白い足跡は終わらない悪夢を彷徨う
スマホの、待ち受け画面を見て溜息をつく。昼休みの終わりを告げるベルが鳴り響き、再び仕事の為にパソコンを立ち上げる。17年間、一度も休む事なく働いた会社。家には眠りに帰るだけの忙しすぎる毎日だ。はっきり言ってウンザリだ。
「よ! 黒木! なにシケた顔してんの? あんた、ちゃんと寝てる? クマ出来てるよ!」
突然、後ろから肩をポンと叩かれて、椅子に座ったまま振り返ると、同僚の浅木加奈江が、書類片手に立っていた。長い黒髪を後ろで緩く一つに結んで、縁の赤い眼鏡がよく似合う色白美人だ。明るい性格の彼女は、社内でも人気者だ。そんな彼女が毎日のように、それこそ1分でも時間があればオレに絡んでくる。
「浅木、お前いつも元気すぎるだろ……」
「元気だけが取り柄だもん! って言うか、本当に大丈夫? 顔色も悪いよ?」
「そうか?」
「そうよ! もしかして黒木って有給も取って無いんじゃない?」
「タイミングが分からないんだよ」
「そんなの、いつでも良いじゃない! いっそ明日から温泉とかどうよ?」
「温泉かぁ……」
そこまで言ってから、浅木はオレの耳元で小さく呟いた。
「犬榧くんの事で眠れてないんでしょ」
「まぁ……そんな所。仕方ないとは分かってんだけどな」
「結婚の相手は社長令嬢だっけ?」
「そ。しかも、この会社の上の立場のってなると、犬榧も断れなかったって……」
「そっかぁ……」
2人で飲みに行った時、オレは酔っ払って浅木に、2年先輩の犬榧蓮が、気になって仕方ないと言う事を話してしまったらしい。そんな感じに気軽に色々話せて、いつでも明るく優しい彼女の事は大切な友人だと思っている。
浅木に心配されるほど、オレが頭を悩ませているのは、犬榧が大企業の社長令嬢と結婚してしまう事だ。同じ会社の先輩だから、どうしても毎日のように顔を合わせてしまう。浅木には気になるとだけ言ったけど、この気持ちは恋に近くて、胸の内がモヤモヤするのだ。確かに、このままじゃいけない気がするし、気分転換は必要だ思い、1週間の有給を無理矢理もぎ取った。上司は渋い顔をしていたが、そんな事を気にしていたら休みなど、この先も無いだろう。
連休を取った初日の朝、毎日の習慣で早朝5時に目が覚めてしまった。なのでベッドに転がったまま、枕元に置いてあったスマホを手にとり宿を検索する。出来たら日常を忘れられる、山に囲まれた自然の中でゆっくり過ごしたい。一つ一つ宿を、タップしては溜息をつく。有名な宿ばかりで自分の求めるものは、なかなか見つからない。
「春子に聞いてみるか……」
幼い頃に、一度だけ行った事のある父方の実家。そして一緒に遊んだ従兄妹の春子の事を思い出して電話をかける事にした。
RRR……RRR……
「はいはい! どなた?」
「春子? オレ黒木だけど、えっと小さい頃に一度だけ遊んだ事があるんだけど覚えているかな?」
「黒木くん? トンボ嫌いの?」
「そうそう!」
「ふふふ! 懐かしいわね! 元気だった?」
「普通に社畜だけど元気だよ! 春子は?」
「トンボ怖がってた黒木くんが会社員かぁ! 私は父さんの田んぼ手伝ってるわ」
「トンボのあの目が怖いんだよ! 田んぼかぁ! 新米美味そうだな」
「ふふふ! 新米出来たら送るわ。で何か用があるんでしょ?」
「ちょっと、のんびりしようと思って1週間休み取ったんだけど、これぞ秘境って感じのオススメの宿はないか?」
「う〜ん……宿じゃ無いけど、あるにはあるわよ」
「この際、都会と会社を忘れられるなら何処でも良い教えて欲しい」
「分かったわ。同じ市内にある私の祖父の家なんだけど、雑木林の中に一軒だけ建ってて回りには何も無い所とかどう?」
「いいね! でも突然行って迷惑なんじゃないか?」
「今は誰も住んで無いはずだから大丈夫だと思うわ。鍵と住所は……」
「今からそっちに行く! 昼過ぎには駅に着く」
「分かった。じゃ迎えに行くわ」
電話を切ると早速、縦1メートルはありそうな大きな黒いトランクを、物置きから引っ張り出して準備を始める。とりあえず1週間分の着替えに、歯ブラシなどの身の回りの物を詰め込む。
「回りに何にも無いって言ってたな。途中で食料品と本でも買うかな!」
買い物したものを入れる為用に、もう一つ旅行カバンを出してくる。結構、嵩張るけど1週間、田舎に引きこもって過ごすなら必要だろう。
「おっといけない。お守りは手放せないよな」
いつ頃からか分からないけど、持ち歩くようになった、銀色の筒型のペンダント。ちなみに、何故だか蓋は開かない。でも持っていると安心出来る。首にかけると、鍵をしてマンションの廊下を、ゴロゴロと音を立ててトランクを引いて外に出る。
呼んでおいたタクシーに乗ると、渋滞することも無く20分程で東京駅に着いた。そして買い物をする為に、百貨店の食品売り場に行って保存のきくパンや缶詰、つまみに酒といったものを買った。本屋にも立ち寄って、小説を10冊程購入した。
これだけあれば日常を忘れて、ダラダラ過ごせるだろう。買ったもの全て、旅行カバンに詰めて新幹線に乗り込んだ。座席に座ると静かに走り出した。高速で流れていく景色を見ながら、今日から始まる田舎生活に胸を躍らせる。
途中スマホが震え、メールの着信を知らせてきた。浅木と、同僚で親友の蘇芳槐からだ。
「何処の温泉に行くの? 浅木」
「お前が有給取るなんて珍しいな! 何処行くんだ? 槐」
浅木には面白おかしく秘境に引き篭もると返信して、槐には従兄妹の祖父の家に行って1週間のんびり過ごす事を伝えておいた。
