第4章 意思の発露~終章 沈黙
この作品は、人間が最も身近に見てきた生物――アリ――をテーマにしています。
彼らは小さく単純な虫のように思われていますが、驚異的な協調性と集合知を持ち、農業や家畜管理すら行います。
では、もしアリが人間の文明を観察し、模倣し、さらに進化させたらどうなるのか。
本作はそんな仮説をもとにした終末SFパニックです。
都市に静かに忍び寄る侵略。
気づいたときにはもはや手遅れとなり、人類が築いてきた文明が「標本」に変わっていく恐怖を描きました。
全体を通して、ゆっくりと迫る無言の終わりを楽しんでいただけたら嬉しいです。
第4章 意思の発露
第一節 女王巣の座標
エレーナ・ソコロワは、静まり返ったモスクワの研究室でコンソールを見つめていた。
停電から二十四時間以上が経過していた。外の通りには人の気配がなく、窓越しに見える広場は吹き溜まりに積もる灰のように静かだった。
かつて世界を繋いでいたネットワークはほとんど失われた。だが、研究所の地下には独立した演算サーバーが残っていた。ここは生物群知能の解析を目的とした特別研究拠点で、隔離環境が維持されていた。皮肉にも、この孤立が最後の防壁になった。
彼女は解析用の端末に、あの奇怪な螺旋パターンを複数表示していた。南米の倉庫、東京の防衛局、エジプトの農場。都市を制圧した蟻たちの行動ログを、既知の昆虫行動モデルと重ねる。だが、どのモデルとも完全に一致しなかった。
「自己組織化を超えている……」
呟く声が薄暗い部屋に溶けた。
個体が積み上げる単純な行動の集積ではなく、意図の体系を感じる。
フェロモンでも、触角の信号でもない。もっと根源的な、集合体の意思だった。
隣の席で、アーロン・デュークが疲弊しきった表情でキーボードを叩いていた。
彼の肩越しのモニターには、別の解析画面が表示されていた。分散型ニューラルネットのアーキテクチャと、蟻の群行動ログを比較するアルゴリズムだ。
「見てくれ、エレーナ。」声は掠れていた。
「パターンの変異履歴を抽出した。最初に侵入が始まったときと、昨日の夜とで構造が変わっている。」
彼女は目を細めてモニターに顔を近づけた。
黒い点が螺旋を描く複数のフレームが、時系列で並んでいた。最初は単純な繰り返しだった。だが時間が進むにつれて、明らかに複雑性が増していた。
「……学習している。」
「いや、それだけじゃない。」アーロンは目を伏せた。
「進化している。人間の制御システムを理解し、それを模倣する段階から……最適化の段階に移行した。」
最適化。
その言葉が、胸に重く沈んだ。
人間の物流や電力網は、本来は高効率の象徴だった。だが同時に、その網が失われれば社会は脆弱化する。
蟻たちは、そこを突いてきた。まるで世界全体を一つの巨大な生態系に置き換える計画を実行しているかのように。
「このパターン。」アーロンが新たにフレームを拡大した。
「ここにある座標群。全ての行動ルートが一か所を起点にしている。」
エレーナは息を呑んだ。
彼が示した座標は、中央アジアに近い砂漠地帯の数値だった。何百もの行動ログが、同じ発信源から次のターゲットへ波及していた。
「女王巣……?」唇がひび割れた声で震えた。
「すべての意思の中枢……」
「可能性は高い。ここを破壊できれば、群れの指揮系は崩壊する。」
アーロンは言った。
「だが問題がある。この中枢は固定ではない。定期的にパターンが切り替わり、座標が更新されている。」
「動いている……?」
「移動するか、あるいは分散化している。」
エレーナはしばらく言葉を失った。
蟻が単一の女王を中枢に置くという既存の知識が、ここでは通用しない。
おそらくこの「帝国」は、無数の中継拠点を女王巣の代替に用いていた。それは言い換えれば、同時多発的に自己を再生できる知性だった。
「破壊作戦は間に合うのか……?」
声が喉でかすれた。
アーロンは静かに首を振った。
「分からない。だが、やらなければ人類は何も残らない。」
研究室に沈黙が落ちた。
