第10話
二人が朝陽の中で交わした穏やかな約束。その光に満ちた平穏な時間から、正確には七十二時間、丸三日の時が経過していた。
地上で二人の絆が確かなものへと育まれている、その一方で帝都の絢爛たる繁栄を支える大通りの地下深く。下水道網よりもさらに下層、古地図からも歴史の教科書からも意図的に抹消された暗闇の底に帝国陸軍憲兵隊特別拘置区画は存在した。
蜘蛛が景明によって捕縛され、この地に投獄されてからの三日間。そこは完全に音の死んだ世界だった。
地上の喧騒、人の営む声、風の音すらも分厚い岩盤に阻まれて届かない。支配しているのは、ただ湿り気を帯びた石壁から染み出す地下水が床の澱みに落ちる音だけ。その不規則なリズムは狂った時計の針のように囚人の精神を削りながら永遠を刻み続けている。
この三日間、誰一人としてこの独房を訪れる者はなかった。尋問官はおろか、看守の姿さえも見えない。食事は壁に設けられた小さな穴から無言で差し入れられ、排泄物は床の溝へと垂れ流されるのみ。
“完全なる放置”だ。それは尋問のプロフェッショナルである氷室が選んだ、最も残酷な拷問だった。
「……ぐ、ぅ……あ、あ……」
独房の最奥。断末魔のような音を立てて明滅する裸電球の病的な光の下でかつて帝都を震撼させたマッドサイエンティストは干からびた喉の奥から乾いた呻きを漏らした。
限界だった。答えのない問いが脳内で無限に増殖し、彼を発狂寸前まで追い込んでいた。自分の心臓の音だけが太鼓のように耳元で鳴り響く。
その時、永遠に続くかと思われた静寂を切り裂く、硬質な音が響いた。
三日ぶりに聞く、他者の気配。規則正しく、冷徹で感情の一切を感じさせない革靴の音。重厚な鉄扉が錆びついた悲鳴を上げて開かれた。淀んだ空気が動き、冷たい風が吹き込む。
「……お待たせしました。少々、書類の整理に手間取っていたもので」
現れたのはこの陰鬱な地下牢には似つかわしくない、夜の闇を切り取ったような男、氷室だった。塵一つない軍服、完璧に整えられた髪、そして照明の光を冷ややかに反射する銀縁眼鏡。その姿はあまりにも清潔で残酷なまでに理知的だった。その小脇には分厚い一冊のファイルが抱えられている。
表紙には“地下水道殲滅作戦・戦闘詳報”と記されていた。氷室は部下に目配せし、豪奢な装飾の施された椅子を一脚用意させると、優雅な動作で腰掛けた。
そして足元の汚物に眉を顰めることもなく、わざとらしくゆっくりとした手つきで手元のファイルを開いた。
「素晴らしい報告書です。少佐の几帳面さには毎度頭が下がりますよ。……貴方との戦闘記録がコンマ一秒単位で記述されている」
「……み、みず……」
「質問に答えたら検討して差し上げましょう」
氷室は冷たく一蹴し、氷のような視線で蜘蛛を見下ろした。
「“一八三〇時、対象は死霊術を展開。腐食性の黒霧を放出。……同時刻、我は雷撃によりこれを迎撃するも霧の濃度高く、視界を奪われる”……極めて正確ですね」
氷室は眼鏡を中指で押し上げ、レンズの奥から蜘蛛を見下ろした。その視線は顕微鏡で細菌を観察する学者のそれだ。
「それに貴方の異能……ただ死体を操るだけの“死霊術“”などという生温いものではないようですね。報告書には貴方が瓦礫や鉄クズを死肉と混ぜ合わせ、即席の防壁を作ったとある」
「……ッ!」
「有機物と無機物、あるいは死体と機械を無理やり繋ぎ合わせる……“融合”。それが貴方の能力の本質ですか」
図星を突かれ、蜘蛛の目が泳いだ。氷室はその一瞬の動揺を見逃さない。
「だからこそ、あのような醜悪な合成獣を作り出せた。……だが、貴方の融合は不完全。繋ぎ合わせた部分から腐敗が始まり、常に拒絶反応で崩壊し続けている。報告書にも“敵の防御壁は雷撃を受ける直前に自壊した”と記述がある。……実に美しくない」
「だ、黙れ……ッ!私の研究を……愚弄するな……!」
「事実でしょう?貴方は焦っていた。自分の能力の不完全さに絶望していた」
氷室は報告書を閉じた。その乾いた音が銃声のように密室に響く。
「ここまでは少佐の報告書で裏が取れています。……私が知りたいのはこの報告書の“空白部分”だ」
氷室がゆっくり立ち上がり、拘束された蜘蛛の顔面に肉薄する。整えられた軍服から漂う冷たい香りが蜘蛛の鼻腔を刺激する。
「少佐は書いていない。……“なぜ、あの腐食の霧の中で彼が無傷だったのか”を。……貴方なら知っているはずだ。現場で一番近くでそれを目撃したのだから」
「……ひッ」
「さあ、見せなさい。貴方の脳裏に焼き付いている、その瞬間を」
氷室の瞳が爬虫類のように細められた。異能“読心”の発動。言葉による自白などハナから信用していない。脳髄の奥底にある記憶野から直接真実を引きずり出す。
蜘蛛の脳内に強制的なアクセスが開始される。不可視の触手が彼の神経回路を侵食していく。
(や、やめろ……!入ってくるな……!私の頭の中を覗くなぁぁッ!!)
