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第1話 家出少女と逢魔が時の怪異

「嫌!絶対に、ぜえっっったいに、お断りだからね!」

 小鳥遊伯爵邸の客間。磨き上げられた黒檀の卓を両手で叩きつけ、鈴は声を張り上げた。その勢いに卓上の茶器がカタリと震え、飾り棚の西洋人形が驚いたように瞳を揺らす。

「鈴!なんだその言葉遣いは!何度言ったらわかる!華族の娘らしくお淑やかに……!」

 父である小鳥遊伯爵が額に青筋を浮かべて怒鳴り返す。その顔は茹で蛸のように真っ赤だ。

けれど、鈴はそんな叱責など右から左へ受け流す。

 海老茶色の袴の裾を翻し、かかとを床に強く踏み鳴らすと父を真っ向から睨みつけた。

「言葉遣いなんてどうでもいいじゃない!大事なのは中身でしょ?それより縁談の話よ!相手はあの“鬼少佐”と名高い、西園寺景明(さいおんじ かげあき)だなんて……これ以上の悪夢がどこにあるって言うのよ!」

「呼び捨てにするな!西園寺様は家柄も能力も申し分ない。軍人としての規律正しさは帝都一だぞ!」

「規律正しさだけで人の心が通うわけないじゃない!私はね、もっとこう、心が震えるような、物語みたいな恋愛がしたいの!お父様の会社の利益のための政略結婚なんて、まっぴらごめんだからね!」

(そうよ、私は愛のない結婚なんて死んでも嫌。毎朝、氷のような冷たい視線で見下ろされながら、「おい」とか「邪魔だ」とか言われる生活なんて、想像しただけでお腹が痛くなるもん!)

 鈴はきりりと眉を吊り上げ、腕組みをして鼻を鳴らした。栗色の髪を高い位置で結い上げたハーフアップ、そこに揺れる大きな矢羽柄のリボンが彼女の興奮に合わせてぴょこぴょこと跳ねる。

 成績は中の上、座学は大の苦手で教室ではもっぱら船を漕いでいる鈴だがこういう時の弁舌だけは誰にも負けない自信があった。

「大体、お見合い写真も見たけどさ、あの……目が!」

 鈴は懐からしわくちゃになりかけた写真を取り出し、振ってみせる。

「見てよ、この目!人を人とも思わない、まるで獲物を狙う猛禽類みたいな眼光じゃない!こんな目で見つめられたら、私、三日で死んじゃう!」

「失礼なことを言うな!凛々しくて男らしいではないか!」

「ううん、違うね!これは断じて殺気よ!」

 言い合う父娘の横で母が不安そうに扇子で口元を隠している。

「ま、まあまあ、あなたも、鈴も……。西園寺様は……」

「お母様も!家柄や容姿でご飯が美味しくなるわけないでしょ?私は一緒にいて温かい気持ちになれる人がいいの。……とにかく!この縁談は私の意志でお断りさせてもらうから!」

 そう言い放つと同時に鈴は踵を返した。

「待て、鈴!話はまだ終わって……!」

「終わりましたー!もう知らない!お父様のわからずや!」

 襖を勢いよく開け放ち、廊下へと飛び出す。

廊下の板張りを鳴らしながら、鈴は玄関へと直走った。

「お嬢様!?どちらへ!」

 驚く女中たちの制止も聞かず、鈴は玄関の扉を押し開ける。

「少し、頭冷やしてくる!」

 叫び声を残し、鈴は夕暮れ時の帝都の街へと飛び出した。外はすでに逢魔が時を迎えようとしていた。

 空は茜色と群青色が混じり合う複雑なグラデーションに染まり、一番星が頼りなげに瞬いている。

 通りにはガス灯がぽつりぽつりと灯り始め、その淡く幻想的な光が煉瓦造りの建物や柳の並木を照らし出していた。

(あーあ、飛び出しちゃった)

 屋敷からだいぶ離れた大通りまで来て、鈴はようやく足を緩めた。肩で息をしながら、乱れた着物の襟元を直す。矢羽柄の着物は気に入っているけれど、走るには少し不向きだったかもしれない。

