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第1話:『ビギナーズ・ラック』

「袋、ご利用になりますか?」

 その一言が、すべての引き金だった。

 三日前の午後、駅前のコンビニ。

 レジに立った佐藤カズキ(21)は、気怠げにマニュアル通りのフレーズを吐き出した。

 目の前のサラリーマンは、缶コーヒー一本をカウンターに置き、イライラと貧乏ゆすりをしていた。

「いらねぇよ! 見りゃわかんだろ、一本なんだから!」

 男が怒鳴った。

 カズキは眉をひそめた。マニュアルだ。店長に言われた通りに聞いただけで、なぜ怒鳴られなきゃならない。

「マニュアルなんで。確認しないとクレームになるんすよ」

「急いでんだよ! 気が利かねぇな!」

「は? なんですかその言い方」

 カズキの中で、何かが切れた。

 時給1,050円。こんなはした金で、社会の歯車たちのストレス解消サンドバッグにされるのは御免だ。俺はもっとクリエイティブで、特別で、敬われるべき人間のはずだ。

「あー、もういいっす。やってらんないんで!」

 カズキは制服のベストを脱ぎ捨て、カウンターに叩きつけた。

「え?」

「辞めます!」

 呆気にとられる客と店長を尻目に、カズキは店を出た。

 背後で「おい待て!」という怒号が聞こえたが、聞こえないフリをして足早に店を離れた。

 ……あれから三日。

 カズキは、築四十年の木造アパート『コーポ松風』の万年床で天井を見上げていた。

 勢いで辞めたのはいいが、現実は残酷だった。

 財布の中身は、534円。

 次の仕送りまであと10日。

「……詰んだ」

 空腹で胃がぐーぐー言ってる。五百円で十日生き延びる方法を検索しようとスマホを手に取った時、玄関のドアポストが『カタン!』と音を立てた。

 督促状か。それともガスの停止予告か。

 カズキは気怠げに身を起こし、玄関へ向かう。


 たたきに落ちていたのは、上質な和紙のような手触りの、真っ黒な封筒だった。

 宛名はない。切手も消印もない。郵便屋ではなく、何者かが直接ポストに入れたのだ。

「なんだこれ……気持ち悪ッ」

 封を切る。中から滑り落ちてきたのは、一枚のICカードと、三つ折りにされた一枚の黒い紙だった。

 カードは緑色の券面。見慣れた交通系ICカード『Suica』だ。

 ただ、異様なのはその右下に描かれたペンギンのキャラクターだ。まるで魚眼レンズのような黒い瞳で、カズキをジッと見つめている。

 カズキは眉をひそめながら、同封されていた紙を広げた。

 そこには、飾り気のない文字で、事務的な内容だけが印字されていた。


【魔法のSuica詳細】

拝啓、クリエイティブなアナタへ

支給額:金20,000円也(同封のICカードにチャージ済)

条件:本日23時59分59秒までに、残高を0円にすること。

成功報酬:翌日、同額を再チャージします。

注意:1円でも残れば、カードは無効化されます。


「は? ……新手の闇バイトか?」

 カズキは鼻で笑った。

 だが、その指先は微かに震えていた。

 もし本当だったら?

 Suicaにはデポジットがある。たとえ中身が空でも、駅の窓口に持っていけば五百円は戻ってくる。今の全財産と同額だ。

 カズキの胃袋が、恥も外聞もなく「行け」と命じていた。

 彼は手紙とカードをポケットにねじ込み、ジャージにサンダルを姿で、部屋を飛び出した。


2

 アパートから徒歩三分のコンビニ。

 皮肉にも、そこは三日前にカズキが制服を投げ捨てた店とは系列が違う別の店だった。

 カズキはカゴの中に、『特製ハンバーグ弁当(680円)』と『プレミアム・モルツ(350円)』、そして『週刊少年ジャンプ』を入れた。

 合計千三百円ちょっと。

 レジには、死んだような目をした外国人留学生の店員。

「オカイケイ、センサンビャクニジューエンデス」

 カズキは唾を飲み込み、黒い瞳のペンギンが描かれたカードをリーダーにかざした。

 ピピッ!