抵抗も虚しく、記憶の蓋がこじ開けられる。走馬灯のように溢れ出す映像。薄暗い地下水道。全てを溶かす死の霧。それを弾き返した一枚の刺繍入りハンカチ。そこから溢れ出した淡く神々しい光の結界。物理法則を無視し、時間を巻き戻すかのように腐食した繊維が“在るべき姿”へと復元されていく奇跡。
「……ほう」
氷室が感嘆とも恐怖ともつかぬ息を漏らす。
「貴方の融合が傷口を無理やり塞ぐだけの粗雑な溶接だとすれば……あれは神の御業。完全なる“修復”というわけか」
蜘蛛の脳内でドス黒い嫉妬と焼け付くような欲望が渦巻くのが見える。
(あの力が欲しい……!あの布の持ち主さえいれば私の融合の欠陥は埋まる!完全な不老不死すら夢ではないのだ!)
「なるほど。……貴方ら組織が血眼になって探しているのはこの修復の能力者でしたか」
氷室は懐から純白のハンカチを取り出し、口元を覆った。まるで汚物に触れたかのような仕草。
「そして貴方はまだ、その事実を組織に報告していない。……三日前、捕縛される直前まで自分の手柄として独り占めしようと画策していたのですね?」
「あ……ああ……」
「安心しました。貴方の脳内履歴には報告の記憶がない。……その強欲さに今回だけは感謝しましょう」
氷室は背を向け、出口へと歩き出した。その背中は“もう用済みだ”と語っていた。
「ま、待て!私を見捨てる気か!?組織は私を消しに来るぞ!取引だ、情報をやる!」
「取引?……ああ、しませんよ?だって貴方の脳内から組織のアジトも構成員のリストも連絡手段も全て抜き取りました。これ以上、貴方という搾りカスに何の価値があるのです?」
氷室は冷酷に告げた。その声は死刑宣告よりも重く、冷たい。
「貴方はもう“空っぽ”だ。……ここで一生、誰にも知られず、拘束衣の中で腐っていくのがお似合いですよ」
重い鉄扉が閉ざされる音。施錠される音が、一人の狂った天才の人生が完全に幕を下ろした音だった。
◇
翌朝。西園寺邸、二階書斎。地下牢の陰鬱な闇とは対照的にそこには残酷なほど平和で美しい朝の光が満ちていた。高い天井、壁一面を埋め尽くす蔵書、磨き上げられた床。しかし、景明の顔色は決して晴れやかではなかった。
「……以上が三日間に及ぶ分析と昨夜の脳内調査の結果です」
氷室は分厚いファイルを重厚な執務机の上に置いた。
景明はこめかみを指で揉みほぐしながら、深いため息をついた。目の下にはうっすらと隈ができている。
「報告書の作成で徹夜させられた挙句、朝から重い話か……。氷室、お前も人が悪い」
「少佐の文章が詩的すぎるのがいけないのです。“愛の力で勝った”などという記述をそのまま公式文書に残すわけにはいかないでしょう。修正に骨が折れましたよ」
氷室は涼しい顔で返しつつ、表情を引き締めた。
「ですが、事態は深刻です。蜘蛛は小鳥遊嬢の能力の本質、修復に気づいていました。組織への報告は未遂ですが奴らが求める能力者の条件が判明した以上、いずれ彼女にたどり着くのは時間の問題です」
「……実験素体として、か」
景明の瞳に鋭い殺気が宿る。自分の報告書を書きながら、何度も思い返したあの戦闘。鈴のハンカチがなければ自分は確実に死んでいた。その奇跡の力が今度は彼女自身を危険に晒している。
彼女のあの白く華奢な腕に無機質な実験器具が繋がれる光景が脳裏をよぎり、景明は奥歯を噛み締めた。
「ここも安全ではない。……氷室、手配しろ。鈴を疎開させる」
「少佐、それは……」
「私の目が届く範囲でも限界がある!彼女をこの危険な帝都に置いておくわけにはいかないんだ!これは命令だ、すぐに!」
景明がその言葉を放った瞬間、突如、書斎の重厚な扉が爆発音と共に開け放たれた。蝶番が悲鳴を上げ、壁に激突して振動する。
「疎開ってどういうことですか!?」
入り口に立っていたのは銀のお盆を持った鈴だった。お盆の上には二人分のモーニングコーヒーと焼き菓子。だが、カップの中身は衝撃で波打ち、ソーサーにこぼれ落ちている。
彼女の肩は怒りで震え、瞳は決死の覚悟で燃え上がっていた。
「……小鳥遊嬢」
氷室が呆れたように天井を仰いだ。景明は目を見開き、硬直している。
「す、鈴!?なぜここに……いや、ノックもせずに……」
「ノックなんてしてる場合ですか!今、聞こえましたよ!私を海外に追い出すって!どういうことですか説明してください!」
鈴はお構いなしに部屋へ踏み込み、お盆をサイドテーブルに乱暴に置いた。陶器がぶつかる音が彼女の心中を表しているようだ。
彼女は景明の机に詰め寄り、両手をついた。
「嫌です!絶対に嫌!私、どこへも行きませんからね!」