2時間新幹線で移動して、駅から更にバスに乗り換える。乗客はオレ1人だ。心地よい揺れに眠気に襲われつつも、眠ってしまうのが勿体無くて、流れる景色を見ていると緑が増えていき、民家も次第にポツポツと、たまに見かけるだけになっていく。40分弱で終点の待ち合わせのバス停に着き降りる。そこはまさに秘境駅で、自販機すら無いし、バス停から少し歩くと砂利道が細く伸びているのが見えるだけだ。
パッパァ〜〜
駅周辺を歩き回っていると、後ろから大きなクラクションが聞こえ振り返る。軽トラの運転席側の窓を開けて、女性が手を振っている。
「黒木くん、久しぶり! さ! 乗って! 荷物は荷台に適当に乗せていいわよ」
「春子久しぶり! 迎えに来てくれてサンキュ!」
荷物を、ゴドゴト音を立てて荷台に乗せてから、助手席に座ってシートベルトを閉めた。
「昼ご飯はまだよね?」
「着いてから食べようと思って、と言うか酒を飲むつもりだ」
「だと思って、家から色々持って来たわ! 息子のルイが先に行って掃除してるから、着いたら3人で食べましょう」
「なんか至れり尽くせりだな」
「気にしないで! じゃ出発するわね。15分くらいで着く予定よ」
バス停を出発すると、すぐに砂利道に変わってガタガタ音をたて、激しく揺れながら軽トラは走りだす。窓を開けると、木々の爽やかな青い匂いのする風が入ってきて気持ちいい。
隣の運転席を見ると、春子のウェーブがかった明るい茶髪が、ふわふわと風にあおられて、爽やかな柑橘系のシャンプーの香りが漂ってくる。目がパッチリ二重で鼻も高くて、気さくで面倒見が良さそうな彼女はモテるに違いない。
「ふふふ! 本当に何にも無い所でしょ!」
「そんな事はない。今のオレには必要なものばかりだ」
都会とは違う、冷たさを含んだ風も、まだ昼過ぎだと言うのに山に囲まれているせいで、影が落ちて夕方のような雰囲気も何だか落ち着く。軽トラはガタガタと、更に深い林の中に入っていく。
「この上にある家よ! ちょっと歩くけど……」
「体力には自信があるから大丈夫」
ガガッという音を立て、軽トラは砂利道の端に止まった。春子が、ビニール袋いっぱいの野菜を抱えて降りる。オレも降りて、荷台のトランクと旅行カバンを下ろし、ゴロゴロガタガタとトランクを引き摺り、旅行カバンを背負って歩く。
石造りの少し凸凹した階段を5分ほどかけて上ると、今日から一週間お世話になる家が見えて来た。大きな胡桃の木が一本、玄関先に植えられているのが特徴的だ。
「思ったより大きな家だな」
「田舎の家は、大体こんな感じよ」
平屋の日本家屋は、途中で増築でもしたのか、昔からの黒い壁と、最近の白い壁がくっきり分かれて見える。
「やっぱり気になる?」
「大勢の家族が住んでたのか?」
「そうね。私も住んでた事もあるし、あと祖父が、憧れの二世帯住宅だって言って部屋を増やしまくったの」
「なるほど。楽しい家族だったんだ」
「仲は良かったと思うわ。だから黒木くんも気に入ってくれたら嬉しいわ」
「あの隣の小さな小屋は?」
「トイレよ。古い家だからボットン便所なの」
トイレが外にあるだけでも驚きだ。
春子が、玄関の引き戸を、ガラガラと開けて入る。そのあとを慌ててついていく。古い家独特の、何とも言えない懐かしいような匂いがする。玄関も広い。靴を50足は並べられそうだ。そして正面にある、大きなボンボン時計に目がいく。かなり古そうなのに未だに現役で、元気よく振り子が揺れている。多分、音も鳴るのだろう。
「リビングはこっちよ」
廊下は板張りで、歩くたびギシギシ軋む。玄関から、すぐ右手のドアを開けると、リビングになっていて大きな窓からは、雑木林が見え涼しげだ。もしも次に、ここを訪れる事があれば風鈴でも持って来よう。
「ルイただいま! お掃除ありがとね!」
「母さん、おかえりなさい。黒木さん、こんにちは」
「ルイくん初めまして! こんにちは」
息子のルイくんは、小学生くらいだろうか? ふわふわの茶髪が春子に似ていて可愛い。挨拶をすると、照れくさそうにしながらニコッと微笑んでくれた。
「そうめんと野菜しか無いけど、すぐ作るから待っててね。ルイ手伝って!」
「うん!」
「ありがとう」
リビングのテレビをつけて、チャンネルを回して、3つの放送局しか映らない事に驚く。いつも見てるドラマは、スマホで見れば良いかと思って、尻ポケットから出してみると、まさかの圏外の表示。こうなると本を買って持ってきたのは正解だったようだ。
暫くすると、長方形のオボンを両手で持った春子がリビングに戻って来た。テーブルの上にコトンコトンと音を立てて、新鮮な野菜サラダが大量に盛られた皿や、麦茶入りコップを置いていく。少し遅れてルイくんが、食べやすく小さな渦巻き状になった、そうめんが綺麗に並んだ大皿を、テーブルの中央に置いて準備は終わった。
「さ! 食べましょう! いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
3人でテーブルを囲んで食べ始める。ルイくんは食べ盛りのようで、次々と口に放り込んでいく。オレと春子は昔話に花を咲かせつつ、のんびり食べていく。
ボーン……ボーン……ボーン……
玄関から見たボンボン時計が、3時を知らせて鳴り響く。楽しい、ひとときはアッと言う間に過ぎてしまう。
「もうこんな時間だわ! そろそろ私たち帰るわね」
「今日はありがとう! 片付けはオレがやるよ」
「こちらこそありがとう! 久しぶりに話せて楽しかったわ。鍵は帰る時に、表玄関の左の植木鉢の下に、入れてくれれば良いからね!」
「オレも楽しかったよ! 鍵は了解!」
春子のあとを追いかけて、外に出ようとしたルイくんが立ち止まって振り返る。
「……思い出して」
表情の無い顔で、それだけ言うと玄関を閉めて出ていった。
2人がドタバタと帰っていくと、途端に静けさに包まれた。
何を思い出せと言うのだろうか?