(でも、後悔なんてしてないもん。あんな強引に決められた結婚なんて、絶対にするもんですか)

 行き交う人々は仕事を終えた会社員や着飾った婦人たちそしてカフェへと急ぐ学生たち。

 帝都の空気はモダンな香水と路面電車の鉄錆の匂い、そしてどこか懐かしいおしろいの香りが混ざり合っている。

 自由で活気があって少しだけ猥雑で、鈴はこの街の空気が大好きだった。

(私の人生は私のものよ。誰かに決められたレールの上を歩くなんて、つまらないじゃない)

 ふと、ショーウィンドウに飾られた美しいレースの手袋に目が留まる。繊細な編み目、指先に施された小さな花の刺繍。鈴はガラス越しに指を這わせた。

(素敵……。でも、あそこの編み目、もう少し緩くした方が指が綺麗に見えるかも。私なら、ここに小さな真珠をあしらうな)

 お針子が得意な鈴の目が職人のそれになる。布地や糸を見るとつい時間を忘れて没頭してしまうのは彼女の癖だ。

 学校の授業中は睡魔との戦いに連敗続きだが針と糸を持てば何時間でも集中していられる。

「……はあ。こんな素敵な手袋をプレゼントしてくれるような、優しくてセンスの良い殿方ならいいのになぁ」

 ため息をつき、再び歩き出す。だが、あてもなく飛び出したため、行く場所がない。友人たちの家に行くには遅すぎるし、かといって、すぐに屋敷に戻れば「それ見たことか」と父に笑われるのがオチだ。

「少し、遠回りして帰ろっかな」

大通りを外れ、少し細い路地へと足を踏み入れる。それが間違いの始まりだったとは知らずに。

 帝都の夜は光と闇が隣り合わせだ。華やかな表通りから一本入れば、そこにはまだ古の闇が色濃く残っている。

 自分のブーツの音だけがやけに大きく響く。ガス灯の光は届かず、頼りになるのは雲間から覗く月明かりだけ。

 建物の影がまるで生き物のように伸び、鈴の足元に絡みつこうとしているように見えた。

(……あれ? ここ、どこだっけ)

 見覚えのない景色に鈴は首を傾げた。古い長屋が並んでいるかと思えば、崩れかけた煉瓦塀が続き、空気もどこか淀んでいる。

 先ほどまでのモダンな都市の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

(なんだか、嫌な感じ……)

 背筋を冷たい指でなぞられたような悪寒が走る。鈴の勘は昔から鋭い方だった。特に“悪いこと”が起こる前触れには敏感に反応する。

「……戻ろ」

 独り言で自分を勇気づけ、鈴は来た道を引き返そうとした。その時だ。

「みぃつけた」

 頭の中に直接響くような、粘着質で不快な声がした。

「え?」

 鈴は弾かれたように振り返る。誰もいない。ただ、古びた電信柱の影がゆらりと揺れた気がした。

「いい匂いだぁ……。若くて強い、魂の匂い……」

 闇の奥から何かが這い出てくる音がする。それはヘドロを引きずるような濡れた雑巾を絞るような、生理的な嫌悪感を催す音だった。

「ちょ、ちょっと……誰よあんた!」

 鈴は声を震わせながら問いかける。しかし返事の代わりに闇が膨れ上がった。

 黒い霧のようなものが渦を巻き、その中から異形の影が姿を現す。襤褸布を継ぎ接ぎしたような不格好な身体にいくつもの赤い目が乱雑に埋め込まれている。

「嘘……」

 鈴の喉から、短い悲鳴が漏れる。足がすくむ。“これは、関わってはいけないものだ”と本能が警鐘を鳴らす。

「喰わせろ……その希望に満ちた、瑞々しい魂を、俺に……」

 化け物が一歩、鈴に近づく。その瞬間、腐った肉のような異臭が鼻をついた。

「い、いやああぁぁっ!」

 鈴は恐怖に突き動かされ、無我夢中で駆け出した。ブーツが石畳を蹴る。リボンが振り乱れる。

なりふり構わず、とにかく明るい場所へ、人のいる場所へと走った。

(嘘でしょ、嘘でしょ!? なんで私がこんな目に!まだ恋もしてないのにこんなところで死ぬなんて嫌ぁぁ!)