「す、鈴、落ち着け。これは君のためを思って……」
「またそれ!野中さんの時もそうでした!“君のため”って言いながら、一人で勝手に決めて、私を蚊帳の外に追い出して……!」
鈴の剣幕に鬼少佐ともあろう男が圧迫に負けそうになっている。その様子を氷室は冷ややかに観察していたが、ふと眼鏡の奥で鋭い光を放った。
「……小鳥遊嬢」
「なんですか氷室様!今は西園寺様と話して……」
「また、“盗み聞き”ですか?」
氷室の声は静かだったが絶対零度の切っ先を含んでいた。鈴の動きが止まる。
「え……」
「この部屋は防音仕様です。通常の会話なら外には漏れない。……にも関わらず、会話の核心部分に飛び込んできた。……扉に耳を押し当てて、聞き耳を立てていたのではありませんか?」
「ち、違います!たまたま!たまたま通りかかったら、西園寺様の大きな声が聞こえただけです!」
鈴は顔を真っ赤にして反論した。その狼狽ぶりは潔白を証明するにはあまりにも不十分だった。しかし、彼女は胸を張って豪語した。
「今回は!!今回はしてませんから!!」
一瞬の沈黙。景明が片手で顔を覆い、深いため息をついた。氷室の口角が吊り上がる。悪魔的な笑みだった。
「……ほう。“今回は”していない」
「あ」
鈴が自分の口元を両手で塞ぐ。だが、放たれた言葉は戻らない。
「ということは、前回……つまり、以前にも盗み聞きをしていたことは認める、ということですね?」
「ぅぐ……ッ!」
「ふむ。華族のご令嬢ともあろうお方が軍人の会話を盗聴とは。……これは防諜上の大問題ですね、少佐?」
「氷室、もういい。やめてやれ……」
景明が疲れ切った声で止める。鈴は涙目になりながら震えていたがすぐに大きく首を振って気を取り直した。
「そ、そんな揚げ足取りはどうでもいいんです!今は疎開の話です!」
鈴は必死に話題を戻した。墓穴を掘った羞恥心を怒りのエネルギーに変換して。
「どうして私が逃げなきゃいけないんですか!」
「……解決していない」
景明の表情が一瞬で軍人のそれに戻った。彼は机の向こうから回り込み、鈴の前に立った。
「敵は一人ではないんだ。……鈴、君は狙われている」
「私が?……どうして?」
鈴は小首を傾げた。彼女には心当たりがない。自分はただの没落令嬢だ。金目のものなど持っていないし、野中の正体以外は国家機密を知っているわけでもない。
「それは……君が……」
景明は言いかけて、言葉を詰まらせた。“君が強力な異能者だからだ”。そう言ってしまえば簡単だ。だが、彼女は自分の力を“ただのお裁縫上手”だと思っている。もし真実を告げれば彼女は自分の手が“兵器”になり得ることを知ってしまう。
無自覚が生み出す奇跡。それを知識という不純物で汚していいものか。それに自分が実験動物として狙われていると知れば、彼女はどれほど怯えるだろうか。
景明は迷い、視線を氷室に向けた。氷室は無表情のまま、わずかに首を横に振った。
(まだ、早いです。彼女に背負わせるには荷が重すぎる)
そのアイコンタクトは一瞬で成立した。景明は視線を戻し、鈴の肩を掴んだ。
「……君が私の弱点だからだ」
「え?」
「敵は私を苦しめるために君を狙う。……私が鬼少佐と呼ばれ、多くの恨みを買っているからだ。君は私のそばにいるだけで危険なんだ」
半分は嘘で半分は真実。鈴の瞳が揺れた。自分が異能者だからではなく、彼の大切な人だから狙われる。そう言われて、引き下がる女がいるだろうか。
「……だったら、尚更離れません」
鈴は景明の手を握り返した。その力は弱々しいが決して離そうとはしない強固な意志があった。
「私が弱点なら……私が強くなって、貴方の盾になります。……ううん、盾じゃなくてもいい。せめて、貴方の背中を守るお守りくらいにはなります!」
「鈴……」
「私を遠くへやって、貴方は一人で戦うつもりでしょう?……そんなの絶対に許しません。貴方が傷つくのを遠くの空の下で待つくらいなら、隣で一緒に傷つく方を選びます!」
鈴の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは恐怖の涙ではない。彼を想うがゆえの愛の雫だ。
「……今更、離れるなんて言わないですよね?もし私を無理やり追い出そうとしたら……私、本当に危ないところへ行ってやりますから。敵のアジトの真ん中に飛び込んで、『ここが一番安全なんでしょ!』って居座ってやります!」
「なっ……馬鹿なことを!」
「やります!私、やると言ったらやる女だって知ってますよね!?」
「……はぁ」
景明は深い、深い敗北のため息をついた。完敗だ。武力でも権力でもそして論理でも勝てない相手がこの世に一人だけ存在する。
