第四話 月
静寂を愛する男、鳴海颯人。
彼の日常は、タバコの煙とコーヒーの香りに満ちた無関心なルーティンだ。
だが、その瞳に映る「見切り」の力は、世界を分断する闇の存在を捉える。
政府の裏組織に招かれた彼は、自らの内に凍らせた感情と、妹の死の因縁に導かれる。
これは、無関心な男が、失われた「平穏」を取り戻すための物語。
喫茶店を出ると、昼下がりの都心の空気に包まれた。車の排気ガスと、行き交う人々の熱気が混じり合い、どこか生温かい。
白石は颯人の前を歩き、慣れた足取りで裏通りへと入っていった。
パチンコ店のけたたましい音も、客たちの喧騒も、少しずつ遠ざかり、代わりに都会の冷たい静寂が二人を包み込んだ。
「さて、私の車はあちらです。どうぞ」
白石は、路肩に停められた漆黒の高級セダンを指差した。メーカーも車種も不明だったが、そのフォルムから放たれる圧倒的な存在感と、無駄のない曲線美は、彼の真の目的がパチンコにあるのではないことを物語っていた。
白石は運転席に、颯人は後部座席に乗り込んだ。エンジンが静かに始動し、車は滑るように走り出した。
車窓には、日中にも関わらず煌々と輝くネオンサインと、ビルの灯りが流れていった。颯人は、ただ無言でその光景を眺めていた。
彼の心の中は、依然として冷たい氷に覆われていた。だが、その氷の奥底で、小さな、しかし確かな炎が燃え始めていたことを、彼は自覚していた。
それは、三年前のあの日から、ずっと凍り付いていた、妹への愛と、犯人への憎悪が混じり合った、歪んだ炎だった。
白石は、バックミラー越しに颯人の様子を窺い、にこやかに話しかけた。
「鳴海さん、この組織のことは、一般には知られていません。これからお見せする光景は、あなたの常識を覆すものになるでしょう」
白石の言葉を無視し、颯人は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じた。彼の心の中には、最早「常識」と呼べるものなど存在しなかった。
妹を失って以来、彼の世界は、ただの「無関心」という名のルーティンで塗り固められた、無機質なものだったからだ。白石の言葉は、彼の耳を通り過ぎていくだけだった。
車は、都心から少し離れたオフィス街の一角で停車した。そこは、ごくありふれた雑居ビルが立ち並ぶエリアで、ビルの外観も、特に変わった様子はなかった。
古びたタイル張りの外壁に、色褪せた看板がいくつかかかっていた。
「ここが、私たちの本部です」
白石はそう言って、颯人を促した。颯人は、何の感慨も抱くことなく、白石の後についていった。
ビルの入り口の自動ドアを抜けると、薄暗いエントランスロビーが広がっていた。受付には誰もいなかった。代わりに、無機質な壁に、小さなプレートが埋め込まれていた。
白石がそのプレートに、自身の指紋を押し付けた。すると、プレートは淡い光を放ち、壁の一部が音もなくスライドした。
開いた壁の先に現れたのは、地下へと続く、真新しいエレベーターだった。扉が開くと、白石は颯人に先に乗るよう促した。
エレベーターに乗り込むと、白石は再びプレートに指紋を押し付けた。すると、エレベーターは最下階を示す「B5」というボタンを自動的に点灯させ、静かに下降を始めた。
エレベーターが停止し、扉が開くと、そこは先ほどの雑居ビルとは全くの別世界だった。
「ようこそ、『政府特殊事案対策室』本部へ」
白石は、誇らしげに言った。
目の前に広がるのは、まさにSF映画のワンシーンのような光景だった。通路は無機質な金属で構成され、壁一面には、無数の配線が剥き出しになっていた。
天井からは、冷たい光を放つLEDライトが、等間隔に配置されていた。床は、足音が響かない特殊な素材でできており、誰もいない通路に、二人の足音だけが静かに響いた。
「すごい……」と驚くこともなく、颯人は淡々と周囲を見渡した。彼の目に映るのは、ただ「効率的で無駄がない」という事実だけだった。