「逃がさない……逃がさないぞぉぉ……」

 背後から化け物の笑い声と湿った足音が迫ってくる。距離が縮まっているのがわかる。

 心臓が早鐘を打ち、肺が焼き切れそうに熱い。角を曲がろうとした、その時だった。濡れた石畳に足を取られ鈴は無様に転倒してしまった。

「痛っ!」

 激しい衝撃が膝に走り、袴が破れる。痛みに顔をしかめながら立ち上がろうとするが足首を挫いてしまったのか力が入らない。

「うっ……」

 絶望感に襲われ、振り返る。そこには赤々とした目を爛々と輝かせた化け物がすぐ目の前まで迫っていた。振り上げられた異形の腕が月光を遮る。

「いただきまぁす……」

(お父様、お母様……ごめんっ……!)

 鈴はギュッと目を閉じた。鋭い爪が振り下ろされる風圧を感じ、死を覚悟した。その瞬間。

「っ、危ない!」

 どこか頼りない、けれど必死な叫び声と共に鈴の身体が横へと強く引かれた。

「え?」

 目を開けると視界がぐるりと回転し、誰かの胸の中に抱き留められていた。

古い墨と、日向のような匂い。そして微かに漂う高貴な香木の香り。

 直後、鈴が先ほどまでうずくまっていた場所に化け物の爪が突き刺さり、石畳を粉砕した。飛び散る破片が二人の周りに降り注ぐ。

「だ、大丈夫ですか……!?」

 頭上から降ってきた声に鈴はおずおずと顔を上げる。そこにいたのは一人の青年だった。

 着古して色の褪せた、つぎはぎだらけの絣の着物。裾がほつれた汚い袴。猫背気味の姿勢にボサボサの前髪。そして、顔の半分を覆うような分厚い丸眼鏡。どこからどう見ても帝都の掃き溜めにいそうな貧乏書生だった。

(この人が……私を助けてくれたの?)

 鈴は呆気にとられた。見た目はどう見ても弱そうなのに自分を抱きかかえる腕は驚くほど逞しく、熱を帯びているような気がした。いや、気のせいかもしれない。彼の腕は小刻みに震えているようにも見える。

 青年は震える鈴を背に庇うようにして立つと、おどおどとした口調で化け物に向き直った。

「あ、あの……すみません。そ、そのお嬢さんは、僕の……えっと、知り合い、ではないんですが、その、乱暴は良くないと思うんです、はい」

「アァ? なんだ貴様……貧相な魂め。邪魔をするなら、貴様から喰らってやる」

 化け物が苛立ちを露わにし、標的を青年に変える。鈴は青年の袖をギュッと掴んだ。

「だ、駄目!逃げて!あんな化け物、あんたじゃ勝てっこないって!」

(この書生は見るからにひ弱そうだ。きっと勉強ばかりしていて運動なんてしたことがないに違いない。そんな彼が私を助けようとして死んでしまうなんて、そんなの耐えられない)

 けれど青年は逃げようとはしなかった。彼は鈴の手をそっと握り返すとボサボサの前髪の奥から、化け物をじっと見据えた。

「ひ、ひぃぃ……! く、来るな……!」

 青年は情けない悲鳴を上げながら、腰の風呂敷包みから何かを取り出した。それは古びた一冊の本のようにも見えるし、ただの紙束のようにも見えた。

「死ねぇぇぇ!!」

 化け物が飛びかかってくる。鈴が再び悲鳴を上げようとした、その刹那。青年が何かを呟いたような気がした。あるいは単に怯えて言葉にならなかっただけかもしれない。

 彼が咄嗟に手に持っていた紙束を放り投げた。突然、化け物の足元で謎の爆発が起きた。いや、爆発というよりは見えない何かに弾き飛ばされたような衝撃音だ。

「ギャアアアアアッ!?」

 化け物は断末魔の叫びを上げ、後方の煉瓦塀に激突した。そして黒い霧となって霧散していく。

「……え?」

 鈴は目を丸くした。何が起きたのか、まったく理解できない。ただ、目の前の気弱そうな書生が尻餅をつきながら「うわぁ、びっくりしたぁ……」と眼鏡を直している姿だけがあった。

