ホワイトノイズの向こう側
私は祖父母の家が嫌いだ。
自分の家からは車で何時間もの距離にあって、周りには畑しかない田舎の風景。
古くて大きな家はところどころ床が沈むし、クーラーなんか当たり前についていなくて暑さをしのぐのは扇風機のみ。都会ほど暑くないから、なんておばあちゃんは言うけど、こっちだって十分に暑い。
縁側の窓を開ければ虫が入ってくるし、そのために焚く蚊取り線香は煙臭いったらない。
この家にいる間、体中にそんな匂いがずっと纏わりついている。
さらにその煙臭さを増やすのがおじいちゃんで、庭先で錆びついたドラム缶にすぐ火を入れるのだ。
もくもくと煙が立ちこめて、蚊取り線香よりも強く煙の匂いを周囲に撒き散らす。
蚊遣火なんて、今時誰も知らないしやってないよ。そう私は言うけれど、おじいちゃんは「アブもいるからなぁ」なんて私の言うことを聞いてなんかくれない。
楽しいことなんて何もない、コンビニすら遠い田舎で、暑さと煙臭さに耐えて過ごす夏休み。
大好きな祖父母の家を私が嫌う理由は、そこにはひとつもなかった。
❇︎
すっかり耳に馴染んでしまった騒ぎ声が聞こえる。
私は寝かされた布団の上で目を開けると、ぼんやりと部屋の中を眺めた。
祖父母の家の、私たち家族に用意された部屋。眠ったのは居間だったはずなのに、いつのまにか運ばれたらしい。
体を起こすと寝汗であちこちがべたついている。
窓から見える空はまだ明るく、もしかしたら夕方かもしれないけれど、夏なので日が沈むのが遅くてよかった。
今年で二回目の夏を迎えた弟の泣き声だって、いつもはうるさいけれど今は安心できる。
私はホッとしながら部屋を出て小走りした。
部屋から居間へは廊下をまっすぐ歩けばたどり着く。途中、玄関と向かい合わせにある階段を通り過ぎる時は耳を塞いだ。
階段上にある祖父母の寝室が特に嫌いだったから。
あの部屋からはたまに、私の耳には不快な音が流れてくるのだ。
ちら、と階段上を見て、勝手に恐怖心を強くして居間へ走り込んだ。
「あら、おはよう。起きるのが早かったね」
居間ではお母さんが泣きじゃくる弟を抱っこしていた。どうやら寝ぐずりで機嫌が悪いらしい。
扇風機の前を占領するお母さんは、トントンと弟の背中を叩いて弟を落ち着かせていた。
「お父さんは?」
「外。おじいちゃんの畑を手伝ってる」
「私もお外行きたい」
「じゃあ、おばあちゃんがおやつにスイカを切ってくれてるから、二人を呼んできてくれる?」
「うん、わかった」
私は台所に顔を出し、おばあちゃんに「おはよう」のあいさつをして玄関に向かった。
玄関を使う時は、一人の時はやっぱり耳を塞いだ。みんなといる時はそれは聞こえてこないのだ。
私はサンダルを足に引っ掛けると、ほんの一瞬だけ耳から手を離して引き戸を開けた。
背後に、ザーーーッという耳障りな音を聞いてしまった。
うわぁ、失敗した。
私は背筋をゾッとさせて、逃げるように畑へと走った。
❇︎
私が祖父母の家を嫌いになったのは、物心がついて、そして気づけばという感じだった。
大人と問題なく意思疎通ができるようになった頃、一度だけ素直に言ったことがある。
「あの音が嫌い」
祖父母の寝室から流れてくる奇妙な音。
その音源の正体はラジオだとわかっているのだが、そのラジオ自体も勝手に電源がついて鳴っているらしい。
「古いから壊れてるのかもなぁ」なんて言われても、それに気付くのがいつも私で、だから不気味さが拭えない。
「砂嵐の音だよ」と笑われたって、私には嫌な音にしか聞こえなかった。
みんなの耳の方がおかしいと思っていた。
毎年、夏にこの家に来るたびに、私は砂嵐の中に違う音を聞いていた。
前日にその音を聞いてしまったせいか、それとも暑さで寝苦しかったせいか、私はそのラジオの夢を見た。
階段下から、祖父母の寝室がある二階を見つめるだけの夢。ただそれだけなのに、襲いくる恐怖が私を夢から解放してくれなかった。
ラジオから砂嵐の音が流れている。それが徐々に音量を上げて、階下の私へと迫る。
砂嵐の中に紛れる違う音が、砂嵐よりも大きくなってその野太さを増していく。
まるで肉声で叫んでいるような女の叫び声は、今にも恐ろしい形相の顔をのぞかせてきそうだった。
叫び声が一段と野太く大きく迫ってきた、その時――
私はようやく耐えきれずに、夢から解放された。
部屋のカーテンは閉められたまま、けれど隙間から朝日が射し込んでいた。
目を覚ましたのが夜中じゃなくてよかったと額の汗を拭って、私は急いでお母さんを探した。
夢のせいで寝坊したのか、布団にはお母さんもお父さんも弟もすでにいなかった。
朝ごはんの匂いが漂う明るい廊下を、私は耳を塞いだまま急ぎ足で通り抜けた。
居間のテーブルにはおばあちゃんの作った私の朝ごはんだけが残されていた。他のみんなはもう終えたようだった。
弟は今はご機嫌で、座って遊ぶその様子をみんなで囲んで見ていた。
「おはよう」
私が声をかけると、みんな振り向いて「おはよう」と返してくれた。
けれどすぐにみんなの関心は弟に戻った。私も弟のご機嫌な姿に目が離せなくなった。
「あー、あー、あー」
弟は本当にご機嫌らしい。
一歳になり、少しずつ言葉が出るようになってきたのが最近だ。私の簡単なマネもするようになっていた。
「あー、あー、あー!」
お母さん達は「今日はよくおしゃべりするね」と楽しそうに弟に話しかけている。
弟はその小さな両手に持つ物に夢中で、お母さん達には見向きもしなかった。
「あー! あー! あー!」
どんどん大きくなる声に、お母さん達は笑った。
弟の顔には笑顔など一切ないのに、誰もそれには気づいていなかった。
弟はラジオにかじりつくように、さらに声を大きくした。
「あーっ! あーっ! あーっ!」
おばあちゃんが「おしゃべりでもしてるのかね」と笑った。
お母さんが「砂嵐相手に何をしゃべってるのかしら」と笑った。
おじいちゃんが「お姉ちゃんはこの音が怖かったな」と笑った。
お父さんが「お姉ちゃんにはどんな風に聞こえてるんだ?」と笑った。
「あ――――っ!!」
どんな風って。
私には、弟が今叫んでる通りに聞こえてるよ。
砂嵐の音の向こう側。
ずっと、女の人の声で。