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書き留めなしの見切り発車ですわ。
昨今の無駄に充実した多様性をみせるエロエロでHENTAIな業界の中には、寝取られって呼称されるジャンルが存在する。
それは恋仲だったり、夫婦だったり、そういった親しい間柄の相手が第三者に性的に搾取される状況を指していて、マイノリティながら性癖を拗らせた一部の変態の間では熱狂的な支持を受けていたりする。
愛する人を他人に奪われる辛さに性的な興奮を覚えるとか、正常な価値観をお持ちの方々にとってはちょっと闇が深すぎる案件だ。
まあ一周分『男の子』を経験したことのある身の上としては、綺麗なものが汚されるシチュエーションに興奮する感覚は少しは理解できたりするけども。
だって背徳的だし。いけないことだし。いけないことはえっちなのだ。
それに男性は基本的にマゾヒスト寄りなんだとかなんとかってなんかの雑誌記事で見たことある。いぢめられて悦んじゃうあれ。つまりそういうこと。
ところでその寝取られに分類される創作作品には、所謂『お約束』みたいなのがあったりする。
カーテン一枚隔てた先で彼女が間男とよろしくヤってても全然気付かない彼氏だったり。
身も心も間男に奪われた恋人から贈られてくるハメ撮りビデオレターだったり。
優しかった彼女が、まるで別人のように豹変して間男と比較しながら彼氏を詰ってきたり。
寝取られ性癖を拗らせた紳士諸君なら一度は目にしたことがあるであろう王道シチュ。
垂涎必死のえっちなシチュ。脳ミソをダイレクトに破壊してくるご都合シチュ。知識に残っているということは、男だった頃の私もそれなりに嗜んでいた側だったのだろうね。よく覚えてないけど。
しかしながら、だ。『寝取られ』を楽しむには前提として、それがあくまでフィクションの出来事であると保証されている必要があると、私は思う。
ゲームだったり、読み物だったり。ホラー映画然り、実際には起こり得ない架空の出来事だったからこそ、怖いもの見たさに近い感覚で楽しむことができるのではないかと。
どんなに酷い顛末が待っていようとも、現実に傷付く人がいないから、嗜好品として楽しむことができる。
仮にそれが、創作の粋を越えたところ起こったことだとしたら。
あまつさえ身の回りで悲惨な寝取られの一幕に直面にすることになったとしたら、どう感じるだろう?
それさえ楽しめる上級者も中にはいるかもしれない。だけど、少なくとも私の性根はそこまでねじ曲がってはいなかったらしい。
カーテンの閉めきられた暗い部屋の中。唯一の光源であるスマホの画面に映る、『姉のように慕っていた少女が見慣れない男と激しく行為に及んでいる動画』を目にして。
私は……控えめに言って、ドン引きしていた。
◇◇◇
事の発端は、幼馴染の母親からの一報だった。
「啓兄の様子がおかしい?」
私、双海柚里には二人の幼馴染がいる。
一人は須藤啓介。もう一人は、白崎雪乃。
幼少期、とある事情により同年代の子供たちと馴染むことができず孤立していた私に根気よく構ってくれたのが啓兄と雪姉だった。
私よりも一つ歳上な二人だったけど、家が近所ということや、親同士の仲が良かったことも相まって何かと顔を合わせる機会が多かった。
当時の私は、手の掛かる糞がきだったと思う。
子供扱いや女の子扱いされるとキレる。
情緒不安定でちょっとしたことで癇癪を起こす。
何かと気にかけてくれていた二人のことも所詮子供だと心底見下していた。
うん。我ながら腹パンして分からせたくなるメスガキ具合だった。
そんなどうしようもない私を見捨てないで仲良くしてくれていた二人は、恐らく聖人か何かだ。私ならグーで分からせてた。
時を経て私の事情に一応の折り合いがついたのは、二人の献身があったからに他ならない。
本当に、感謝してもしきれないと思っている。
バイト帰りの私に掛かってきた電話は、そんな幼馴染様の片割れ、啓兄のママからのものだった。
曰く、昨日の夜から啓兄が自室から出てこないらしい。事情を尋ねても黙りこくって何も答えてくれないのだとか。
困った先方は、啓兄と仲の良い私に手懸かりを求めて連絡してきたらしい。
話を聞いて、少し心配になる。ほぼ毎日のように遊んでいた幼少期に比べれば直接顔を合わせること自体は減ってしまったものの、今でもLINEを通して頻繁に連絡は取り合ってるし、なんなら通ってる高校も同じ。
定期的に三人で集まって遊びに行ったり、勉強を見てもらったりするくらいには仲良しだ。
最近の交流を思い返してみても、部屋に引きこもる程の悩みを抱えてる様子はなかったと思う。
強いて言うなら、最近予定が合わなくて雪姉とのデートがご無沙汰になっていると愚痴ってたくらいだ。
というか、そう。雪姉だ。
「啓兄のことを聞くなら、私より雪姉に聞いたほうが確実だと思いますよ」
何しろ二人は同級生だし、もっと言えば男女のお付き合いをしてる仲なのだ。