「ぐ、偶然……? 今、何かに躓いて転んだの、あれ」

「そ、そうみたいですね……あはは。運が良かったなぁ」

 青年はへらへらと頼りない笑みを浮かべて立ち上がった。その顔には冷や汗が浮かんでおり、やはり偶然助かっただけのように見える。

 けれど鈴は、一瞬だけ感じた、あの不思議な衝撃が気になっていた。

(本当に偶然?あんなタイミングよく?)

 青年は汚れた手を着物で拭うと恐縮しきった様子で鈴に手を差し伸べる。

「あ、あの……お怪我は、ありませんか?その……立てますか?」

 鈴は、その手を見つめた。節くれだっていて、少し大きくて無骨な手。頼りなさそうな見た目とは裏腹にその手からは不思議な安心感が漂っていた。

「……うん、ありがとう」

 鈴は頬をほんのりと朱に染め、その手を取った。温かい。

「っ……あだだ」

 差し出された手を取って歩き出そうとした瞬間、鈴の顔が歪んだ。右足首に、ズキリとした鋭い痛みが走る。先ほどの転倒で思ったよりも派手に挫いてしまったらしい。

「あ、危ない!」

 ガクンと膝が折れかけた鈴を青年が慌てて支える。華奢に見える彼の身体だが支えられた肩のあたりは見た目からは想像できないほどガッシリとしていて、ビクともしなかった。

「ご、ごめん。平気平気、ちょっと捻っただけだから……って、痛ったぁ……」

「平気じゃありませんよ。結構腫れてきてます」

 青年は分厚い眼鏡の奥から、心配そうに鈴の足元を覗き込んだ。そして、しばらく患部をじっと観察すると何かを納得したように小さく頷く。その眼差しは医者か、あるいは怪我の処置に慣れた専門家のように冷静に見えたが鈴が顔を上げると彼はすぐにいつものオドオドした表情に戻った。

「あ、あの……もしよろしければ、その……お、おぶっていきましょうか?」

「えっ!?」

鈴は素っ頓狂な声を上げた。

「お、おんぶ!?いやいや、いいって!私、重いし!それに、初対面の殿方にそんなの悪すぎるよ!」

「で、でも、ここから大通りまでは距離がありますし……その足では、化け物がまた出た時に逃げられません」

「うっ……それは確かにそうだけど……」

 鈴は背後の暗闇を振り返った。あの不気味な気配はもう消えているが一人で歩けない状態でまた襲われたら今度こそ終わりだ。

 それに目の前の彼は自分を助けてくれた恩人でもある。

「……じゃあ、あの、大通りに出るまで。そこまで行けば、人力車を拾うから」

「は、はい。もちろんです。……し、失礼します」

 野中が鈴の前に背中を向けてしゃがみ込む。鈴はおっかなびっくり、彼の首に腕を回し、その背中に身を預けた。

「……よい、しょっと」

 野中が立ち上がる。ふと視界が高くなった。

(わ、すご……)

 鈴は目を瞬かせた。

(見た目は栄養失調気味な書生さんなのに私の身体を軽々と持ち上げるなんて。それに…温かい……)

 背中越しに伝わってくる体温。脈打つ心臓の音。彼の着ている着物はボロボロで少し古びた紙と墨の匂いがする。けれど、その奥にどこか凛とした澄んだ空気をまとっているような清潔感があった。

(微かに香るのは白檀、いや、こんな貧乏書生さんが高価な香木なんて焚いているはずがない。きっと気のせいだ)