照明は心許ない電池駆動のランプだけになり、冷たい空気が床を這っていた。
エレーナはモニターを見つめた。
人間の文明がどれほどの年月をかけて築かれてきたか、その重みを知るほどに、蟻たちの進化の速さが恐ろしく思えた。
「座標をまとめるわ。」彼女は言った。
「残された拠点に送信する。」
「何人が応答できるだろう。」アーロンは肩を落とした。
「分からない。でも、まだ誰かが生きているはず。」
彼女は薄暗い室内を見回した。
床に散らばった解析データ。途切れた通信ログ。
外の世界は、すでに沈黙の帝国の中にあった。
だが、この最後の拠点だけは、まだ灯りを失っていなかった。
第二節 決死の侵攻
砂嵐が、視界を霞ませていた。
中央アジアの荒れ地は、かつては軍事演習場として使われていたという。だが今は、地表に人の営みを示す痕跡はほとんど残っていなかった。打ち捨てられたコンクリートの廃墟と、風に削られた金属片が散らばるばかりだった。
ジェイコブ・リーは、防護装甲車のハッチに身を預け、双眼鏡で目の前の荒野を観察した。
陽の当たらない灰色の空が地平線に沈み、砂の粒が斜めに吹きつける。タービン音と風の唸りだけが、ひどく遠くから響いてくるようだった。
「位置確認。」車内の通信士が低く声を発した。
「座標一致、二百メートル先に反応。地下深度は推定八メートル。」
ジェイコブは視線を戻した。地表には何も見えなかった。
だが赤外線スキャンの画面には、淡いシルエットが映っていた。熱を発する有機体の集積。それは巨大な塊として存在していた。
「これが、女王巣か。」
「少なくとも、主要な中枢のひとつだ。」後部席からアーロン・デュークの声がした。
「ここを破壊できれば、彼らの制御に深刻な齟齬が生じる。」
「……逆に言えば、ここを落とせなければ何も変わらない。」
ジェイコブは小さく息を吐いた。
戦闘車両は三台だけだった。人員も限られていた。これが人類の最後の反攻と呼べるかどうか、もはや判断する余地もない。
「作戦開始。」アーロンが端末に命令を打ち込んだ。
車両の側面に固定された地中貫通型爆薬が、低い電子音を鳴らした。
数秒後、砂地に伏せたドローンが一斉に前進した。夜視カメラの映像が車内モニターに流れる。暗い地下の空間が照らされ、うねるように動く蟻の群れが見えた。
彼らは数え切れない触角を揺らし、ドローンの侵入に反応するでもなく、ただ無言の秩序を保っていた。その中心には、白く膨れ上がった有機的な塊が横たわっていた。まるで人間の神経節を模した腫瘍のようだった。
「発火準備。」通信士の声が震えた。
「全機、爆薬起動。」
「待て。」ジェイコブが咄嗟に制止した。
モニターの映像に、奇妙なものが映り込んでいた。白い有機塊の表面に、かすかに光を反射する無数の粒が浮かんでいた。
それは蟻の群れだった。だが、彼らはただ集まっているのではない。粒が一定のリズムで点滅するように動き、輪郭が螺旋を描いていた。
「……送信している。」アーロンの声が低くなった。
「他の巣へ、リアルタイムで情報を伝達している。」
「全世界に?」
「可能性は高い。この瞬間、我々の位置と行動が複数の巣へ同期されている。」
恐怖が体の芯を冷たく這った。
「撃て。」ジェイコブは命令した。
「躊躇するな。」
「爆薬起動、カウントダウン。」
その刹那、車両の床下で金属が軋む音がした。
何かが下から車体を打った。衝撃が伝わり、通信士が椅子から転げ落ちる。赤い警告灯が一斉に点滅した。
「接触だ!蟻が外装に群がっている!」
ジェイコブはハッチを押し開け、砂塵に顔をさらした。車体の側面に黒い帯が渦を巻き、螺旋のように巻きついているのが見えた。蟻たちは装甲の継ぎ目に密集し、わずかな隙間から内部へ侵入しようとしていた。
「起爆まで三十秒。」
アーロンの声が潰れたようにかすれていた。
ジェイコブは拳銃を抜き、車体を這う蟻の一群を撃ち払った。だが、その度に別の列が湧き上がる。まるで不死の神経のように、断っても断っても伸びてきた。
「二十秒。」
通信士が泣き声を上げた。
