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第2話:『跳躍する数字(ステップ・ファンクション)』


 川島サエ(34)の朝は、呪いのようなルーティンから始まる。

 埼玉県のベッドタウン。築十五年、薄汚れたベージュ色の分譲マンション。その四階のベランダから、駅の反対側にそびえ立つタワーマンション『グランド・ヒルズ』を見上げるのだ。

 朝日を反射して輝くガラスの塔。あそこは、天界だ。


 そして自分は、そこから見下ろされる地上を這い回る小さな蟻のようだ。

 サエはため息をつきながらスマホを取り出し、インスタグラムを開いた。

 フィードの最上部に、憎らしいほど鮮やかな写真が表示される。


 『今日はママ友とホテルのランチビュッフェ! 昼からシャンパン最高♡ #タワマンライフ #ママ友 #至福の時間』


 ヒルズのボスママ・麗子の投稿だ。

 背景には、サエが決して足を踏み入れることのない高層階のラウンジと、ブランドバッグがさりげなく映り込んでいる。

 サエの指が痙攣したように動く。

 無表情で画面をダブルタップ。「いいね」を押す。

「……ケッ」

 口から漏れたのは、濁った本音だった。

 まただ。また私抜きで集まっている。

 コメント欄には『麗子さん素敵!』『憧れます〜』という取り巻きたちの媚びへつらう言葉が並ぶ。サエもまた、震える指で『素敵ですね♡ 今度誘ってください!』と嘘のコメントを打ち込む。

「おい、サエ。ワイシャツ、クリーニング出してくれたか?」


 背後から、夫の達也が声をかけてきた。寝癖のついた頭、安物のスウェット。中小企業の万年課長。今日は休みでゴロゴロしているのが癪に障る。

「出したわよ。……ねえ、来週の幼稚園の集まり、新しい服買ってもいい?」

「はあ? 先月も買っだろ。うちはカツカツなんだよ。パート代でなんとかしろよ」

 達也は冷蔵庫から発泡酒を取り出しながら吐き捨てた。

「お前さ、あの金持ち主婦連中と付き合うのやめろよ。身の丈に合ってないんだよ」


 ブチッ


と頭の中で何かが切れる音がした。


 身の丈? 知ってるわよそんなこと。

 でも、ここで降りたら娘はどうなる? 「サエちゃんの家は貧乏だから」って仲間外れにされたら?

 この「ママ友」という戦場で生き残るには、見栄という鎧を着続けるしかないのだ。

 五千円のランチ代を捻出するために、私はスーパーの半額シールを血眼になって探しているというのに。

 その日の夕方。

 休日出勤扱いのパートから帰宅したサエは、郵便受けに異質な封筒を見つけた。

 漆黒の、厚みのある封筒。

 中には、一枚の『Suica』と、黒色の手紙が入っていた。


【魔法のSuica詳細】

拝啓、誰よりも輝きたいアナタへ

支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)