「重くない? 大丈夫?」

「は、はい。全然……羽みたいに軽いです」

「またまたぁ。お世辞が上手なんだから」

 鈴はくすりと笑って、少しだけ彼の背中に頬を寄せた。ガス灯の光が二人の影を長く路地に落としている。

 一定のリズムで響く彼の下駄の音がなぜか心地よかった。

(なんだろう、この感じ。初めて会ったはずなのにすごく落ち着く)

 父や母が決めた相手ではない。家柄も肩書きも関係ない。ただの通りすがりの親切な書生。だからこそ、鈴は飾らない自分でいられる気がした。

「……私、小鳥遊 鈴。あなたは?」

「えっ、あ、ぼ、僕は……野中、みのる……です。帝都大学の、文学部に通っています」

野中は頭を下げながら、眼鏡の奥で瞬きをした。

(小鳥遊……? どこかで聞いた名だな。確か軍の上層部との会合でその家名が出たような……。いや、今はどうでもいいか)

 彼は記憶の片隅に引っかかった既視感をすぐに追い払った。目の前の少女がまさか自分の机の上に積まれた書類の中にいる人物だとは夢にも思わなかったのだ。

「へぇ、帝大生なんだ! すごいじゃん! じゃあ勉強忙しいでしょ?」

「い、いえ……そんなことは……あはは」

野中は乾いた笑い声を上げた。その声にはなぜか少しだけ後ろめたさが滲んでいるように聞こえたが鈴は「謙遜しているんだな」と好意的に受け取った。

しばらく歩くと、大通りに面した小さな公園が見えてきた。ガス灯の下にあるベンチを見つけ、野中は鈴をゆっくりと下ろした。

「ここで少し休みましょう。足、見せてもらってもいいですか?」

「あ、うん。ありがとう」

 ベンチに座った鈴の前に野中が片膝をつく。

彼は手ぬぐいを取り出すと、近くの水道で濡らし、鈴の足首にそっと当てた。その手つきは驚くほど手際が良かった。腫れた患部を的確に冷やし、手ぬぐいの巻き方もまるで包帯を巻き慣れているかのように美しい。

「……野中さんって、器用なんだね」

「えっ? あ、い、いえ! 貧乏なんで、怪我くらい自分で治さないといけなくて……!」

 野中は慌てたように手を振った。鈴はそんな彼の手のひらをじっと見つめた。節くれだっていて少し大きくて無骨な手。ペンダコがあるのはわかるがそれとは別に掌に硬い豆のようなものがある。

(これ、何のタコだろう?竹刀とか振ってそうな手だけど……まさかね)

 ふと鈴は彼の顔を見てあっ、と声を上げた。

「野中さん、顔!泥がついてるよ」

「え?」

「さっき、私を助けてくれた時に……じっとしてて」

 鈴は懐から自分が刺繍をしたハンカチを取り出した。そして身を乗り出し、野中の頬についた泥汚れをそっと拭う。

「あ……」

 距離が近い。分厚い眼鏡越しに二人の視線が交差する。鈴の瞳には夜空の星が映り込んでキラキラと輝いていた。

「……はい、取れた。ふふ、眼鏡も曇っちゃってるね」

「あ、あはは……すみません、お気遣いいただいて……」

 野中は慌てて視線を逸らし、眼鏡の位置を直した。耳まで真っ赤になっているのがわかる。そんな彼の様子を見て、鈴は「可愛い人だな」と思った。

「それにしても」

 野中が熱をごまかすように話題を変える。

「鈴さんはどうしてあんな時間にあんな路地裏に?良家のお嬢様のようにお見受けしましたが……」

 その問いかけに鈴の表情が一瞬で曇った。彼女はふぅーっと大きなため息をつき、ベンチの背もたれにドカリと寄りかかった。

「聞いてくれる、野中さん? 実は私、家出してきたの!」

「い、家出ぇ!?」

「そう! もう我慢の限界だったのよ!」

 鈴は拳を握りしめ、溜まりに溜まった鬱憤を吐き出し始めた。

「原因はね、父が勝手に決めた縁談なの。相手の男がもう、最悪でさ!」

「さ、最悪……というのは、その、どういう風に?」

「どういう風にも何も!相手はあの“西園寺景明”よ?知ってるでしょ、噂!」

 ぶふっ、と野中は咳き込んだ。

(さ、西園寺景明……私じゃないか!)