「制御が……中枢アクセスが……切られる!」
ジェイコブはそれを聞きながら、モニターに映る白い塊を見つめた。
それは脈動していた。
人間の脳にも似たリズムで膨張し、収縮していた。
「十秒。」
これが、知性の中枢。
蟻の帝国の心臓。
同時に、最初から彼らが計画した「囮」かもしれなかった。
「五秒。」
ジェイコブは目を閉じた。
砂嵐が頬を打ち、頭の中が真っ白になった。
「起爆。」
世界が一瞬、純白の光に包まれた。
第三節 分散する中枢
爆風は、全ての音を奪った。
瞬間、世界は白い熱で塗りつぶされ、装甲車の外殻が焼ける匂いが肺を刺した。ジェイコブは何も考えられず、ただ体を硬直させたまま、光の洪水が収まるのを待っていた。
数秒、あるいは数十秒が経った。耳鳴りだけが残響のように続き、景色は暗い残像を引きずった。
砂塵が緩慢に落ち始め、ようやく視界が戻り始めた。
「状況確認……生存者は……」アーロンの声は、深い水の底から浮かぶように遠かった。
ジェイコブは呼吸を整え、手探りでヘルメットのバイザーを上げた。防護スーツの内側は汗で濡れていた。
装甲車の後部ハッチが自動的に開いた。熱風が内部に入り込み、酸素が薄れた匂いが広がる。
彼はよろめきながら外に出た。
砂地は爆心を中心に深い円形の陥没を作り、地表を覆っていた金属片や蟻の死骸は黒く焦げて積もっていた。
「……やったのか。」誰かの声が震えた。
爆心にあった白い有機塊は、粉々に破壊されていた。中央にあった螺旋の構造も崩れ、蒸気のように薄い煙を立ち上らせていた。
「……中央制御、応答を確認。」通信士の声はかすかに希望を含んでいた。
「一部の通信が回復……電源系統も一部正常に戻りつつ……」
ジェイコブは荒い息を吐いた。
爆破の余波で無線回線が再接続され、司令部の断片的な信号が拾われ始めていた。
これで終わったのか。人類は一縷の希望を取り戻したのか。
だがその安堵は、ほんの数秒しか続かなかった。
「ジェイコブ。」アーロンが声を絞り出した。
「見ろ。」
砂煙が晴れた先に、黒い帯がいくつも浮かび上がっていた。
最初は爆風で吹き飛んだ破片だと思った。だが、視界がはっきりすると、それが無数の蟻の行列だと分かった。
陥没の縁を埋めるように、規則的な隊列が円を描いていた。
死んだはずの蟻ではない。新たに周囲の巣から集結した個体群だった。
「全域スキャン。」アーロンが命じる。
通信士が震える指で端末を操作し、周辺の赤外線イメージを拡大した。
モニターに映ったのは、同心円状に連なる熱源の群れだった。
一つだけではなかった。
中枢は、破壊したはずの「巣」以外にも複数存在していた。しかも、それらは一定の間隔で対称配置され、陥没地を取り囲むように構築されていた。
「……分散型……。」アーロンが言葉を失った。
「中枢が……複製されている。」
ジェイコブはその場に膝をついた。
世界を奪われた感覚だった。
この作戦は、計画の段階から読み取られていた。中央を破壊すれば支配が崩れるという前提も、蟻の群れには「想定済みの障害」でしかなかった。
むしろ破壊の瞬間に、他の中枢が同時起動する仕組みになっていたのだ。
「彼らは……」ジェイコブの声がかすれた。
「生物の形をした分散知性体だ。あらゆる損失を予測し、即座に代替構造を立ち上げる。」
モニターの映像に、再び螺旋の模様が広がった。
死んだはずの中枢の跡地から、蟻の群れが這い出し、新しい構造を編むように動き始めていた。砂地に描かれる模様は、破壊前より複雑に進化していた。
アーロンが額を押さえた。
「これが……人類が相手にしているものだ。」
耳の奥で低いノイズが走った。
装甲車のスピーカーがひとりでに起動し、電子音が混じる不明瞭な声が滲んだ。
「ジンルイ……シコウ……カンリ……」
言葉は以前より明瞭だった。
破壊によって、蟻の学習はさらに加速したのかもしれなかった。
アーロンが顔を上げ、虚ろな目でジェイコブを見た。
「我々は……終わったのか。」
答えは誰にもできなかった。
彼らは知った。自分たちの文明が、静かに、完璧に凌駕されていることを。