「……わかった。降参だ」
景明は苦笑し、鈴の頭を大きな手で大袈裟に撫でた。
「君を遠くへやるのは諦める。……その代わり、私のそばから片時も離れるな。トイレに行く時もだぞ」
「うっ……そ、それは流石に……でも、覚悟しておきます!」
鈴が涙を拭い、満面の笑みを咲かせた。その笑顔を守るためなら、世界中を敵に回しても構わない。景明は改めてそう誓った。その様子を氷室は冷めたコーヒーをすすりながら眺めていた。
「……やれやれ。私の胃薬の量は増える一方ですね。……まあ、予想通りですが」
氷室はファイルを開き、新たな警護計画のページにペンを走らせ始めた。
“対象者:小鳥遊鈴。性格:極めて無鉄砲。警護方針:常時密着監視。備考:本人は自身の能力に無自覚のため、当面の間、機密保持を継続する”
書斎の空気が張り詰めた緊張から、騒がしくも温かい日常へと溶けていく。だが、運命は彼らに息つく暇を与えない。開けっ放しの扉を執事が控えめにノックした。
「旦那様。……お取り込み中のところ恐縮ですが小鳥遊子爵家より、急使が参りました」
銀のお盆の上には、一通の手紙。封蝋の赤がまるで血のように鮮やかに目に焼き付いた。
景明と鈴の表情が同時に引き締まる。父からの手紙。それは大抵の場合、ロクな知らせではないことを二人は経験上知っていたからだ。
「……嫌な予感がします」
「奇遇だな。私もだ」
景明が手紙を手に取る。その指先が微かに緊張で強張っていた。それは見るからに品性を欠いた煌びやかさを放っていた。
上質な和紙には金粉が散らされ、封蝋には小鳥遊家の家紋である「上がり藤」がこれでもかというほど大きく押されている。さらに鼻を近づけるまでもなく漂ってくるのは安っぽい香水の匂いだ。
「……とりあえず開けるか…」
景明はまるで爆発物を扱うかのような慎重さと汚物に触れるような嫌悪感を隠さずにその封筒を指先でつまみ上げた。
小鳥遊子爵。鈴の実父でありながら、彼女を政略の道具としか見ていない厳格な男。華族としての体面を保ちつつも水面下では自身が経営する会社の立て直しに苦心しており、その利益とさらなる権力拡大のため、娘を帝都随一の権勢を誇る西園寺家へ嫁がせようとしている張本人だ。
「そうですね……どうせ、ろくな内容ではありませんが」
景明はペーパーナイフを使わず、指先で封を切った。乾いた音が静かな書斎に響く。中から出てきたのは何枚にも及ぶ達筆な、しかし心が全くこもっていない手紙だった。
景明は無言で視線を走らせる。一行、二行、三行。読み進めるにつれて、書斎の気温が急速に低下していった。
窓ガラスに白い霜が走り、テーブルの珈琲からは湯気が消え、表面が薄く凍り始める。
「……西園寺様?」
鈴が不安げに声をかけた。
景明の表情は能面のように無表情だった。だが、その瞳の奥には先日の地下水道での戦闘時でさえ見せなかったほどの底知れぬ怒りの業火が渦巻いていた。彼の手元で手紙が音を立てて凍りつき、粉々に砕け散りそうになっている。
「……氷室」
「は」
「この手紙を読め。……私の口からはとてもではないが再現できん」
景明は凍てつきかけた手紙を氷室の方へ放り投げた。氷室は空中でそれを受け止めると冷たい紙面を一瞥し、眉一つ動かさずにその内容を淡々と読み上げ始めた。それは父親が娘に送る言葉とは到底思えない商取引の契約書のような文面だった。
“拝啓、西園寺景明殿。陽春の候、貴殿におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、我が娘・鈴の件ですが先日そちらの屋敷に転がり込んだと聞き及びました。ご迷惑をおかけしていないか、父として心を痛めております……というのは建前でして”
氷室の声が無機質であればあるほど、その内容の残酷さが際立つ。
“正直、ホッとしております。あのじゃじゃ馬娘には手を焼いておりましたゆえ、西園寺家に引き取っていただけたのはまさに渡りに船。つきましては娘はそのままそちらで“処分”していただいて構いません。返品は不可とさせていただきます。一度、西園寺家の敷居を跨いだ以上、彼女はもう貴家の所有物。煮るなり焼くなりとお好きになさってください。ついては結納金の前倒しと例の事業への出資の件、何卒よしなに……”
読み終えた氷室は無言で手紙をテーブルに置いた。静寂。鳥のさえずりさえも凍りつくような、絶対零度の沈黙。
「……処分、だと?」
景明の低い声が地を這うように響いた。
「返品不可……所有物……?自分の娘をなんだと思っているんだ……あの男は!」