 驚愕と共に先ほどの小鳥遊という名が脳内で合致する。

(待てよ……。実家からしつこく送られてきた縁談相手。確か小鳥遊伯爵家の令嬢だったはず……。ということはこの子が!?)

「“帝都の鬼少佐”!”血も涙もない氷の軍人”! 部下が失敗したら、表情一つ変えずに切り捨てる冷酷人間だって有名じゃない!」

 野中の顔から血の気が引いていく。まさか自分が助けた少女が婚約者候補の一人でしかもここまで自分を嫌っているとは。

 彼は書類に目も通さず「興味がない」と放置していたことを今更ながら後悔し始めた。

「写真も見たんだけどね、もう目が怖いの!こう、人をゴミを見るような目で見てるっていうか……絶対に家では蛇とか生きたまま食べてるタイプよ、あれは!」

「へ、蛇ぁ!?(た、食べてない……!)」

「あんなのと結婚したら、私の一生は終わりよ。毎日「貴様の掃除はなってない!」とか「笑顔が気に入らん!」とか怒鳴られて、独房みたいな部屋に閉じ込められるに決まってるもん!」

「い、いやぁ……さすがにそこまではしないんじゃ……」

「するわよ!だって“鬼”だもん!私の友達なんて「あの方と目が合ったら石にされる」って震えてたんだから!」

 野中はまるで自分が責められているかのように肩を落とし、遠い目をした。その姿があまりにも悲壮感漂っていたので鈴は不思議に思って首を傾げた。

「あれ?どうしたの野中さん、そんなに青ざめて」

「い、いえ……そのお相手の方がなんだかあまりにも言われようで少し可哀想になりまして……」

「可哀想?あの鬼が?まさかぁ。あんな鉄仮面に心なんてないに決まってるわよ」

 鈴はきっぱりと言い切った。野中は「うぅ……」と小さく呻き、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。その指先が小刻みに震えているのは恐怖からなのか、それとも別の感情からなのか。

「そ、それは……大変ですねぇ。鈴さんのような素敵な女性がそんな恐ろしい人と結婚させられそうになるなんて……」

 ようやく絞り出したような声で野中が言った。

「でしょ!?わかってくれる、野中さん!?」

 鈴がパァッと顔を輝かせ、野中の両手をガシッと握りしめた。

「あ……」

「お父様もお母様も家柄ばっかりで全然わかってくれないの。でも野中さんはわかってくれるんだね!やっぱり、貴方はいい人だわ!」

 握られた手の温かさと向けられた全幅の信頼。野中は複雑そうな、泣き笑いのような表情で鈴を見つめ返した。

「わ、私は……その、鈴さんの味方ですから、はい……」

「嬉しい! ありがとう!」

 鈴は無邪気に笑う。その笑顔は帝都の闇を払うような眩しさを持っていた。

「私ね、決めたの。あんな鬼少佐との縁談なんて絶対に破棄してやるんだから。そのためにはまず……」

 鈴はそこで言葉を切り、少し思案してから、悪戯っぽく笑った。

「ねえ、野中さん。私、足が治るまで家に帰りたくないんだけど……少しの間、野中さんのところに置いてくれない?」

「は、はいぃぃぃっ!?」

 野中の声が裏返り、眼鏡がズレ落ちた。帝都の夜空に情けない叫び声が響き渡る。

「む、無理ですよ!僕の住んでるところなんて、その、ボロ長屋ですし、男の一人暮らしですし、そんな、お嬢様をお招きできるような場所じゃ……!」

「ボロ長屋でもなんでもいいよ!とにかく今夜は屋敷には帰りたくないの。……お願い、ダメ?」

 鈴は上目遣いで野中を見つめ、手を合わせた。その瞳に見つめられて、断れる男がこの世にいるだろうか。野中は口をパクパクと開閉させ、しばらく何かと戦っていたようだがやがて項垂れた。