気にはなるけど、まずは片付けだな。と春子が使っていたオボンに、食べ終わった皿を重ねて乗せて、リビングの奥の台所に運んで流し台で洗って、隅にあるテーブルにタオルを敷いて食器を乾かしておく。
「この家かなり広そうだけど、一体何部屋あるんだ?」
まずは、家の探検をしようと、台所の奥にあるドアを開ける。
「ちょっと暗いけど、なかなか良いじゃん!」
そこは、洗面所になっていて鏡も大きく見やすい。すぐ隣の磨りガラスのドアを開けると、中々の広さの風呂場で湯船は木製だ。ちゃんと自動の給湯器までついている。
「今からスイッチ入れとけば夕方には入れそうだな」
給湯器のスイッチを入れる。ゴボゴボ音を立てながら、お湯が少しずつ出てくるのを確かめて、壁に立てかけてあった、木製の板で蓋をしておく。
台所、リビングを通り越して、向かい側のドアを開ける。ここは客間だろうか? 畳敷の部屋になっていて、中央に長方形の重厚感溢れる木製のテーブルがあり、周りに座布団が並んでいる。
更に奥の部屋へ続く襖を開けてみると、またもや畳敷だ。端っこに畳まれた布団があるから寝室だと思う。
そのまた奥は板の間になっていて本棚が3つ、分厚い古書がみっちり並べられ、入りきれない本は床に積んである。かなり埃っぽい。
本棚を一つ一つ見ていくが、どれも難しそうな本ばかりだ。そしてドアから1番離れた、本棚の奥にドアを見つけた。衣装を入れたダンボールが、オレの背丈くらい高く積まれていて、かろうじてドアノブが見えているだけの状態だ。まるで、隠し扉のようになっている。
「こう言うのって、めっちゃ気になるよな! 宝でも見つかったりして!」
鼻歌を響かせながら、ダンボールを一つずつ持ち上げ、隣の本棚の前に置いていく。
「ふぅ! これで最後っと!」
隠し扉にしては、普通の木製のドアだけど、重要なのは部屋の中だ。
ギギギギギィィィ〜……
油の切れた古く錆びついた、蝶番が嫌な音を立てる。そんな事を、気にもしないでドアを開けた。
「なんじゃこりゃ?」
部屋の隅には、可愛らしい動物の描かれたタンス、その隣に勉強机、真ん中に小さな子供用ベッドがあるだけだった。
ただ妙に気になるのは、黒いシミが至る所にこびりついてカーテンまで汚れている事だろうか? 子供部屋と言う感じなので、泥遊びの成れの果てかもしれないが……。
その時、不意に背筋にゾクリと悪寒が走るのを感じ、タンスの方を見ると先程まで閉まっていた引き出しが、ゴトン! と音を立ててスルスル開いて、黒いモヤのようなものが立ち上り始めた。部屋に入った時より強い寒気を感じた、オレは逃げるようにして部屋を飛び出し、勢いよくドアを閉じ、ダンボールを元通りにドアの前に積み上げた。
「ふぅ……なんか見ちゃいけないもの見た気がする……」
こんな時は、さっさと寝てしまおう! と言う訳で、途中で見かけた布団を抱えて、リビングに戻って床に敷くと太陽の匂いがした。ルイくんが昼間に干しておいてくれたようだ。
『ピーピーピー! お風呂が沸きました!』
寝転がってテレビを見ようとしたら、大音量の給湯器に呼ばれてしまった。せっかく沸かしたし湯が勿体ないので、トランクから着替えを出して風呂にいく事にした。
「その前にビール冷やしとくか」
一旦、着替えを床に置いて、旅行カバンから、缶ビールを3本出して抱え台所に向かい冷蔵庫に入れる。春子が作り置きを置いていってくれたのか、タッパが4つ並んでいる。出して中身を確認すると、小魚の煮浸しと、きゅうりやナスの漬物などが入っている。ツマミに丁度良さそうだ。などと思いながら冷蔵庫を閉じた。
再びリビングに戻ると、目の前の雑木林が真っ黒の、まるで得体の知れない生き物のようにザワザワうねっている。しかも誰かに、見られているように感じて、ゾワゾワと体が震えてしまう。慌ててカーテンを閉めて、電気とテレビを点ける。
「オレは、そんなに怖がりじゃ無かったはずなんだけどな……」
とりあえず体を温めて、長旅の疲れと汗を流せば気分も落ち着くはずだ。と、床に置きっぱなしの着替えを持って、風呂場に向かった。
まだ5時前だ、と言うのに家の中は真っ暗だ。古い家は思ったより、かなり気味が悪い。しかも秘境に行きたい! などと言ったばかりに、周りにコンビニも無ければ民家も無い。
「明日には東京に帰るか……」
出来れば今すぐに帰りたい所だか、真っ暗な雑木林を歩いて帰る勇気は無い。
さすがに、帰りまで春子に駅まで送ってもらう訳にはいかない。なので事前にタクシーを1週間後、迎えに来てもらえるよう予約してある。その予約を明日に変更したくても、この家には電話が無いしスマホも圏外なのだ。仕方ないけど、明日の昼間に駅まで歩くのがよさそうだ。荷物は重いけど……。
溜息を吐きながら、洗面所に行く。すると鏡の中の自分と目が合った。そして、そのもう1人の自分の、口元が弧を描くように、ニタリと笑ったような気がした。
「気のせい! 気のせい!」
頭を振って素早く服を脱いで、湯船に被せた木製の蓋の隙間から、たちのぼる湯気で程よく温まった風呂場に入る。
そして、蓋を開けると……
「うわぁ〜……」
