「……早朝から緊急の呼び出しがあったと思えば。国家の最高戦力と名高いお方が猫まんまの仕上げに精を出しているとは。……平和ですね」

「氷室か。貴様も食うか?究極だぞ」

「遠慮しておきます。私の胃袋は少佐の愛という名の高カロリー料理を受け止めきれません」

 景明は真顔で言った。氷室は呆れ果てた視線を鈴に向け、しかしその奥に微かな安堵の色を浮かべて一礼した。

「小鳥遊嬢。……少佐の肩の力を抜かせるとはお見事です。どうかこの不器用な男をこれ以上暴走させないようにお願いしますよ」

「ふふ、努力します」

 鈴は笑った。目の前には湯気を立てる究極の猫まんま。艶やかな白米、黄金色の味噌汁、そして景明が心を込めてかけてくれた削り節。

 鈴は両手で丼を包み込んだ。温かい。その熱が手のひらから胸の奥まで伝わってくる。

「いただきます」

 行儀悪く、箸でかき込む。口に入れた瞬間、爆発的な旨味が広がった。米の甘み、味噌のコク、そして削り節の強烈な香り。それは間違いなく、世界で一番贅沢で世界で一番温かい味だった。

「……おいしい」

 鈴が顔をほころばせると景明もまた、憑き物が落ちたように表情を崩した。

「そうか……。それは、よかった」

 彼もまた、自分用の器を手に取り、鈴と同じようにかき込み始めた。その音が静かな食堂に響く。それは決して上品な音ではなかったけれど、二人の間にある見えない壁を取り払うには十分な音色だった。

「ふふっ、西園寺様、お口に鰹節がついてますよ」

「……鈴こそ、米粒がついているぞ」

 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。使用人たちも氷室も、その光景を見て苦笑いしつつも温かい眼差しで見守っていた。

 ああ、これでいいのだ。格式張った侯爵家も冷徹な軍人も関係ない。ここにあるのはただ不器用な二人が食卓を囲む、ささやかな幸せだけなのだから。しかし、その穏やかな時間は一通の封筒によって破られることとなる。

「旦那様。軍司令部より、至急の親展でございます」

 執事が銀盆に乗せて持ってきたのは金箔の縁取りがなされた豪奢な招待状だった。

 景明は口元の汚れをナプキンで拭うと瞬時に鬼少佐の顔に戻り、封を切った。中身を一読した瞬間、彼の眉間に再び深い皺が刻まれる。

「……戦勝記念舞踏会か」

「舞踏会!?」

 鈴が目を輝かせて身を乗り出した。

「素敵!音楽とダンス、それに綺麗なドレス!私、物語の中でしか見たことありません!」

 女学生なら誰もが憧れる華やかな舞台。鈴の心は一気に浮き立った。

「西園寺様と踊れるんですね?私、足手まといにならないように練習しますから!」

 だが、景明の反応は鈍かった。いや、あからさまに憂鬱そうに溜息をついたのだ。

「……鈴。君は無理に出席しなくてもいい」

「えっ?どうしてですか?」

「あそこは……戦場だ。ハイエナのような男どもが獲物を探してうろついている。君のような無防備な華を晒せば、一瞬で群がられるぞ」

 景明の瞳に暗く重たい光が宿る。それは独占欲という名の嫉妬の炎だった。彼は知っているのだ。ドレスアップした鈴がどれほど魅力的になるかを。そして、それを他の男たちの目に晒すことが自分の精神衛生上、極めて危険であることを。

「私だけの鈴でいてほしい。……誰にも、指一本触れさせたくない」

 小さく呟かれた本音は鰹節の香りの中に溶けて消えたが鈴の耳にはしっかりと届いていた。

(もう、またそんなこと言って……)

 鈴は嬉しさと呆れが入り混じった溜息をつきつつ、それでも心の中で小さく拳を握った。

 これはチャンスだ。彼が嫌がるということはそれだけ鈴が彼にとって“自慢の婚約者”になれる可能性があるということ。完璧に着飾って、彼をときめかせて堂々と隣を歩く。

「わかりました、西園寺様の婚約者として恥ずかしくない姿をお見せします。……覚悟、していてくださいね?」

 鈴の宣戦布告に景明は頭を抱え、氷室は「また胃薬の量が増えそうだ」と天を仰いだ。

「見て、あの方……」

「なんて素敵な殿方なの……映画俳優かしら?」

「いえ、あの立ち姿、きっと軍人様よ。でも、今日は洋装だわ……」

 放課後の鐘が鳴り響く、帝都女子学習院の校門前。下校する女学生たちの黄色い歓声と熱っぽい溜息が春の霞のように充満していた。

 彼女たちの視線の先、校門の石柱の横に一台の漆黒のリムジンが停まっている。そしてその傍らには周囲の景色をそこだけ切り取ったかのような圧倒的な存在感を放つ一人の紳士が佇んでいた。

