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第3話:『見えない端数』

重野耕造(72)の一日は、仏壇への水の取り替えから始まる。

 線香をあげ、遺影の妻に手を合わせる。「今日も生きてますよ」と、誰に聞かせるでもなく呟く。


 都営団地の4階。エレベーターはない。足腰が弱ってきた耕造にとって、この階段は高層ビルのように感じる。


 楽しみといえば、一階の集合ポストを確認することくらいだ。だが、届くのはチラシと、二ヶ月に一度の年金通知だけ。息子家族とは三年以上連絡をとっていない。


 その日、ポストの底に、黒い封筒がへばりついていた。

 部屋に戻り、老眼鏡をかけて中身を確認する。

 『Suica』と、一枚の黒い手紙。

 紙には大きな文字でこう書かれていた。


【魔法のSuica詳細】

拝啓、孤高のアナタへ

支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)

条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。

成功報酬:翌日、同額を再チャージします。

注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。


「……なんじゃこれは」

 耕造は首を傾げた。

 最近ニュースでやっていた「給付金」というやつだろうか? マイナンバーがどうとか言っていたが、これのことか?


 デジタルだのITだの、横文字ばかりで世の中の仕組みはさっぱり分からん。だが、国が寄越したのなら使わねば損だ。

 耕造はガラケー世代だ。スマホも持っていないし、アプリで残高確認なんてできない。


 だが、「Suica」なら知っている。妻が生きていた頃、バスに乗るのによく使っていた。

 耕造は団地の近くのコンビニへ行った。

 おっかなびっくりしながらレジで幕の内弁当と、ワンカップ大関を持っていく。

「支払いは、これで頼む」

 緑のカードを出す。

 ピピッ。

 店員がレシートを渡してくる。

 耕造は眼鏡の位置を直し、レシートの印字を凝視した。

 【残高:18,850円】

「……ほう!」

 耕造の目尻に皺が寄った。本当に入っておる。

 二万円。年金暮らしの身には大金だ。

 

 その日から、耕造の生活は色づいた。

 彼は散財もしないし、貯め込みもしない。

 ただ、少しだけ「人との繋がり」を買うことにした。


 団地の公園で遊ぶ近所の子供たちに、駄菓子屋でアイスを奢ってやる。

 集会所のお婆さんたちに、高級な茶菓子を差し入れする。


「重野さん、太っ腹ねぇ」

「ありがとう」


 感謝される。笑顔を向けられる。

 孤独だった老人の心に、温かい灯がともる。

 

 残高調整も、耕造には造作もなかった。

 彼はアナログ人間だ。常にポケットに小銭入れが入っている。

 コンビニで計算し、残りが数十円になったら、最後は「駄菓子」を買うか、あるいは店員に頼んで「残りは現金で」と払えばいい。

 店員との会話も、彼にとっては楽しみの一つだった。


 「お兄ちゃん、これでゼロになるように計算してくれんか」

 「はいはい、おじいちゃん。じゃあ10円玉だしてね」

 そんなやり取りがあれば、孤独ではない。



 一週間後。


 耕造は、ある決心をした。

 「そうだ、海を見に行こう」

 

 妻と最後に行った、湘南の海。

 電車で片道約二時間。最近は足が痛くて遠出などしていなかったが、このカードがあれば特急(グリーン車)にも乗れるだろう。

この二万円を使い切って、妻との思い出に浸ろう。


 朝、駅の券売機で二万円を確認し、グリーン券を買う。

 快適なシート。車窓を流れる景色。

 駅弁を食べ、ビールを飲む。最高の贅沢だ。

 

 海は穏やかだった。

 耕造は波打ち際に座り、日が暮れるまで海を見ていた。


 夕食は、海沿いの高い寿司屋に入った。

 「特上握り、頼むよ」

 酒も進んだ。

 夜21時50分

 帰りの電車に乗る前、耕造は駅の券売機で残高を確認した。

 【残高:1,450円】

 

 あと1,450円。

 ここから自宅の最寄り駅までは、そこそこの運賃がかかる。

 耕造は、駅の改札上にある**「運賃表(巨大な路線図)」**を見上げた。


 老眼を細めて、自宅の駅を探す。


 黒い線番と、駅名の下に書かれた数字。


 『○○駅:1,450円』


「……なんと」

 耕造は膝を打った。

 ピッタリだ。


 ここから自宅まで帰れば、運賃は1,450円。

 つまり、改札を出た瞬間に残高は0円になり、ミッション完了だ。

 なんと美しい終わり方だろう。妻が呼んでいるのかもしれない。

 耕造は満足げに改札を通り、電車に揺られた。

 心地よい揺れ。酔いも回っている。

 彼は座席で深く眠り込んだ。

3

 「次は〜、終点○○駅〜」

 アナウンスで目を覚ます。

 時計を見ると、23時50分。

 危ないところだった。寝過ごすところだったが、ちょうど終点だったのが幸いした。

 