無機質な空間、最新鋭の機材、それらが全て、ある一つの目的のために最適化されていた。その事実に、彼は何故か、微かな親近感を覚えた。
通路の奥には、広い管制室が見えた。巨大なモニターには、都心各地の地図や、様々なグラフ、データが映し出されていた。
数人のオペレーターが、ヘッドセットを付け、真剣な表情でモニターを凝視していた。その光景は、まるで軍事基地のようだった。
「私たちは、表向きは『内閣府直轄のシンクタンク』として活動しています。異能者事件は、社会の秩序を乱す危険な事象です」
「そのため、情報の秘匿が最重要とされています」
白石は、管制室の脇にある個室へと颯人を案内しながら、説明を続けた。
「政府からは、あくまで『未知の事象に対する科学的なアプローチ』を求められている。ですが、実態は見ての通り」
「異能者による犯罪や、テロ行為を未然に防ぎ、必要とあらば『排除』することも辞さない、非公式の特殊部隊です」
白石の言葉に、颯人は何の反応も示さなかった。彼はただ、窓の外に広がる管制室の光景を、ぼんやりと眺めているだけだった。
「どうです、鳴海さん。驚きましたか? まあ、あなたの場合は、あまり感情を表に出さないようですから、驚きもしないでしょうが」
白石はそう言って、苦笑いした。
「……別に」
颯人は、短く答える。
「俺は、あんたらのやってることには、興味がない。俺の目的は、あくまで妹を殺した犯人を見つけ出すことだ。それ以外に、ここに来た理由はない」
颯人の声は、冷たく、そして明確だった。妹の復讐という、ただ一つの目的が、彼の心を支配していた。他のいかなる情報も、彼の心には響かなかった。
彼の世界は、妹の死という一点を中心に、完全に閉ざされていた。
「わかっていますよ、鳴海さん。ですが、あなたのその『目』の力は、必ず私たちに貢献してくれるはずです」
「そして、私たちに協力すれば、いずれあなたの目的も果たせるでしょう」
白石は、そう言って、颯人の視線から逃げるように、再びニヤリと笑った。その笑みには、計算し尽くされた巧妙な策略が隠されているようだった。
「さて、まずはパートナーとなる人物を紹介しましょう。休憩スペースにいるはずです」
白石は、颯人を促して個室を出た。通路を数分歩くと、開放的な空間に出た。そこは、管制室とは対照的に、木目調のテーブルやソファが置かれた、温かみのある休憩スペースだった。
数名の職員が、談笑したり、コーヒーを飲んだりしていた。
その中に、ひときわ目を引く人物がいた。背丈は颯人の胸ほどしかなく、淡いブラウンカラーの長髪を無造作にポニーテールに結んでいた。
白石とは対照的に目尻は高く、ハツラツとした印象を与える顔立ちであった。
その少女のような人物は颯人と白石に気づくと、彼女はぱっと顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「あ! 白石さん、おかえりなさい! その方が、鳴海颯人さんですか?」
彼女は、颯人を見て、その大きな目をさらに輝かせた。
「はじめまして、鳴海さん! 私が、月代 咲です! 白石さんから聞いてます! 自称しっかり者なので、何でも聞いてください!」
彼女は、颯人に向かって元気いっぱいに自己紹介をした。だが、その声は、緊張からか、少し上ずっていた。
そして、「しっかり者」と言った後に、小さく「噛んじゃった……」と呟いた。その様子は、いかにも元気な印象だった。
颯人は、月代のハイテンションな自己紹介に、一切表情を変えなかった。ただ、じっと彼女の顔を見つめた。小柄で、華奢で、どこか子供っぽい印象だった。
だが、その瞳の奥には、強い意志の光が宿っているように見えた。彼は、彼女の言葉を、まるで遠い国の言葉を聞いているかのように、ただ受け流していた。
(普通、自称とは自分で言わないだろ……アホか、それとも天然か)