 仕立ての良い、深みのあるチャコールグレーの英国製スリーピーススーツ。胸元には銀の懐中時計の鎖が光り、整髪料で撫でつけられた黒髪の下、彫刻のように整った美貌が少しの憂いを帯びて校舎を見上げている。

 西園寺景明である。

「す、鈴ちゃん!あれ!」

 友人である千代子に背中を叩かれ、鈴はカバンを抱えたまま目を丸くした。

「……え?うそ、野中さ……西園寺様!?」

 まさか、迎えに来ているなんて聞いていない。鈴が慌てて駆け寄ると景明は彼女の姿を認めた瞬間、氷のような無表情をふわりと緩めた。その変化に周囲の女学生たちが「きゃあ!」と色めき立つ。

「西園寺様、どうされたのですか?お約束は……」

「すまない。公務が早く片付いたのでな」

 景明は少し照れくさそうに視線を逸らした。

「君の驚く顔が見たくて、連絡を入れなかった。……迷惑だったか?」

「そ、そんなわけありません!……嬉しいです、すごく」

 鈴が頬を染めて答えると景明は満足げに頷き、自然な動作で彼女の手を取った。

「なら、いい。……さあ、行こうか。今日は君を攫いに来た」

「えっ、どこへ?」

「銀座だ。……舞踏会の準備がまだだろう?」

 スマートなエスコートで鈴を広々とした後部座席へと招き入れる。

「ご、ごきげんよう、皆様」

 鈴が友人たちに小さく会釈をして車に乗り込むと景明も優雅に一礼し、自らも乗り込んだ。重厚なドアが閉まる音が学校という名の日常と彼との時間という非日常を分かつ合図のように響いた。

 車は滑るように動き出し、夕暮れの帝都を走り抜けていく。車内は外の喧騒とは隔絶された、二人だけの甘い密室だった。

「……ふふっ」

 鈴は膝の上で鞄を抱きしめながら、思わず笑みをこぼした。今日の彼女は矢絣柄の着物に海老茶色の袴。足元は編み上げブーツという、典型的な女学生の制服姿だ。対して隣に座る景明は洗練された大人のスーツ姿。その対比がなんだか秘密の逢瀬のようで鈴の胸をくすぐった。

「……鈴。私の顔に何かついているか?」

「い、いえ!ついていません!……ただ、その……」

 鈴は上目遣いで隣に座る景明を盗み見た。

「今日の西園寺様、いつもの軍服と違って……その、とっても素敵だなと思って」

「……そうか」

 景明が口元を手で覆う。

「君に恥をかかせるわけにはいかないからな。……それに制服姿の君と並ぶなら、軍服よりもこちらの方が……いや、なんでもない」

 彼は言葉を濁したが耳が微かに赤い。

(もしかして、私の制服姿に合わせて、学生に見えるように……は無理だけど、威圧感のない格好を選んでくれたのかな?)

 不器用な気遣いに鈴の胸が温かくなる。

「……君のその姿も」

 不意に景明が鈴の袴姿に視線を落とした。

「よく似合っている。……清廉で可憐だ。だが、今日はその制服を脱いでもらうぞ」

「え?」

「デパートに着いたら、君を世界一の淑女に変身させる。……覚悟しておけ」

 景明の瞳に暗く熱い光が宿る。車は銀座のランドマークである白亜の殿堂の百貨店の前で静かに停止した。ドアマンが扉を開ける。

「参りましょう、西園寺様」

「ああ。……足元に気をつけろ」

 制服姿の鈴とスーツ姿の景明。年齢差と身分差、そして溢れ出る幸福感。そのあまりにも絵になる二人の登場に銀座の街がどよめいたのは言うまでもなかった。

 デパートの特別室。

 重厚な樫の木の扉が開かれた瞬間、漂ってきたのは最高級の紅茶の香りと富の匂いだった。

 深紅の絨毯が足音を吸い込み、壁にはフランス製のタペストリーが飾られている。一般客の喧騒から隔絶された、選ばれた上流階級のみが入室を許される聖域。

「いらっしゃいませ、西園寺様。本日は舞踏会のドレスをお探しとのことで……」

 支配人と数名の店員たちが緊張した面持ちで深々と頭を下げる。彼らの背後には色とりどりのドレスが掛けられたラックがずらりと並んでいた。シルク、ベルベット、レース……ありとあらゆる最高級の生地が照明を受けて波のように煌めいている。

 景明は優雅な動作で革張りのソファに深く腰掛けると足を組み、静かに口を開いた。

「……素晴らしいな」

 短く、低い声が部屋に響く。

「私の婚約者のためにこれほどの数を揃えてくれたことに感謝する」

「は、はいっ!西園寺様のお気に召すよう、当店にある最高級品をすべて……!」

「ああ、選ぶ必要はない」

 景明は支配人の言葉を遮り、鷹揚に手を振った。その仕草には揺るぎない自信と圧倒的な財力、そして何より鈴への底知れぬ愛が滲み出ていた。

「ここに用意されたもの、その全てを試着させてもらおう」

「……え?」

 鈴と店員たちの声が重なる。

「す、全て、ですか……?ここには十着以上ございますが……」

 鈴が驚いて尋ねると景明は慈愛に満ちた瞳で彼女を見つめた。

「ああ。私は君のあらゆる可能性を見てみたい。清楚な白も、情熱的な赤も、高貴な青も。……君が纏えば、どんな布切れも至高の芸術になるだろう。それを一つたりとも見逃したくないんだ」