「……わかりました。ですが、本当に、本当に何もないところですよ?」

「やった!ありがとう野中さん!恩に着る!」

「つ、着きました……。ここです」

 野中が足を止めたのは帝都の片隅、迷路のような路地の奥にひっそりと佇む木造長屋の前だった。築何年だろうか。壁の板は風雨に晒されて黒ずみ、屋根瓦はところどころ欠けている。

 夜風が吹くたびに家全体が悲鳴のような音を立てていた。

「へぇー!ここが野中さんの住処?」

 背中の上で鈴は目を輝かせた。彼女にとって、この古びた建物は“貧困の象徴”ではなく“物語に出てくる隠れ家”のように映ったらしい。

「あ、足元が暗いので気をつけて……」

 野中はおっかなびっくり、腐りかけた木の階段を上っていく。響く下駄の音が静寂な闇に吸い込まれていく。

 二階の端にある部屋の前で止まり、建て付けの悪い引き戸をガタガタと揺らして開けた。

「どうぞ。……本当に、何もないところですが」

 野中が板張りの床にそっと鈴を下ろす。鈴は「お邪魔しまーす」と元気よく声を上げ、部屋の中を見回した。そこは六畳一間と板の間、小さな台所がある小さな空間だった。

 天井からぶら下がる裸電球が心許ない光を放っている。家具らしい家具といえば文机と壁際に積み上げられた本の山、そして部屋の隅に丸められた煎餅布団だけ。

 窓枠の隙間からは遠慮のない隙間風が吹き込み、部屋の空気を冷やしていた。

「うわぁ、すごい本!野中さん、これ全部読んだの?」

「は、はい、まあ……。古本屋で安いのを買い集めて……」

(本当は軍事戦略論や欧州の最新兵器カタログを文学全集のカバーで偽装しているだけだが……)