 軽快な電子音が、カズキの脳髄を揺らした。

 承認された。エラーじゃない。

 店員がレシートを渡してくる。カズキはひったくるようにそれを受け取り、店を出てから街灯の下で凝視した。

【Suica残高:18,680円】

「……マジかよ」

 本物だ。二万円入ってる。

 笑いが込み上げてきた。

 俺は選ばれたんだ。あのイライラしたサラリーマンも、俺を使えない奴扱いした店長も、今の俺には敵わない。俺には、無限の財布があるのだから。

 カズキは手紙の条件を思い出す。

 『本日中に残高を0円にしてください』

 現在時刻は23時。あと一時間で、残り一万八千六百八十円を使い切らなければならない。

 「1円でも残れば無効」。

 カズキは駅前の深夜営業のドン・キホーテに駆け込んだ。

 スマホの電卓アプリを起動する。これはゲームだ。そして俺はこのゲームの才能がある。

 ワイヤレスイヤホン、ブランドTシャツ、日用品……。

 そして最後、端数の82円を『賞味期限間近のエナジードリンク』で合わせる。

「お会計、一万八千六百八十円になります」

 ビンゴ。

 一円の狂いもない。

 カズキは心の中でガッツポーズをし、クールにカードをかざした。

「Suicaで」

 ピピッ!

 【残高:0円】

 完璧だ。俺の財布は一ミリも傷んでいない。

 カズキは両手に重たいレジ袋を提げ、夜風の中を歩き出した。

 

 帰り道、公園の時計塔が深夜0時を告げる鐘を鳴らした。

 日付が変わった。

 カズキは立ち止まり、レジ袋を地面に置くと、震える手でスマホを取り出した。

 残高確認アプリを起動する。

 手紙には『翌日、同額を再チャージします』とあった。

 もし本当なら、もう入っているはずだ。

 カードをスマホの背面に押し当てる。

 読み込み中を示すアイコンがくるくると回る。

 頼む、来い……!

 フォン。

 画面が切り替わった。

 【残高:20,000円】

「……ッシャアアアア!!!」

 カズキは夜空に向かって咆哮した。

 本当だ。嘘じゃない。魔法のSuicaだ。

 俺の人生は、たった今、勝利が確定したんだ。

 カズキは狂ったように笑いながら、重たい荷物を軽々と持ち上げ、スキップ交じりでアパートへと帰っていった。

3

 翌朝。

 カズキはスマホのアラームよりも早く目を覚ました。

 目覚めた瞬間、昨夜の出来事が夢だったのではないかという不安がよぎった。

 枕元には、脱ぎ捨てたジャージと、散乱したレシート。そして、緑色のカード。

 カズキは飛び起き、カードを掴んだ。

 心臓が早鐘を打つ。

 もし、「0円」だったら? 昨夜見た画面が、酔っ払った頭が見せた幻覚だったら?

 祈るような手つきで、再びスマホにかざす。

 フォン。

 【残高:20,000円】

「……夢じゃ、ねぇ……!」

 カズキは布団の上で崩れ落ちるように膝をつき、カードを額に押し当てた。

 冷たいプラスチックの感触が、現実であることを教えてくれる。

「キタコレ……マジで人生確変だ……!」

 再び喜びが爆発する。

 布団の上でバタバタと手足を動かし、ガッツポーズを連発する。

 働かなくていい。毎日二万円。月収六十万円。

 昨日まで自分をゴミのように扱っていた店長、マニュアル通りに動くだけのコンビニ店員、汗水垂らして働くサラリーマン。奴らは哀れな労働者だ。

 俺は違う。俺はただ「消費する」だけで金を手に入れられる。これは、資本主義というクソゲーに対するチートコードだ。

 カズキは学習していた。

 昨晩のように、一円単位で計算してピッタリ使い切るのは精神衛生上よろしくない。

 このカードの真の攻略法は、**『現金併用スプリット』**だ。

 例えば、二万五千円のゲーム機を買うとする。

 レジで「二万円をSuicaで、残りの五千円を現金で」と言えばいい。

 そうすれば、一瞬でノルマ達成だ。面倒な端数計算もいらない。

 さらに、買ったゲーム機を中古ショップに売れば、手元に「現金」が戻ってくる。この錬金術を使えば、俺は無敵だ。

 一週間が過ぎた頃、カズキの部屋はモノで溢れかえっていた。

 封を切っていない新作ゲームの山。一度も袖を通していないストリートブランドの服。限定モデルのスニーカー。

 部屋は以前より汚くなっていたが、カズキは気にしなかった。

 万能感が彼を支配していた。自分は世界の中心にいる。そう錯覚していた。

 そして運命の夜。

 カズキは、大学のサークル仲間三人と駅前の個室居酒屋にいた。

「今日は俺が奢るから! 好きなだけ飲んでいいぞ!」

 カズキはメニュー表を広げ、大声を上げた。

 最近、羽振りがいいカズキに群がってくる友人たち。

 普段はカズキを「陰キャ」と見下していたタカシやミキが、今夜はカズキのご機嫌を伺っている。それが何よりの麻薬だった。

 テーブルには高級な刺身盛り合わせや、ボトルキープした焼酎が並ぶ。

「カズキ、すげえな。お前、なんの仕事始めたの?」

 タカシが媚びるような目つきで聞いてくる。

 カズキはニヤリと笑い、焼酎をグイッと飲み干した。

「仕事? そんなの奴隷がすることだろ。俺はさ、金の『流れ』を掴んだんだよ。お前らもさ、時給千円とかで切り売りしてないで、もっと大きな視点で世界を見たほうがいいぜ」

