【8話】霧の中の灯火
今日の最後の授業が終わり、柚月と一緒にトイレから戻ってきた。教室に入ると、いつもと違う重たい雰囲気を感じた。教室内のざわめきもいつもより静かで、重苦しい空気が漂っていた。
(なにかあったのかな……)
私は朝霞くんを見た。彼は顔を伏せて、何かに落ち込んでいるように見える。
「どうしたんだろうね?」
柚月と目を合わせると、
『なんか雰囲気ちがうなー。聞いてこようかなー』
彼女も気になっているようだった。
「心結ちゃん、ちょっと私聞いてくるね」
柚月はほかのグループの子に話しかけにいった。
私は自分の席に座り、後ろを振り返る。
「朝霞くん、顔をあげて。」
朝霞くんはゆっくりと顔をあげた。目はどこか暗く、深い悲しみに沈んでいるように見える。彼は何も言わず、ただぼんやりと前を見ているだけで、私の目とは合わない。
目が合わないと心が見えない。心配が募り、どうしても彼の心が見たくなる。あんなに心を読むのが嫌いだったのに、今は自分から見たくなるなんて。彼がこんなにも苦しんでいるのに、何もできない自分が歯がゆい。
「ねぇ、朝霞くん、私を見て。」
私は彼の顎を両手で支え、軽く持ち上げた。朝霞くんの目と繋がり、彼の心の声が聞こえてくる。
朝霞くんの心の中は、まるで霧に覆われているかのようだった。その霧の中から、ぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきた。
『おいてめぇ、なにやってんだ!ふざけんなよ!聞いてんのか、おい!』
この荒々しい声と共に、朝霞くんの心の中に浮かぶのは、同じクラスの陽之都悠真の顔だ。怒りに満ちた彼の表情が、霧の中にぼんやりと浮かび上がっている。
朝霞くんが思い出す光景には、陽之都のカバンが机と通り道の間に飛び出している様子が映し出されている。彼がつまづいて蹴ってしまった瞬間、陽之都の怒りが爆発したのだ。
『謝ろうと思ったけど、ものすごい剣幕で怒ってくるから、言葉がつまって出てこなかった。どうして僕はこんなに要領が悪いんだろう……』
陽之都くんと揉めたことが、朝霞くんの心に大きな影を落としている。その影が彼の目に宿る暗さとして表れている。
彼の心に触れると、その痛みが直接伝わってくるようだった。心の中で彼の苦しみが鮮明に浮かび上がり、私も胸が締め付けられる。
「朝霞くん、元気だして。」私は心配しないでと気持ちを込めて微笑んだ。彼が少しでも元気になることを願って。
「あ、ありがとう……」
同時に先生が教室に入ってきて、帰りのホームルームが始まった。先生の声が響く中、私は心の中で彼に語りかける。
『大丈夫だよ、朝霞くん。今度は私が朝霞くんを助けるから。』
☂ ☂ ☂ ☂ ☂
帰りのホームルームが終わると、陽之都くんはすぐにカバンを抱え教室から飛び出た。彼はバスケ部に入っていて、体育館まで走って向かっていた。
「あ、待って!」
私は思わず何も持たずに追いかけた。
「あ、心結ちゃん!カバン!」
柚月の声が背中越しに聞こえるけど、今は陽之都くんを追いかけないと。
でも、さすがに運動部は足が早い。全然追いつかない。焦る気持ちが足に力を入れさせるが、階段に差し掛かった時、足がもつれてしまった。
「きゃっ!」
体が前に投げ出される感覚。次の瞬間、階段の角に膝を打ち、ゴツンという鈍い音が頭に響いた。視界が一瞬白くなる。手すりにぶつかり、そのまま転がり落ちる。
痛みが全身を駆け巡る。頭の中がズキズキと痛む。膝も擦りむけて血が滲んでいる。
それでも、早く追わないと。強い意志で立ち上がり、また走り出す。痛みを無視して、ただ前に進む。
やっとのことで体育館にたどり着くと、バスケ部の部員たちが集まっていた。体育館の広々とした空間に、バスケットボールの弾む音が響いている。彼らの活気とエネルギーに圧倒され、足がすくむ。
勇気を出して、足を踏み入れる。緊張で手が震え、心臓が早鐘のように鳴る。部員たちの視線が一斉に私に向けられるのを感じ、その圧力に押し潰されそうになる。
「あ、あの……」
一斉に視線が集まる。
「ひ、陽之都くん……」
声が震えるのを抑えられない。
周りのバスケ部の人たちから声が上がる。
「おーい、陽之都、ご指名だぞー」
「モテモテだなー」
心を読んでしまうのが怖くて俯く。視線が突き刺さるように感じ、顔が熱くなる。
「お前、たしか愛月だよな、同じクラスの」
陽之都くんが目の前にやってくる。彼の背が高く、大きな影が私を覆う。彼の存在感に圧倒され、息が詰まる思いだ。
「なにか用か?」
陽之都くんが言うと、周りの人たちがさらに茶化す。
「遊びたいんだってよー」
「俺にも紹介してくれよー」
もう、本当に嫌だ、でも朝霞くんのために……。心の中で必死に自分を奮い立たせる。
「うるせぇぞ、黙れ!」
陽之都くんが後ろの人達に一喝する。その一声で周囲は静まり返る。
「は?お前、先輩に向かってなんだよ」
後ろにいた人たちが不満そうに口を開くが、陽之都くんの鋭い視線に黙り込む。彼の気迫に押されて、誰も逆らえない。
そんなのはお構いなしのように、陽之都くんは私に向かって続ける。
「ここじゃうるさいから場所変えようぜ」
