第7話:『終わらない休日(エンドレス・バケーション)』
染井レン(30)の朝は、世間一般の「おやつ時」に始まる。
午後二時。
遮光カーテンの隙間から差し込む日差しを鬱陶しそうに手で遮り、レンはのっそりとベッドから這い出した。
職業、フリーランスのウェブデザイナー。
といえば聞こえはいいが、実態は納期ギリギリまで動かない、典型的な先延ばし癖のあるダメ男だ。
部屋は散らかっている。飲みかけのペットボトル、脱ぎ捨てた服、積み上がった漫画雑誌。
時計は部屋に三つあるが、どれも時刻がズレている。正確な時間はスマホを見ればいい。どうせ急ぐ用事などないのだ。
「……あー、腹減った」
レンはあくびをしながら玄関へ向かった。ウーバーイーツでも頼もうかと思って郵便受けを見ると、黒い封筒が入っていた。
中には『Suica』と、黒い手紙。
ー
【魔法のSuica詳細】
拝啓、ラッキーなアナタへ
支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)
条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。
成功報酬:翌日、同額を再チャージします。
注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。
ー
「へえ、二万?」
レンの反応は薄かった。
興奮するわけでも、疑うわけでもない。
ただ、「ラッキー」と思っただけだ。
彼は着の身着のまま、近所のコンビニへ行き、適当に雑誌とタバコと弁当を買った。
残高を確認する。
本当に入っていた。
「マジか。……ま、使えるもんは使うか」
その日の夜、レンはニンテンドーeショップ(Suica決済対応)で、気になっていたゲームをダウンロード購入し、残りは高い出前を取って使い切った。
0時ギリギリだったが、特に焦りはしなかった。
翌日、また二万円が入っていた。
「ふうん。これ、続くんだ」
レンはニヤリと笑った。
これは、俺のためのシステムだ。働かなくていい。ただ消費して、寝てればいい。最高じゃないか。
それから、一ヶ月が過ぎた。
レンはこのゲームの「長期生存者」となっていた。
他の参加者たちが、欲を出して換金しようとしたり、システムの穴を突こうとして自滅していく中、レンだけは違っていた。
彼には「欲」がなかった。
億万長者になりたいわけでも、タワマンに住みたいわけでもない。
ただ、「ラク」がしたいだけだ。
レンの生活は、堕落の極みに達していた。
仕事の依頼はすべて断った。
「しばらく休業します」
とメールを一通送ったきりだ。
毎日午後三時に起きる。
Suicaを持って駅ビルへ行く。
遅めのランチに、三千円のうな重を食べる。
マッサージ店に行って、六千円のコースを受ける(交通系IC対応の店を探した)。
帰りにデパ地下で、半額になっていない定価の高級惣菜と、プレミアムビールを買う。
家でゲームをし、映画を見る。
残高調整? 面倒な計算はしない。
彼が編み出した必勝法は、**「駅の自販機」**だ。
夜、使い切れなかった端数が数百円残る。
そうしたら、マンションの一階にある自販機に行き、飲みたくもないジュースを次々と買って、0円になるまでボタンを押す。
買ったジュースは、近所の子供にあげたり、冷蔵庫に詰め込んだりする。
それで終わりだ。
「あー、幸せ」
レンは本心からそう思っていた。
誰にも怒られない。納期に追われない。
毎日二万円のお小遣いで、好きなものを食って寝る。
人間、これで十分じゃないか。
この生活が一生続けばいい。いや、続くはずだ。俺は一度もミスをしていないのだから。
一ヶ月記念日の夜。
レンはいつもより豪華な晩酌を楽しんでいた。
時刻は21時00分。
テーブルには、特上寿司の桶と、高級日本酒『獺祭』の瓶が空いている。
レンはほろ酔い気分でスマホを見た。
【残高:160円】
今日のノルマは、あと160円。
ジュース一本分だ。
マンションの一階にある自販機に行けば、10秒で終わる。
「……ふあぁ」
大きなあくびが出た。
満腹感と酔いが、強烈な睡魔となって襲ってくる。
コタツが温かい。テレビでは深夜のバラエティ番組が流れている。
「あと3時間あるしな……」
レンはゴロンと横になった。
今すぐ自販機に行くのは面倒だ。外は寒いし、エレベーターを待つのもダルい。
仮眠しよう。
そう判断した。
30分だけ寝て、スッキリしてから最後にジュースを買えばいい。
目覚まし?