 野中は冷や汗をかきながら、乱雑に積まれた本の前へ立ちふさがり、さりげなく背中で隠した。

「それにしても……寒くないですか?火鉢をすぐに用意しますね」

「ううん、平気!なんか秘密基地みたいでワクワクする!」

 鈴は寒がるどころか嬉々として部屋の中を探検し始めた。彼女は壁に空いた小さな節穴を見つけると「あ、ここからお月様が見える!」と喜んでいる。

「……鈴さんは強いですね」

 野中がぽつりと漏らした。その声には本心からの感嘆が混じっていた。

「そう?普通だよ。あ、でもこの部屋、夏は涼しそうでいいかもね!天然のクーラー完備ってことでしょ?」

「クー……ラァ?ああ、冷房装置のことですか。ふふ、前向きだなぁ」

 野中は苦笑しながら、部屋の隅から煎餅布団を引っ張り出し、さらに押入れから客用にと取っておいた、少しだけマシな丹前を取り出した。

「とりあえず、今夜はここで休んでください。布団、一枚しかなくて申し訳ないんですが……」

「えっ、じゃあ野中さんは?」

「僕は板の間で寝ますから。慣れてますし」

「だーめ!怪我人を助けてくれた恩人をそんな固い床で寝かせられないってば!」

 鈴は頬を膨らませて抗議する。しかし、野中は困ったように眉を下げつつも、そこだけは譲らなかった。

「ダメなのはこちらです。足を怪我している人を板の間になんて寝かせられません。……それに」

 彼は少しだけ視線を逸らし、ボサボサの前髪をいじった。

「君に風邪をひかせたら……その、僕が悲しいので」

「っ」

 不意打ちのような言葉に鈴の言葉が詰まる。彼の言葉はキザな台詞のはずなのにあのオドオドした口調のせいで不思議と誠実に響いた。

「……わかった。じゃあ、お言葉に甘える。ありがと」

 鈴は素直に布団に潜り込んだ。薄くて硬い布団からはやはり日向のような、あの安心する匂いがした。それが緊張の糸を一気に緩ませたのか。

 一日中怒ったり走ったり叫んだりした疲れが波のように押し寄せてくる。

「野中さん……おやすみ……」

「はい。おやすみなさい、鈴さん」

 電球の紐が引かれ、部屋が闇に包まれる。窓から差し込む月明かりだけが二人の居場所を照らしていた。

 鈴の寝息が、すぐに聞こえ始めた。規則正しいリズム。彼女は見知らぬ男の部屋にいるという警戒心など微塵もなく、無防備に眠りに落ちていた。

 静まり返った深夜の長屋。壁の向こうから聞こえる隣人のいびきと、遠くで鳴る犬の遠吠え。その中で、板の間に座り込んでいた野中はゆっくりと顔を上げた。背筋が音もなく伸びる。さきほどまでの自信なげな猫背は消え失せ、そこには鍛え上げられた軍人特有の、鋼のようなシルエットが月光に浮かび上がった。

 彼はおもむろに分厚い眼鏡を外した。現れたのは獲物を射抜くような鋭い眼光。月光を反射して、その瞳が一瞬、氷のように青白く光る。

 野中みのること、西園寺景明は鈴が完全に寝静まったのを確認すると音もなく立ち上がり、部屋の隅に積まれた本の山へと向かった。

「……確か、この辺りに挟んでおいたはずだが」

 彼は本の間から封も切らずに放置していた封筒を引っ張り出した。中から出てきたのは一枚の釣書と見合い写真だ。

 写真の中の令嬢は緊張した面持ちで澄ましているがその意志の強そうな瞳や柔らかな黒色の髪は間違いなくそこで無防備に眠っている少女、小鳥遊鈴のものだ。

「……やっぱり、彼女だったか」

 景明は写真の令嬢と目の前の寝顔を交互に見比べ、ふっと口元を緩めた。

 写真の中の彼女よりも今ここで泥だらけになって眠る顔の方がずっと彼女らしい。そして、ずっと愛おしい。

 景明は懐かしむように目を細め、記憶の奥底にある光景を呼び起こした。

 それは三年前の雨の日だった。当時、まだ隊長になりたてだった彼は任務で異能を使いすぎ、心身ともに傷だらけになって路地裏に座り込んでいた。軍服は泥と返り血で汚れ、通り過ぎる人々は皆、“鬼だ”、“関わると呪われる”と囁き、恐怖の眼差しを向けて彼を避けていった。

 世界中が敵に見えた。冷たい雨が荒んだ心をさらに凍らせていく。だが、たった一人。傘を差し出し、足を止めた少女がいた。

「……あの、大丈夫ですか?」

 女学生の制服を着た彼女は、血に濡れた彼を見ても悲鳴を上げなかった。ただ、雨に打たれる捨て犬を見るような、純粋な心配の色を瞳に宿し、自分の傘を彼に差し出したのだ。

「これ、使ってください。……風邪、ひいちゃいますよ?」

 彼女にとっては単なる気まぐれな親切だったのかもしれない。だが、孤独な“鬼”として生きてきた景明にとって、その無垢な優しさは凍てついた魂を溶かす太陽の光そのものだった。

 名前も聞けずに別れたあの日から、彼はその光をずっと探していたのだ。

「……親父殿に無理を言って、この縁談をねじ込んだ甲斐があったな」

 彼は自嘲気味に笑い、鈴の前髪を指先でそっと払った。

 彼女は自分が最も嫌っている政略結婚の相手があの日助けた泥だらけの軍人だとは夢にも思っていないだろう。

 今はまだ、正体を明かすわけにはいかない。彼女がこの身を拒絶しなくなるその日まで“野中みのる”という仮面が必要だ。

「逃がさないよ、私の光」

 景明は触れるか触れないかの距離で彼女の頬に指を這わせた。その声は甘く、重く、そして狂気じみた独占欲に満ちていた。

「たとえ君がどれほど嫌がろうとも……私は君を絶対に手放さない」

 月明かりの下、嘘つきな書生は愛しい婚約者の寝顔に口づけを落とすように深く誓った。

 これが全ての始まり。嘘と秘密で塗り固められた不器用すぎる初恋の幕開けだった。


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