陽之都くんは、後ろの罵声も気にせず歩き出す。彼の自信満々で自我を通す姿に、私はただついて行くことしかできなかった。
階段下で立ち止まる。
「それで?何か用?」改めて陽之都くんが尋ねる。彼の声は低く、少し苛立ちが混じっている。
顔を見るのが怖くて、ただ真っすぐ陽之都くんの方を見る。彼の大きさに圧倒されながらも、覚悟を決めて声を出す。手が震え、心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。
「あの、朝霞くんのことで……」
「なんだよ、さっきの話か。それで?」
陽之都くんは少しイラつきはじめる。眉間に皺を寄せ、腕を組む。
「朝霞くんも悪気があったわけじゃないと思うの。陽之都くんも少し言い過ぎだと思って……」
「はぁ?俺が悪いってのか?」
陽之都くんの声が階段に響き渡る。心臓がますます高鳴り、ビクビクしながらも私は覚悟を決めて続ける。
「ち、ちがくて……」
「あいつが俺のカバン蹴っ飛ばすのが悪いだろ!それにあの態度!」陽之都くんのイラつきが増すように声も大きくなっていく。
「何も言わないで突っ立って、俺は悪くありませんってか?ふざけんなよ!」
彼の怒声に身体が震え、目が潤むのを感じる。しかし、負けてはいられない。だが、彼の勢いに圧倒されて、言葉が出てこない。無言のまま、私はその場に立ち尽くす。
1呼吸置いて、陽之都くんは少し落ち着きを取り戻したようだが、その目にはまだ怒りが残っている。
「てか、お前には関係ない話だろ。部活戻るわ」
彼はそのまま背を向け、帰ろうとする。その背中が遠ざかるのを見て、私は再び勇気を振り絞り、もう一度声をかける決意をした。
「関係なくないよ!朝霞くんは私を助けてくれたの!だから今度は私が朝霞くんを助けるの!」
必死に呼び止める。心の中で勇気を振り絞り、全力でぶつかる。
「なんだそれ、女に助けてもらうなんて情けねぇ」
陽之都くんのさり気ない言葉に私は怒りが込み上げてくる。
「情けなくなんかないよ!朝霞くんは言葉が急に出ない悩みを抱えてるの!それでも朝霞くんはとっても優しくて、喋ろうと頑張ってるの!陽之都くんなんかよりずっと凄いんだから!」
声が震え、涙が頬を伝う。これまで抑えていた感情が一気に溢れ出す。息を切らしながら陽之都くんに詰め寄る。必死な思いが心に集まり、目頭が熱く、涙が止まらない。
「わ、わかったから、ちょっと離れろ」
陽之都くんは私の剣幕に圧倒され、一歩後ずさりし、驚きと困惑が混じった表情で私の肩を軽く押す。彼の声には、今までのような怒りは感じられなかった。
涙で視界がぼやける中、私は初めて自分の気持ちを叫ぶことができた。
その瞬間、後ろからもうひとつの大きな影が現れる。朝霞くんだった。
「愛月さんに何してるんだ!」
普段の大人しい彼とはまるで別人のような、怒りと決意に満ちた声が響き渡る。
朝霞くんは陽之都くんに掴みかかる。その剣幕には、あの強気な陽之都くんさえも一瞬たじろぐほどの迫力があった。
「次から次へとなんだよ……」
陽之都くんも困惑しているようで、目を見開いている。
「愛月さんを泣かせるなんて!許さない!」
朝霞くんの声が震え、怒りと共に必死さが伝わってくる。
私は全力で朝霞くんにしがみつく。
「朝霞くん!違うの!私が陽之都くんに話しかけてたの!」
朝霞くんはその場で固まり、私の言葉を理解しようとする。その顔は一瞬困惑したように見えたが、すぐに冷静さを取り戻した。
事情を説明すると、朝霞くんの顔から血の気が引き、陽之都くんの方をゆっくり見る。
「お前、ちゃんと喋れるじゃねぇか」
陽之都くんが言う。その声には感心が混じっている。
「あ、愛月さんが泣かされ……て、てると思って、必死で…そ、その…ご、ごめん……」
朝霞くんの声が震え、心の中の葛藤が伝わってくる。
それを聞き、陽之都くんも少し落ち着きを取り戻す。
「まぁ、その、俺も悪かったな。ついカッとなることが多くて……」
二人はお互いの誤解が解けたようだ。陽之都くんの顔にも少し柔らかさが戻り、朝霞くんの肩に手を置く。
「それにしても、朝霞。お前、やればできるじゃねぇか」
陽之都くんが言い、笑みを浮かべる。その瞬間、私は二人の間に和解の兆しを感じた。
陽之都くんが朝霞くんの肩をたたく。そして、私の方を見てくる。心を読むのは怖くて目をそらす。
「愛月、お前も小さいのになかなかガッツあるやつだな!また今度話そうぜ〜。俺は部活に戻るわ!」
陽之都くんは、体育館の方向に歩いていく。
私は朝霞くんの方に視線を戻す。彼の顔には安堵と感謝が溢れている。
「あ、愛月さん、お、俺のために……ありがとう」
心を読むと、彼の心の中からも感謝の声が聞こえてくる。
『愛月さんに凄いと思われてたなんて嬉しい』
(あの時の声、聞こえてたの!?)
とても恥ずかしくなって頭が熱くなる。
「あ!」
朝霞くんが大きな声をあげる。
「ち、血!愛月さん、頭が!」
言われて急に痛みがくる。痛みの場所を触ってみると、手に赤い血がついていた。
「大丈夫……」
答えながらも、目の前が少し揺れる。朝霞くんが心配そうに私を支える。
「急いで保健室に行こう。早く!」
朝霞くんの支えを借りながら、私は保健室へと向かった。頭の痛みとともに、心の中には少しの安心感が広がっていく。




