第2話 黒き獣の痕跡
第2話 黒き獣の痕跡
王命の許可が下りた翌朝、俺は調査隊の名簿に目を走らせた。宰相オルフェンが用意してくれた人員は、侍女のリディア、若い騎士三名、荷運びの従卒、そして土地鑑に明るい猟師の老人。必要最小限だが、動きやすい布陣だ。
「物資は整えた。結果で語れ、姫」
執務室での別れ際、オルフェンはそう言って俺を真っ直ぐに見据えた。試す目ではない。任せる目だ。
城門前では、婚約者が馬上からわざとらしい笑みを浮かべる。
「無駄な遠足にならねば良いのですが」
俺は微笑で返した。
「わたしは結果を持ち帰ります。あなたが持ち帰れなかったものを」
婚約者は一瞬言葉を詰まらせ、手綱を強く引いた。
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森へ向かう街道は静かだった。初夏の陽射しの下で、畑は青く波打つ――はずだった。だが北へ進むほど、苗の色は鈍り、葉先が茶色に焼けている。風に混じるのは、理科室で嗅いだことのある、腐った卵の匂い。硫化水素。
《来ているわね》
(ああ。ここからは慎重に確かめていく)
最初の村に入ると、井戸の傍らで牛がうずくまり、鼻を泡で濡らしていた。村長が駆け寄り、土下座せんばかりに訴える。
「姫様、畑が全滅しかけておるだ。水が、臭うんだ」
「井戸の桶をわたしに。少し、水を」
汲み上げた水を嗅ぎ、泥を指ですくって練る。粘りが弱い。酸で土の膠が壊れている。
「まずは応急処置をする。石灰はある?」
「古い石垣を崩せば石が出ます」
猟師の老人が頷いた。「焼き場も用意できらぁ」
村人たちと共に石を集め、広場に即席の焼成炉を築いた。石を積み、薪と炭を山と積み、ふいごで火を送り込む。
「石灰岩を焼けば生石灰になる。触るなよ、火傷する」
《錬金術だわ》
(いや、ただの化学反応だが……ここは理屈を信じて押し切る)
やがて白く焼けた石を桶に移し、水を注ぐ。ジュウッと音が立ち、白い湯気がもうもうと上がる。
「これが消石灰(Ca(OH)₂)。土の酸っぱさを中和してくれる」
俺は畑の隅を選び、試しに撒いて混ぜ合わせる。鼻を刺す臭いがいくらか薄れ、草の葉が少し持ち直す。
「……効いている。やり方はわかりましたか」
リディアと村長に向き直る。
「残りはあなたたちに任せます。少しずつ畑に混ぜれば、土は必ず息を吹き返します。村人をまとめて」
リディアは真剣に頷き、村人たちが鍬を手にした。
《シンヤ、自分で最後までやらなくていいの?》
(ああ。中和は彼らに任せる。俺たちは瘴気の源を絶たなきゃ意味がない)
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森へ入ると、空気は重く、鳥の声も消えた。地面には細かな泡が浮き、腐臭がさらに濃い。
俺は銀の小片をリディアから受け取り、泥に差し入れる。掘り上げると、銀は黒く変色していた。
「硫化水素だ。銀が黒くなるのは硫化銀。……やっぱり硫黄だ」
猟師が指差す。「見ろや。猪の通り道だ」
進むにつれ、黒ずんだ水たまりが現れる。水面には油のような虹の膜。周囲の草は白く焼け、根が露出していた。
そして――鼻を衝く臭いと共に、巨大な塊。
「……糞だ」
繊維と種皮が混ざり、腐った臭いを放つ。
「胃の中で硫化して、排泄物と一緒に土を腐らせている」
《つまり、瘴気の工場があの獣の腹の中にあるってことね》
(そして、垂れ流してる)
近くの泥から、墨のように黒い太い毛を拾う。
騎士の若者が喉を鳴らす。「黒き大猪……」
猟師は足跡をなぞった。「重さは荷車三つぶん。牙で土を掘り、下の悪い水を引き上げてやがる」
俺は周囲を見渡し、森の形を刻む。低い窪地、風の抜け道、突進の直線。
「正面からでは勝てない。森の形を使って、一対一に持ち込む」
騎士が目を丸くする。「姫様が、戦の采配を?」
「これは“錬金術”の続きよ。相手の力を、別の形に変えるだけ」
(……最後は俺が行く。今度は逃げない)
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村へ戻る前、壺に黒ずんだ水を汲み、消石灰を少量落とした。白い沈殿が生まれ、水面の虹が薄れる。
「臭いが……薄くなった」リディアが驚く。
「水も土も体調がある。整えれば戻る。証拠は多い方がいい」
夕焼けに染まる森を振り返る。まだ硫黄の匂いは漂うが、足元の泥は軽くなっていた。
村外れの区画では、芽が昨日よりも濃く立っている。
俺は拳を握る。
(原因は掴んだ。あとは終わらせるだけだ)
《シンヤ》
(ん?)
《怖くないの?》
(怖いよ。だから準備する)
《……なら、勝てるわ》
(ああ。勝って戻ろう。俺たちの方法で)
夜の帳が降りる前に村へ戻った。
明日は森の地形を書き写し、溝と囮を配置し、黒き大猪を追い込み、孤立させる。
そして――一対一に。
星が瞬く。胸の奥で、姫の声が静かに灯り続けていた。
《行きましょう。次は、終わらせる番》