 それは単なる贅沢ではない。時間を惜しまず、手間を厭わず、ただひたすらに鈴という存在を堪能したいという、崇拝にも似た情熱。

 店員たちはその言葉に酔いしれたように頬を染め、「かしこまりました!」と声を弾ませた。

「さあ、小鳥遊様!こちらへ!」

 そこからは夢のようで甘美な時間の始まりだった。試着室のカーテンが開くたび、鈴は異なる華へと生まれ変わった。

 淡いピンクのシフォンドレスを纏えば、春の妖精のように。深い紺色のベルベットを着れば、夜空を統べる女王のように。総レースのアンティークドレスを着れば、可憐な聖女のように。

 景明は決して退屈な素振りを見せなかった。一着ごとに居住まいを正し、熱っぽい視線で鈴の全身をくまなく愛撫するように見つめ、惜しみない賛辞を贈る。

「……美しい。その色は君の肌の白さを引き立てている」

「そのドレープの揺れ方……君が動くたびに私の心まで揺さぶられるようだ」

「……ああ、言葉が出ない。君は私の想像を常に超えてくる」

 彼の言葉一つ一つが甘い蜜のように鈴の心を満たしていく。

(どうしよう、幸せすぎて怖い。野中さんが私だけを見てくれている。私のためだけにこんなに……)

 試着室の鏡に映る自分の顔はどんな高価な化粧品を使うよりも紅潮し、瞳は潤んで輝いていた。 それは紛れもなく、愛されている女の顔だった。しかし、その幸福な舞踏会の時間は最後の一着によって劇的な転調を迎えることとなる。

「……西園寺様。こちらが最後の一着、本日パリから届いたばかりの最新モードでございます」

 店員が恭しく、そして誇らしげてきたのはシャンパンゴールドのイブニングドレスだった。

「帝都でもまだ誰も袖を通していない、最先端のデザイン。小鳥遊様の持つ“大人の女性”としての魅力を極限まで引き出す一着かと存じます」

「へぇ……!すごく綺麗!黄金の液体みたい……」

 鈴が目を輝かせる。滑らかなサテン生地は照明を浴びて輝き、見る者を誘惑するような妖しい光沢を放っていた。

 景明は一瞬、目を細めたが鷹揚に頷いた。

「……いいだろう。見てみたい。君がその黄金をどう着こなすのかを」

 数分後。衣擦れの音と共に試着室のカーテンがゆっくりと開かれた。

「……お待たせしました。どう、でしょうか?」

 そこに立っていたのはもはや可憐な少女ではなかった。

 傾国の美女。黄金の液体のような生地が鈴の身体の起伏に吸い付くようにフィットし、女性特有の柔らかな曲線を艶めかしく描き出している。だが、その真髄は彼女がくるりと背を向けた瞬間に露わになった。

「…………っ」

 部屋中の空気が一瞬にして真空になったかのような衝撃が走った。

 背中に布がないのだ。

 当時の日本の常識、いや、倫理観すらも挑発するような大胆なカッティング。肩甲骨から腰のくびれの際どいラインまで鈴の雪のように白く、陶磁器のように滑らかな肌が一切の遮蔽物なく露わになっていた。

 背骨のラインに沿って落ちる影がどうしようもないほどに扇情的で見る者の理性を根こそぎ奪い去るような破壊力を持っていた。

「…………」

 景明は立ち上がっていた。いつ立ち上がったのか、誰も気づかなかった。ただ、先ほどまでの余裕のある紳士の仮面は音を立てて砕け散っていた。彼の瞳孔は限界まで開き、暗く、重く、底知れぬ渇望とどす黒い独占欲が渦を巻いている。

 彼は無言のまま、捕食者のような足取りで鈴の元へ歩み寄った。

「……西園寺、様?あの、似合いませ、んか……?」

 鈴が不安げに振り返り、その白い首筋が露わになった瞬間。視界が暗転した。温かい闇。鼻腔をくすぐる白檀と景明自身の雄の匂い。

 景明が捨てるように脱いだジャケットが鈴の頭からすっぽりと被せられ、そのまま背後から強い力で抱きすくめられたのだ。

「……だめだ」

 耳元で囁かれた声は鼓膜が痺れるほど低く、そして熱を帯びていた。それは理性と本能の境界線で軋む、男の悲鳴にも似ていた。

「え……?」

「見せるな。……隠せ」

 景明の腕に力がこもる。肋骨がきしむほどの強さ。けれど、そこには震えるほどの愛おしさが込められていた。彼は周囲の店員たちを睨みつけた。その眼光は戦場で敵を射殺する時のそれよりも鋭く、冷酷だった。