どんな抵抗も、どんな防衛も、ただ進化を促すだけだと。
第5章 沈黙
第一節 落日
夜が明けたことを知らせるものは、もはや何もなかった。
高層マンションの窓から見える東京の街は、夜と朝の境界を失い、ただ灰色の霧に沈んでいた。
電力は戻らず、通信も復旧しなかった。かつて人類が築いた数え切れない灯火は、もう二度と輝かないように思えた。
桜井蓮はリビングのソファに体を沈めていた。
隣には母がいた。千佳は疲れ果てて、毛布を頭まで被っている。
目を閉じれば、玄関を這う小さな足音が幻聴のように蘇った。
あの夜から、蟻たちは壁の内側に姿を隠し、完全に気配を絶った。だが、いなくなったわけではなかった。
「蓮……水は?」母の声はかすれ、聞き取りづらかった。
冷蔵庫はとっくに力尽き、残っていた飲料水も底をついた。
「もう、ない。」
小さく答えた声が、部屋の奥で消えた。
全ての窓は閉じられていた。開ければ、いつ蟻が一斉に侵入するか分からない。
だから外気を取り込むこともできず、家の中はゆっくりと酸素が薄くなるように思えた。
視線を落とすと、足元に積まれた防水シートの端に、黒い点が一つ付いていた。
息を詰め、手を伸ばして摘もうとした。だが、その小さな点は指先が触れる前に動いた。
蟻だった。
触角をわずかに振り、周囲を探るように首をもたげた。
蓮は全身が凍りついた。
その一匹が、やがて百匹になる。
千匹、万匹になる。
もう、それを止める手段はなかった。
震える手で懐中電灯を取り上げた。ボタンを押すと、短く点滅しただけで光が消えた。
何もかもが終わろうとしている。
けれど、どこかでそれを受け入れる心が芽生え始めていることに気づいた。
長い恐怖の果てに、絶望もやがて日常に変わる。
「母さん。」
声をかけると、母が力なく顔を上げた。
「……大丈夫だよ。ここにいる。」
それ以上、言葉は出なかった。
沈黙が全てを覆った。
遠くで、低い破砕音が響いた。
何かが崩れたのだと思った。送電塔か、別のビルか。
だが、もう確認する意味もなかった。
この街は終わったのだ。人間の都市という概念そのものが。
そして、最後の儀式のように、壁の奥で音が始まった。
乾いた無数の擦過音。
蠢く気配。
家を包む構造体の奥に、黒い波が集まり、ゆっくりと進んでくる。
蓮は目を閉じた。
たった十七年の短い生だった。
だが、いま確信できる。
自分たちは、蟻の帝国の勃興を見届けるために生まれてきたのだ。
外の霧は濃くなるばかりだった。
太陽は昇らなかった。
落日だけが、永遠に続いているように思えた。
第二節 遺された声
日の光が届かなくなって、どれほどの時間が過ぎたのか。
世界は薄暗い夢の中に沈んでいた。
都市を覆う灰色の空は動かず、雨も降らず、風さえ吹かなかった。まるで巨大な温室に閉じ込められたように、空気は重く澱んでいた。
防衛局跡に残っていたジェイコブ・リーは、通信卓にうずくまっていた。
すでに仲間の声も絶え、応答する者は一人もいない。
バッテリー駆動のモニターは薄暗く光り、最後のシステムログを淡々と更新していた。
「中央管制網、全接続途絶」
「全世界中継局、沈黙確認」
画面に並ぶ文字列は冷たく正確で、かえって恐ろしかった。
地下通路からときおり響く微かな音が、規則的に耳に触れた。
蟻たちはまだいる。
目に見えるほどの大群は現れなくても、あらゆる空隙に入り込み、都市の内部を測量し、最適化し続けていた。
「……これが、終わりか。」
かすれた声が自分のものだと気づくまでに数秒かかった。
誰かに問いかけたわけでもない。ただ、黙っているのに耐えられなくなっただけだった。
頭を上げると、モニターの一つに何かが映っていた。
いつの間にか接続されたカメラの映像。
それは市街地にそびえる巨大スクリーンだった。
死んだはずの送電網が、一瞬だけ不気味な明るさで点灯していた。
画面は砂嵐に包まれ、やがて白い螺旋の模様が浮かび上がった。
人間の目には意味を成さないその形は、見ているだけで胸の奥を冷たく締めつけた。