颯人の無関心な態度に、月代は一瞬、ひるんだ。その笑顔が、僅かに引きつった。
だが、彼女はすぐに気を取り直し、再び颯人に話しかけようと口を開いた。
「あ、あの! 鳴海さんは、好きな食べ物とか……」
しかし、白石がそれを遮った。
「月代、あまり鳴海さんを困らせるな。彼は少し人見知りなんだ」
白石は、そう言って、月代の頭をポン、と軽く叩いた。月代は、「えへへ」と照れくさそうに笑い、それ以上は話しかけてこなかった。
「あ、そうだ! 鳴海さんの趣味、パチンコなんですよね! 私、やったことないんですけど、今度教えてください!」
月代は、無邪気な笑顔で、白石の言葉を借りて話しかけた。その言葉に、颯人の眉間に、僅かな皺が寄った。
「……なんで、それを」
彼の声に、僅かな苛立ちが滲んだ。
「だって、白石さんから聞きましたよ! あと、タバコは赤マル?を吸ってるって! あ、あと、ビールよりウィスキー派なんですよね!」
月代は、楽しそうにそう言った。その言葉は、まるで彼女が颯人のことを昔から知っているかのように響いた。
「月代、それは言い過ぎだ。鳴海さんが困っているだろう」
白石は、そう言って、月代を嗜めた。だが、その口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。
「あんた、まさか、俺の身辺調査を……」
颯人は、白石の顔を睨みつけた。彼の視線は、白石の顔から微動だにしなかった。その瞳には、先ほどまでの無関心に加え、明確な怒りの光が宿っていた。
「いやいや、まさか。ただ、あなたのことを少しばかり調べさせてもらっただけですよ。あなたほどの逸材を、見過ごすわけにはいきませんからね」
「それに、あなたの趣味嗜好を知っておくことは、これから一緒に働く上で、重要なことですから」
白石は、ヘラヘラと笑いながら、そう言った。その言葉には、一切の悪意は感じられなかったが、その笑顔の奥には、底知れない冷徹さが隠されているようだった。
「さて、鳴海さん。彼女の力について、少し見ておきますか?」
白石は身辺調査の事を詫びることはなく、にこやかに颯人へと語りかけた。白石の言葉に、颯人は反論を諦め、無言で頷いた。
「月代、鳴海さんにあなたの異能を見せてあげてくれないか? 訓練用のロボットが丁度動いている」
白石の言葉に、月代はパチパチと瞬きをした。
「えー! 白石さん、私、まだ準備できてないですよー! お腹すいたし、ちょっとトイレにも行きたいし……」
月代は、困ったように顔を歪ませる。
「ん~、でも、ちゃちゃっとやればいいのか…… わかりました! 鳴海さんに、私のすごいところ、見せちゃいます!」
月代は少し考えた後、すぐに笑顔に戻り白石に元気よく敬礼をした。
訓練施設は、休憩スペースの奥にある、巨大なガントリークレーンが何台も並ぶ、倉庫のような空間だった。
ここでは、異能者たちの訓練や、能力の測定が行われているらしかった。床には、擦り傷やへこみが無数にあり、壁には、巨大な武器がいくつも立てかけられていた。
その訓練施設の一角で、月代は一人の男性職員の声を聞きながら、巨大な訓練用ロボットと向き合っていた。
男性職員の声は、スピーカーを通じて訓練施設に響いていた。
「月代、準備完了だ。いつでも始めろ」
月代は、にこやかに頷き、ロボットに向かって駆け出した。その動きは、小柄な体躯からは想像もできないほど俊敏で、まるで獲物を狩る獣のようだった。
ロボットは、ゆっくりと月代に腕を振り下ろした。その腕は、鉄の塊であった。まともに当たれば、命はないだろう。だが、月代は、その攻撃を難なく避けた。
そして、大きくジャンプし、ロボットの頭上へと飛び上がった。彼女の動きは、颯人の「目」にも、かろうじて捉えることができた。だが、その一連の動作には、全くの無駄がなかった。
月代は、空中で巨大な戦斧を振りかぶり、ロボットの頭上から、一気に振り下ろした。
「はあぁ!!」
ドォンッ!!