景明の拳がテーブルを叩きつけた。彼の怒りは限界を超えていた。鈴を愛しているからこそ、彼女を軽んじる全ての存在が許せない。ましてや、それが彼女を守るべき父親であるならば尚更だ。
「殺すか……」
景明の背後には氷の龍のようなオーラが立ち昇っている。冗談ではない。本気の殺気だ。
「今すぐ小鳥遊邸へ乗り込み、あの男を氷漬けにして、帝都湾の底に沈めてやる。……いや、それでは生温い。一生解けない氷の中で己の愚かさを後悔させ続けてやる……!」
「お、お待ちください西園寺様!落ち着いて!」
鈴は慌てて景明の腕にすがった。触れた袖は冷凍庫から出したばかりのように冷え切っている。
「私は平気ですから!いつものことですから!」
「平気なわけがあるか!君は……君は、モノではない!人間だ!こんな……こんな屈辱的な扱いを受けて黙っていられるか!」
景明は鈴の肩を掴み、叫んだ。その瞳は怒りで燃えていたが同時に鈴への痛ましいほどの憐憫と愛情で潤んでいた。
鈴はそんな彼の激情を真正面から受け止め、微笑んだ。それは傷ついた心を隠す仮面ではない。彼の怒りが自分への愛ゆえだと理解した心からの安堵の笑みだった。
「ふふっ。……なんだか私、着払いの荷物みたいですね」
「鈴……?」
「“返品不可”ですって。腐ったミカンでも入っていると思われたのかしら。……でも西園寺様がそんなに怒ってくださるなら、私ちっとも悲しくありません」
鈴は景明の冷たい頬に自分の温かい手を添えた。
「父はそういう人なんです。お金と見栄が全てで私や母のことなんて、装飾品としか思っていない。……だから期待なんてしていません」
彼女の声は静かだった。諦念とそして強さ。幼い頃から冷たい家庭で育ち、孤独に耐えてきた少女だけが持つ、悲しいほどの強靭さ。
「でも、今は違います。……だって、貴方がいるもの」
鈴は瞳を細め、愛しげに彼を見つめた。
「貴方が私のためにこんなに本気で怒ってくれる。……それだけで私は世界一幸せな“荷物”です」
「……鈴……ッ」
景明の目から殺気が消え失せた。代わりに溢れ出したのは彼女を抱きしめたいという衝動だ。だが、彼はそれを理性で抑え込み震える手で彼女の手を握り返した。
「……すまない。君にこんな惨めな思いをさせて……」
「いいえ。……それに考えようによっては好都合かもしれません」
鈴は悪戯っぽく舌を出した。
「だって父公認でこのお屋敷にいられるんですもの。返品不可ということはもう連れ戻される心配もないってことでよね?」
その言葉に景明はハッとした。確かにそうだ。父親が育児放棄宣言をしたということは逆に言えば西園寺家が鈴を保護することに法的な障害がなくなったということだ。
「……その通りです、小鳥遊嬢」
それまで沈黙を守っていた氷室が眼鏡を押し上げながら口を開いた。彼の表情には怒りも同情もない。あるのは状況を冷徹に分析し、最適解を導き出した参謀の顔だけだ。
「少佐。……感情的には許しがたいことですが戦略的にはこれは絶好の機会です」
「どういうことだ、氷室」
「小鳥遊子爵は親権を事実上放棄しました。……ならば、我々がそれを拾えばいい」
氷室は懐から一通の書類を取り出した。それは軍の機密書類ではなく、市役所に提出するための公的な届出用紙だった。
「婚姻誓約書……?」
「はい。正式な婚姻届ではありませんが法的に婚約関係を確定させ、準家族としての地位を保証する書類です。……これを提出すれば小鳥遊嬢は法的に“西園寺家の保護下にある人間”となります」
景明が読み上げ、氷室の瞳が計算高く光った。
「そうなれば、軍としても動きやすくなる。“帝國陸軍少佐の婚約者”に対するテロ予告となれば、二十四時間体制の警護をつける大義名分が立ちます。……しかも特務機関の予算で堂々と彼女を守れるのです」
「……なるほど」
景明は唸った。蜘蛛の後ろにいた組織は鈴を狙っている。彼女を守るためには個人的な武力だけでは限界がある。軍という巨大な後ろ盾が必要だ。だが、それを個人の情事で動かすことはできない。
しかし、相手が“公認の婚約者”となれば話は別だ。彼女への攻撃は西園寺家への、ひいては軍への攻撃と見なされる。
「毒を以て毒を制す、か。……あの父親の強欲さを逆手に取るとはな」
「ええ。それに子爵からの返品不可という言質も取れています。後になって“やはり娘を返せ”と言い出してもこの手紙が証拠となります」
氷室は手紙の残骸を指差した。完璧な論理だ。感情を挟む余地のない合理的な解決策。だが、景明の手は震えていた。彼は書斎椅子に腰を下ろし、テーブルの上の誓約書を見つめ、そして鈴を見た。
(……本当にいいのか…?)
