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100万ドルの笑顔が売りの美少女を、缶コーヒー1本で買った

作者: 墨江夢

 自分の価値なんて、たかが知れている。

 それが俺・一条光樹(いちじょうこうき)の口癖だった。


 中学や高校の頃はそれなりに勉強が出来て、クラスメイトや教師からも頼りにされていた。

 部活動も弱小校とはいえ一応野球部のレギュラーだったし、彼女だっていた。

 

 今振り返ってみると、俺の青春時代は控えめに言っても充実していたんだろうな。

 未来は明るいものだと思っていたし、俺はこの先何にでもなれるんだとも思っていた。でも……


 19歳になった現在、俺は居酒屋でアルバイトをしている。

 高校を卒業してからの俺の肩書きは、「フリーター」だ。


 大学受験に失敗し、付き合っていた彼女とは自然消滅。レギュラーとして活躍していた野球だって、食べていけるレベルじゃない。


 高校を卒業し、唯一の肩書きを失った当初は喪失感に打ちひしがれ、「どうしてこうなったんだ?」と塞ぎ込んでいたが、流石にこのままではいけないと今はバイトで稼ぎながら勉強に励んでいる。


 初めて人生の壁にぶち当たって、そうして俺は自覚したのさ。自分なんて大して価値のない人間なんだ、と。


 計算は早いけど、それが仕事で何の役に立つ? 英語が話せるけど、それが仕事で何の役に立つ?

 全く役立たないわけじゃないが、活用出来る機会なんて限られている。


 対して割った皿は数知れず。注文を聞き間違えたり、酒や料理を別のテーブルに運んでしまうことだって多々ある。


 俺は何でも出来るヒーローじゃない。寧ろ足手まといだ。

 これだったら、100円ショップで売っている便利グッズの方が価値あるんじゃないか? つまり俺という人間の価値は、100円以下ということだ。


 皿洗いをしながら、ふと店内で流れているテレビに目を向ける。

 最近流行りのドラマが放送されており、画面には大人気の女優が映し出されていた。

 

 神宮寺翡翠(じんぐうじひすい)

 ドラマだけでなくCMやバラエティー番組でも引っ張りだこで、間違いなく今一番人気の女優だ。


 彼女が出演したドラマの視聴率は、最低でも10パーセント。彼女のインタビューを載せた週刊誌は、即刻重版になった。まさかの週が変わった後も。


 SNSで彼女が「美味しい」と呟いたレストランでは、翌週から売上が倍増したらしい。現在混雑しすぎていて、予約必須だとか。


 神宮寺翡翠は、想像を絶する程の経済波及効果を生む。神宮寺翡翠が笑えば、莫大な金が動く。

 その為彼女の笑顔には、100万ドルの価値があるとまで言われていた。


 神宮寺翡翠って、確か19歳だったよな? 俺と同い年なのにこんなに活躍して、本当に凄いと思う。

 俺みたいな無価値な人間と比べたら、雲泥の差だ。


 ……って、そもそも俺なんかと比べるのも失礼か。

 彼女は人生の勝者。俺は人生の敗者。大前提が異なっている。


「すみませーん。注文良いですかー」

「はーい! ただいま伺います!」


 お客に呼ばれたので、俺は皿洗いする手を止める。

 100万ドルは無理だけど、おつまみ一品くらいは追加で注文とってくるとしようかな。





 夜11時。

 バイトも終わり、俺は一人帰路に立っていた。


 深夜かつ雨ということもあり、人通りは少ない。

 こうしてだだっ広い場所に一人だけという状況は、案外好ましかったりする。


 自宅近所の公園を通りかかった時、ふとブランコに誰か座っているのが見えた。

 

 こんな遅い時間に、それも雨の日に子供が遊んでいるとは到底思えない。

 それにブランコに座る人物は、傘を差していないし。一体何をしているのだろうか……?