思わず蓋を放り出して、風呂場から、転がるように飛び出しリビングまで戻った。明るい部屋と、テレビの音にホッとする。風呂場に着替えを取りに戻る勇気はないから、トランクからジャージを取り出して着て、座りこんでしまう。
なんなんだアレは⁉︎
湯船の中には女性がいた! 長い黒髪は湯の中でユラユラ揺れて、皮膚はふやけて白くブヨブヨで、目は死んだ魚のように濁っていた。なのに何かを、訴えるように口がパクパク動いていた。
ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……
荒い息を落ち着かせていると、昼間よりやけに響いて聞こえる時計の音に、思わずビクッとしてしまう。
その時、玄関の引き戸がガラガラと開け閉めされる音と、ドタドタバタバタと何者かが走り回る足音が響いた。
もしかして、春子が忘れ物でもして戻って来たのだろか? 出来たら、このまま駅まで送って欲しくて、急いで玄関に向かう。
「春子! 丁度良かった! 駅まで……」
そこには誰も居なかった。
その代わり、数え切れない程の白い足跡が、ビッシリ家の奥へと向かって続いている。逃げ出したいのに、震えながらも自分の足は、何故だか白い足跡の、あとを追うようにフラフラと歩き出す。
昼間とは違い、真っ暗で冷え切った客間と畳敷きの部屋をヨロヨロ通り過ぎ、本棚のある部屋、つまり子供部屋の前に来ると、一旦どこに消えたのか分からないが、ダンボールは一つも無くなっていた。
恐る恐るドアノブに手を伸ばし開ける。
そこには……
鉄臭い匂いと、腐ったような匂いが充満して、部屋一面に、飛び散った鮮やかな赤い赤い血と、床には、胴体やら、首、腕、足がバラバラに散らばっていた。
後ずさろうとすると、転がっていた首が3つ一斉にグルンと、オレの方を向いたかと思うとニタリと笑んで、千切れた血まみれな手をズルズル嫌な音を立てて伸ばして来た。
足に冷たい氷のような手が、ヒタリと触れた瞬間。
「…………!!」
声にならない悲鳴を上げ意識を失った。
カーテンの隙間から、チラチラ差し込む光を感じて目を覚ました。起き上がって見回すとバラバラの死体は無くなって最初見た、黒いシミがあるだけの子供部屋に戻っていた。昨夜は恐怖のあまり、気絶してしまった事が分かった。しかも股間が濡れている。失禁までしてしまって居た堪れない。着替えたいし風呂にも、やっぱり入りたい。と言う事でヨロヨロ立ち上がって、暗いよりは明るい方が良いと思い、子供部屋のカーテンを開けてからリビングに戻った。
「昼間なら何も起きないだろう」
リビングのカーテンも開ける。雑木林が、朝日の中ザワザワ揺れている。そして昨日と同様に、何者かの無数の視線を感じレースのカーテンで遮る事にした。
「周辺には誰も住んで無いって聞いたけど、春子が知らないだけで誰かいるのか?」
言葉でも発していないと、不安でたまらない気持ちになる。
「まずは風呂だな」
まだ少し怖いが、汚れたまま過ごすよりは良い。トランクから部屋着とバスタオルを出して手に持ち、勇気を振り絞って風呂場に向かう。
「この家、何でこんなに暗いのかって思ったら窓が少ないんだな」
ザッと見た感じ、部屋の一つ一つが広く作られている割に、窓があるのはリビングと客間と子供部屋、あとは風呂場の小窓くらいしか無い。だから台所とか、布団の置いてあった寝室なんかは、昼間でも真っ暗に近い。ちなみに外にあるトイレの中も、昼間は足元に小窓があるが、夜は白熱灯が一つ灯るだけなので薄暗い。もっと言えば、ボットン便所だからか、かなり臭い。
台所の電気を点け、更に洗面所の電気も点ける。怖々見た、鏡の中の自分に異変は無かった。そして昨日から、保温状態で放置してある風呂場は室内も暖かい。ソッと湯船の蓋を開けて見たけど何も居なかった。
「やっぱり気のせいだよな!」
ホッと肩をなで下ろし汚れた衣服を脱いで、朝風呂を楽しむ事にした。体を念入りに洗って湯船に浸かり、小窓から入る優しい日差しに深呼吸をする。
「朝飯食べたら帰ろう」
ザバァ! と勢いよく立ち上がって、湯船の栓を抜いて出る。バスタオルで体を拭いて、部屋着に着替える。
「昨日買ったコーヒーと焼きそばパンでも食べるか」
台所へ行き、食器戸棚からマグカップを出して、冷蔵庫で冷やしておいたペットボトルのアイスコーヒーを注ぐ。パンを袋ごと口に咥え、手にマグカップを持ってリビングに戻って来た。
テレビを点けると、ニュースキャスターが元気よく食レポをしている最中だ。それを見ながら、パンを袋から取り出して齧る。
「焼きそばパンって、たまに無性に食べたくなるんだよな」
パンを食べ終え、コーヒーを飲んでいると、急に暗くなってきた。立ち上がりカーテン越しに、外を見ると雨が降り出していた。
テレビから、緊急速報の電子音が聞こえ、大雨特別警報が出た事が分かった。
「マジか……朝あんなに天気良かったのに帰れないじゃないか」
次第に雨だけでなく、風までゴウゴウ騒ぎ、雷まで鳴りだした。古い家なので、ゴドゴトガタガタと壊れてしまいそうな音までする。
その時。
バァン!