彼の心に強烈な葛藤が渦巻く。彼女を守るためだ。それは間違いない。だが、この署名をさせることは彼女を“西園寺景明”という嘘の人生に法的に縛り付けることになる。
彼は今、彼女に“野中みのる”という正体を隠している。偽りの姿のまま、彼女の人生を奪っていいのか。彼女が愛しているのは貧乏書生の野中だ。華族の西園寺ではない。もし、いつか正体が露見した時、彼女はどう思うだろう。「騙されて署名させられた」と彼を恨むのではないか。
「……鈴」
景明は掠れた声で問いかけた。
「君は……それでいいのか?こんな……紙切れ一枚で君の人生を決めてしまって」
「……」
「私は……軍人だ。いつ死ぬか分からない。それに敵も多い。私と関わることは君を危険に晒すことだ。それでも……」
景明は言葉を詰まらせ「それでも私のそばにいてくれるか」そう言いたかった。だが、その言葉はあまりにも身勝手で傲慢に思えた。
鈴は景明の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返した。彼女には彼のためらいの理由が痛いほど分かっていた。彼は自分が野中みのるであることを隠しているからこそ、西園寺として彼女を縛ることに罪悪感を感じているのだ。
(野中さん…なんて不器用で誠実な人なのだろう。……貴方は本当に馬鹿ね)
鈴は心の中で呟いた。そんな葛藤なんて必要ないのに。
(私は貴方が野中さんだろうと西園寺様だろうと貴方という魂に恋をしたのだから)
鈴は静かに一歩踏み出した。そしてテーブルの上のペンを手に取った。迷いはなかった。
「西園寺様」
鈴の声は春の小川のように澄んでいた。
「私は荷物ではありません。……自分の行き先は自分で決めます」
彼女はペンを握りしめ、景明に向かって微笑んだ。
「私の行きたい場所は貴方の隣です。……それがたとえ、銃弾の飛び交う戦場でも幽霊が出る地下水道でも」
「鈴……」
「それに鳥籠の中も悪くありません」
鈴は悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「その鳥籠の鍵を握っているのが貴方なら。……私、一生そこから出なくていいです」
それは事実上のプロポーズだった。彼女は知っている。彼が野中であることを。だから、これは“西園寺家”に入るための署名ではない。“野中みのる”と共に生きるための愛の契約なのだ。
景明の目が見開かれた。彼女の覚悟が彼の迷いを焼き尽くしていく。彼は自分がどれほど愚かだったかを悟った。彼女は守られるだけの弱い存在ではない。共に運命を背負ってくれる、強きパートナーなのだ。
「……分かった」
景明は深く頷いた。そして自らもペンを手に取った。
「氷室。……立会人を頼む」
「承知いたしました。……やれやれ、朝から熱いことですね」
氷室は呆れたように肩をすくめたがその口元は微かに緩んでいた。彼もまたこの不器用な二人の行く末を誰よりも案じていたのだから。
「では、署名を」
氷室が事務的でありながらどこか儀式めいた厳粛な声で告げた。テーブルの脇に立ち、懐中時計で時間を確認すると漆塗りの万年筆を恭しく差し出した。
厳かな空気が流れる。これは単なる書類の手続きではない。嘘と真実、危険と平穏、その全てを飲み込んで二人が共犯者として生きていくための聖なる儀式だった。そのペン先はまるで断罪の刃のように鋭く光っている。
「まずは、小鳥遊嬢から」
「はい」
鈴は静かに頷き、机の前に立ち、真剣な眼差しで書類を見つめた。その瞳には一点の曇りもなく、むしろ嵐の前の海のように深く静かな決意を湛えていた。
彼女は万年筆を受け取ると、迷うことなく署名欄へとペンを走らせた。
“小鳥遊鈴”
流れるような筆致。インクが紙に染み込んでいく様は彼女の覚悟が西園寺家という土壌に根を張っていくかのようだった。
書き終えた彼女はふっと息を吐き、ペンを置いた。その顔には“これで後戻りはできない”という悲壮感よりも“やっとここまで来れた”という晴れやかな安堵が浮かんでいた。
「……次は少佐。貴方の番です」
氷室が促す。景明は石像のように硬直していた。彼の視線は鈴が書いたばかりの署名に釘付けになっている。まだ乾ききっていない黒いインクが生き物のように彼を見つめ返している気がした。
(書けば……終わる)
これを書けば彼女は法的に自分のものになる。もう誰にも奪わせない。あの腐った父親にも地下の組織にも。軍の力を使って鉄壁の守りで彼女を囲い込むことができる。
それは彼が最も望んでいた未来のはずだ。だが、同時にそれは彼女を“西園寺景明”という虚構の檻に一生閉じ込めることを意味していた。それが鋭利な棘となって景明の心臓を突き刺した。
「……少佐?」
氷室の訝しげな声。景明は重い腕を持ち上げた。万年筆を握る。その感触は軍刀の柄よりも冷たく、そして重かった。
ペン先を紙面に近づける。あと数センチ。だがそこで手が止まった。ペンの先が小刻みに震えている。
帝都最強の異能使いであり、幾多の死線を潜り抜けてきた鬼少佐の手が、たかが署名一つで震えているのだ。
「……くっ」
書けない。指に力が入らない。西園寺の“西”の一画目すら、下ろすことができない。罪悪感が泥のように腕に絡みつき、筆先を重く鈍らせていく。
(私には……彼女の人生を背負う資格があるのか?嘘つきの私が彼女の純粋な愛に応えられるのか?)