 一度は公園を通り過ぎたものの、どうしても気になってしまい、俺は引き返す。

 ブランコに近づくと、これ以上濡れないようその人物に傘を差し出した。


「あのー、濡れちゃってますよ?」


 その人物はフードを深く被っており、顔が全く見えない。

 しかしパーカー越しからもわかる胸部の膨らみから、女性であることは確かだった。


 俺が話しかけると、彼女はゆっくり顔を上げる。

 ようやく露わになったその素顔は……


「……えっ? 神宮寺翡翠?」


 100万ドルの笑顔を持つ女優・神宮寺翡翠だった。


「私のこと、知ってるんですか?」

「寧ろあなたのことを知らない人間が、日本に何人いると思っているんですか?」

「それは何というか……恐縮です」


 いや、恐縮されても困るんだが。


 生で見る神宮寺は、テレビに映っている時と同じくらい可愛かった。

「テレビの映像や雑誌の写真なんて補正かけまくりなんだろ?」と偏見抱いていたが、そんなことはない。肌は綺麗だし、毛穴なんて見えないし。


 だけど気のせいだろうか?

 テレビに映っている時とは違って、なんだか今の神宮寺は悲しそうに見えた。


 神宮寺翡翠は人生の成功者だ。皆が彼女の日常を羨んでいる。

 だというのに、何を悲しむ必要があるのだろうか? 俺には皆目検討も付かない。


 神宮寺の顔を見たまま考えていると、


「へくちっ!」


 雨に打たれていたせいか、彼女はくしゃみをした。……くしゃみも可愛いな。


 ……って、いやいや。そうじゃないだろ。


「ちょっと待っていてください」


 俺は神宮寺に傘を押し付けると、自動販売機へ向かう。


 冷え切った炭酸……は、くしゃみをしていた相手に渡すものとして相応しくないだろう。

 俺は温かい缶コーヒーを買ってから駆け足でブランコまで戻り、そして缶コーヒーを彼女に差し出した。


「コーヒーで良かったですか?」

「あっ、はい。……ありがとうございます」


 神宮寺は俺から缶コーヒーを受け取ると、早速一口啜る。

 飲み口から唇を離した彼女は、「フゥ」と軽く息を吐いた。


「……温かいです」

「それは良かった。……ところで、神宮寺さん。こんなところで、何をしているんです?」


 俺の問いかけに、神宮寺は一瞬ビクッとなる。

 しかし彼女は女優だ。動揺なんて、これっぽっちも表に出さない。


「疲れたんで休んでいただけです。そう答えたら、信じてくれますか?」

「晴れた昼下がりでしたら、ね」


 だけど今は、雨の降る深夜だ。

 傘も差さずに休んでいるなんて、苦しい言い訳にも程がある。


「ですよね。……本当のところ、少し考え事をしていたんです」

「雨が降っているのに?」

「雨に打たれたい気分の日って、ありませんか?」


 ある。

 大学受験に失敗した日が、まさにそうだった。

 

 つまり神宮寺の考え事とは、俗に言う「悩み」に部類されるものであって。

 ……こちらから質問してしまった以上、最後まで聞く必要があるよな。


 俺は頬を軽くかきながら、


「……俺で良かったら、話を聞きますよ?」


 いきなりの申し出に、神宮寺は目を見開く。


「いや、別に他意はありませんし、赤の他人だからこそ話せることもあるんじゃないかと思いまして」


 言い訳のように取り繕うが、これだと寧ろ下心がある感じになってしまった。


「相談に乗ってくれるのはありがたいですけど……雨も降ってますし、悪いですよ」

「誰かの相談に乗りたいんですよ。そういう日って、ありませんか?」


 取ってつけたような口実に、神宮寺はクスッと笑みをこぼす。


「それじゃあ、お言葉に甘えて。……あなたは神宮寺翡翠について、どれだけ知っていますか?」

「そうですねぇ……。名前と年齢と職業と、あとは出演したドラマや映画とかですかね?」


 俺は神宮寺翡翠の熱烈なファンというわけじゃないし、過去の出演作全てを把握しているわけじゃないが。


「あっ、そういえばこの前バラエティー番組で「猫が好きだ」って言ってましたよね? 休日に猫カフェに行った写真を、SNSに載せていましたし」

「ありがとうございます。そこまで答えてくれれば、十分です。……一つ、間違いを正しておきますね。本当は私、猫が苦手なんです」

「えっ!? そうなんですか!?」

「小さい頃に、猫に引っかかれたことがありまして。以来猫に触るのが怖いんです」


 それじゃあ「猫が好きだ」と聞いたのは、俺の勘違い? 或いは別の女優の発言と混同しているのか?