一昨年の夏祭りでのことだった。夜空に打ち上がる花火を背景に啓兄から告白して、雪姉がその場でオーケーした結果、二人は晴れて恋人関係と相成った。
ぶっちゃけ周囲からしたら『えっ、まだ付き合ってなかったの?』と呆れてしまう程の蜜月ぶりのお二人様だったのだけど。
ちなみに私も啓兄に頼まれて、事前のセッティングからいろいろ手伝ってたりした。
木陰からばっちり拝聴した啓兄の上擦った口説き文句は今でも鮮明に覚えている。その話題を振ると露骨に恥ずかしがるので、定期的に掘り返してからかっているのはご愛嬌。
私も仲良くしてもらっている身とはいえ、さすがに親しさの度合いは恋人の雪姉に一歩も二歩も譲ると思う。
だから、雪姉に連絡することをおすすめしたのだけど、そんなことは啓兄ママも承知の上だったらしい。
『雪ちゃんにも連絡はしてみたのよ? でも、どうも要領を得ないというか、はぐらかされちゃってるみたいで……』
「……痴話喧嘩でもしたんじゃないですか?」
『やっぱり柚ちゃんもそう思う?』
「他に思い当たる節がないです」
話を聞いた限りでは、十中八九啓兄は雪姉絡みのことで落ち込んでいると思われた。
巷のカップルは、やれLINEのレスポンスが遅いとか、やれ服のセンスが合わないとか、ちょっとしたことでちょくちょく喧嘩するものらしい。啓兄と雪姉だって数こそ少ないけれど、喧嘩することもある。
二人が喧嘩する時は、啓兄側に原因があることが多い。
啓兄は基本生真面目だし思い遣りのある人なんだけど、女子擬きの私から見てもずれてるというかデリカシーがないところがあるから、何かの拍子に雪姉の地雷を踏み抜いて喧嘩に発展しても不思議ではない。
雪姉はおっとりしていて滅多に怒る人じゃないけど、怒らせたらメチャメチャ怖いタイプ。前に啓兄がやらかした時は、一週間くらいまともに口を聞いてもらえなくて、最終的に土下座でごり押してたっけ。
どうせ今回も、啓兄が何かやらかしたんじゃないかな。それで雪姉に叱られて凹んでるか、拗ねてるかのどっちかなのだろう。
だとしたら、外野がとやかく言うのも野暮って話だ。頼まれてもいないのに恋人同士の揉め事に首を突っ込むとか、最悪馬に蹴られる羽目になるかもしれない。
夫婦喧嘩は犬も食わないとも言いますですし。
啓兄ママも概ね私と同意見のようだった。
『だけど、せめて御飯くらいは食べてほしいのだけど……』
不安げな声。なんと啓兄、昨日の夜から何も食べていないらしい。
スマホで時間を確認すると、時刻は20時を回っていた。引きこもったのは昨日の夜からだと言っていたので、単純に考えて啓兄はもう丸一日近くなにも口にしていないことになる。啓兄ママの心配も尤もだと思う。
さて、どうしようか。なんて考えたのは一瞬のこと。
「もしよければ、これから様子を見に行きますよ。私も心配ですし」
啓兄ママから電話をもらったのは帰りの電車を降りた直後のことだった。私の家は駅から20分ほど歩いた先にある住宅街にあって、途中で啓兄宅の近くを通る。とっても御近所さん。
さらに言えば駅から家までは自転車移動なので、軽快に飛ばせばここから10分も掛からずに辿り着ける。
帰りがあんまり遅くなったら、私も母さんに怒られてしまうのでそれほど時間を割くことはできない。だけど啓兄のお悩み解決とまではいかずとも、食事をとるように説得するくらいなら大した時間も喰わないと算段。
とはいえ、もうそこそこ遅い時間なので普通の友人のお宅ならお邪魔するのはやや非常識にあたったりすると思うのだけど。
そこはまあ、長年培ってきた家族ぐるみのお付き合い補正である。
『じゃあ、お願いできる? 啓介も柚ちゃんになら話しやすいと思うし。あなたのお母さんには、私の方から伝えておくから』
遠慮がちに向けられた申し出を二つ返事で受けてから、電話を切る。
「まったく、世話のかかる兄貴分なんだから」
言葉とは裏腹に、面倒だと感じるどころか何故か僅かながら心を弾ませている自分が居て。
仮にも傷心中の啓兄を励ます目的の訪問に何を喜んでいるのかと我ながら不思議に思ったけれど、きっと夜更けに親友の家にお邪魔する小さなイベントに浮かれているのだろうと納得する。
駅の構内を出て併設された駐輪場へと足を向ける途中、不意に通り抜けた冷たい風に晒されて、無意識に身体が震えた。
暦は11月。日に日に冬の訪れを肌に感じる晩秋の候。
昼間ならともかく、この頃は日が落ちるとかなり冷え込むようになってきている。
啓兄の部屋は暖房がついていないから、きっと寒い。
コンビニで何か温かいものでも買っていってあげようかな。
なんて、暢気に構えていた私は、啓兄ママから聞いた『啓兄の様子がおかしい』という情報を、随分と軽く受けて止めていた。
ただ恋人同士で揉めてるだけなのだと。解決さえすれば、また全て元通りの日常が戻ってくるのだと、信じて疑っていなかった。
私はすぐに知ることになる。私が信じていた日常は、まるで砂でできたお城のように、歪で、脆く儚いものだったという現実を。
崩壊を招く悪意の芽は、とっくの昔に芽吹いていた。