第9話:『命の残高(ライフ・バランス)』
松本シズ子(78)の世界は、六畳一間の寝室と、窓から見える季節外れの桜の枯れ木だけで構成されていた。
ステージ4の膵臓がん。
医師からの宣告は「余命三ヶ月」。それから二ヶ月が過ぎた。
痛み止めのモルヒネのおかげか、最近は体の痛みよりも、不思議な浮遊感の中にいることが多かった。
夫は十年前に他界し、子供はいない。
ある雨の午後。
郵便受けを見に行ったヘルパーの女性が、黒い封筒を持ってきた。
中には『Suica』と、一枚の黒い手紙。
ー
【魔法のSuica詳細】
拝啓、孤独なアナタへ
支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)
条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。
成功報酬:翌日、同額を再チャージします。
注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。
ー
「……二万円?」
シズ子は老眼鏡を直した。
新手の詐欺だろうか。それとも、天国の夫からの小遣いだろうか。
彼女はクスリと笑った。
詐欺だとしても、取られるものなど何もない。命さえ、もう残りカスなのだから。
翌日、通院のために呼んだタクシーの中で、シズ子は運転手にカードを渡した。
支払いを済ませた後、運転手が言った。
「お客さん、これ結構入ってますよ? まだ一万八千円くらいある」
「あら……本当なのね」
シズ子はカードを握りしめた。
温かい気がした。
今のシズ子には、自分のために買うものなどない。
でも。
もし、このお金で「何か」ができるなら。
誰かのために、何かを残せるなら。
シズ子の「最期の散財」が始まった。
彼女の使い道は、他の参加者たちとは全く異なっていた。
病院の売店では、高い菓子折りを看護師たちに無理やり押し付けた。
いつも良くしてくれるヘルパーには、高級なハンドクリームを贈った。
端数の使い道にも、シズ子なりの楽しみ方を見つけていた。
夜、コンビニでの買い物を終えて数百円が余ると、彼女は決まってレジ横のホットスナックや、棚の栄養ドリンクを追加でカゴに入れた。
そして会計を済ませると、商品をそのままレジの店員に差し出すのだ。
「これ、あなたに。夜遅くまで大変ね」
「えっ? いや、お客さん、悪いですよ」
「いいのよ。お婆ちゃんの気まぐれに付き合ってちょうだい」
突然のことに店員は面食らっていたが、シズ子の穏やかな笑顔を見ると、恐縮しながらも受け取ってくれる。
「あ、ありがとうございます……! ちょうどお腹空いてたんで、嬉しいです」
深夜のアルバイトに疲れた若者の顔が、パッと明るくなる。
ある時は、駅前の道路工事現場へ足を運んだ。
深夜、点滅する赤い誘導灯の下で、白い息を吐きながら交通整理をしている警備員がいた。
シズ子は近くの自販機で、一番温かそうな缶コーヒーを買って近づいた。
「ご苦労様です。これ、よかったら温まって」
「えっ? いやあ、仕事中ですので……」
「いいじゃないの。風邪ひかないでね」
無理やり手渡すと、ヘルメットの下で顔がほころんだ。
「すいませんねぇ……! いただきます!」
ほんの一瞬の交流。
でも、その時に交わす「ありがとう」という言葉と、彼らの体温を感じるような笑顔が、シズ子の冷え切った心を芯から温めてくれた。
広い世界で独りぼっちだと思っていたけれど、こうして誰かと関わることができる。
それは、お金以上の価値があることだった。
そしてある日。
シズ子はタクシーをチャーターし、少し遠出をした。
向かったのは、隣町にある児童養護施設『ひかりの家』だ。
以前、テレビで施設の子供たちが文房具不足に悩んでいるというニュースを見たのを覚えていたのだ。
駅前の大型スーパーで、シズ子はカートいっぱいに買い物をした。
色とりどりの鉛筆、ノート、クレヨン。
それに、子供たちが喜びそうなチョコレートやクッキーの大袋。
合計一万八千円分。
「運転手さん、お願いがあるの」
シズ子は施設の裏門の近くにタクシーを止めさせた。
「この段ボールを、あの門の前に置いてきてくれないかしら」
「えっ? お客さんが直接渡さなくていいんですか?」
「いいのよ。変なおばあさんに施しを受けたなんて思われたら、子供たちが気を使うでしょう?」
運転手は涙ぐみながら、重たい段ボールを運んでくれた。
段ボールには、シズ子が震える手で書いた貼り紙が一枚。
『みんなで、つかってね。 おうえんしています』
名前は書かなかった。
タクシーの窓から、施設の中庭が見えた。
子供たちが元気に走り回っている。
あの子供たちの誰かが、私が贈ったクレヨンで、未来の夢を描いてくれるかもしれない。
そう思うだけで、シズ子の胸は枯れ木に花が咲いたように温かくなった。