条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。

成功報酬:翌日、同額を再チャージします。

注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。


「……なにこれ、怪しい」

 サエは眉をひそめた。新手の詐欺か、それとも闇バイトの勧誘か。

 だが、「20,000円」という数字が網膜に焼き付いて離れない。

 二万円。

 私のパート代、4日分。

 これがあれば、あのランチに行ける。麗子と同じブランドのコスメが買える。


 サエは、夕飯の買い物ついでに、恐る恐る駅の券売機にカードを入れた。

 画面に表示された数字を見て、彼女の心臓が早鐘を打った。


【残高:20,000円】


 本物だ。

 震えが止まらなかった。恐怖ではない。歓喜だ。

 神様は見ていたのだ。私がどれだけ我慢し、どれだけ惨めな思いをしてきたかを。

 これは、私へのご褒美だ。私が「タワマンの住人」に成り上がるための、パスポートなのだ。



 サエの生活は劇変した。

 翌日から、彼女は駅ビル『ルミネ』の常連になった。

 Suicaは電車に乗るだけのものではない。駅直結のデパート、高級スーパー『成城石井』、駅ナカのコスメショップ。それら全てで使える「魔法のカード」だ。


 化粧品売り場。

 以前なら「見るだけ」で通り過ぎていたシャネルのカウンターに、サエは堂々と座った。

「この美容液と、あとこの限定のリップ。頂ける?」

「かしこまりました。お支払いは?」

「Suicaで」

 一万八千円。

 一瞬で決済が終わる。財布の中身を気にして脂汗をかく必要もない。

 店員の対応が変わった。「ありがとうございます、奥様」という声の響きが、以前とは明らかに違う。敬意が含まれている。

 これが、金を持つということか。

 サエは買ったばかりのリップを塗り、デパ地下で高級ケーキを買った。

 そして、すぐにスマホを取り出し、写真を撮る。

 加工アプリで光を調整し、インスタにアップロード。

 『パパからのサプライズプレゼント♡ シャネルの新作リップと、千疋屋のケーキ。いつもありがとう! #夫婦円満 #デパコス #ご褒美』

 投稿して数分。

 通知が鳴り止まない。

 『いいね!』『いいね!』『いいね!』

 麗子からも『いいね!』がついた。

 脳内で快楽物質がドバドバと溢れ出す。

 気持ちいい。最高だ。


 嘘でもいい。この画面の中だけでいいから、私は「幸せな奥様」でいたい。

 幼稚園の送り迎えの後、サエはママ友たちに声をかけた。

「ねえ、駅前の新しいカフェ、行かない? 私が奢るわよ」

「えっ、いいのサエさん?」

「いいのいいの。ちょっと臨時収入があってね」

 

 会計時、サエは緑色のカードを優雅にかざす。

 高級ケーキセット、四人分で六千円。

 痛くも痒くもない。どうせ使い切らなきゃいけない金だ。

 ママ友たちの見る目が変わっていく。

「サエさん、最近羽振りいいよね」

「旦那さん出世したの?」

 その視線が、サエの乾いた承認欲求を潤した。

 私はもう、カーストの底辺じゃない。中心にいるんだ。



 一週間が過ぎた金曜日。

 破滅の足音は、シャンパングラスの触れ合う音と共に近づいてきた。

 その日は、ママ友グループでの「夜の飲み会」だった。

 場所は駅ビルのイタリアンバル。当然、支払いはSuicaが使える。

 麗子を含めた五人の会。

 サエは、今日こそ麗子を圧倒してやろうと意気込んでいた。

「今日はパーッと飲みましょう! ボトル入れて! 私が出すから!」

 サエは上機嫌でワインリストの一番高いやつを指差した。

「あら、サエさん。無理しなくていいのよ?」

 麗子が少し引きつった笑顔で言う。その焦りが見えるのが、何よりの酒の肴だった。

「いいのよ麗子さん。たまには庶民の味方させてちょうだい」

 言ってやった。

 マウントを取り返した瞬間だった。

「だって今日は金曜日だしね! 旦那も休みで家にいるし、たまには息抜きしなきゃ!」

 サエはグラスを掲げた。


 宴もたけなわ、時刻は23時を回っていた。

 サエは泥酔していた。インスタ用のストーリー動画を撮りまくり、自分が世界の中心にいる気分だった。

 

 サエのカード残高は、朝の時点で2万円。そこから電車賃などで1,000円使い、残りは一万九千円ほどあったはずだ。

 とりあえず、カードで払えるだけ払って、足りない分を現金で出せばいい。

「お会計、16,100円になります」

 おや? 意外と安い。麗子が気を遣って安いフードばかり頼んだのか。

「はーい、Suicaで!」

 ピピッ!

 支払いは完了した。

「じゃあ、解散しましょうか」

 店を出て、千鳥足で駅の改札へ向かう。

 サエはふらつく足で立ち止まり、スマホで残高を確認した。

 ここできっちり確認しておかないと、明日のチャージが貰えない。

 【残高:2,900円】

 あと、2,900円。

 余裕だ。

 駅のコンビニで『ハーゲンダッツ』を買い占めて、明日の朝食用の高級食パンを買えばいい。

 そう思って、駅のNewDaysに向かおうとした時だった。

「あら、サエさん。電車?」

 背後から麗子が声をかけてきた。

「ええ、まあ」

「あらやだ。サエさん、時計見てないの?」

「え?」

 サエは電光掲示板を見上げた。

 真っ暗な掲示板。

 時刻は23時25分。

 電車が来る気配がない。

「なんで……? だって今日は金曜日でしょ? 終電は12時まであるはずじゃ……」

 サエが狼狽えると、麗子が憐れむような目で言った。

「サエさん、酔っ払いすぎよ。今日は祝日じゃない」

 時が止まった。

 祝日?

