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裏目ノ目  作者: てとまる
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第一話 喧騒

静寂を愛する男、鳴海颯人。

彼の日常は、タバコの煙とコーヒーの香りに満ちた無関心なルーティンだ。

だが、その瞳に映る「見切り」の力は、世界を分断する闇の存在を捉える。

政府の裏組織に招かれた彼は、自らの内に凍らせた感情と、妹の死の因縁に導かれる。

これは、無関心な男が、失われた「平穏」を取り戻すための物語。

 午前六時。東の空が白み始め、ようやく明るくなってきた世界が、部屋の小さな窓から優しい光を差し入れた。

カーテンの隙間から滑り込んだ一条の光は、壁に淡い帯を描き、静かに部屋の隅々を照らし出す。


 光が差し込んだ部屋は狭く、六畳ほどの広さで、生活に必要な最低限の物以外にめぼしいものは何もなかった。

壁は白く、床はフローリング。隅には使い古された小さな冷蔵庫と電子レンジが置かれ、その上には無造作に積み上げられた文庫本が数冊。

簡素を通り越して、まるで仮住まいのような空間だった。


 その光に、むすっと男は目を細めた。うっすらと目の下にクマが浮かび、いかにも幸薄そうな、疲弊した顔つきだ。


 男の名は、鳴海 颯人(なるみ はやと)