 耕造はゆっくりと電車を降りた。

 深夜のホームには誰もいない。

 冷たい風が酔った体に染みる。

 だが、心は晴れやかだった。

 今日はいい日だった。妻にも会えた気がする。

 あとは、この改札を出れば、全て終わる。

 残高は1,450円。運賃も1,450円。

 差し引きゼロ。

 耕造は自動改札機に向かった。

 右手には緑のSuica。

 「よし、帰るか」

 彼はカードをタッチ部にかざした。

 ピッ。

 軽快な音が鳴り、扉が開く。

 耕造は通り抜けた。

 そして、習慣として、改札機の小さなディスプレイに表示される「残高」に目をやった。

 0円。

 その数字を見て、安心して家に帰るつもりだった。

 しかし。

 そこに表示されていたのは、予想外の数字だった。

 【引去:1,442円】

 【残高:8円】

 耕造の足が止まった。

「……は?」

 後ろから来た客がいないのが幸いだった。彼は改札を出たところで立ち尽くした。

 

 8円?

 なぜだ。運賃は1,450円だったはずだ。

 あの大きな路線図に、そう書いてあった。

 耕造は慌てて振り返り、券売機の上にある運賃表を確認した。

 やはり、1,450円と書いてある。

 混乱する頭で、耕造は駅員の窓口を叩いた。

「おい! 駅員さん! 機械が壊れとるぞ!」

 眠そうな駅員が出てくる。

「どうされました?」

「運賃がおかしい! 1,450円のはずなのに、8円残っとる! ちゃんと引いてくれ!」

 駅員は耕造のSuicaと運賃表を交互に見て、苦笑した。

「ああ、お客様。あの運賃表は**『きっぷ(現金)』**の運賃です」

「は?」

「ICカード、つまりSuicaで乗車される場合は、1円単位の計算になるんです。きっぷだと10円単位に切り上げられますが、ICだと安くなるんですよ」


 IC運賃。

 1円単位の二重価格。

 消費税増税のタイミングで導入されたその複雑な仕組みを、アナログ世代の耕造は理解していなかった。

 きっぷなら1,450円。

 Suicaなら1,442円。

 その差額、8円。

 それが今、カードの中に「死に金」として残ってしまったのだ。


 時刻は23時55分。

 駅員は不思議そうに耕造を見ている。

「安く済んでよかったじゃないですか」

「よくない! 困るんじゃ! これを使い切らんと……」

 耕造は駅の周りを見渡した。

 ここはベッドタウンの終着駅だが、深夜だ。

 駅前のコンビニは……ある。ローソンの看板が光っている。

 あそこに行けば。

 8円。

 何か買って、残りを現金で払えばいい。

「ありがとう!」

 耕造は走ろうとした。

 だが、老いた足がもつれた。

 ガクン、と膝が折れ、その場に転倒した。

「うぐっ……」

 膝に激痛が走る。一日歩き回ったツケが、ここに来て回ってきた。

 立てない。

 23時57分。

 コンビニまでは50メートル。

 若い頃なら10秒の距離だ。

 だが、今の耕造には永遠のように遠い。

 目の前に、駅の自動販売機がある。

 Coke ON対応の最新式だ。

 耕造は這うようにして自販機に近づいた。

 一番安い水、110円。

 残高は8円。

 

 自販機にSuicaをかざす。

 『残高が不足しています』

 無機質な音声が流れる。

 

 耕造はポケットから小銭入れを取り出した。

 100円玉がある。10円玉もある。

 現金はあるんだ。

 「頼む、合わせてくれ!」

 彼は小銭投入口に110円を入れた。

 ランプが点灯する。

 

 だが、どうする?

 ここから「Suicaの8円」を引くには?

 ボタンを押せば、現金から引かれるだけだ。

 「併用」ボタンなんてない。

 コンビニのレジなら人間がやってくれる処理も、機械相手ではどうにもならない。

 23時59分。

 耕造は自販機にしがみついたまま、夜空を見上げた。

 妻の顔が浮かんだ。

 『あなた、詰めが甘いんだから』

 そう笑っている気がした。

「……すまん。ワシは時代の流れについていけんかったわ」

 耕造は乾いた笑い声を漏らした。

 安くなった8円。

 便利になるはずのデジタル化。

 それが、こんな形で牙を剥くとは。

 00:00:00

 遠くで日付が変わるチャイムが鳴った。

 手の中のSuica。

 8円を残したまま、それはただのプラスチックに戻った。


 明日からはまた、チラシしか入っていないポストを確認する日々に戻る。

 いや、一度味わってしまった「温もり」を失った分、その孤独は以前よりも深く、冷たいものになるだろう。

 自販機の陰に、いつものトレンチコートの女が立っていた。

 

 彼女は痛々しい姿の老人を一瞥し、ペンを走らせた。

 『被験者No.108 重野耕造。脱落。』

 『死因:IC運賃と現金運賃の差額(二重価格)への無知』

 「……システムは弱者を待ってはくれないのよ」

 女の呟きは、夜風にかき消された。

(第3話 完)

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