「……全員、下がれ。今すぐだ。……私の鈴を見るな」

 店員たちが悲鳴を上げそうになるのをこらえ、慌てて部屋から退出していく。重い扉が閉まり、完全な二人きりの空間になると景明はジャケット越しに、露わになった鈴の背中を震える指先でなぞった。

「ひゃうっ……!?」

 布一枚隔てただけの熱い指の感触に鈴の背筋に電流が走る。

「こんな……こんな無防備な姿を他の男の目に晒すなど、できるわけがないだろう」

「の、野中さん……?」

「もし舞踏会で男どもがこの肌を見たら……私はその全員の眼球をくり抜いてしまうかもしれない。……いや、間違いなくそうする」

 冗談には聞こえなかった。彼の吐息が鈴のうなじにかかる。熱い。火傷しそうなほどに熱い。

「美しい。美しすぎて、気が狂いそうだ。……鈴」

 景明は祈るように、すがるように、鈴の肩に額を押し付けた。

「この姿を見ていいのは夫となる私だけだ。……ここにある白磁の肌も、その曲線も、甘い香りも、すべて私のものだ。……一ミリたりとも誰にも渡さない」

 それは溺れるほどの愛。スマートさなどかなぐり捨てた、なりふり構わぬ独占欲。けれど、その重さが、その湿度が、鈴にはたまらなく愛おしかった。

(ああ、この人は、本当に私を……)

 恐怖など微塵もない。あるのは愛されているという全能感と、とろけるような甘い痺れだけ。

「……はい、あなただけのものです。西園寺様」

 鈴がそっと彼の手を握り返すと景明は深く安堵の息を吐き、愛おしそうに鈴のこめかみに口づけを落とした。

「……このドレスは購入する。だが、屋敷の奥深くに封印する……」

「ふふ、………はい」

 熱狂のような試着が終わり、景明は少し落ち着きを取り戻して会計を済ませた。だが、その耳がまだ赤く染まっているのを鈴は見逃さなかった。

「……すまない、取り乱した。少し頭を冷やしてくる。車を回させておくから、君は準備ができたら来るんだ」

「はい。……あの、私、少しお化粧室へ行ってまいります」

「ああ。気をつけてな。……すぐに戻るんだぞ」

 名残惜しそうに何度も振り返りながら去っていく景明を見送り、鈴は火照った頬を手で仰ぎながら特別室を出た。

 胸のドキドキが収まらない。足元がふわふわする。世界が輝いて見える。愛の魔法にかかった鈴は気づいていなかった。その光の裏側、ショーウィンドウの鏡の奥底から、凍てつくような冷ややかな視線が彼女を捉えていることに。

 地下水道の事件で煮え湯を飲まされた組織、その新たな刺客の毒牙が幸福な獲物の喉元へと迫っていた。

(……見つけたわよ。あの方の心を奪い、骨抜きにした子猫ちゃん)

 デパートの化粧室はそれ自体がひとつの宮殿のようだった。白大理石の床は雪原のように磨き上げられ、天井からは小ぶりのシャンデリアが柔らかな光を落としている。壁一面に張られた巨大な鏡は曇りひとつなく、銀座の華やぎを一時忘れさせるほどの静寂を映し出していた。

「ふぅ……」

鈴は陶器の洗面台に手をつき、小さく息を吐いた。鏡の中の自分と目が合う。頬はまだ林檎のように赤く、瞳は熱っぽく潤んでいる。

 先ほどの景明の姿、なりふり構わぬ独占欲と、耳元で囁かれた甘い愛の言葉が鼓膜の奥で反響し続けていた。

(野中さん……あんな顔、するんだ)

いつもの不器用で優柔不断な野中みのるとも冷徹な鬼少佐とも違う。ただ一人の男として鈴を求め、焦がれる切実な表情。

 思い出しては胸が締め付けられ、同時に堪らないほどの幸福感がこみ上げてくる。

 早く戻らなくては。彼はきっと忠犬のように車の前で待っているはずだ。

 鈴は頬の火照りを誤魔化す様に髪型を直そうと、さらに鏡を覗き込んだ瞬間、世界が歪んだ。

「……あら。随分と幸せそうなお顔ね」

 不意に。鈴の背後ではなく、鏡の向こう側から声がした。

「え……?」

鏡の中。自分の背後にいつの間にか見知らぬ女が立っている。いや、違う。振り返っても、背後には誰もいない。

 その女は鏡の中に“だけ”存在していた。

 豪奢な着物を着崩し、紫煙のような薄紫の羽衣を纏った美女。艶やかな黒髪を夜会巻きにし、その白魚のような指先には毒々しいほどに鮮やかな紫色の扇子が握られている。その瞳は爬虫類のように冷たく、濡れていた。