 彼は軋むベッドの上でむくりと体を起こし、気だるげに腕を伸ばした。枕元に置かれた携帯のアラームが鳴り響く。

その音を、彼は寸分違わず鳴った瞬間に指先で止めた。ひとつ大きなあくびが、彼の口から静かに漏れる。重い体をベッドから滑らせ、冷たい床に素足をついた。


 ケトルのスイッチを入れ、湯を沸かす。ジジジ、という微かな音が、静かな部屋に響き渡った。

使い込んだマグカップを手に取り、インスタントコーヒーの粉をザラザラと流し入れた。黒い粉がカップの底に沈み、微かな苦い香りが立ち込める。


 湯が沸くまでの間、颯人は胸ポケットから使い込んだZIPPOを取り出し、キンッと小気味良い音を立てて煙草に火をつけた。

節くれだった指が、ゆっくりと白い棒を挟み込み、その先端から細い煙が立ち上っていく。ゆっくりと、深く、煙を肺に充満させる。

そして、ゆっくりと、まるで魂が抜けていくかのように、口から白い煙が立ち上っていった。


 この時間だけは、彼の人生で最も重要な、至福のひと時だった。

それは、彼が唯一、外部からの干渉を受けずに、自分だけの世界に浸れる時間であり、彼にとっての小さな聖域だった。


 そんなことを思っていると、ケトルがカチリと音を立てて湯が沸いた。颯人は咥え煙草で立ち上がり、慣れた手つきでマグカップに湯を注ぎ入れる。

湯気が立ち上り、煙の世界にコーヒーの湯気が混ざり合う。視覚だけでなく、嗅覚も刺激される。

煙草の苦味とコーヒーの芳醇な香りが混じり合い、彼の鼻腔を満たした。颯人は何の感情もなく、ただ漠然とその世界の中にいた。

まるで、感情という色を失った絵画のように、彼の世界は無彩色のまま、そこに存在している。


 彼の瞳は、何も映していないかのように虚ろで、ただ目の前の煙と湯気の混じり合いを眺めていた。


 一通り堪能した颯人は、そそくさと着替えを済ませた。ゆったりとした黒のパーカーに、使い込んだデニム。足元はワークブーツだ。

着ていて窮屈を感じない、無難な服装を好む。ファッションにこだわりはなく、ただ機能性と楽さを追求した結果だった。


 無造作に机の上に置かれている鍵を手に取り、部屋を出た。階段を降り、駐輪場に止めてある年季の入った原付、スーパーカブのキーを回す。

キュルルル、とエンジンが唸りを上げ、アパートを後にした。


 朝の通勤ラッシュで混みあう道路を、颯人は巧みにすり抜けていく。車と車の間を縫うように走り、一切の接触なく進んでいった。

彼はまるで時間が緩やかに流れるかのように、周囲の動きを鮮明に捉え、最適なルートを瞬時に判断していた。


 歩道では、携帯電話を耳に当て、焦った表情で歩くサラリーマンが目に入った。彼は今、上司に怒られているな、と颯人は気づく。

だが、それを気にかけることなく、ただバイクを走らせた。彼の視界に映るものは、すべてが等しく、何の感情も呼び起こさない。


 他人の感情や状況は、彼の世界ではただの背景に過ぎなかった。


 朝の喧騒をすり抜けた先に見えてきたのは、彼の本当の職場でもなく、誰かの家でもない、煌びやかなパチンコ店だった。

颯人はギャンブルをするためにバイクを走らせたのだ。「パチンコ321 中野店」。ここは彼が通う、暇をつぶす場所であり、ある意味では彼の「職場」だ。


 職場とは言っても、毎日金がもらえるわけではない。むしろ、金を払うことの方が多い。それでも彼は、ここに来る。


 店舗の前では既に店員が立ち、開店を待つ客の列ができていた。店員は客にくじを引かせ、整理番号を配っている。

颯人はバイクを停め、ヘルメットを脱ぐと、列の最後尾へと無言で並んだ。徐々に自分の番が近づく。

前では、番号が悪かった者が肩を落として引き上げていく姿が見えた。彼らの落胆も、颯人にとってはただの風景の一部だ。


 自分の番になる。「どうぞー!」と、女性店員が明るく、しかしどこか機械的な声で促した。颯人はくじを引く。42番。悪くない番号だ。

だが、颯人は顔色一つ変えることはなく、そのまま喫煙所へと向かった。彼の表情筋は、まるで凍り付いているかのように微動だにしなかった。


 喫煙所に入ると、既に数名が煙草を吸っていた。彼らは皆、開店前のパチンコ店特有の、どこか浮ついた期待と焦燥の入り混じった表情をしていた。

颯人は気にせず、中にある自動販売機でエナジードリンクを買い、再び煙草に火をつける。ゆっくりと煙が肺に入っていき、満たされていく感覚を感じ取った。

その感覚だけが、彼が生きていることを微かに実感させる。


 颯人は携帯を取り出し、いつものようにネットサーフィンを始めた。ニュースサイトを流し見していると、向かい側にいた二人組がおもむろに会話を始めた。


「そういえば、例の破壊事件ヤバいよな? あれ、テレビでもやってたけど、本当に突貫工事が原因なのかね?」

「あぁ、それ見たわ。ニュースではそう言ってたけど、どう考えてもおかしいだろ。あんな一部分だけ、まるで何かに握り潰されたみたいに崩れるかね? 普通に考えて、手抜き工事って言われてもピンとこないんだよな」

