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第4話:『損益分岐点』


 深夜23時45分。

 田中ユミ(28)の指先は、乾いた音を立ててキーボードを叩き続けていた。

 都内の雑居ビルにあるシステム開発会社。

 ディスプレイに表示された無数のコード。

解読し、修正し、最適化する。

それが彼女の仕事だった。


「田中さん、このバグ修正、明日朝イチで頼める? クライアントがうるさくてさ」

 上司が声をかけてきた。

「……はい、承知しました」

 ユミは画面から目を離さずに答えた。

 手取り23万円。都内の家賃、奨学金の返済、実家への仕送り。

そして、半年前に転がり込んできた「自称ミュージシャン」の彼氏・ケンジの生活費。

 

 彼女は完全キャッシュレス主義だった。

 財布は持ち歩かない。支払いは全てスマホかカード。ATMに並ぶ時間すら無駄だし、小銭を持ち歩く重さも嫌いだ。

 効率化。最適化。コストカット。

 それが、田中ユミという人間のアルゴリズムだった。

 深夜一時。帰宅した彼女は、郵便受けに入っていた黒い封筒を見つける。

 中には『Suica』と、一通の黒い手紙。


【魔法のSuica詳細】


【魔法のSuica詳細】

拝啓、完全なるアナタへ

支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)

条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。

成功報酬:翌日、同額を再チャージします。

注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。


リビングでは、ケンジが大口を開けて寝ていた。テーブルには私が作り置きしたタッパーが空になって転がっている。

 私の稼いだお金が、この男の胃袋で消えていく。

 もし、このSuicaが本物なら。

 一日二万円。月六十万円。

 それは、彼女の人生を変える最強カードになるかもしれない。



 翌朝、駅の券売機で残高を確認したユミの目が、スッと細められた。


 【残高:20,000円】


 実データだ。

 彼女は即座に**『生活防衛資金運用表』**を作成した。

 散財はしない。普段の生活費を全てこのカードで支払うことで、自分の給与を全額貯金に回す。

 それが最も合理的で、リスクのない運用法だ。

 仕事帰り、ドラッグストアでの買い物。

 洗剤、シャンプー、保存食。電卓を叩きながらカゴに入れる。

 最後の一円単位の調整は、量り売りの惣菜や値引き品で行う。

 

