第1話 最初の一歩
第1話 最初の一歩
――翌朝。
小広間での初仕事を終えたばかりの俺は、胸の奥に熱を抱えたまま、宰相オルフェンの執務室を訪れた。
白髪を束ねた男は書簡の山に囲まれ、鋭い眼差しで俺を測る。
「姫、何用だ」
俺は深呼吸し、声を整えた。
「宰相。どうかわたしを政務会議に出席させてください。そして……瘴気の件を議題に挙げていただきたいのです」
オルフェンの眉がわずかに動く。
「姫様が政務に口を出すなど、前例は少ない。軽々に扱えば宮中の反発も買う」
「それでも必要です。瘴気は民の生活を奪っています」
沈黙。やがて彼は低く問いかける。
「……昨日のことは、気まぐれではなかったのか。本気なのか」
「本気です」
宰相は机に手を置き、じっと俺を見据えた。
「……ならば見せてもらおう。覚悟があるのなら」
口元がわずかに緩む。
「よかろう。議題に加えよう。姫の真意を、この目で確かめさせてもらおう」
胸の奥でセリアが囁く。《試されたのね。でも……やっと入口に立てた》
(ああ。ここからが本番だ)
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控えの間に戻ると、侍女リディアが大きな衣装棚を開け、鮮やかなドレスを取り出した。
「姫様、本日の政務会議にはこちらを。威厳を示す装いでございます」
差し出されたのは深紅のドレス。絹の光沢が燦然と広がり、肩口には金糸の唐草模様、胸元には真珠が粒のように縫い込まれている。裾は何重にも折り重なり、床を這うほど長い。
(……重っ! 布の重量が鎧並みだぞ)
リディアが背後で紐をきゅっと締めるたび、肺が押し潰されそうになる。
「姫様、もう少し背筋を」
「腰紐を……はい、これで」
胸が持ち上げられ、呼吸が浅くなる。髪は結い上げられ、金の髪飾りと薔薇色のリボンが添えられた。最後に白い手袋をはめられると、鏡の中の自分は完璧な姫に仕上がっていた。
(……まるでコスプレだな。俺が女子のドレス着るとか)
《外見は大事よ。軽んじられぬための武器でもあるわ》
(わかったよ……姫の外見に負けない中身を見せてやる)
裾を踏まぬよう注意しながら、俺は政務会議の間へ向かった。
廊下を行く途中、侍従や官僚たちが小声で囁くのが耳に入る。
「姫様が政務に……?」
「まさか瘴気の件を」
ざわめきは不安と期待を混ぜたものだった。
《気にしないで。堂々と行けばいい》
(ああ。絶対に負けない)
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会議の間は高窓から光が差し、赤い絨毯が玉座へ続いている。
書記官が報告を読み上げるたび、重臣たちの顔はさらに曇った。
「北東の穀倉地帯、発芽率は平年の六割。収穫は半減の見込み」
「家畜の斃死も増加。井戸の水が臭うとの訴えも多数」
「魔の祟りだ」「湿地病だ」――臆測と迷信ばかり。
俺は拳を握る。腐卵臭、家畜の死、水の濁り。化学の記憶が、硫黄の影を示していた。
《シンヤ……私たちに、何か手はあるの?》
(ある。任せておけ。報告書は全部読んだ。大体想像がつく)
《……あなたなら、きっと掴めるわね》
背を押されるように、俺は立ち上がった。
「父上。どうかわたしに、北東の森――瘴気の源を調べさせてください」
広間がざわめいた。「姫自ら?」「危険すぎる!」
「女の出る幕ではありません!」
婚約者であるヴィクトール・ヴァレンシュタインが声を張り上げた。第一公爵家の長男、軍事力と領地を誇る名門の後継。
冷たい瞳で俺を射抜き、胸を張る。
「瘴気の原因など魔物に決まっている。討伐隊を出せば済む話。姫の婚約者として責任を果たす。わたしが先鋒を務め、必ず成果を挙げましょう!」
騎士団長も続く。
「姫様を危地に遣わすなど愚行。瘴気が魔の業なら、剣で断つのが筋にございます」
喉が焼けるように熱い。(違う、そんな単純な話じゃ――!)
言い返しかけたとき、胸の奥に澄んだ声が響いた。
《待って、シンヤ》
(セリア……!)
《父は武を尊ぶ方。ここで食い下がれば逆効果。討伐は必ず失敗する。その時こそ、私たちの出番》
俺は拳を握りしめ、言葉を飲み込んだ。
父王が重々しく告げる。
「……討伐を命ず。騎士団は直ちに兵を整えよ。姫よ、そなたの望みは今は退ける」
婚約者は勝ち誇った笑みを浮かべ、騎士団長も胸を張った。
だが俺とセリアは心の奥で同じ思いを抱いていた。
――失敗の後こそ、俺たちの番だ。
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3日後、討伐軍は城門を出立した。
号角が高らかに鳴り響き、旗が青空に翻る。民は「勝てますように!」「公爵家万歳!」と声を張り上げ、子どもは憧れの眼差しを送った。
馬上の婚約者は見栄えよく笑みを振りまき、誇らしげに剣を掲げていた。
(……舞台映えだけは一流だな。だが結果はどうだか)
《皆が信じている。けれど真実を掴むのは、私たちよ》
(ああ。きっと失敗する。その後が勝負だ)
1週間、2週間――凱旋の報せは届かない。
北東の空は日に日にかすみ、風が変わるたびに腐卵臭が王都にまで流れ込んだ。
3週目の朝、城壁の角笛が低く二度鳴った。敗報の合図。
帰還門に現れた兵たちはよろめき、旗は泥に汚れ、槍は折れ、鎧はへし曲がっていた。
「黒い……山のような猪です」
「突進が、地鳴りのようで……刃が弾かれる。瘴気で目も喉も焼かれて、息が続かない!」
片腕を失った兵が呻き、別の兵は恐怖でうわ言を繰り返していた。
広間に集められた重臣たちは狼狽し、「魔物一匹にここまでとは」「信じられぬ」とざわめく。
婚約者は青ざめて唇を震わせ、言い訳を口にしかけては飲み込んだ。騎士団長は拳を震わせ、沈黙を守った。
重苦しい空気を切ったのは、オルフェン宰相の声だった。
「陛下。――姫の申し出を、今こそお受け入れくだされ」
涼やかな声音が広間に響く。
「討伐では道は開けませぬ。ならば原因を見極める調査こそ必要。知らずして勝利はなく、勝利なくして国は保てませぬ」
父王は長い沈思ののち、俺を見据えた。
王としての厳しさと、父としての温情。その両方を宿したまなざし。
「……セリア。そなたに託す。北東の森の調査を許可する。必要な人員と物資を与えよう。必ず成果を持ち帰れ」
胸の奥でセリアが囁く。《やっと、私たちの出番ね》
俺は小さく息を吐き、拳を握りしめた。(ああ……これが、最初の一歩だ)