かける必要はない。俺の体内時計は優秀だ。今までだって、なんだかんだで納期を守ってきた(ギリギリで)。
それに、160円を残して寝過ごすなんて、そんな馬鹿なことするわけがない。
レンはスマホを枕元に置き、目を閉じた。
意識が、温かい泥の中に沈んでいく。
幸せだ。
明日は何を食べよう。焼き肉もいいな。
そんなことを考えながら、レンは深い眠りに落ちていった。
夢を見た。
終わらない夏休みの夢だ。
宿題はない。先生もいない。ただ永遠に続く、怠惰で甘美な午後。
ふと、寒気を感じた。
コタツの電源が切れたのか?
レンは身じろぎをした。
静かだ。
テレビの音がしていない。つけっぱなしだったはずなのに。寝ぼけて消したのか?
レンは薄目を開けた。
静寂。冷蔵庫のモーター音だけがブーンと響いている。
……あれ?
俺、どれくらい寝てた?
レンはのっそりと上半身を起こした。
頭が重い。飲みすぎたか。
喉が渇いた。
そうだ、ジュース。
ジュースを買わなきゃ。
残高160円。
レンは枕元のスマホを手に取った。
画面をタップする。
バックライトが光り、網膜を刺激する。
そこに表示されていた数字。
00:03
レンの思考が停止した。
0時3分。
「……は?」
レンは乾いた声を出した。
見間違いだ。
まだ22時3分のはずだ。
俺が寝たのは21時過ぎ。一時間くらいしか寝てないはずだ。
もう一度見る。
1月28日(水) 0:03
日付が変わっている。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
血の気が引いていく。酔いが一瞬で霧散する。
「う、嘘だろ……?」
レンは飛び起きた。
足がもつれてコタツのテーブルにぶつかる。空いた酒瓶が倒れて転がる。
0時を過ぎた?
俺が?
一ヶ月も勝ち続けてきた俺が?
たった160円を残して?
「い、いや、まだ間に合うかも……時計が狂ってるだけかも……!」
レンは裸足のまま、部屋を飛び出した。
廊下を走る。
心臓が破裂しそうだ。
エレベーターが4階にある。ボタンを押す。来ない。遅い。
レンは非常階段を駆け下りた。
一段飛ばしで降りる。転びそうになる。
一階へ。
エントランスの自動ドアを抜ける。
目の前に、いつもの自動販売機がある。
光り輝く、救いの神。
レンはスマホを握りしめ、自販機に突進した。
160円のコーラ。
ボタンを押す。
売り切れランプはついていない。
買えるはずだ。
まだシステム更新が遅れているかもしれない。ロスタイムがあるかもしれない。
「頼むッ!!」
レンはスマホを読み取り機に叩きつけた。
ピロリン。
無機質な電子音が鳴った。
自販機のディスプレイに、赤い文字が流れる。
『カードが無効です』
『有効期限切れ』
「……あ」
レンの手からスマホが滑り落ちた。
ガシャン、と画面が割れる音がした。
自販機の明かりだけが、呆然と立ち尽くすレンを照らしている。
コーラは出てこない。
160円。
たったそれだけ。
それを「あとで」やるのが面倒だった。
たった数分の手間を惜しんだ。
一ヶ月続いた天国。
不労所得。
好きな時に起き、好きなものを食う生活。
それが、今この瞬間、永遠に失われた。
「あ……ああ……」
レンはその場に崩れ落ちた。
明日からは?
仕事は断ってしまった。貯金もない。
元の生活に戻るだけ?
いや、無理だ。一度知ってしまった「蜜の味」は、レンの勤労意欲を根こそぎ腐らせてしまった。
もう、二度と働けない体になってしまった。
エントランスの暗がり。
黒いトレンチコートの女が立っていた。
彼女は冷ややかな目で、へたり込む男を見つめ、手帳を開いた。
『被験者No.111 染井レン。脱落。』
『生存期間:30日』
『敗因:怠惰による寝過ごし』
「一番長く続いたわね」
女がポツリと呟いた。
「でも、結局は時間を守れない人間は、システムには勝てないのよ」
レンの絶叫が、深夜の住宅街に虚しく響き渡った。
「嫌だアアアアア!」
それは、現代社会が生み出した、最も情けなく、最も切実な悲鳴だった。
(第7話 完)