と、もの凄い音がリビングに響く。
雑木林の気が折れ、飛んできてガラスが割れたかと思って、音のした窓ガラスに近づき、レースのカーテンを開いた。
「!!!」
そこには、窓ガラスに白い大きな手を貼りつけた、短めの黒髪の男性の、落ち窪んだドロリとした目がギョロリと、オレを悲しげな表情で見つめていた。条件反射で厚手のカーテンで外を遮断して座り込んでしまった。
停電したらしく、室内は真っ暗になっていた。それでも少しでも安心したくて、テーブルの上のスマホを立ち上げる。電波は無くても明かりにはなるからだ。
いつものように、スマホ会社のハートマークが現れ、そして……
『…部……ヤ…の……カー……てん…ガ……チで…マッ……赤…にソ…マり…………ぼク……たチも……』
「ヒッ!!」
思わずスマホを放り投げ、足を抱えて顔を伏せて蹲る。
深呼吸しても、体をさすってもガタガタ震えるし奥歯までガチガチ鳴って、心臓はバクバク五月蠅い。
深呼吸を繰り返しながら目を閉じて考え思う。昨日の湯船の人物といい、今さっき外にいた人物にも、見覚えがあるような気がするのだ。恐ろしいはずなのに、懐かしいようなそんな感じ。
誰だったかな?
思い出せない。
スマホから聞こえた、あの恐ろし気な声も確かに知ってるのに……。
喉が乾いて目が覚めた。いつのまにか寝ていたようだ。辺りを見回すと、カーテンの隙間から夕日が差し込んでいた。台所へ行って、マグカップに水を注いで一気に飲み干しリビングに戻った。
「もしかして一日中、寝てたのか?」
何だか頭も重いし、溜息しか出ない。幸いな事に、今日は失禁しなかったし、もうこのまま二度寝してしまおう。敷きっぱなしになっている、布団に潜り込んで目を閉じる。
思ったより直ぐに睡魔がやってきた。
〆〆〆
高校生の時、同級生の胡桃沢一樹に恋をした。野球少年らしく短い黒髪に、少し日焼けをしている健康的な肌、キリッとした目元、185ある高身長、爽やかな雰囲気で性格も良いので男女に関わらず人気があった。目立たない生徒だったオレにも、気さくに話しかけてくれたし、一緒に遊びに行くくらいには仲が良かった。
「僕と、奏一は似てるね」
「え⁉︎」
「だって2人共、一がついてる」
「本当だな」
「一緒だね!」
たったそれだけの事も嬉しく思える程に、オレは一樹の事を好きになってしまっていた。
けどなかなか告白する勇気はでなかった。一樹はモテていたから、オレなんかを恋愛対象には見てくれないだろうから……。
〆〆〆
ゆるゆると目が覚める。温かで優しくて懐かしい夢だった。
もう一度会いたいな……。
『……僕も会いたかった』
耳元で、一樹の声が聞こえたような気がしたけど、リビングには相変わらずオレしか居ない。
カーテンの隙間からは、朝日が差し込んでいる。
♪♬♪〜♫♩〜♬〜
鳴らないと思っていた、スマホから音楽が流れ着信を伝えてきた。昨日、放り投げたから、一瞬探してしまったけど、テーブルの下に転がっていた。画面の蘇芳槐の名前を見て、安心感で泣きたくなってしまう。
「はい」
「奏一〜! 休暇はどうよ? 楽しんでるか?」
「槐……助けてくれ……」
「どうした⁉︎ 何があった!!」
「信じて貰えないかもしれないけど……」
「いいから話せ!」
この家に来てからの事を、小さな声で震えながらポツポツと話した。要領の得ない部分があるにも関わらず、槐は最後まで聞いてくれた。
「分かった。明日そっちに行く」
「え⁉︎ 仕事はいいのか?」
「気にするな。親友の一大事に仕事なんてしてられる訳ないだろ! おとなしく待ってろ!」
「ありがとう……待ってる」
ボーン……ボーン……ボーン……
最初は、このボンボン時計もレトロな感じが気に入っていたけど、今は音も聞きたくない。と言うのも夜中にも鳴るから、気になって仕方がないのだ。電池を取り出しても、動き続けるとか本当に勘弁して欲しい。
殆どの時間を、薄暗いリビングの布団に包まって過ごしているから、時間の感覚が多少おかしくなっては来てる。だから午前の3時なのか、午後の3時なのか、よく分からない。それでも明日には槐が来てくれると思うと、気分が少しだけ軽くなる。
立ち上がって台所から、ビールとミックスナッツをリビングに持って来た。テレビを見ながら飲みはじめた。普段は五月蝿く感じるバラエティー番組も、こんな時は賑やかなのも悪くないと思ってしまうから不思議だ。
5時を知らせる、ボンボン時計が鳴る頃には、再びシトシトと雨が降り出したのもあって、室内は暗闇に包まれる。
色々な事がありすぎて、腹はまったく空かないが、尿意は我慢できない。門灯を付けて、靴を履いて雨の中、隣にあるトイレ小屋まで小走りで向かう。あまり明るい光ではないけど、点けないよりは明るい白熱灯のスイッチも押す。
「どうせ誰もいない。開けたままでいいよな」
ぼんやりした灯の中、用を足そうと便器に向かった。
バタン!