「だ、誰……?」

 鈴の声が震える。女は扇子で口元を隠し、笑った。その笑い声は鈴の頭の中に直接響くように粘りつく不快な音色だった。

「……あら。随分と幸せそうなお顔ね」

 不意に。鈴の背後ではなく、鏡の向こう側から声がした。

「え……?」

 鈴は弾かれたように顔を上げた。鏡の中。自分の背後にいつの間にか見知らぬ女が立っている。

 いや、違う。振り返っても背後には誰もいない。その女は鏡の中に“だけ”存在していた。

 豪奢な着物を着崩し、紫煙のような薄紫の羽衣を纏った美女。艶やかな黒髪を夜会巻きにし、その白魚のような指先には毒々しいほどに鮮やかな紫色の扇子が握られている。その瞳は爬虫類のように冷たく、濡れていた。

「だ、誰……?」

 鈴の声が震える。女は扇子で口元を隠し、笑っていた。その笑い声は鈴の頭の中に直接響くように粘りつく不快な音色だった。

「初めまして、可愛い子猫ちゃん。……いいえ、あの方の心を盗んだ泥棒猫さんと呼ぶべきかしら?」

「どろぼう、ねこ……?」

「ええ。西園寺少佐……あの方の冷徹な瞳、氷のような美しさ。私だけがあの方の凍てついた心を理解し、溶かして差し上げようと思っていたのに」

 女の瞳が憎悪と嫉妬で妖しく細められた。

「まさか、こんな乳臭い小娘が横から攫っていくなんて。……許せないわ。あの方の隣に立つのは貴女のような小娘ではなく、酸いも甘いも噛み分けたこの私こそが相応しいの」

 そこにいたのは過激派組織の幹部、胡蝶。そして彼女の感情に任務は関係ない。ただ純粋な女の嫉妬。

 彼女は偶然見かけた鈴があまりにも幸せそうで、そして景明があまりにも愛おしそうに鈴を見ていたことに我慢ならなかったのだ。刹那、彼女が握る扇子からきらびやかな光る粉のようなものが舞い散った。

 それは美しい燐光を放ちながら鏡の表面をすり抜け、現実世界の鈴へと降り注ぐ。

「ようこそ、私の箱庭へ。……あの方に愛される資格があるか、試してあげる」

世界が反転した。

 鏡が割れるような音が鼓膜を劈いた。次の瞬間、鈴の視界からデパートの化粧室が消失した。床が消え、天井が遠ざかり、代わりに現れたのは無限に続く“試着室”の迷宮だった。

「きゃっ!?」

 鈴はよろめき、その場にへたり込んだ。見渡す限り、鏡、鏡、鏡。合わせ鏡の無限回廊がどこまでも続いている。

 上下左右の感覚が狂い、三半規管が悲鳴を上げる。空気は澱み、甘ったるい花の香りと鼻を刺すような鉄錆の臭いが混じり合っていた。

「ここ……どこ?西園寺様……!?」

 鈴が叫ぶが声は鏡に吸い込まれ、こだまとなって虚しく返ってくるだけだ。

「ふふふ。呼んでも無駄よ」

どこからともなく、あの女の声が響く。

「ここは私の夢の中。愛しいあの方の声も助けも届かない。……さあ、見せてあげる。貴女の愛が招く、残酷な真実を」

 指を鳴らす乾いた音がした。すると目の前の鏡の表面が水面のように波打ち、ある映像を映し出した。

 そこにいたのは景明だった。軍服を着て、執務室の机に向かっている。だが、その表情は鈴が知る彼ではない。

 氷のように冷たく、侮蔑に満ちた目で書類をゴミ箱に捨てていた。その書類には“小鳥遊鈴”の名前があった。

「……チッ。面倒な女だ。家柄だけの没落令嬢など、本来なら私の相手ではない。任務の邪魔だ。……愛しているフリをするのもそろそろ限界だな」

「嘘……」

 鏡の中の景明が吐き捨てる。鈴は首を振った。

「嘘よ!西園寺様はそんなこと言わない!」

「そうかしら?男は皆、嘘つきよ。貴女自身が本のタイトルにしているじゃない?」

 胡蝶の声が嘲笑う。鏡の映像が変わる。今度はもっと残酷な光景だった。長屋のちゃぶ台。そこで食事をする野中みのる。だが、彼はひどくやつれ、苦しそうに咳き込んでいた。

「……鈴さんといなければ。僕はもっと自由になれたのに君の笑顔は重いんだ。君の期待が君の存在が、僕を縛り付ける鎖なんだよ……!」

「やめて……やめてっ!!」

 野中が恨めしそうに鈴を見つめる。鈴は耳を塞いだ。心の奥底に封印していた不安。自分は彼にふさわしくないのではないか。自分の存在が軍人としての彼の足枷になっているのではないか。

 そんな誰にも言えなかった小さな棘が、この空間では巨大な槍となって心臓を貫いてくる。

「愛なんて呪いよ。貴女のようなか弱い小娘があの方の足枷なの。……貴女さえいなければ、あの方は誰にも弱みを見せない、完全無欠な英雄でいられるのに」

 景色がまた変わる。今度は血の海だった。暗い路地裏。瓦礫の山。その中心に野中が倒れている。腹部からおびただしい量の血を流し、その瞳は光を失いかけていた。

「……ごほっ。……鈴、さん……君を守ろうとして……僕は、死ぬんだ……君のせいだ……君さえいなければ……」

「いやぁぁぁぁぁっ!!!!」

 野中の血にまみれた手が虚空を掴む。鈴は絶叫した。鮮烈すぎる幻覚。鉄錆の臭い、血の臭いが鼻腔を満たす。冷たくなっていく野中の手が鈴の足首を掴んだような感触が走った。

 恐怖と絶望。自分の愛が彼を殺す。自分が彼を不幸にする。その可能性という名の毒が鈴の精神を急速に浸食していく。

(私が……私が野中さんを殺すの?嘘つきなのは私?何も知らないふりをして、彼の優しさに甘えている私が彼を……!)

