第10話(最終話):『観測者の報酬)
松本シズ子の遺体が搬送され、パトカーの赤色灯が遠ざかっていく。
深夜のコンビニ前。
神崎舞(29)は、手帳を閉じて大きく息を吐いた。
「これで、9人全員終了」
長かった。
カズキの慢心、サエの見栄、耕造の無知、ユミの過信、マモルの執着、レンの怠惰、シズ子の献身、レンジの無力さ。
人間の欲望と愚かさのサンプルは十分に集まった。
この「Suica残高消去実験」のレポートをクライアントに提出すれば、私は莫大な報酬を手にし、元のジャーナリスト生活に戻れる。
舞はトレンチコートのポケットに手を入れた。
愛用の万年筆を取り出そうとして――指先が、紙に触れた。
「……?」
取り出す。
黒い手紙が入っていた。
いつの間に?
すれ違った救急隊員に紛れて?
手紙を開く。
【最終被験者:No.114 神崎舞】
支給額:毎日金20,000円也
条件:本日23時59分59秒までに、この松本シズ子のカードの残高を0円にすること。
※完了報告には、専用アプリによるカードスキャンが必要です。
「……はッ」
舞は乾いた笑い声を漏らした。
なるほど。
私も「外野」ではなかったということか。
データを集める観測者もまた、実験の一部。
最後まで生き残った者が、このゲームの勝者。
舞はスマホのリーダーアプリを起動し、カードを裏にかざした。
【残高:20,000円】
時刻は00:30。
あと23時間30分。
舞にとっては永遠にも等しい猶予だ。
私は全ての失敗例を知っている。
全ての地雷の場所を知っている人間に、このゲームはヌルすぎる。
舞の行動は迅速かつ合理的だった。
彼女はまず、この2万円を「消費」するのではなく、「自己投資」に使うことにした。
翌朝。
舞は都内の高級ホテルのラウンジにいた。
注文したのは、一杯3,000円のブルーマウンテンと、ケーキセット。
優雅に朝食を楽しみながら、彼女はレポートの仕上げを行った。
会計。
「Suicaで」
サービス料込みで4,200円。
残高15,800円。
その後、大手書店へ。
資料として必要な専門書を数冊選ぶ。
計算機は使わない。暗算で完璧だ。
15,800円ちょうどの本など存在しない。だから、わざとオーバーさせる。
合計16,500円。
「支払いはSuicaの残高全額。不足分の700円は現金で」
ピピッ。
店員がレシートを渡す。
【Suica残高:0円】
時刻は14時00分。
終了。
あまりにも呆気ない。
「……さて」
舞は空になったSuicaを財布に入れた。
これで条件はクリアした。
あとは帰宅して、クライアントに「完了報告」をするだけだ。
夜が更けていく。
舞は自宅のマンションで、ワイングラスを傾けていた。
テーブルの上には、残高0円になったSuica。
23時50分。
余裕だ。
何のトラブルもない。
私は、あの愚かな被験者たちとは違う。
舞はスマホを取り出し、クライアント指定の「報告用アプリ」を立ち上げた。
画面には『カードをスキャンして、残高0円を証明してください』と表示されている。
これが最後の手順。
これを送信すれば、ミッション完了。約束の「本報酬(1000万円)」が銀行口座に振り込まれるはずだ。
「さようなら、悪趣味なゲーム」
舞はSuicaをスマホの背面に密着させた。
フォン。
NFCが読み取られる。
『残高確認:0円』
『ミッション成功を確認しました』
画面に緑色のチェックマークが出る。
舞が口元を緩めた、その瞬間だった。
『報酬の受け取り処理を開始します』
『書き込み中…… カードを離さないでください』
「……は?」
舞の思考が凍りついた。
書き込み中?
何を?
物理的なSuicaカードは、スマホのNFC機能を使えば、ネット経由でチャージ(ポケットチェンジやJRE POINT受取など)が可能だ。
クライアントは、この「報告用スキャン」のタイミングを利用して、データを送り込んできたのだ。
『書き込み完了』
『報酬(前金):20,000円 をチャージしました』
フォン。
再スキャン完了の音が鳴る。
【現在の残高:20,000円】
舞はスマホを放り投げた。
「ふざけないでよッ!!」
報酬? 2万円?
私が欲しかったのは銀行振込の1,000万円だ。こんな端金じゃない!
だが、事態はもっと深刻だった。
ルールを思い出す。
『条件:本日23時59分59秒までに、このカードの残高を0円にすること』
今、カードの中身は満額の2万円。
時刻は――
23時55分。
あと5分。
5分で2万円を消さなければ、私は「失敗」となり、本報酬の1000万円も消える。
「ハメたわね……!」
舞はカードをひったくり、部屋を飛び出した。
確認しなければよかったのだ。
いや、確認しなければ報告完了にならない。
どちらに転んでも、この「報酬」を受け取らされる運命だったのだ。
舞はハイヒールで廊下を駆けた。
エレベーターが遅い。非常階段を転がり落ちるように駆け下りる。
マンションの下にコンビニはある。
あそこで何か、高額なものを買えばいい。
酒? タバコ?