 しかしどうやら、勘違いでも混同しているわけでもなかったようで。


「「猫好き」と言ったのは、事務所の方針です。動物好きって、結構好感度高いんですよ? 猫カフェだって、マネージャーに言われて行っただけですし」

「そうだったんですか。……でも、実は猫が苦手だったという事実が、悩み事と関係あるんですか?」

「ある意味では、悩みの一つだと言えなくもありません。……ありがたいことに、沢山の人たちが神宮寺翡翠のことを知ってくれています。だけどファンの皆さんが知っているのは、女優としての神宮寺翡翠なのであって。本当の私を知ってくれている人間は、どこにもいないんです」


 確かに、俺は今本人に聞かされるまで、神宮寺は猫好きなのだと思い込んでいた。

 俺以外の人々も、間違いなく勘違いしているだろう。


「女優として沢山のドラマに出演させて貰って、数え切れないくらいの役を演じてきて。ある時ふと思ったんです。「本当の神宮寺翡翠って、どんな人間なんだろう?」って」


「何にでもなれるからこそ、何者でもなくなってしまった」。神宮寺は、最後にそう呟く。


 そんな彼女に、俺はどこか共感していた。


 俺の場合、何になることも出来ていないからこそ、何者でもなくなっている。

 一見対極にいるように思えて、実は俺たちは似たもの同士なのかもしれない。


「どうしたら、本当の自分ってものが見えてきますかね?」


 尋ねられて、俺は考える。

 ここまで本心を語って貰って、何の解決策も示さないのは流石に無責任すぎる。

 たとえ愚策であっても、何らかの提案をしなければ。


「……例えばですけど、一度女優業から離れてみるのも良いんじゃないですか? 今演じている役とか、カメラの前での神宮寺翡翠とか、そういったものから距離を置いて、その結果最後まで残ったものが本当の神宮寺さんなんじゃないですかね?」

「仕事から離れる、ですか。成る程……」


 とはいえ人気絶頂の彼女が、そう簡単に女優業から離れられるわけがない。

 俺の案は、あくまで参考程度に聞いておいて貰えれば十分だ。


 神宮寺は立ち上がる。


「コーヒー、ごちそうさまでした。相談にも乗って貰って、ありがとうございます」

「気にしないで下さい。……あっ、ちゃんと傘を差して帰って下さいね。風邪にひいちゃいますから」

「でも、そこまで甘えるわけには……」


 傘を返そうとする神宮寺に、俺はキッパリ「NO」と答える。


「傘を借りるのが嫌だって言うなら、家までついて行きますよ?」


 無論、神宮寺をストーキングするつもりなど毛頭ない。

 こう言えば、彼女も折れると考えたのだ。


「それじゃあ、神宮寺さん。機会があったら、またどこかで」


 彼女に別れを告げてから、俺はその場を立ち去る。


「神宮寺翡翠、無期限休養」という驚きのニュースが舞い込んできたのは、それから数日後のことだった。





 翌週。

 この日は早朝までバイトだったので、朝6時くらいに帰路を歩いていた。


 公園のそばを通る時、俺は何気なくブランコの方を見る。

 もしかしたら神宮寺翡翠がいるんじゃないかと、ありもしない期待を抱くのが、あの夜からの恒例になっていた。


 今朝も当然、神宮寺の姿はない。

 

 ……それもそうか。

 国民的美少女と会えるなんて、そんな奇跡何度も起こるわけがないのだ。


 無意識のうちに溜息を吐いた、その時だった。


「だーれだ?」


 突然両目の視界が奪われる。

 見えなくとも、声の主はすぐにわかった。


「……神宮寺さん?」

「ピンポーン! 正解でーす!」

 

 帽子を深く被り、マスクを着けて顔を隠しているが、そこにいたのは紛れもなく神宮寺だった。


「どうしてここに?」

「散歩してたんですよ。ここら辺を歩いていれば、あなたに会えるんじゃないかと思って」

「それって、どういう……」

「あの時のお礼を、改めてしようと思いまして」


 ……あぁ、お礼ね。びっくりした。

 

 驚くと同時に、何とも言えない羞恥心に襲われた。

 ほんの少しでも、「神宮寺翡翠は俺に気があるんじゃないか」と考えてしまうなんて……。


「……そういえば、女優業をお休みするんですってね」

「はい。あなたのアドバイスに従ってみることにしました。……今更ですけど、敬語やめません? もっとフランクにいきましょうよ。あと、「神宮寺さん」じゃなくて「翡翠」で良いです」