 鈴の心は砕け散る寸前だった。闇の中で胡蝶の高笑いが響く。

「そう、壊れておしまい。身の程知らずのお人形さん。貴女が壊れて消えれば、あの方はまた美しい“孤独な鬼”に戻れる……。そうしたら私が優しく慰めて、飼い慣らして差し上げるわ」

 その時だった。鈴の懐の中で硬質な感触がした。震える手で鈴は無意識にそれを握りしめた。

指先に触れたのは冷たく、滑らかな感触。

 それは万年筆だった。あの日。婚姻予約誓約書を書いたあとに彼から譲り受けた、野中みのる愛用の万年筆。手入れはされているが傷だらけでインクの染みがついた、世界で一番大切な共犯の証。その感触が電気のように鈴の脳裏に走った。

(……温かい)

 幻覚の中の野中は冷たかった。言葉は鋭く、目は恨みに満ちていた。けれど。この万年筆に残る記憶はあまりにも温かい。

 “究極の猫まんまを作る!”と叫んで必死に鰹節をかけてくれた彼。“破廉恥だ!”と顔を真っ赤にして、誰にも見せないように抱きしめてくれた彼。

 不器用で一生懸命で、言葉足らずで、でも、その行動のすべてが痛いほどの愛で出来ている人。

(……違う)

 鈴の瞳に理性の光が戻る。恐怖で震えていた指先に力がこもる。万年筆を祈るように強く、強く握りしめる。

(私の知る野中さんは……西園寺様は絶対にそんなこと言わない!)

 彼は自分が辛い時ほど笑う人だ。自分が傷ついても私には「大丈夫だ」と嘘をつく人だ。

 “君のせいだ”なんて恨み言を言うくらいなら、彼は黙って私の前から消えることを選ぶ。そういう馬鹿で愛おしい人なのだ。

「……うそ、つき」

 鈴が呟いた。その声は小さかったが確かな熱を帯びていた。

「 何か言ったかしら?」

 鈴は顔を上げた。涙で濡れた瞳が毅然とした光を放ち、鏡の迷宮を睨みつける。

「野中さんはもっと嘘が上手なのよ!!」

 鈴の声が響き渡った瞬間。彼女が握りしめた万年筆から目に見えない衝撃波、否、温かな光の波動が奔流となって溢れ出した。

 それは彼女の異能“修復”。本来は物理的なモノを直す力だが、彼女の“彼との絆を守りたい”、“彼の真実を歪めさせない”という強烈な拒絶の意志が精神世界そのものを“あるべき姿”へと修復しようと作用したのだ。

 空間に亀裂が走った。おぞましい血の幻影も冷酷な景明の姿も硝子細工のようにひび割れていく。

「なっ……!?嘘でしょう!?私の幻夢が……こんな小娘の、幼稚な愛ごときに打ち破られるというの!?」

「私の野中さんを……勝手に喋らせないで!!」

 鈴が一歩踏み出すと足元の鏡が粉々に砕け散った。まやかしの迷宮が崩壊していく。鉄錆の臭いが消え、代わりに懐かしい、愛しい人の匂い、白檀とインクの香りが満ちてくる。

「っ……!!」

 閃光。そして浮遊感。

「…ず!鈴!!」

 焦燥に満ちた、聞き慣れた声。鈴が目を開けるとそこは元の化粧室だった。鏡は一枚も割れていない。ただ、鈴は床にへたり込み、肩で息をしていた。そして入り口には息を切らして駆けつけた景明の姿があった。

「西園寺……様……」

「鈴!無事か!?」

 景明が脱兎のごとく駆け寄り、鈴を抱き起こす。その腕の温かさは幻覚の冷たさとは対極にある、生きた人間の熱だった。

 鏡の中。一瞬だけ映った胡蝶の姿は悔しげに顔を歪め、そして煙のように消え失せた。

「……憶えていなさい。次はこうはいかないわ」

 捨て台詞は誰にも聞こえない風となって消えた。

「野中、さん……」

 鈴は景明のスーツの胸元を、万年筆を握ったままの手で掴んだ。

「……怖かった……」

 気丈に振る舞った心が安心感と共に決壊する。

「大丈夫だ。私がいる。もう大丈夫だ」

 景明は状況を完全には理解していない。だが、鈴がただならぬ恐怖に晒されたことだけは本能で悟り、その身体を力一杯抱きしめた。

「遅くなってすまない……。さあ、帰ろう。私たちの家に」

 その日、二人の銀座デートは唐突に終わりを告げた。だが、鈴の手の中にはドレスよりも高価な宝石、彼を信じ抜いたという確かな愛の証が握られていた。

 帝都を覆う藍色の帳がいつの間にか漆黒の闇へと変わっていた。帰路につく西園寺家のリムジンは夜の雨に濡れた銀座の舗道を滑るように走り抜けたが車内は深海のような沈黙に包まれていた。