2万円分。カートン買いすればいける。
23時58分。
コンビニに滑り込む。
客はいない。深夜の店内は白々しいほど明るい。
「いらっしゃいませー」
レジにいたのは、金髪でピアスをした若い男の店員だった。気だるそうにスマホをいじっていたが、客が来たので慌ててポケットにしまった。
舞はレジに突進した。
乱れた髪も気にせず、カウンターにカードを叩きつける。
「7番! カートンで4つ! 急いで!」
5,800円 × 4 = 23,200円。
これで足りる。不足分は現金で払えばいい。
店員がゆっくりと動く。
「えーと、7番っすか……」
「早くして!!」
舞の剣幕に押され、店員がバックヤードへ走る。
早く。早く。
秒針が進む音が、心臓の鼓動と重なる。
店員が戻ってきた。
「お待たせしましたー。4カートンですね」
レジ打ちが始まる。
ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。
動作がいちいち遅い。舞はカウンターを指で叩きながらイライラを募らせた。
「お会計、23,200円になります」
「Suicaで!! 不足分は現金!!」
舞はカードを端末に押し付け、財布から千円札を数枚取り出した。
店員がレジを操作する。
あと1分を切っている。
だが、決済ボタンを押せば終わる。間に合う。
その時。
店員が、マニュアル通りの口調で言った。
「袋、どうしますか?」
23時59分15秒。
舞の中で、何かが切れた。
この期に及んで、袋?
そんなこと、どうでもいい。1秒でも早く決済を完了させろ。
これまでの焦りと、理不尽な状況への怒りが、目の前の店員に向かって爆発した。
「いらないわよッ!!!」
舞は叫んだ。
「見ればわかるでしょ!? さっさとボタン押しなさいよ! このグズ!!」
店員の動きがピタリと止まった。
店内が静まり返る。
冷蔵庫のモーター音だけが響く。
店員はゆっくりと顔を上げ、舞を見た。
その目から、接客業の光が消えていた。
「……あ?」
「な、なによ。早くしてって言ってるのよ!」
舞が畳み掛ける。
しかし、店員はレジの操作を再開しなかった。
彼は深くため息をつくと、名札を乱暴にむしり取った。
「あー、もう無理」
「は?」
店員は制服のジッパーを下げ始めた。
「やってらんねーわ。時給1100円でなんでそんなクソみたいな言い方されなきゃなんねーんだよ」
「ちょ、ちょっと!?」
店員は制服を脱ぎ捨て、カウンターに投げつけた。
そして、レジの操作画面を「取引中止」ボタンでクリアしてしまった。
ガチャン。
ドロワーが閉まる音。
画面が初期状態に戻る。
「辞めまーす。帰るわ俺」
「ま、待ちなさいよ!! 会計は!? 私の会計は!!」
店員は舞を無視して、スタッフルームから自分の荷物を掴んで出てきた。
そして、呆然とする舞の横を通り過ぎていく。
「客だからって何言ってもいいと思ってんじゃねーぞ。バーカ」
ウィーン。
自動ドアが開き、店員が出ていった。
取り残された舞。
カウンターには、精算されていないタバコの山。
そして、初期画面に戻ったレジ。
00:00:00
遠くで時報が鳴った。
店内の照明が一瞬だけ瞬いた気がした。
舞は震える手で、脱ぎ捨てられた制服を掴んだ。
「……う、そ……」
崩れ落ちる。
システムでもない。エラーでもない。
ただの「感情」。
私が最も軽視し、コントロールできると思っていた「人間の感情」が、最後の最後で私を拒絶した。
自動ドアの外。
闇の中に、店員の姿はもうない。
代わりに、舞のスマホが冷ややかに震えた。
クライアントからのメール通知。
件名:プロジェクト完了のお知らせ
本文:
Suica残高消去実験、お疲れ様でした。
敗因:対人コミュニケーションエラー。
1000万円の報酬を得るために必要だったのは、高度な計算でも迅速な行動でもなく、店員への礼節でした。
皮肉ですね。貴殿のレポートにあるどの被験者よりも、安いミスでした。
舞はコンビニの床に座り込んだまま、乾いた笑い声を漏らした。
「……ハハッ……あはははは!!」
笑うしかなかった。
9人の参加者たちを「愚かだ」と見下していた私。
「レジ袋」で破滅したカズキを嘲笑っていた私が、最後は「レジ袋いらない」と叫んで破滅した。
なんて皮肉。なんて滑稽。
舞はゆっくりと立ち上がり、誰もいないレジにSuicaをそっと置いた。
もう、いらない。
1,000万円の報酬も、観測者としてのプライドも、すべて消えた。
彼女はふらふらと店を出た。
夜空を見上げる。
星は見えない。
都会の空は、感情を持たない電子回路のように、冷たく無機質に光っていた。
神崎舞は、夜の闇に溶けるように消えていった。
その背中は、彼女が記録してきたどの被験者よりも、惨めで、孤独だった。
(全10話 完)