「お会計、二万円ちょうどになります」

「Suicaで」


 【残高:0円】


 快感だった。

 バグのない綺麗なコードを書いた時のような、静かで理知的な快感。

 アパートのクローゼットは日用品のストックで埋まり、銀行口座の残高は確実に増えていった。

 あと半年。三百万溜まったら、ケンジを捨てて、セキュリティのしっかりしたマンションに引っ越す。

 このカードは、私を自由にするための鍵だ。



 しかし、破綻は唐突に訪れた。

 開始から十日目の夜。

 ユミが帰宅すると、ケンジがニヤニヤしながら、例の「黒い手紙」と「緑のSuica」をいじっていた。

隠し場所を見つけられたのだ。


「おかえり。これ、なに? パパ活?」

「違うわよ! モニター調査の謝礼!」

「ふーん。じゃあさ、俺にも還元してくれよ。エフェクター欲しいんだよね。中古で一万八千円くらいの」

 ユミは拒絶したかったが、ここでカードを取り上げられたり、暴れられたりしたら元も子もない。

 今日の二万円を犠牲にして、明日からのシステムを守るしかない。


「……わかったわよ。今日だけよ」

 ユミは条件をつけた。

「必ずレシートを持って帰ること。そして、絶対に使い切ること。残高が残ったら無効になるの」

「わかってるって。引き算くらいできるわ」

 ケンジはカードをひったくった。

「あ、あとユミちゃん。千円貸して」

「はあ? カード渡したでしょ」

「スタジオ代は現金のみなんだよ。財布、そこにあるんだろ?」

 ケンジはユミのバッグから、緊急用に入れていた千円札と、小銭入れに入っていた数百円をすべて抜き取った。

「サンキュー! 愛してるぜ!」

 バタン、とドアが閉まる。

 ユミはため息をついた。


 まあいい。手元の現金はなくなったが、私は完全キャッシュレス派だ。生活に支障はない。

 今は、ケンジがちゃんと計算できることを祈るだけだ。



 23時50分。



 ガチャリ、と鍵が開く音がした。

 ケンジが上機嫌で帰ってきた。手には楽器屋の紙袋と、コンビニの袋。

「おー、ただいま」

「カード! カードは!?」

 ユミは玄関まで詰め寄った。

「あるよ、ほら」

 ケンジはポケットからカードを放り投げた。

「ちゃんと使ったよ。エフェクターが一万七千円ちょい。残りで酒とつまみ買った」

「残高は? 0円にした?」

「したした。レジで『全部これで』って言ったし、完璧だろ」


 ユミは震える手でカードを拾い上げ、スマホの残高確認アプリを起動した。

 嫌な予感がする。ケンジの「完璧」ほど信用できない言葉はない。

 カードをかざす。

 フォン。

 画面に表示された数字を見て、ユミの思考が凍りついた。



 【残高:7円】



「……は?」

 ユミの声が裏返った。

「7円……残ってるじゃない!」

「あ?」

 ケンジは靴を脱ぎながら、きょとんとした顔をした。

「7円? ああ、そういや」

「そういや、じゃないわよ! なんで中途半端に残したのよ!」

「いや、なんかコンビニの会計でさ、最後に店員が『レジ袋どうしますか』って聞いてきたんだよ。一枚5円だっていうからさ」

 ケンジは冷蔵庫を開け、買ってきたビールを取り出した。

「俺、その5円払うのが馬鹿らしくて『袋いらねー』って断って、手で持ってきたんだよ。そしたらその分が浮いたんじゃね?」

 ユミは愕然とした。

「断った……? 5円を?」

「おう。俺の節約術、すごくね? 褒めてくれよ」

 節約術。

 その言葉が、死刑宣告のように響いた。

 残高7円。

 もし、ケンジが5円の袋を買っていれば、残りは2円だった。

 いや、そもそも計算が合っていない。彼は適当に買ったのだ。

 ユミは壁の時計を見た。

 23時55分。

 あと5分。

 ユミの脳内CPUがフル回転し、瞬時に解を導き出そうとする。

 

 現状:Suica残高 7円

 目標:残高 0円

 どうする?

 コンビニに走って、何か買うしかない。

 だが、7円で買えるものは?

 

 選択肢A:5円のレジ袋を買う

 7円 - 5円 = 2円残る。

 2円で買えるものは存在しない。詰み。

 選択肢B:10円の商品(駄菓子やコピー)を買う

 10円 - 7円(Suica) = 不足分 3円。

 不足分の3円を支払うには、現金が必要だ。

 現金。


 ユミは自分のバッグを見た。

 そうだ。さっき、スタジオ代だと言って、ケンジが全ての現金を抜き取っていったのだ。

 財布の中は空っぽ。小銭の一枚も残っていない。

「……あ」

 顔面から血の気が引いていく。

 完全キャッシュレス生活。

 普段なら合理的でスマートなそのスタイルが、今、完全に仇となった。

 手元に10円玉が、いや、1円玉が2枚あれば助かったのに。

「行ってくる!」

 ユミはサンダルを突っかけ、部屋を飛び出した。

「おいおい、必死すぎだろー。7円くらい恵んでやれよ」

 背後でケンジの嘲笑が聞こえた。



 深夜の住宅街を、ユミは全力疾走した。

 パジャマにサンダル姿。髪は振り乱れ、形相は鬼のようだ。

 

 走りながら、必死に思考を巡らせる。

 道に10円玉が落ちていないか?

 自動販売機の釣り銭口は?

 そんな運に頼るなんて、エンジニアとして屈辱だ。でも、もうロジックでは解決できない。

 23時59分。

 コンビニの明かりが見えた。

 だが、ユミは入り口の前で立ち止まってしまった。

 入っても無駄だ。

 7円の商品はない。

 5円の袋を買っても2円残る。

 10円以上のものを買うには、現金が要る。

 スマホ決済? Pay払い?

 「Suicaの残高を使い切る」には、Suicaと現金の併用しかできない。Pay払いやクレカとの併用は、レジのシステム上できない店がほとんどだ。

 いや、できたとしても、店員に説明して、操作させて……その時間はもうない。

 詰んだ。

 デッドロック(膠着状態)。


 7円という、あまりにも中途半端な数字。

 5円の袋を買っていれば2円。それも地獄。

 そもそも、ケンジが適当な買い物をした時点で、私の運命は決まっていたのだ。

「……なんでよ」

 ユミはその場に崩れ落ちた。

「なんで、5円をケチったのよ……その5円があれば……いや、袋を買っててもダメだった……」

 

彼女の手の中にあるカード。

 右下のペンギンが、魚眼レンズのような瞳で彼女を見上げている。

 その瞳が、嘲笑っているように見えた。

 『効率化』『キャッシュレス』。

 現金を排除し、数字だけの世界で生きてきた代償がこれだ。


 アナログな「小銭」というバッファを持たなかったシステムは、たった数円の誤差でクラッシュした。

 00:00:00

 街のどこかで、日付が変わるチャイムが遠く聞こえた気がした。

 ユミは震える手で、スマホに残高確認アプリをかざした。


 ピロリン。

 【カードが無効です】


 残高7円ごと、カードは死んだ。

 明日から永遠にチャージされる二万円も、引越し資金も、自由な未来も、すべて消えた。

 手元に残ったのは、ただのプラスチック片と、家にいる役立たずのヒモ男だけ。


 コンビニのガラス越しに、店内の雑誌コーナーが見える。


 そこには、黒いトレンチコートの女が立ち読みをしていた。

 彼女は顔を上げ、へたり込むユミをガラス越しに無感動に見つめると、手帳を取り出した。


 『被験者No.106 田中ユミ。脱落。』

 『敗因:完全キャッシュレスへの過信と、7円という解決不能なバグ(誤差)』


 女は手帳を閉じ、冷ややかに店を出ていく。


 ユミは夜空を見上げた。

 アパートに戻れば、まだケンジがビールを飲んでいるだろう。

 「7円残ったくらいで怒んなよ、ケチくせーな」と笑いながら。

 その地獄が、明日からも、明後日からも続くのだ。

 ユミはカードをアスファルトに叩きつけた。

 乾いた音が響き、それは誰にも届くことなく闇に消えた。


(第4話 完)

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