「わかった。俺のことも、「光樹」って呼んでくれ」


 まさかあの神宮寺翡翠と名前で呼び合う日が来るなんて。人生何が起こるかわかったもんじゃないな。


「それで、仕事から距離を置いてみた感想は?」

「そうだねぇ……何もやることがないっていうのが、率直な感想かな。取り敢えず、自分が休みの日にしていたことを思い出すことから始めてみたよ」

「え? そこから?」


 例えば俺で言うと、映画を観に行ったり、高校時代の友人と会ったり。休みの日にすることは、いくらでもある。

 

 しかしそれらは全て、休みの日があるからこそ出来るわけであって。

 多忙極まりない神宮寺翡翠は、まとまった休みを取ることすらままならなかったらしい。

 これまで休日は大抵身体を休める為、寝て過ごしていたとか。


「気分転換にこうして散歩に出掛けてみたわけだけど、運が良ければ光樹さんに会えるかなーって思って」

「で、運良く会えたと?」

「そう。私って、ラッキーガールだね」


 お礼を言う為とはいえ、神宮寺翡翠に「会いたい」と思われるなんて、幸運なのは俺の方なのではないだろうか?


「それで本題なんだけど、これから時間ってある? お礼にご飯をご馳走させて貰えないかな?」

「凄くありがたいお誘いなんだけど、今はちょっと……」


 ズボンに溢した酒の臭いが残っているし、あと夜通し仕事していたからめちゃくちゃ眠いし。


「そう……だよね。いきなりだもんね」


 断られて、シュンとなる翡翠。そんな彼女の表情も唆られる。


「今は無理だけど……ランチってことなら、是非ともご相伴に預ろうかな」

「! 本当に!?」

「あぁ。もし翡翠に時間があればの話だけど」

「ある! なくても、作る!」


 お礼なんてしてくれるだけでありがたいし、予定があるならそっちを優先してくれて一向に構わないのだが。


 11時に、公園(この場所)に集合で。

 約束をして、俺と翡翠は一旦別れる。


 余談だが、帰宅した俺は翡翠とのランチが楽しみすぎて、一睡も出来なかった。





 10時50分。

 俺は約束の時間の10分前に、公園に着いた。


 女の子を待たせるわけにはいかないと思い早めに家を出たわけだけど、驚くことに翡翠は既に公園に到着していた。


 初めて会った時と同じように、ブランコに座って。


「あっ、光樹さん!」


 俺の姿を見つけるなり、翡翠は笑顔になる。

 

「悪い、待たせたか?」

「ううん。今来たとこ」


 そんなやり取りをしながら、「あれ? これってなんかデートっぽくね」などとおこがましいことを考えていると、翡翠が自身のスマホの画面を俺に見せてきた。


「パスタ嫌いじゃない? オオスメのお店があるんだよね」

「パスタは好きな方だ。因みに、何ていうお店?」

「えーとね……良かったら、URL送ろうか?」

「えっ!?」


 話の流れでそうなった感じは否めないが……それって、俺と連絡先を交換してくれるってことだよな?

 