 窓ガラスを叩く雨粒がまるで涙のように流れていく。

 鈴は景明の隣で小さく身体を震わせていた。彼女の両手はあの万年筆を、野中みのるの形見を強く握りしめたままだ。

 瞳の焦点は定まっていない。時折、大きく肩を跳ねさせては荒い呼吸を繰り返す。

(野中さんが、死んじゃう……私が彼を不幸にする……)

 幻覚は打ち破られたはずだった。理性では分かっている。あれは敵が見せた悪夢で、隣にいる彼は生きていて温かい。けれど、心の柔らかい部分に突き刺さった棘はそう簡単に抜けるものではない。

 瞼を閉じれば鮮血に染まった彼が「君のせいだ」と恨めしそうに呟く声が鼓膜の奥で再生される。その映像があまりにも鮮明すぎて、現実の彼の温もりさえも嘘のように感じてしまうのだ。

「……鈴」

 景明が苦渋に満ちた声で名を呼んだ。彼は震える鈴の身体を抱き寄せたい衝動と触れれば壊れてしまいそうな彼女への恐怖の狭間で葛藤していた。だが、その震えが止まらないのを見て、彼は意を決して彼女を包み込んだ。

「すまない……。私がついていながら君につらい思いを……」

 その腕の強さ。衣服越しに伝わる体温。白檀の混じった、落ち着く香り。それらが凍りついた鈴の感覚を少しずつ現実に引き戻していく。けれど、引き戻された現実はあまりにも残酷な“もしも”を突きつけてくる。

(もし、本当に私のせいで彼が傷ついたら?もし、私の愛が彼を殺す呪いなのだとしたら?)

「……ごめんなさい……私が……私が弱かったから……」

「何を言う。謝るのは私だ。君を守るはずの私が目を離した隙に……!」

 鈴の唇から、掠れた声が漏れた。景明の声には自身への激しい怒りが滲んでいた。

 彼は察していた。鈴を襲ったのが肉体的な暴力ではなく、精神を蝕む毒であったことを。そしてその毒が鈴の最も恐れる“愛する人の喪失”を突いたことを。車は静かに西園寺邸の車寄せに滑り込んだ。

「……歩けるか?」

 景明の問いに鈴は首を横に振ろうとして、足に力が入らないことに気づいた。

「失礼する」

 景明は躊躇なく、鈴を横抱き、つまりお姫様抱っこをした。

「さ、西園寺様……使用人のみなさんが見て……」

「見させておけ。君が歩けないのなら私が足になる。それだけの話だ」

 彼の足取りは力強く、迷いがない。玄関で出迎えた執事や女中たちが驚いたように目を見開くが景明の“誰も近づくな”という鋭い眼光に射抜かれ、無言で頭を下げて道を開けた。

 広い屋敷の中、静かに足音だけが響く。

 景明は鈴を連れて、最も警備が厳重で、彼の匂いが最も色濃く残る場所、自室へと向かった。

 暖炉に火が入ると薪が爆ぜる音と共にオレンジ色の炎が揺らめいた。

 景明の私室にある革張りのソファに座らせられた鈴は、彼が用意した厚手の毛布にくるまり、膝を抱えていた。部屋の照明は落とされ、暖炉の灯りだけが二人の影を壁に長く伸ばしている。

「……飲め」

 景明が差し出したのは湯気を立てるマグカップだった。甘く、濃厚なチョコレートの香り。ココアだ。それも女中に作らせたものではない。彼が自らキッチンに立ち、ミルクを温め、練り上げたものだということがカップの縁についた僅かな跡から分かった。

「……ありがとうございます」

 鈴は両手でカップを受け取った。温かい。その熱が冷え切った指先から血管を通って心臓へと流れ込んでくる。

 一口、口に含む。ミルクの優しい甘さの中にほんの少しのブランデーの香り。それは大人の味がした。そして涙が出るほど優しかった。

「……おいしい、です」

「そうか。……なら、よかった」

 景明は鈴の隣に腰掛け、目線の高さを合わせて彼女を覗き込んだ。その瞳は戦場の鬼のものではない。傷ついた小鳥を案じる、ただの一人の男の目だった。

「鈴。……何を見た?」

 静かな問いかけ。鈴はカップを握りしめ、視線を落とした。

「……見ました。野中さんが……いえ、西園寺様が私のことを面倒だって」

「ありえない」

「愛は呪いだって言われました。私がいるせいで貴方が弱くなるって。……そして、貴方が……血まみれになって……私のせいで……」

 景明は即答した。だが鈴は言葉にするだけで恐怖が蘇る。鈴の声が震え、また涙が溢れ出した。

カップの中のココアに小さな波紋が広がる。

「……死なないで……。私を置いて、いかないで……」

 それは鈴がずっと抱えていた本音だった。軍人である彼と結ばれるということ。それはいつか訪れるかもしれない死と隣り合わせになるということ。今日の幻覚はその恐怖を限界まで増幅させたに過ぎない。