 薄っぺらい説教。

 タカシたちが微かに顔を引きつらせた。

そんなことはお構い無しにカズキの演説は続いた。

 時刻は23時40分。

 そろそろ会計をして、ノルマを達成しなければならない。

 今日の残高は、まだ一万五千円残っている。

 計算は完璧だ。会計を一万五千円以上にして、残りを現金で払えば、今日のミッションは完了する。

「すいません、お会計!」

 カズキは店員を呼んだ。

「はい、お会計、一万八千五百円になります」

 よし、計算通り。

 カードの一万五千円を使い切り、残りの三千五百円を現金で払えばいい。

 手持ちの現金は、さっきパチンコで勝った一万円札がある。余裕だ。

 カズキはドヤ顔で、緑のカードをトレイに乗せた。

「Suica全額使い切って。残りは現金で払うから」

 店員が申し訳無さそうに頭を下げた。

「あ、お客様。大変申し訳ありません」

「ん? なに?」

「当店のカードリーダー、先ほど通信エラーを起こしてしまいまして……ただいま、復旧待ちで現金のみのお取り扱いとなっております」

 時が止まった。

 居酒屋の喧騒が、遠くへ退いていく。

「……は?」

「入り口にも張り紙をしたのですが……」

「聞いてねぇよ! なんだよそれ! いつの時代だよ!」

 カズキは立ち上がった。酔いが一瞬で冷める。

「じゃあいいよ、店変えるわ!」

「いや……お会計頂かないと困ります」

 店員の目が座る。笑顔が消え、業務的な冷たさが露わになる。

 カズキは脂汗をかきながら、財布の一万円札を出した。

 一万八千五百円引く一万円。

 足りない。八千五百円足りない。

 背後でタカシたちがヒソヒソと話しているのが聞こえる。

「……ダサッ」

 カズキの顔がカッと熱くなった。プライドが悲鳴を上げる。

「おい、タカシ。ミキ。……八千円貸してくれ」

「えー? 奢りじゃなかったの?」

 ミキが冷ややかな声で言う。

「いいから! ATM行けばおろせるから! 後で返すから!」

「えー、マジでー?」

 渋る友人たちから千円札をむしり取り、自分の財布に入っていた小銭まで全てかき集め、なんとか会計を済ませた。

 

 店を出た時、時刻は23時50分になっていた。

「じゃあな、カズキ。次はちゃんと用意しとけよ」

 タカシたちは呆れたように手を振り、駅の改札へと消えていった。

 カズキは一人、夜の街に取り残された。

 手元には、まだ一万五千円の残高が手付かずで残ったカード。

 そして財布の中身は――友人への返済に使ってしまったため、小銭すらない。

 一月の夜風が、汗ばんだシャツを冷やす。

 カズキは青ざめた。

 