「友達」欄に表示された、「神宮寺翡翠」という名前。これからアプリを開いてその名前を見る度に、俺は決まってニヤニヤすることだろう。


 翡翠オススメのパスタ屋でランチを済ませ、俺たちはお店を出る。

 今回はお礼ということで、素直に翡翠のご馳走になった。


 ランチが終われば、この前のお礼も終わりだ。これ以上一緒にいる理由もない。


 少し寂しいと思いながらも、俺から「もうちょっと一緒に過ごさない?」と言い出すことも出来ず。

 どうしたものかと考えていると、


「あのさ……折角再会したんだし、もう少し遊ばない?」


 まさか翡翠の方から誘ってくれるなんて。答えは勿論「OK」だ。


 それから俺たちは、近くの映画館に足を運んだ。


「映画って、懐かしいな。昔はよく、お母さんと観に来たっけ」

「そうなのか?」

「うん。その思い出が、女優を目指すきっかけになったんだよね」


 懐かしそうに、それでいてどこか恥ずかしそうに、翡翠は自分の過去を語る。

 また一つ、彼女について知ることが出来た。


「男女で観に行くとしたら、ラブストーリーが定番だよね。今やってるラブストーリーといえば……あっ」


 翡翠はそこでセリフを止める。


 ラブストーリーが上映されていないわけじゃない。昨日公開したての話題作が、この映画館でも上映されている。

 ただ……その作品の主演が、他ならぬ神宮寺翡翠だったのだ。


 仕事を忘れる為にお出かけしているのに、自分の出演している映画なんて観たくないと思う。

 俺は翡翠に助け舟を出した。


「翡翠は、アクションって嫌いか?」

「えっ? そんなことはないけど……」

「だったら、アクション映画を観ようぜ。この作品、結構気になってたんだ」


 二人で観る映画なのに、有無を言わさず選ぶ俺は、周りからどのように見えているのだろうか?

 横暴な男? それとも自分勝手な彼氏? 


 まぁ、どんな風に思われたって構わないけどな。なぜなら――


「ありがとう、光樹くん」


 少なくとも翡翠は、俺の言動の意図を理解してくれているのだから。



 


 翡翠との関係は、それからも続いていた。


 一緒に映画を観に行ったり、ランチを食べたりするだけでなく、ショッピングや水族館に行ったりもした。


 この前なんか、翡翠の家で一緒にゲームをしたし。

 自宅にお呼ばれするくらいだ。友人と呼ばれるくらいには、好かれているのだと自負している。


 翡翠と過ごす日常は、とても充実していた。

 高校を卒業し、何者でもなくなった俺の日常に、彼女は意味を与えてくれる。

 人生とは日々を浪費する為のものではないと、彼女は教えてくれている。


 女優だからではない。100万ドルの笑顔を持っているからでもない。

 いつの間にか俺は、神宮寺翡翠という一人の女の子に恋をしていた。


 この日常が、ずっと続けば良いのに。しかしその願いが叶うことはなく、俺たちの関係変化をもたらす出来事が訪れた。


 ピーンポーン。

 インターホンが鳴り、俺は玄関に向かう。

 来訪者は翡翠と……スーツを着た女性だった。


「はじめまして」と挨拶した女性は、翡翠のマネージャーだった。


 込み入った話のようなので、俺は翡翠とマネージャーを部屋の中は通す。

 マネージャーは、いきなり本題を切り込んできた。


「単刀直入に言います。金輪際、翡翠と会うのはやめていただきたい」

「……はい?」


 翡翠と会うのをやめる? それはどういうことだろうか?


「知っての通り、翡翠は売れっ子の女優です。彼女が出演したり宣伝するというだけで、ドラマの視聴率も映画の興行収入も商品の売上も大きく変わってきます」

「でしょうね。だから「100万ドルの笑顔」って言われているとか」

「その通りです。そんな翡翠が「休みたい」と言い出した時は、正直悩みました。だけど一番大切なのは翡翠の体調。なので事務所は、翡翠の休業を認めました」


 そこまで言うと、マネージャーはキッと俺を睨む。


「間違っても、恋愛させる為ではありません」

 

 恋愛と、マネージャーはそう言った。

 それは俺の翡翠への恋心を見抜いた上で言っているのか? それとも――


 俺は翡翠を見る。

 彼女は悲しそうな顔をする一方で、微かに頬を紅潮させていた。


 もしかして、翡翠も俺と同じでいてくれているのか……?


 俺の視線を戻すように、「コホン」とマネージャーは咳払いをする。


「今人気絶頂の翡翠に恋人がいるなんて知られれば、一体どうなることか。彼女の人気に大きく影響するのは、間違いありません。ですので、どうかお願いします。翡翠とは、もう会わないで下さい」


 マネージャーの言うことは、恐らく正しい。

 翡翠の今後のキャリアを考えるなら、俺という存在はマイナスにしかならないだろう。


 ……本当にそうなのか?

 彼女にとってマイナスにしかならないと、俺やマネージャーが決め付けて良いのか?