 景明は痛ましげに顔を歪めた。そして、鈴の手からそっとカップを取り上げ、テーブルに置くと彼女の冷たい両手を自身の大きな手で包み込んだ。

「鈴、私を見ろ」

 強い言葉。鈴が恐る恐る顔を上げる。暖炉の炎が景明の真剣な瞳を照らしていた。

「私は死なん」

「でも……」

「約束する。たとえ世界中の軍隊を敵に回そうとも私は必ず君の元へ帰る。……地獄の底からでも這い上がって、君の作る不格好な味噌汁を飲みに行く」

「……不格好だなんて……」

「事実だろう。……だが、それが世界で一番美味い」

 景明の手が鈴の濡れた頬を拭った。その手は剣ダコで硬く、けれど驚くほど優しい。

「君は私の弱点ではない。……君がいるから私は最強でいられる。君という帰る場所があるから私はどんな戦場でも生き残れるんだ」

 彼は鈴の瞳の奥を覗き込み、誓いを刻み込むように言った。

「君の愛は呪いなどではない。……私の、命そのものだ」

 その言葉はどんな幻覚よりも強力な真実として鈴の胸に響いた。呪いじゃない。命だと言ってくれた。

 鈴の目から恐怖の涙ではなく、安堵の涙が溢れ出した。

 景明はそっと鈴を引き寄せ、その頭を胸に抱いた。力強い心臓の音が鈴の耳元で響く。生きている。彼はここにいる。しばらくの間、暖炉の爆ぜる音と二人の呼吸音だけが部屋を満たしていた。

 恐怖が薄れ、代わりに甘やかな空気が満ちていく。だが、まだ鈴の身体には微かな震えが残っていた。恐怖の記憶を上書きする、何か明るい未来が必要だった。

「……鈴……腹は、減っていないか?」

「え?」

 景明が抱きしめたまま口を開いた。あまりに唐突な質問に鈴はきょとんとして顔を上げた。

「えっと……そういえば…」

「だろうな。……今日のデートは邪魔者のせいで台無しになってしまったからな」

 景明は悔しげに眉を寄せたが、すぐに悪戯っぽい、かつての野中みのるが見せたような少年のような笑みを浮かべた。

「だから、仕切り直しだ」

「仕切り直し……ですか?」

「ああ。今日行くはずだった、銀座の新しいカフェー。……あそこの“パフェ”を知っているか?」

 鈴の目が少しだけ丸くなる。

「パフェ……!雑誌で見ました。背の高い美しい硝子の器に生クリームと色とりどりの果物が宝石のように重ねられている……」

「そうだ。一番上には艶やかな苺と純白のクリームが飾られ、その下には冷たくて甘い氷菓子がたっぷりと詰まっているらしい。長い専用の匙を底まで滑らせて、様々な味を一度に掬い上げるそうだ」

 景明の語り口はまるで軍事作戦を説明するかのように理路整然と詳細だが、その内容はひどく甘く、温かい。

「それを食べに行こう。……明日、いや、君が落ち着いたら、必ず」

「……必ず、ですか?」

「ああ。店ごと貸し切りにしてやる。……いや、それは君が嫌がるか。なら、一番眺めのいい席を予約しよう」

 景明は鈴の鼻先を指でちょんとつついた。

「そこで君がその冷たくて甘いパフェを美味しそうに頬張る顔を私が独り占めする……」

 景明は楽しい記憶で怖い記憶を塗り替えるという約束をした。パフェ。その甘く、華やかで、心躍るような響き。鈴の脳裏にこびりついていた恐ろしい血の赤色が、瑞々しい果実と純白のクリームが織りなす優しい光景へと溶けていく。

「……ふふっ」

 鈴はようやく笑った。涙で濡れた瞳を三日月のように細めて。

「楽しみです。……私、一番大きいのを頼んでもいいですか?」

「あぁ。三つでも四つでも食え。……君の笑顔が見られるなら、カフェーの一つや二つ、買収してやってもいい」

「もう、西園寺様ったら……」

 鈴は再び彼の胸に顔を埋めた。今度は恐怖の震えではなく、どうしようもない愛おしさが彼女をすっぽりと包み込んでいる。舌の奥に残る温かいココアの後味と、いつか食べに行く冷たくて甘いパフェの約束。そして何より、この不器用で誠実な、嘘つきな婚約者の確かな体温。

 それさえあれば、きっと大丈夫。どんな悪夢も二人の愛の前では、硝子細工のように呆気なく砕け散るのだから。

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