 現金がない。

 つまり、以前のように「端数を現金で払って調整する」という技が使えない。

 一万五千円、ジャスト使い切らなければならない。

 一円でもオーバーすれば、支払えない。

「待てよ……これ、詰んでないか?」

4

 23時55分。

 カズキは走っていた。

 駅の裏手のコンビニが見えた。光り輝くオアシス。

 カズキは自動ドアに肩から突っ込んだ。

 残高一万五千円を使い切るには、ピッタリ一万五千円の商品を買うしかない。

 だが、今のカズキには調整用の現金がない。

 ピッタリにするしかない。

 カズキは血走った目で店内を駆け回り、高級ウイスキー、タバコ、モバイルバッテリーをカゴに放り込む。

 計算しろ。一円も間違えるな。

 端数調整のため、『からあげクン』と、最後にレジ前の『在庫処分ポケットティッシュ 6円』を掴む。

「これ全部! これで一万五千円ピッタリなはずだ! 早く!」

 店員がビクつきながら、慌ててスキャンを始める。

 ピッ。ピッ。ピッ。

 その電子音が、カズキの寿命を削っていく。

 23時59分30秒。

 モニターの数字が積み上がる。

 最後に、ポケットティッシュ。

 ピッ。

「お会計、一万五千円、ちょうどになります」

 勝利。

 初日の夜と同じだ。ギリギリのところで、世界は俺に味方する。

 カズキは全身から力が抜けるのを感じた。勝利の安堵と、極限の緊張からの解放。

 彼は勝利宣言のように、右手のカードをリーダーにかざそうとした。

 その時だった。

「あ、お客様」

 店員がスッと手を挙げ、カズキの動きを制した。

「レジ袋、ご利用になりますか?」

 カズキの思考が停止した。

 デジャヴのようなセリフ。

 かつて自分が吐き捨て、客を苛立たせたあの言葉。

「……は?」

「レジ袋。有料ですが、3円です」

「いらねぇよ! そのままでいい!」

 カズキは叫んだ。今さら何を言っているんだこいつは。早く決済させろ。

「かしこまりました。……あ、でもこれ量が多いので、袋に入れないと持ち帰れないかと……」

 店員の手が止まる。真面目な顔で、商品の山を見ている。

 バラバラになったタバコ、ウイスキー、バッテリー、からあげクン。確かに素手では持てない量だ。

 マニュアル通り。

 かつてカズキが「マニュアルなんで」と客を見下したように、今、目の前の店員もマニュアルを遵守しようとしている。

 カズキはスマホの時間を見た。

 23時59分55秒。

 秒針が進む。

 56秒。

 57秒。

「いいから会計を終わらせろッ!! 手で持って帰るんだよ!!」

 カズキが喉が裂けんばかりに絶叫した。因果応報の刃が、喉元に迫る。

 店員がビクリとして、慌ててレジの確定ボタンを押す。

「は、はい! お会計ボタン押します!」

 リーダーが青く光る。

 59秒。

 カズキは祈るように、叩きつけるように、カードをかざした。

「Suicaで!!」

 頼む、間に合ってくれ。

 軽快な決済音を鳴らしてくれ。

 ピピピピピッ!

 店内に響いたのは、神経を逆撫でするようなエラー音だった。

 カズキの心臓が早鐘を打つ。

「……は?」

 店員が画面を覗き込み、申し訳無さそうに言った。

「あ、お客様。残高不足です」

「はあ!? ふざけんな!」

 カズキはカウンターを拳で叩いた。

「一万五千円入ってんだよ! 計算は合ってんだよ! さっき確認しただろ!」

「いえ、でも……」

 店員がリーダーの画面を指差す。

 カズキは血走った目で画面を凝視した。

 そこには無慈悲な数字が表示されていた。

 【カード残高:0円】

 【不足額:15,000円】

「ゼロ……?」

 カズキはゆっくりと視線を上げ、レジ奥のデジタル時計を見た。

 00:00:01

 カズキの口から、ウゥッという息が漏れた。

 

 そういうことか。

 このカードは、0時00分00秒の時点で残高が残っていた場合、即座に没収される仕組みだったのだ。

 たった1秒。

 店員が「レジ袋」の確認で迷った、あの数秒。

 

 かつて自分が客の時間を奪った数秒が、巡り巡って自分の未来を奪ったのだ。

「お客様? 現金でお支払いになりますか?」

 店員の声が遠く聞こえる。

 現金?

 あるわけがない。財布の中は0円。

 目の前には、大量の酒とタバコ、からあげクンの山。

 カズキは震える手で、リーダーの上のカードを掴んだ。

 

 緑色の、ただのプラスチックカード。

 ペンギンの絵柄は、どこまでも無表情だ。

 それはまるで、愚かな元店員を嘲笑っているかのようだった。

「……キャンセルで」

 カズキは蚊の鳴くような声で言った。

 よろめきながら店を出る。

 自動ドアが開く。一月の冷たい夜風が、汗ばんだシャツを冷やす。

 手には、空っぽのSuicaと、空っぽの財布。

 カズキはアスファルトの上に崩れ落ちた。

 夜空を見上げても、奇跡はもう降ってこない。

「……あ、あぁ……畜生……」

 その情けない背中を、雑誌コーナーの陰からじっと見つめる視線があった。

 黒いトレンチコートを着た女性

 彼女は冷ややかな目でカズキを一瞥すると、手帳にさらさらと何かを書き込んだ。

 『被験者No.105 佐藤カズキ。脱落。』

 『敗因:過去の因果(レジ袋)による時間切れ』

 女は無表情で店を出ていく。

 カズキの嗚咽だけが、深夜のコンビニにいつまでも響いていた。

(第1話 完)

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