今入って来たドアが、風も無いのに勢いよく閉まって白熱灯も消えた。
そして、足元のボットン便所の、昏いポッカリ開いた闇の中から、白い手が這い出して来て、オレの足首を掴むと、引き摺り込もうと、もの凄い力で引っ張りだした。引きはがそうとしたけど、あり得ないくらいの握力でビクともしない。
「うわぁ! やっ! やめ!」
『……思い……だし…て……』
耳元で声が聞こえ、同時にドアノブを掴んだ瞬間、白い手は消えてくれた。
這いずるようにして、トイレから抜け出し、玄関を入って、ズルズル崩れ落ちるように座り込む。ゼイゼイと荒い息は、なかなか治まってくれないし、衣服は雨水と汚物でドロドロだ。
足首には、白い手形がくっきりと残っていた……
暫く呆然と、座り込んでいたがフラフラ立ち上がって、リビングへ行きトランクから着替えを出して、風呂場に行く。湯をためるのも億劫で、蛇口からお湯を洗面器にジャバジャバ入れて、タオルで体を洗って、直ぐに浴室を出て足速にリビングに戻って布団に包まった。もちろん、電気は点けたまま眠るつもりだ。
〆〆〆
高校を、卒業して2年がたった頃、ハガキが届いた。
差し出し人は、胡桃沢一樹。
結局、告白も出来ないまま卒業してしまった。
今ではお互い違う道を進んでいる。それぞれの違う生活、人間関係が始まって、いつしか連絡すらしなくなっていた。
だからこそ、覚えていてくれた喜びに、顔はニコニコしてしまうし、興奮に体も熱くなってしまう。
宛名を、ひっくり返し裏面を見て固まる。
【奏一、久しぶりだね。元気にしているか?僕は相変わらずだよ。今日、手紙を出したのは結婚が決まった報告なんだ。結婚式に来てくれたら嬉しい。また詳細が決まったら知らせるよ。】
先ほどまでの興奮は一瞬で冷め、心の中を身体全部を、制御出来ない何かよく分からないドロリとしたモノが荒れ狂うのを感じた。ハガキは、返事を書く事もなくビリビリに破り捨てた。
〆〆〆
目が覚めると、嫌な汗が全身を伝う。思い出したくない夢を見た。
そう言えば、あの数ヶ月後、結婚式の招待状が届いた。それを読むこともなく、近所の公園の枯れ木と共に燃やしたんだった。
ドンドンドン!
玄関を叩く音がして、ビクリ! と体が震える。カーテンの隙間からは、明るい日差しが細くオレの足元にまで伸びている。かなりの時間、呆然と布団の中に座っていたようだ。
また何かが、家に入って来るのだろうか? 緊張が走る。
ドンドンドンドンドン!!
「奏一! 居ないのか?」
「黒木くん!」
槐と、浅木の声だ。慌てて立ち上がり、玄関の引き戸を開けて、思わず槐に飛びついてしまった。
「無事で良かった」
「昨日、いきなり蘇芳くんが休み取るって言うから、何事? ってなるじゃない! そしたら黒木くんが危ないなんて言うから、心配で私もついて来ちゃった!」
槐は、まるで子供を慰めるかのように、オレの体を抱きしめ背中を撫でてくれる。浅木も、ポフポフと肩口を優しい叩く。2人の体温が、冷え切った体と心に伝わりじんわりと温かくなる。
「来てくれてありがとう」
いつまでも玄関で、抱き合ってる訳にはいかないので2人をリビングに通し、台所からお茶のペットボトルを持って来て渡す。沢山の飲料と食べ物を買って置いて良かった。
「サンキュー! しかし凄い秘境でビックリしたぞ!」
「ありがと! 本当よね! まさか駅から山登りするなんて思わなかったわ!」
槐も浅木も、山歩きで喉が乾いてたみたいで、受け取ったお茶を一気に飲み干した。
「え⁉︎ オレここまで春子の軽トラで来たんだけど……」
「道って言う道は無かったよ」
「そう! そう! 車なんて通れないと思うぞ?」
「そんなはずは無い……」
「じゃ! 3人で確かめるか!」
「そうね! 不安要素は少ない方が良いでしょ!」
そんな訳で一旦家から出て、春子が軽トラを停めた場所まで歩いて行くと、2人の言うように車が通れそうな道などは無かった。
「どう言う事なんだ?」
考え込み始めたオレの肩を、槐がポンと叩き再び家に向かって歩きだした。
家に戻ると槐が、リビングでオレを真剣な目で見る。
「一つ質問いいか?」
「あぁ」
「春子さんと、ルイくんには、あのあと会ったか?」
「いや。会ってないし、よく考えたら携帯番号しか知らない」
槐は姿勢を正し真剣な顔で、オレの両手を包み込み握る。
「あのな。よく聞いてくれ」
「あぁ」
緊張で、ゴクリと喉が鳴る。
「この家の住人は全員亡くなっているんだ」
「亡くなった?」
「終点のバス停あっただろ?」
「あぁ」
「そのバス停で降りた時に、この家の場所が分からなくて、バスの運転手に聞いたんだ。そうしたら何年か前に殺人事件があって、今はこのバス停から先の道、つまり俺たちが通った道を行く人は居ないって言ってた」
槐と、浅木が顔を見合わせてから、困ったような表情でオレを見る。
「でね。気になって警察に電話して聞いてみたら、まだ遺体の一部が見つかって無いんだって言ってたの」
「……どこの?」
「左手の薬指よ」
その言葉を聞いた瞬間、胸元のペンダントを無意識に握りしめる。喉が無性に乾いて、息が出来ない。
その時……
ドタドタドタ!