「行きましょう、運転手さん」
「はい……! かしこまりました……!」
毎日二万円。
シズ子はその全てを「他者」のために使った。
見返りなどいらない。ただ、自分がこの世にいた証が、誰かの笑顔として残ればそれでよかった。
不思議と計算は合ったし、毎日カードはチャージされた。
まるで、神様が「もっと徳を積みなさい」と言っているかのように。
「忙しいわぁ……」
シズ子はベッドの上で笑った。
死を待つだけの虚ろな時間は消えた。
明日は何を買おう。誰を喜ばせよう。
その思考が、枯れ木のような彼女の命に、最期の水を吸い上げさせていた。
そして、十日目の夜。
シズ子はふと、目が覚めた。
痛みはない。
ただ、体が羽毛のように軽い。
時刻は23時30分。
今日の残高は、まだ3,000円ほど残っていた。
今日は一日中眠っていたため、使い切れていなかったのだ。
「……ああ、そうだ」
シズ子はカレンダーを見た。
明日は、夫の月命日だ。
仏壇を見る。写真は笑っているが、花瓶は空っぽだ。
ヘルパーさんに頼むのを忘れていた。
月命日くらい、綺麗なお花で飾ってあげたい。
「ちょっと、行ってこようかしら」
シズ子はゆっくりとベッドから降りた。
不思議と、足取りはしっかりしていた。
カーディガンを羽織り、杖をつく。
マンションの一階に、24時間営業のコンビニがある。
あそこなら、綺麗なフラワーギフトが売っていたはずだ。
玄関を出る。
春の夜風が心地よい。
月が綺麗だ。
シズ子は深呼吸をした。
「いい夜ねぇ、あなた」
空に向かって呟く。夫が微笑んでいるような気がした。
コンビニに入ると、店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。
シズ子は入り口近くのギフトコーナーへ向かった。
あった。
プリザーブドフラワーの小箱。
色とりどりのバラが詰め込まれている。
値段は2,980円。
「これ、くださいな」
シズ子はレジに小箱を置いた。
店員がスキャンする。
「あと、これも」
レジ横の小さなチョコを一つ。20円。
合計3,000円。
「Suicaでお願いします」
緑色のカードをかざす。
ピピッ。
決済音が、優しく響いた。
シズ子は商品を大切に抱え、店の外に出た。
店の前には、小さなベンチがあった。
「少し、休んでいこうかしら」
シズ子はベンチに腰を下ろした。
膝の上に、綺麗な花の箱。
これを仏壇に飾って、チョコを供えて。
そうしたら、私もゆっくり休みましょう。
ああ、満足だ。
私の人生、いろいろあったけれど。
最後はこんなに温かい気持ちになれた。
施設の子供たち、看護師さん、運転手さん。
みんなの笑顔が、走馬灯のように浮かんでは消える。
私は独りじゃなかった。
心地よい眠気が、波のように押し寄せてきた。
それは、痛み止めの薬によるものではなく、一日を懸命に生きた後の、自然なまどろみだった。
「……おやすみなさい、あなた」
シズ子は目を閉じた。
まぶたの裏には、満開の桜並木が広がっている。
手の中のSuicaが、カタリと音を立ててベンチに落ちた。
その音さえも、彼女には心地よい子守唄のように聞こえた。
00:00:00
遠くで日付が変わるチャイムが鳴った。
シズ子の首が、こくりと前に傾く。
その顔は、穏やかな微笑みをたたえていた。
まるで、素晴らしい夢の続きを見ているかのように。
深夜の静寂。
コツ、コツ、とアスファルトを叩くヒールの音が近づいてくる。
街灯の陰から姿を現したのは、黒いトレンチコートの女。彼女は眠るように動かなくなったシズ子の前に立った。
いつもの冷徹な観察眼で、その安らかな表情を見つめる。
そして、足元に落ちていた緑色のカードを拾い上げた。
残高0円。
使い切られたカード。
それは、シズ子の命の輝きそのものだった。
女はポケットから手帳を取り出し、短い一文を書き込んだ。
『被験者No.112 松本シズ子。終了。』
『敗因:寿命』
「敗因というより勝因かしらね……」
女は小さく頭を下げ、シズ子に一礼した。
そして、踵を返し、夜の闇へと消えていく。
その直後。
ウィーン、と自動ドアが開いた。
店員がゴミ袋を持って出てきた。
「あれ? おばあちゃん、まだいたの?」
店員はベンチに座るシズ子に近づいた。
「風邪ひくよ。大丈夫?」
店員の手が、シズ子の肩に触れる。
グラリ。
シズ子の体が、力なく傾いた。
抱えていた花の箱が、膝の上でカサリと音を立てる。
その手は冷たく、しかし表情はどこまでも幸せそうだった。
「え……? おばあちゃん……?」
店員の悲鳴にも似た呼びかけが、深夜のコンビニに響く。
だが、その声はもうシズ子には届かない。
ベンチの上には、色鮮やかなプリザーブドフラワーだけが、月明かりを浴びて静かに輝いていた。
(第9話 完)