 

「俺は誰よりも、翡翠……さんを応援しています。だから彼女が芸能界に戻ると言うなら応援するし、俺が足枷になると言うなら喜んで身を引きます。もう二度会いません」

「でしたら――」


「でも」と、俺はマネージャーの発言を遮る。


「それを決めるのはあなたじゃない。俺でもない。翡翠さんだ。「もう私とは会わないで欲しい」と、翡翠さんの口から聞きたい」


 俺とマネージャーは、翡翠に視線を向ける。


「わかっているよな?」と、マネージャーは目で訴えかけていた。


「私は……私は……」


 迷っているのだろう。

 翡翠は何度もそこで止まる。


 俺はそんな翡翠に……「好きに答えろ。どんな答えでも受け入れる」と視線で語りかけた。


 コクンと、翡翠は一つ頷く。それから彼女の答えを口にした。


「お仕事から離れて、女優じゃなくなって、私は自分という人間について考えてみました。誰かが書いたセリフを口にする必要もない。実在しない誰かを演じる必要もない。本当は苦手なものを好きと公言する必要もない。ここ数週間の私は、好きなものを食べて、好きな映画を観て、好きなゲームをして、そして……好きな人を想う。本当に幸せな日々を送りました」


 言いながら、翡翠は俺に微笑みかける。

 今度は俺の方が、顔を赤くしてしまった。


「彼がいるから、私は自分を見失わないでいられる! 彼がいるから、自分の人生や仕事に価値を見出すことが出来る! 彼がいるからこそ私は、「神宮寺翡翠」でいられるんです! だからお願いします! これからも、彼と一緒にいさせて下さい!」


 翡翠の答えを聞き、マネージャーは「まったく」と呟く。

 しかし、驚いた様子はない。もしかするとマネージャーは、翡翠が俺と一緒にいることを選ぶとわかっていたのかもしれない。


「あなたは昔から、頑固な女の子でしたよね。こうと決めたら梃子でも動かないというか。まぁ、そんな芯のある性格だからこそ成功したのかもしれませんが」

「それって、褒めてます?」

「呆れています。ついでに言うと、諦めてもいます。……良いでしょう。二人の関係を認めます。ただし交際するにあたって、条件がいくつかあります」

「条件ですか?」

「はい。一つ、イチャイチャするのにかまけて、仕事を疎かにしないこと。二つ、交際していることを、周囲に知られないこと。約束出来ますか?」

「します! 絶対に守ります!」


 翡翠は力強く頷く。


「それともう一つ。一条さん」

「はい?」

「翡翠を幸せにすること。絶対に約束してくれますか?」

「……勿論です。誓います」


 なんだよ。

 人気や利益のことしか考えていないと思ったら、きちんと翡翠のことを一番に考えてくれているじゃないか。

 俺はマネージャーへの認識を改めることにした。


 全ての問題が解決したかと思いきや、翡翠が何か思い出したかのように「あっ!」と声を上げる。


「そういえば、まだちゃんと伝えていなかったよね?」

「ん? 何をだ?」


 翡翠は俺に近づく。そして真っ直ぐ俺を見ながら、彼女は満面の笑みで告げた。


「あなたの人生を、私に売ってくれませんか? 100万ドルで!」


 それは疑いようもないくらいわかりやすい告白で。

 ……ちょっと待ってくれ。俺の人生に、100万ドルの価値なんてないっての。


「……俺はお前に缶コーヒー1本あげただけなんだぞ?」

「ううん。もっと価値のあるものを、沢山貰ったよ」


 それは俺も同じだ。


 俺は翡翠を抱き寄せる。


 翡翠が目を閉じたので、俺はゆっくりと彼女の唇に自身のそれを近付けた。


 二人の唇が触れ合う直前、「ちょっと待って」と、翡翠が静止をかける。


「あのー。流石にキスシーンを見られるのは、恥ずかしいんですけど」


 ……あっ。マネージャーがすぐ近くにいるのを忘れてた。


「それはこちらのセリフです。帰るタイミングを逃して、絶賛後悔しているところでした」


 マネージャーは立ち上がる。 


「……避妊だけは、しっかりして下さいよ」


 去り際の余計な一言は、俺と翡翠を更に真っ赤にさせた。


 マネージャーが立ち去り、部屋の中には俺と翡翠の二人だけになる。

 翡翠は恥ずかしそうに、俺に尋ねてきた。


「えっと……する?」

「するって、もしかして……」


 マネージャーの余計な一言を思い出しながら、俺は聞き返す。

 一瞬ポカンとしていた翡翠だったが、すぐに俺の言わんとしていることを察したようだ。


「違う! 私が言っているのはそういう行為じゃなくて! ……私がしたいのは、さっきの続き、です」


 翡翠は再び目を閉じる。

 答え合わせをするように、俺は彼女と唇を重ね合わせるのだった。

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