金属がひしゃげる轟音。そして、鈍い破壊音が、訓練施設全体に響き渡った。月代の戦斧の一撃は、ロボットの装甲を粉々に砕き、その頭部を完全に破壊した。
ロボットは、火花を散らしながら、よろよろとバランスを崩し、やがて巨大な音を立てて倒れた。
颯人の目が、微かに反応した。彼の「目」はかろうじて、月代の動きを捉えることができた。
そして、その一撃の威力、小柄な体から放たれた規格外の破壊力に、彼の常識は、わずかに揺さぶられた。
(なんだ……あれは……)
颯人の心の中で、微かな動揺が生まれた。それは、彼が三年前のあの日から、ほとんど感じたことのない感情だった。
彼の「目」は、人の動きの予測や、気の流れを読むことはできた。だが、目の前の少女の能力は、それらの範疇を超えていた。
彼女は、物理的な法則を無視しているかのように、信じられないほどの力を持っていた。
「どうです、鳴海さん。驚いたでしょう?」
白石は、颯人の隣で満足げに言った。
「彼女の能力は、『身体能力強化』。特に、彼女の力の源は、その『精神』にある。強い想いを持てば持つほど、その力は増幅される」
「だからこそ、彼女は『破壊』という能力を、ここまで極めることができた」
白石は、誇らしげに月代の能力を解説した。
「……規格外、だな」
颯人は、絞り出すような声で言った。彼の言葉は、驚きではなく、ただ事実を述べているだけだった。
「さて、本題に入りましょうか、鳴海さん」
白石は、再び真剣な表情に戻り、颯人に向き直った。
「明日から、本格的に任務に就いてもらいます。あなたの『目』と、月代の『力』。その二つは、相性が良い」
「きっと、私たちの組織に大きな貢献をしてくれるでしょう」
颯人は、白石の言葉に、軽く舌打ちをした。
「……なんで、俺がこいつと組まなきゃならないんだ」
颯人は、こちらに駆け寄ってきた月代に向かって、嫌悪感を露わにした。
しかし、月代は意に介していないのか、嫌悪感というものを理解していないのか、ニコニコしながら白石と颯人を見比べていた。
「それは、私が決めたことです。それに、彼女はあなたの妹さんの死の真相を知る、重要な手がかりの一つです」
「彼女の能力が、その真相にたどり着くための、鍵になるかもしれません」
白石は、そう言って、颯人の心を揺さぶった。彼の言葉に、颯人の怒りは一瞬にして消え去った。
「……わかった」
颯人は、再び短く答えた。
「ただし、余計なことをするな。俺は、俺の目的のために、あんたらを利用するだけだ。それ以外に、あんたらのために働くつもりはない」
白石は、颯人の言葉に、ただにこやかに微笑むだけだった。
訓練施設を出た後、颯人は白石の後についていった。しばらく無機質な通路を進むと、頑丈な金属製の扉が現れた。
白石が再び指紋認証を行うと、扉はゆっくりと開いた。そこは先ほどの地下基地とは全くの別空間で、見慣れた地上階の風景が広がっていた。
「ここからは、普通のウィークリーマンションです。組織の本部と直結していますから、移動に便利でしょう」
白石の言葉通り、そこはごくありふれた賃貸マンションのエントランスだった。オートロックのドアを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
白石は3階にある一室の前に立ち止まり、鍵を差し込んだ。
「ここがあなたの部屋です。明日の9時には、部屋の前に出てきてください。迎えに来ます」
そう言い残すと、白石は颯人に鍵を渡し、颯人が部屋に入るのを見届けてから、エレベーターへと向かった。
個室のドアを開けると、そこは生活に必要な最低限のものが揃った、シンプルなワンルームだった。ベッドと小さな机、そして最低限の家具しかなかった。
窓からは、マンションの裏手にある駐車場と、隣のビルしか見えなかった。だが、彼の目に映るのは、その単調な風景ではなく、ただの無機質な日常の光景だった。
颯人は、ベッドに腰を下ろし、煙草に火をつけた。白い煙が、部屋の冷たい空気に溶けていった。
机の隅には、小さなガラス製の灰皿が置いてあることに彼は気づいた。白石が、喫煙者である自分を考慮して用意してくれたのだろう。その配慮に、彼は僅かに眉をひそめた。
彼の脳裏には、月代の姿が焼き付いていた。あの小柄な体から放たれた、規格外の破壊力。それは、三年前の惨劇を思い出させるものではなかった。
ただ、目の前の少女の能力が、彼の知るいかなる「異能」とも異なる、予測不能なものであるという事実が、彼の心を僅かにざわつかせていた。
「月代……か」
颯人は、煙草の煙を吐き出しながら、一人呟いた。
(あんたの力、利用させてもらうぜ。妹の仇を討つために、俺のすべてを賭けてやる)
彼の瞳には、深い闇と、復讐という名の、新たな決意の光が宿っていた。
てとまるです。
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