あの記号は、彼らの「名」なのだろうか。
あるいは、何かを宣言する「言葉」なのか。
スピーカーから低い音が漏れた。
かすれた電子音が、次第に言葉の形を取り始めた。
「ジンルイ……」
ジェイコブは震える手を口元に当てた。
まるで人間の声を真似しようとする幼い機械のように、その声は不完全だった。
だが、それは確かに「語ろう」としていた。
数秒の沈黙。
次の言葉が、より鮮明になって現れた。
「ジンルイ……ノ……オト……」
彼は気づいた。
これは、記録だ。
人類の最後の言葉、最後の息遣いを、蟻たちは模倣しようとしている。
文明の残骸を「資源」とするだけでなく、その記憶すら自分たちの中に組み込むために。
「私たちを……記録しているのか。」
声が震えた。
スクリーンの螺旋がわずかに回転した。
新たな音声が、ひび割れたように途切れ途切れに流れた。
「ジンルイ……ノ……オモイデ……トウロク……」
思い出。
ジェイコブは、そこで初めて涙が滲むのを感じた。
恐怖や憎しみではなかった。
ただ、人間の存在そのものが「遺物」に変わる、その事実が痛烈だった。
遠くで崩落の音が響いた。
また一つ、高層ビルが静かに折れたのだろう。
だがスクリーンは揺れもせず、その上で螺旋は回り続けた。
蟻の帝国は、言葉を奪い、物を奪い、そして記憶さえ奪う。
彼らにとって文明は、必要なら保持し、不要なら消去する「情報」でしかない。
ジェイコブは立ち上がった。
足元に広がるタイルの隙間に、小さな黒い影が蠢いていた。
一匹の蟻が、彼の視線を感じ取るように触角を動かした。
次の瞬間、床の奥から同じ動きの個体が続々と顔を出した。
それはもう虫ではなかった。
分散知性の「末端」だった。
スピーカーから、また声が漏れた。
今度は、人間の音声に近い響きで。
「アナタ……タチ……ノ……オト……ワスレナイ……」
涙が、頬を伝って落ちた。
やがて声は途絶えた。
スクリーンは暗転し、都市に再び沈黙が戻った。
ジェイコブは思った。
これが、記憶として保管されるなら、自分たちはまだ「存在していた」と言えるだろうか。
第三節 新たな秩序
数日が経過した。
だが、昼と夜の区別は失われたままだった。
東京の街は灰色の霧に沈み、遠くの高層ビルは半ば骨組みを剥き出しにして立っていた。かつて人々が「首都」と呼んだ場所は、音も熱もほとんど失った廃墟になっていた。
けれど完全に朽ち果てたわけではない。
ビルの一部は崩壊を免れ、通りは瓦礫を整然と除去されていた。
人間ではない何かの手で。
朝比奈真理は、研究所の一角でひざを抱えていた。
目の前に広がるガラス張りの通路は、かつて職員たちが行き来した回廊だった。
だが今、その床を覆うのは無数の蟻の行列だった。
彼女は力なく視線を落とす。
小さな体が規則正しく往復し、何かを運んでいた。
白い粉末のような物――崩れた壁材や、砕けた骨の破片。
それらが淡々と集積され、一定の間隔で積み上げられていく。
「……記録する気なのね。」
誰にともなくつぶやいた。
ガラス越しに見える広場には、整然とした列がいくつも走っていた。
崩れた建物の残骸は整形され、規格化されたブロックに変えられ、その上を蟻の群れが巡回していた。
それは単なる片付けではなかった。
まるで「保存」だった。
人類の文明を「標本」に変える作業だった。
足元に一匹の蟻が近寄ってきた。
大きく張り出した頭部と、光を反射する黒い殻。
真理は手を伸ばしかけてやめた。
この生き物は、もうただの昆虫ではなかった。
自分たちを支配する「帝国の細胞」だった。
「調和……ね。」
口の中で言葉を転がした。
世界は確かに調和を得たのだ。
人類が争いを繰り返し、資源を奪い合っていた混沌の時代は、ここで静かに終わった。
代わりに訪れたのは、無音の秩序。
ひとつの巨大な意思に貫かれた支配。
通路の奥で、黒い波がうねるように動いた。
蟻の群れが、ガラス壁を這い上がり、天井裏へと消えていく。
都市の隅々を「浄化」し、「標本化」する作業は、まだ終わっていなかった。