 そうだ。今日はカレンダーが赤かった。

 だから夫も家にいたし、幼稚園も休みだった。

 それなのに、私は「金曜日」という曜日感覚だけで、勝手に「平日ダイヤ(深夜まで運行)」だと思い込んでいたのだ。

「今日は休日ダイヤよ。終電はもう行っちゃったわ。一緒にタクシーで帰りましょう」

 

 麗子がタクシー乗り場へ向かう。

 サエは焦った。

 駅ビルの店はすべて閉店している。コンビニもシャッターが降りている。

 休日ダイヤの夜は早い。

 使える店はもうない。

 残高2,900円。

 これを使い切る場所が、もう「タクシー」しか残されていない。

「い、いいわ! 私、ちょっと酔い覚ましに……別のルートで帰るから!」

 サエは麗子の誘いを断った。

 相乗りなんてしたら、支払いが割り勘になったりして計算が狂う。

 一人で乗らなければならない。

 一人で、きっかり2,900円を使わなければならない。



 23時35分。

 サエは一人、タクシーに乗り込んだ。

「どちらまで?」

「あ、あの……とりあえず、北の方へ走ってください」

「へ? 家どこですか?」

 初老の運転手が怪訝な顔をする。

「いいから! メーター回してください! 遠回りして!」

 サエは後部座席でスマホを握りしめた。

 目標額:2,900円。

 タクシーはSuicaが使える。

 この2,900円を、タクシー代としてきっかり使い切ればいいのだ。


 祝日の深夜。道は空いている。

 車が走り出す。

 初乗り500円。

 メーターが光る。

 サエは祈るような気持ちで数字を見つめた。

 酔いが一気に冷めていく。

 23時45分。

 メーターは1,500円を超えた。

 サエの頭の中で、必死の計算が行われる。

 この地域のタクシー運賃。

 初乗り500円。

その後、一定距離ごとに80円加算される。

 80円。

 目標額の2,900円から、初乗りの500円を引くと、残り2,400円。

 2,400 ÷ 80 = 30。

 割り切れる!

 

 サエは小さくガッツポーズをした。

 神様は私を見捨てなかった。

メーターは必ず2,900円で止まるタイミングがある。

 その瞬間に「止めて!」と叫べばいいのだ。

 23時55分。

 深夜のバイパス。

 メーターは2,740円。

 あと2回上がれば、2,900円だ。

「運転手さん! メーター見てて! 2,900円になった瞬間に止めてください! 1円でも過ぎたら承知しないわよ!」

「はあ……分かりましたよ。変わったお客さんだなぁ」

 運転手がハンドルを握り直す。

 2,820円。

 あと一回。

 カチ、カチ、とメーターの内部で歯車が回る音が聞こえるようだ。

 サエは息を止めた。

 さあ、来い。2,900円。

 これで今日もクリアだ。明日もまた二万円が手に入る。タワマンへの階段を一歩登れる。

 その時だった。

 キキーッ!!

 運転手が急ブレーキを踏んだ。

 サエの体が前の座席に叩きつけられる。

「な、なによ!」

「すんません、猫が飛び出してきて」

 

 車体が完全に停止した。

 サエは慌ててメーターを見た。

 2,820円のままだ。

 よかった。まだ超えてない。

「早く! 早く出して! 止まってると料金上がるんでしょ!?」

 サエが叫ぶ。


 タクシーの運賃は、距離だけでなく**「時間距離併用制」**だ。


 時速10km以下になると、時間で料金が加算される仕組みになっている。


「いや、猫がいったかどうか確認しないと……」

 運転手がのんびりとシートベルトを外そうとする。

「いいから! 轢いててもいいから出してよ!!」

 サエの本性が口をついて出る。なりふり構っていられない。

運転手がやれやれといった感じで車を前に進めた。

 タクシーが橋に差し掛かると

 ピッ。

 メーターが動いた。

 

 2,900円。

「ストップ!!! ここで止めて!! 支払い!!!」

 サエが絶叫した。

 今だ。今この瞬間だ。

 これで0円になる。

「ええ!ここですか?ちょっと危ないですよ」

「いいから!」

再びサエは絶叫した。


 運転手がのんびりと精算ボタンに手を伸ばす。

 ゴォォォォォ!!