脂汗が額を伝う。呼吸が浅くなる。無様な姿だ。愛する女の前で責任から逃げようとしている臆病者。その時だった。
「……西園寺様」
柔らかな声と共に景明の固く握りしめられていた左手に温かいものが触れた。
膝の上で無意識に拳を握りしめていた左手を鈴の両手がそっと包み込んだのだ。景明が驚いて顔を上げる。鈴は聖母のような慈愛に満ちた瞳で彼を見つめていた。
「右手が震えるなら……私が左手を支えますわ」
「鈴……?」
「ペンを持つのは貴方の役目です。……でも、その勇気を出すための心臓は左側にあるでしょう?」
鈴はそう言うと景明の大きな左手を自身の小さな両手で抱きしめるように握りしめた。
彼女の体温が左手のひらから血管を通り、心臓へと流れ込んでくる。それは地下水道で感じたハンカチの熱と同じ。すべてを許し、すべてを受け入れ、そして共に歩もうとする、絶対的な味方の温度。
「……手が氷のように冷たいですね」
鈴は景明の顔を覗き込み、悪戯っぽく、どこまでも優しく微笑んだ。
「この震えは私を鳥籠に入れる罪悪感ですか?……それとも一生私に付き纏われる覚悟が決まらないから?」
「ち、違う!そんなわけが……!」
「だったら、証明してください。……その右手で」
鈴は握りしめた左手にさらに力を込めた。痛いほどに強く。その痛みが景明の意識を現実へと引き戻す。
「私はここにいます。貴方が書き終わるまで絶対にこの手を離しません。……だから」
鈴の声が優しく鼓膜を撫でる。
「貴方が用意した鳥籠なら、私は喜んで入ります。……だって、そこはきっと、世界で一番安全で温かい場所だって、私は知っていますから」
彼女の言葉が景明の凍りついた心を溶かしていく。左手から伝わる熱が心臓を叩き、震える右腕へと伝播していく。
(私が怯えてどうする、彼女はこんなにも強く私を信じてくれているのに…ああ……そうか)
景明は悟った。これは私が一方的に彼女を縛るのではない。彼女が私を支え、私が彼女を守る。互いの命を預け合う、運命という名の結び目を作る儀式なのだ。
不思議と右手の震えが止まっていた。左手にある確かな重みが右手の迷いを消し去っていた。
景明は深く息を吸い込み、ペン先を紙面に落とした。静寂な部屋に万年筆が紙を走る音だけが響く。それは二人の心音が重なり合うリズムのようだった。
鈴は約束通り、微動だにせず、祈るように彼の左手を握り続けている。その温もりだけを頼りに景明は一画一画、魂を刻み込んでいく。
“西園寺景明”
達筆で力強い文字。迷いなど微塵もない、決意の証。最後の一画を書き終え、ペンを置いた瞬間、景明はふっと息を吐き、全身の力を抜いた。終わった。いや、始まったのだ。
「……書けましたね」
鈴が満足げに微笑む。その笑顔はどんな宝石よりも眩しく、景明の目を焼いた。
「ああ。……そうだな」
景明は自由になった右手で今度は自分から鈴の頬に触れた。左手はまだ、彼女に預けたままで。
「もう、逃さない。……たとえ君が逃げたいと言っても、地の果てまで追いかけて連れ戻す」
それは鬼少佐としての脅し文句であり、野中みのるとしての、なりふり構わぬ愛の告白だった。
「ふふっ。……望むところです」
鈴は頬に添えられた彼の手のひらに猫のようにすり寄った。その光景を氷室は眼鏡の奥で眩しそうに見つめ、静かに誓約書を回収した。
「これで小鳥遊嬢は名実ともに“西園寺家の聖域”となりました。……軍への報告と警護の手配は私が責任を持って行います」
「頼む、氷室。……最高レベルだ。蟻一匹通すな」
「わかりました。……では私はこれで。お二人とも少しは空気を読んで甘い時間は程々にしてくださいよ」
氷室はわざとらしい溜息を残し、一礼して退室していった。重い扉が閉まり、広い応接間で二人きりになる。
張り詰めていた空気が緩み、急激に甘やかな沈黙が降りてくる。
景明は鈴の手を引いてソファに座らせた。そして自分もその隣に腰を下ろす。距離が近い。互いの体温が伝わる距離だ。
「……鈴」
「はい」
「その……婚約の、証なんだが」
景明はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「本来なら、指輪のような華やかなものを用意すべきなのだろうが……。急なことだったし、私はそういう気の利いたものが分からなくてな」
彼は不器用な男だ。戦場の駆け引きには長けていても、愛する女性に何を贈ればいいのか、その正解が分からずにもどかしさを感じている。だが、今の彼にはどんな高価な宝石よりも価値のある“覚悟”があった。
「だから……代わりと言ってはなんだがこれを受け取ってほしい」
景明は懐に手を入れた。取り出したのは一本の万年筆だった。それは決して新品ではない。黒い軸には無数の細かい傷が刻まれ、クリップの金メッキは所々剥げかけている。だが、手入れだけは完璧に行き届いており、使い込まれた道具特有の鈍く黒光りする艶を放っていた。
「……これは?」
鈴が不思議そうに尋ねる。景明はその万年筆を愛おしそうに指で撫でた。
「私が……いや、“あいつ”がずっと使っていたものだ」
「あいつ……?」
「野中みのるだ」
景明は自虐的に慈しむように笑った。それは彼が野中みのるとして貧乏長屋で日記を書く時に愛用していたものだ。鈴への隠せぬ想いを綴ってきた彼の魂の分身とも言える道具。