「だよな。なんでも、柱に人の手の跡みたいなのが残ってたらしいぜ。超人ハルクみたいなのがいるんかな? それか、都市伝説で聞く異能者ってやつか?」

「お前子供みたいなこと言うなって(笑)。まさか、そんな馬鹿な。そんな事言ってるからいつも負けんだよ(笑)」

「それと負けは関係ねーだろ(笑)」


 そんな会話が聞こえてきた。ネットでもその話題は多く見られたが、颯人は特に関心を示すことはなかった。

どうせ、手抜き工事を拡大解釈した奴らが、面白おかしく広めた都市伝説の類だろう。


 彼の世界は、常に無関心というフィルターを通して見られている。自分に関係のないことには、一切の感情も思考も割かない。

それが、彼が傷つかないための、唯一の防衛機制だった。


 時間は過ぎ、午前十時。パチンコ店がオープンする。静かだった店内は、一斉に客がなだれ込み、瞬く間に騒がしい空間へと変貌した。

玉の弾ける音、台から流れるけたたましい音楽、そして客のざわめきが、耳に突き刺さる。ただでさえ狭い通路が、客の往来によってより狭くなる。


 颯人はその人混みの隙間を、意に介していないようにすり抜けていく。彼は、人々の動きのパターンを瞬時に読み取り、まるで水の中を泳ぐ魚のように、抵抗なく進んでいった。

彼は空いている台の元へ向かった。「どすこい!親分4」。今日はこの台が開いていたため、着席した。座って早々に煙草に火をつける。始める前のルーティンだ。

煙が、彼の周りの喧騒を遮断するかのように、ゆっくりと立ち上る。


 颯人は何の感情もなく、財布から万札を取り出し、台に投入した。咥え煙草でリールを回し始める。

キュルキュル、とリールが回り、液晶画面には派手な演出が始まり、何やら台が賑やかな挙動をし始めた。

どうやら今日はツイているのか、大当りが近いことを示唆する演出が次々と流れてきた。


 だが、颯人の感情が動くことはない。彼の瞳は、ただ機械的に画面を追っているだけだ。


 画面上に「7を狙え!」と大音量で表示される。颯人は何のためらいもなく、ピッタリに止めようとボタンを押した。

彼は、リールの回転速度、絵柄の配置、そしてボタンを押すタイミングを完璧に捉えていた。しかし、電子制御された機械の前では人力は無意味であり、完璧に止めたはずの7が、するりと下に抜けていった。

颯人は何度も見た光景に、眉一つ動かさず、黙々と次の大当たりを目指してリールを回した。彼の表情は、まるで石膏像のように固まっていた。


 左側の空き台に、人が座るのが横目に映った。横目で見ただけだが、普段はパチンコ店にいないであろう、きちりとしたスーツを着用しているのが見えた。

そのスーツは、この場所の喧騒とは明らかに不釣り合いで、周囲から浮いた存在感を放っていた。仕事の空き時間に時間潰しに来たのだろうと思い、颯人は特に気に掛けることはなかった。

他人の行動など、彼にはどうでもいいことだった。


 しかし、その男は台に座ったが、一向に遊戯をする気配がない。何やら札を持ち、モタモタしていた。その様子は、まるで初めて自動販売機を使う子供のようだ。

明らかに困惑している様子で、何やら助けを求めているような気配を、颯人は微かに感じ取った。


 隣の男はおもむろに颯人に声をかけてきた。

「すみません……。あの、どこにお金を入れたら、動くんですかね……?」


 颯人は初めて男の方へと顔を向けた。見ると、柔らかい銀髪に、目尻が下がった優しい目元。どう見ても優男という印象の男であった。

その整った顔立ちと、どこか世間知らずな雰囲気に、時間潰しに初めて来るにしては変わった男だ、と颯人は思った。


 颯人は面倒に思いながら、ぶっきらぼうに答えた。

「右側の少し上にある、そこに入れればいいっすよ」


「ん~? あ、入りました! どうもありがとうございます!」

 優男は、まるで子供のように目を輝かせ、ヘラヘラと照れ笑いしながら言った。

「初めて来たんで、何も分からなくって……。助かりました」


「あ、そうっすか……」

颯人は、面倒な奴に絡まれた、と思いながら、また自分の台へと目を移した。これ以上会話を続ける気はなかった。


「ここには良く来るんですか? 鳴海 颯人さん?」

優男は先ほどまでの柔らかい声色と打って変わって、冷たい刃のような、核心を突く声色で、知るはずのない颯人の名前を呼び、再び声を掛けた。

その声は、パチンコ店内の喧騒を切り裂き、颯人の耳に直接響いた。突然、見知らぬ男に自分の名前を呼ばれたことに、颯人は恐怖と驚きを隠せなかった。


 彼の表情が、ほんの一瞬だけ、感情を露わにした。


(何者だこいつは……なんで俺の名前を知っている……)

そう思い、警戒する颯人の心臓は、微かに、しかし確かに脈打った。


 この出会いを憂うかのように、颯人の咥え煙草から、ポトリと灰が落ちた。


 それは、彼の無関心な日常に、決定的な亀裂が入った瞬間を告げるかのようだった。

てとまるです。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

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