 その時、大型トラックが猛スピードで通過した。

 その風圧でタクシーが揺れる。

 運転手がビクリとして手を引っ込めた。

「あぶねえな……ちょっと橋を下りますね」

「だめ! 動かないで! 動いたら上がる!!」

「いや、こんな橋の真ん中で止まったら追突されますから!」


 運転手がブレーキを緩める。

 車が動く。

 タイヤが回転する。


 わずか数十メートル。だが、その数十メートルと、経過した数秒が、運命の分かれ道だった。

 サエの目の前で、デジタルの数字が無情に切り替わった。

 2,980円。

 跳躍ジャンプした。

 目標額の2,900円を、軽々と飛び越えてしまった。

 階段を一段踏み外したように、数字は不可逆の領域へと進んでしまった。

「あああああ……」

 サエは絶望の声を漏らした。

 終わった。

 2,980円。

 手持ちのSuica残高は2,900円。

 これでは「残高不足」で決済できない。

 

 いや、待て。

 Suicaと現金の併用ができるはずだ。

 Suicaの2,900円を全額使い切り、不足分の80円を現金で払えば、カードの中身は0になる……!

「運転手さん! ここで止めて! 支払いはSuicaと現金で!」

 運転手が路肩に車を停めた。

「はい、2,980円ですね」

「Suicaの残高全部使って、残りは現金で払います!」

 運転手が操作パネルをいじる。

 そして、困ったような顔で振り返った。

「あー、お客さん。悪いけど」

「なによ! 早くしてよ!」

「うちの会社のシステム、併用できないんですよ」

 時間が止まった。

「……は?」

「SuicaならSuica一括。現金なら現金。どっちか選んでもらわないと。機械がボロくてねぇ」


 そんな馬鹿な。コンビニではできたのに。

 いや、タクシー会社によっては古い決済端末を使っているところもある。

 運が悪かった。最悪のタクシーに乗ってしまった。

 時刻は23時59分。

 バイパスの路肩。

 周りには何もない。田んぼと、遠くに見える工場の明かりだけ。

 自動販売機すらない。

 詰んだ。

 2,900円を残したまま、0時を迎えるしかない。

 

「お客さん? 支払いどうします?」

 サエは震える手で、財布から現金を取り出した。

 三千円。

 なけなしの生活費。夫に「カツカツだ」と言われた家計から絞り出した金。

「……現金で、払います」

 支払いを済ませ、サエはタクシーを降りた。

 冷たい夜風が、薄着のドレスを突き抜ける。

 手の中のSuica。

 そこには、まだ2,900円という大金が入っている。

 だが、この金はもう死んでいる。

 00:00:00

 スマホのアラームが鳴った。

 終了の合図だ。

 

 ピロン。

 同時に、インスタグラムの通知が鳴った。

 麗子からのコメントだ。


 『サエさん、今日はありがとう♡ またランチ行きましょうね(笑)』


 その(笑)が、全てを見透かしているように思えた。

 バイパスの向こう側、歩道橋の上に、人影が見えた。

 トレンチコートの女。

 彼女は夜風にコートをなびかせながら、手帳にペンを走らせていた。


 『被験者No.107 川島サエ。脱落。』

 『敗因:見栄による日付誤認(祝日)と、タクシーメーターへの敗北』


 女が去った後、サエはその場にうずくまり、泣き叫んだ。

 明日からはまた、タワーマンションを見上げる惨めな生活が始まる。

 いや、今まで以上に惨めだ。一度知ってしまった「選ばれた自分」という夢から、泥沼に叩き落とされたのだから。

 夫にどう言い訳しよう。三千円減った財布を握りしめ、サエは夜の闇に声を枯らした。


(第2話 完)

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