ギャァーーー……
何者かが走り回り、空間を切り裂く程の叫び声が響いた。
真っ昼間の怪奇現象に、槐も浅木も思わずオレに抱きつく。
「早くこの家から出た方が良さそうだな」
「そ! そうね! ほら黒木くん、立ちなさい!」
「荷物は持ってやる。行くぞ!」
リビングを出て、玄関へ向かおうと動いた瞬間。
『みつ……け……』
背後から、掠れた聞き取りにくい声と、オレを見つめる視線を感じて振り返ると、血に濡れ、腐りかけた頬は骨が見え、ボサボサの髪の毛の痛々しい姿の女性が立っていた。
その女性は、オレの胸元を指さして『カエシテ……』と呟くと、サラサラ砂が崩れるようにして消えて行った。
槐と、浅木の悲鳴を、聞きながらオレの意識は途切れた。
〆〆〆
会社から帰ると、ハガキが届いていた。高校の同窓会の案内状だ。
【私たちが卒業して15年、と言う節目の年に同窓会を開きたいと思います。出席、出来る人は、是非参加してください。】
参加受付の締切ギリギリまで、悩んだが(参加)に○を付けて出した。
そして同窓会当日、胡桃沢一樹に再会した。相変わらず人当たりが良く、15年ぶりの同級生たちと、ビール片手に楽しげに笑っている。
一樹の笑顔が好きだ。ニカッと白い歯を見せて笑うとまるで太陽みたいだ。やっぱり好きだなぁ。元気そうで良かった。一樹の顔が見れただけで充分だ。と、こっそりと会場を後にしようとした時、肩をポンッと軽く叩かれて振り返る。
「奏一久しぶりだな! 元気そうで良かった」
「久しぶり一樹。お前も元気そうだな」
「最近はどうしてたんだ? 結婚式にも来てくれなかったから心配してたんだ。忙しいのか?」
「結婚式に行けなくて悪かった。毎日、残業続きで休みもなかったんだ」
「そっか。でも無理するなよ」
「一樹もな」
「そうだ。僕の嫁さん見てくれよ!」
オレの肩に腕を回し、スマホ画面を見せてくれた。見たくない気持ちと、一樹の選んだ女性が、どんな人か気になる気持ち、両方が渦巻き複雑な気分で見た。ウェーブがかった明るい茶髪に、目がパッチリ二重で鼻も高い、かなりの美人が微笑んでいる。
「めちゃくちゃ綺麗な人だな」
「だろ! 春子さんって言うんだけどさ! なんと奏一の従兄妹なんだそうだ。僕たち親戚になったんだよ!」
よりによって一樹と、春子が結婚? で、オレと親戚?
なんだソレ?
オレはそんな事は望んでない!
全く知らない人と結婚だったなら、今まで通り見ないふりで耳を塞いでいられた。
姿形のよく似た従兄妹の、春子を選ぶんなら、オレでも良かった筈だ。何で春子なんだ!
おかしいだろ!
〆〆〆
あの後、オレはどうしたんだっけ? ぐるぐるとドス黒い何かが、心だけじゃなく体も侵食する感覚だけは覚えている。
頭が霞みがかったように、ぼんやりとしてクラクラする。
「一樹! 大丈夫か⁉︎」
「黒木くん! しっかりして!」
槐と、浅木の必死な呼び声に、はっきりと意識が戻った。
「気持ち悪い……」
口元を押さえて蹲ると、槐が背中をさすってくれる。浅木は台所から、水をマグカップに注いで飲ませてくれた。
「落ち着いたか?」
「あぁ。ごめん。ありがとう。槐と浅木も大丈夫だったか?」
「大丈夫だ!」
「平気よ!」
「じゃ。行こう」
「暗くなる前に東京に帰るよ」
2人に急かされながら、今度こそ家を出た。
怖かったはずなのに、何故だか離れがたくて、立ち止まって振り返った。
「どうした? まだ調子が悪いのか?」
「大丈夫、行こう」
「無理しちゃダメだよ」
今度こそ歩き始めた。1時間ほどかかってバス停に着く。槐と浅木に荷物を少し持って貰ったとはいえ、かなりの重労働だった。バス停の時刻表を見ると、1日に2本だけで朝のバスは行ってしまった後で、次は夕方までバスは来ない。
「ここまでこれば大丈夫ね! でもバスが一日2本とかあり得ないわ!」
「仕方ない! タクシー呼ぶぞ!」
槐がスマホを取り出し、タクシー会社に電話をかけ始めた。
「タクシー来るまで1時間とかあり得ないだろ!」
「あっ! お菓子とお茶くらいしか無いけど、旅行カバンに入ってるから適当に食べてくれ」
「サンキュ!」
「ありがたくいただくわ!」
槐はお茶を取り出し飲み始め、浅木はサキイカを美味そうに食べはじめた。
「オレは、もう一度春子に電話してみる」
「その方が良いだろうな」
RRR……RRR……
「おかけになった電話は、現在使われておりません。もう一度番号を、ご確認の上おかけください……」
「ダメだ。繋がらない」
「もう一度かけてみろよ」
「あぁ」
3回番号を確認しながら、電話をかけたが、結局のところ繋がる事は無かった。
「一応、警察に行ってみようと思うんだけど良いか?」
「春子さんか?」
「あぁ。鍵は玄関先の植木鉢にって言われたけど、持って来てしまったんだ。あと電話が繋がらないのは心配だからな」
「そうだな」
「そうね」
やる事もなくなったので、まるでピクニックのように、バス停のベンチに座って、ポテチやチョコレートを食べたり、しゃべっている内に、1時間は瞬く間に過ぎた。2人がいて本当に良かった。
パッパァ〜ン!