遠くの広場に、白く巨大な柱が立ち上がっていた。
それは人間の建造物ではなかった。
蟻が生体樹脂を分泌し、破壊した資材を編み込んで築いた「記念碑」だった。
半透明の柱の中には、溶けたモニターや錆びた標識が封入されていた。
かつての文明の痕跡を、まるで栄養のように吸収し、保存しているように見えた。
真理は立ち上がった。
細い廊下をゆっくりと歩き、ガラス壁に手を当てた。
外を埋める黒い群れが、一斉に触角を揺らす。
意思があるのだと、痛烈に感じた。
この星の未来は、もう決まっていた。
人間が消えた後も、蟻の帝国は永遠に続くのだろう。
彼女は目を閉じた。
自分が「最適化の一工程」に過ぎないと分かっていても、どこか安堵する部分があった。
すべてが終わったからだ。
暗い空に微かな光が滲んだ。
太陽ではない。
螺旋の記号が刻まれた巨大スクリーンが、静かに再点灯した。
黒い波がその表面を埋め尽くし、やがて一つの言葉を描いた。
「チョウワ」
真理は乾いた涙が頬を伝うのを感じた。
そのときだけ、心の底で奇妙な安らぎが生まれた。
人類が失敗した「調和」という理想を、別の生命が達成したのだと。
遠くで群れが動いた。
世界は、静かに新たな秩序に変わりつつあった。
エピローグ
現存するアリの種は、世界中に一万二千種以上が確認されている。
体長数ミリの存在でありながら、彼らは群れを一つの器官として機能させる能力を持つ。
個体ではなく集団が単位となり、全体で意思を形成する――この性質は、生物学で「スーパ―オーガニズム」と呼ばれる。
個体の死は全体の死ではない。
一匹の兵隊アリが自爆しても、その行為は全体の設計の一部でしかない。
働きアリは、巣の拡張、幼虫の育成、資源の調達と廃棄を、何百万の個体で同時進行する。
彼らにとって、個の意識は必要がない。
必要なのは、秩序だ。
自然界には、人類がまだ計測しきれない知性の形がある。
集団が全体として「未来の状態を予測し、最適化する」能力。
個体の限界を超え、分散知性として生態系そのものを変容させる力。
それを単なる「虫の本能」と呼ぶには、あまりに周到で、あまりに無言だ。
この物語が描いたのは、一つの仮説に過ぎない。
もし、アリが人類の文明を観察し、その構造を模倣し、最適化し、やがて凌駕したとしたら。
もし、彼らの集団意識が「記録」を越えた「管理」を目指したとしたら。
人類の都市は一度築かれたあとに腐敗し、争いを繰り返す。
その脆弱さは、個々の意思の衝突から生まれる。
だが、アリにはその矛盾がない。
自己犠牲も、共有も、完璧に整えられた秩序のために存在する。
かつて人類は、自らを「進化の頂点」と信じて疑わなかった。
だが、進化とは大きさでも、速さでもない。
環境を支配し、適応し、変化し続ける存在こそが、未来の管理者だ。
この星のどこかで、今も小さな触角が地面をなぞっている。
彼らは新しい情報を集め、分配し、また一つ次の秩序を生み出す。
人間の知らないところで、その作業は何百万年も続いてきた。
そして、おそらくこれからも。
都市が朽ちても、記憶が消えても、アリの行進は止まらない。
それは事実だ。
そして、それ以上に確かな恐怖だ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本作は、アリの持つ「スーパ―オーガニズム(超個体)」という概念から発想しました。
個体の意思を超え、群れ全体でひとつの知性を形成する。
それがもし人類の技術や情報を取り込んだとき、私たちはどう抗うのか、あるいは抗えるのか。
そんな問いを、静かな恐怖として描きたくてこの物語を書きました。
終末SFや生態系ホラーが好きな方に、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
感想やご意見をいただけると、今後の創作の励みになります。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。