「あいつは貧乏だったからな。高価なものは何も持っていなかった。……だが、この万年筆だけは学生時代からずっと相棒だったんだ」
景明はその万年筆を鈴の手のひらにそっと乗せた。ずしりと重い。そこには彼の苦悩も、希望もそして鈴と過ごした日々の記憶も、すべてが詰まっている気がした。
「これを君に託す。一番大切なものだ」
景明は鈴の目を真っ直ぐに見つめた。
「指輪のような輝きはない。……だが、これを持っている限り……君は、私の……いや、野中の婚約者だ」
以前なら、彼はここで「騙してすまない」と謝っていただろう。だが、今の景明の瞳に罪悪感の陰りはない。あるのは、静かで力強い決意だった。
(私はもう、野中を捨てない。野中みのるとして君を愛した記憶も、西園寺景明として君を守る責任も、すべて私の一部として背負っていく)
これは形見ではない。二つの人格を統合し、共に生きていくための“誓いの楔”なのだ。
鈴は震える手で万年筆を胸に抱いた。温かい。先ほどまで彼が懐に入れていた体温がそのまま残っている。インクの匂い。鉄の匂い。そして彼自身の匂い。
「……嬉しい。どんなダイヤモンドよりも、どんなドレスよりも……嬉しいです」
鈴の声が潤んだ。彼女は感じ取っていた。彼が過去を切り捨てるのではなく、全てを抱きしめて未来へ進もうとしていることを。
「大切にします。……貴方の分身だと思って、肌身離さず」
鈴は万年筆にそっと口づけを落とした。その仕草があまりにも神聖で、そして艶やかで景明の理性が弾け飛びそうになった。
「鈴……ッ」
彼は耐えきれず、鈴を抱き寄せた。強く、壊れるほど強く。彼女の細い体が彼の腕の中にすっぽりと収まる。髪から漂う椿油の香りと彼女自身の甘い匂いが景明の脳髄を痺れさせる。
「愛している……」
景明は鈴の首筋に顔を埋め、独占欲を滲ませて囁いた。
「この身が朽ち果てようとも……私は君を誰にも渡しはしない。……たとえ神に背いてでも」
守るだけの騎士ではない。彼女を自身の運命ごと鎖で繋ぎ止める、共犯者の誓い。
「はい……。私もお慕いしております……野中さん」
鈴は彼の背中に腕を回し、そっと囁いた。“西園寺様”ではなく、“野中さん”と。その呼び名だけが二人の間の秘密の鍵だった。
世界から切り離された書斎で二人は口づけを交わそうとした。互いの吐息が触れ、唇が重なる、その寸前。どこからともなく、甘く香ばしい湯気が漂ってきた。
「……?」
景明の動きが止まる。薔薇の香水でも、香木の香りでもない。もっと生活感に溢れた祝祭的な蒸した餅米と小豆の匂い。
「……なんの匂いだ?」
「……お赤飯、のような?」
鈴が呟く。その時だった。
「お〜〜い〜〜わ〜〜い〜〜で〜〜す〜〜ぞ〜〜ぉ〜〜……」
扉の向こうから、地の底から湧き上がるような低く、長く、感極まった声が聞こえてきた。それは歌声のようでもあり、喜びのあまり咽び泣く怨霊の声のようでもあった。
「な、なんだ!?」
景明が身構える。敵襲か?次の瞬間、重厚なマホガニーの扉が音もなく、静かに開いた。
「……ヌッ」
隙間から現れたのは涙と鼻水でグシャグシャだが満面の笑みを浮かべた、家政婦長のトメの顔だった。彼女の手には湯気を立てる巨大な蒸籠。
「ば、ばあや……!?」
「ひいっ!?」
二人は弾かれたように離れた。あまりのホラーな登場に景明はソファから転げ落ちそうになり、鈴は顔面蒼白で万年筆を握りしめる。
「の、ノックもなしに……!いや、その前に気配を消すな!」
「気配など消しておりません!喜びのオーラが溢れ出ていただけです!」
トメは部屋に侵入すると蒸籠の蓋を開け放った。立ち上る大量の湯気。その中から現れたのは真っ赤に輝く特大の赤飯だった。
「婚姻誓約の知らせを聞きつけ、居ても立ってもいられず!厨房総動員で炊き上げましたぞ!さあさあ、熱いうちに!祝いの儀です!」
「い、祝いと言っても、まだ署名しただけで……」
「そんな事はございませんぞ!そして、さらに!小鳥遊子爵への手切れ金代わりの念を込めて、玄関には塩を一俵分、ピラミッドのように盛り上げておきました!これで貧乏神も退散、結界も完璧です!」
「い、一俵……!?ピラミッド……!?」
景明は頭を抱えた。塩害で庭木が枯れる未来と近所の噂になる未来が見える。だが、トメの顔は晴れやかでその瞳は慈愛と狂気に満ちていた。
「さあさあ、お二人とも!冷めないうちに食堂へ!……曾孫の顔を見るまではこのばあや、死んでも死にきれませんからな!怨霊になってでも見届けますぞ!」
「ひ、ひ孫……!?」
鈴の顔から湯気が出た。赤飯よりも赤い。景明は咳き込み、視線を泳がせた。
「ま、まだ気が早い!……が、まあ、赤飯は頂こう」
景明は立ち上がり、鈴に手を差し伸べた。その顔はまだ赤いが口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。この騒がしくも温かい日常こそが彼が野中みのるとして求めていた幸せなのだから。
「行こうか、鈴。……ばあや特製の赤飯だ。覚悟して食えよ」
「はい……ふふっ」
鈴は彼の手を取り、立ち上がった。その手には傷だらけの万年筆がしっかりと収まっている。
二人は手を繋ぎ、赤飯の湯気とトメの祝言が渦巻く、騒がしくも温かい日常へと歩き出した。