「お待たせしてしまって悪かったね」
タクシーのクラクションと、運転手の元気な声が聞こえて立ち上げる。
「こないな場所から乗る、お客さんも居ないから遅くなってしもうたわ。どこに行きなさるね?」
「警察署まで」
「はいよ。あと荷物は後ろでええか?」
けっこう重さがあるので、荷物をトランクに乗せて、オレが助手席に座り、槐と浅木が後部座席に乗り込むと、タクシーは走り出した。
「こないな所まで来るんは何十年かぶりだ!」
「え? でもバス停もあるから誰か住んでる人がいるんですよね?」
「誰も住んどらん。バスに乗って来るのは山菜取りしたりする人らばっかやな」
「そうなんですか」
「あぁ。でも昔は一軒だけあったかな? 今は誰も住んどらんで朽ち果てそうだがね」
「そうなんですか」
「あっ! もう警察署に着くでな」
「ありがとうございます」
15分で目的地に着いた。代金を払いタクシーを降りて、荷物を引きずるようにして警察署に入る。槐と浅木には、受付で待ってもらう事にした。
目の前を通り過ぎようとした、制服姿の白髪混じりの初老の男性を呼び止めた。訝しむ男性に、今日までの経緯を話して鍵を差し出すと、男性は掲示板をチラ見してから頷いて鍵を受け取った。
「しかし妙ですな。それは間違いなく胡桃沢家だ。親類もなく今は誰も住んどらん筈だが……」
「でも春子にもルイくんにも会って話までしたんですよ」
「その春子さんとルイくんも、亡くなっておるんだわ。15年前に放火殺人事件があってな。アレは酷い事件でしたよ。しかも犯人が見つかって無いんだわな」
「……じゃ一体、オレが会ったのは誰なんだ?」
「ところで、あなた黒木さんでしたよね?」
「はい」
「あの似顔絵に、とても良く似てると思うんだがね?」
しわくちゃな指が、掲示板を指差す。”この顔を見たら通報”と書かれたポスターに描かれた、似顔絵はオレと瓜二つだったのだ。
「え? どう……言う事……なんだ⁉︎」
「ちょっと奥で話を聞きましょうかね」
腕を掴まれ、事情聴取の為に鉄格子のはまった机と椅子だけの、薄暗い部屋に押しこまれた瞬間、激しい頭痛に襲われ、意識がプツンと途切れた。
〆〆〆
ルイくんは『思い出して』と言っていた。
あの場所は、胡桃沢一樹と春子とルイくんの家族が”住んでいた場所”だ。
春子は『みつけた』と言っていた。
いつも肌身離さず持っている。胸元で揺れるペンダントの中に、一樹と春子の”永遠の証”が入っている。
そして、深い悲しみの表情で、オレを見つめる一樹の顔。
なんで忘れていたんだろう。
同窓会で胡桃沢一樹と再会した。彼は相変わらずかっこよくて、明るく笑い皆んなを和ませていた。
三次会の後、結婚しているのを承知の上で、一樹を呼び止めオレと月に一度だけでも良いから付き合って欲しいと告白をした。が、今は春子と結婚して息子がいるから、ごめんと断られた。悲しくて腹が立って心がぐちゃぐちゃになった。
「似てるって! 一緒だって言ったじゃないか!」
四次会が終わり、早朝の新幹線で帰る一樹の後を追って、彼の家の前まで行って、リビングで家族と幸せそうに楽しそうにするのを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。勢いのままリビングの窓ガラスを、その辺にあった大きな石で割って入り、追いまわし子供部屋に逃げ込んだ3人を、カバンに忍ばせておいた鋭い鎌で次々と襲った。
我に返った時には、赤々と燃える日本家屋を泣きながら見てた。
〆〆〆
目が覚めると、白い天井が目に映る。
「起きたか?」
「はい。ここは?」
「警察署の仮眠室だ」
そっか。オレは倒れたんだった。
「すみません」
「いいんですよ。それよりも聞かせてくれませんかね?」
「はい」
思い出した全ての事を話して、首に下げていたペンダントを渡す。
「初恋だったんだ……」
運命の悪戯とはよく言ったもので、幼い頃に一度だけ遊んだ事のある男勝りの春子と、高校の時に初めて恋をした一樹が、オレの知らない間に出会い結婚して更に子供までいた。一樹の事が好きだったからこそ悲しくて許せなかった。
「うぅ……あぁぁ〜〜〜!!」
それからのオレは、警察からの取り調べの最中も、刑務所に入ってからも、誰からの面会にも応じる事なく過ごした。
5年後、刑務所から出ると、面会を断り続けていたにも関わらず、犬榧と槐と浅木が迎えに来てくれていた。
「待ってたよ」
犬榧は微笑みながらオレの肩をポンッと叩く。彼は何となく、一樹に似た優しげな雰囲気がある。
「出所おめでとさん!」
槐は、オレの肩に腕を回し頭まで撫でて来る。いつもオレの事を気にかけてくれる、一生物の親友だと思っている。
「今から飲みに行くわよ!」
浅木は、相変わらず明るい。彼女の元気さと優しさに、いつも救われている。
「その前にに墓参りだろ!」
「だな!」
「ほら! 行くわよ!」
「みんな……ありがとう……」
涙が溢れ出し、地面に吸い込まれていく。
「これも一樹と春子に返さないとな……」
ペンダントを、握り締め歩き出す。
その時、オレの肩を、温かい誰かの手が優しく撫でて、そして無言のまま消えていった……