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なら、ホープ軒で。

作者: 石井寿

 昔、僕の職場にものすごく物静かな女性のスタッフがいた。年は僕より少し下。背は155センチくらい。髪は栗色でポニーテール。リスのような雰囲気。本当にしゃべらない。たまに言葉を発してもほとんど聞こえない。でも、仕事を頼むと早い。そして、身のこなしが凡人と違った。

 僕の職場は急いでいる人が多くて、特に年末になると、競歩かというくらい速く、非線形にみんな歩くけど、その人は見事に身をかわし、誰ともぶつからない。この人、実は忍者か?ま、そんなわけないよな、こんなにもの静かな人が、と思っていた。


 春も過ぎ、初夏を迎えたある日。その人が僕に「話がある」と言ってきた。辞めるのか、と思った。その人を別室に呼ぶと「社内メールを見てほしい」。なんだかまだるっこしいと思った。ところが、次の日来たメールに僕は仰天した。

 「石井さん、神宮球場で見ました」「私は、応援団にいました。楽団でした」「この間、神宮にこっそり見に行ったら、石井さんがいました」そして最後に「今度、神宮に見に行きませんか」というお誘いが書かれていた。

 そのころ、春のリーグ戦は後半だった。僕は驚いたけど、もう少しこの人の話を聞きたいと思ったので「わかりました」と回答し、次の試合の日の朝、千駄ヶ谷駅で待ち合わせでどうか、と伝えた。即座に返事が来た。「行きます」。僕は楽しみ半分、驚き半分だった。


 そして当日。僕はまた仰天した。その人は、小さな革ジャンからスカートまで、大学のスクールカラーに美しく身を固めていた。まるで、戦支度を調えたくノ一だった。そして、試合が始まると、さらに仰天した。どこからそんな声を出しているのか、という大声援。僕が声援で負けたのはこのときだけだと思う。

 「すごいね」試合後のエールが終わり僕が言うと「いえ、普通です」すぐに、物静かさんに戻っていた。第1試合だったので、終わったときには昼をだいぶ過ぎていた。そこで僕は「何か食べる?」と聞いた。

 するとこの後輩は即座に「なら、ホープ軒で。」と言った。ホープ軒と言うのは、大きいどんぶりが出てくるラーメン屋だ。え、こんな小柄な人がホープ軒?無理じゃないの?と思った僕は不審そうな顔をしたのだろう。後輩はまた即座に「大丈夫です」と言った。僕の心は見透かされているようだった。


 そしてホープ軒へ。後輩はうれしそうに洗面器のようなどんぶりを見つめた。「ここ、楽団の先輩が初めておごってくれたところだったんです」後輩には、ホープ軒への思い入れがあるようだった。でかい器を持ち上げると、後輩の顔は完全に隠れた。食べながら、いろいろなことを聞いた。

 現役時代、くやしかったこと、うれしかったこと。当時は神宮周辺で他大学と鉢合わせしないようにいろいろ工夫していたこと。うまくいかなかったこと。謎のしきたり、人間関係。僕は、まるで映画の話を聞いているようだった。

 そして僕が「職場で、身のこなしが軽くてすごいよね」と言うと「ドリルで、鍛えましたから」と言った。ドリルは数センチ単位で動くので、僕の職場のおじさん達の非線形の動きなんて大したことないらしい。そういうことだったのか、と思った。

 でも、そこで、僕は気づいた。あれ?僕はこの後輩の代が現役でいた定期演奏会に確実に行っているぞ。神宮にも何回も行っているぞ。でも、この後輩の記憶がない。これっておかしいんじゃないか?僕は思った。

 

 すると後輩はスープを飲み干し、どんぶりをドンと置いた。鈍く、腹の底に響くような音がした。勢いでレンゲがずれた。レンゲを丁寧に直した後、後輩は僕を流すような目でちらりと見て、言った。「途中で、辞めたんです」。僕は、どんぶりを落としそうになった。すると後輩は、少し唇を緩め、笑ったように見えた。

 「記憶になくて、おかしいって、思ったんですよね」うわ、心また読まれた、と思った。すると、後輩はふっと息をついて「でも、石井さんみたいな人には、話せるなって思ったんです」その言葉が、僕の胸に刺さった。そして「応援も神宮も好きでした。でも、事情があって」そのあと、事情を聞いた。誰も悪くない、泣ける話だった。


 食べ終わると、後輩はすがすがしい表情になった。「ありがとうございました。聞いていただいて、しかも、ホープ軒食べながら。うれしかったです」僕は、何かいい返答をしたい場面だったけど、何も言えなかった。僕は、後輩に完全にリードされていた。 

 そして、店の前で別れようとした。すると後輩は、急に立ち止まった。なんだろうと思った。

 すると、後輩は神宮に届きそうな、神宮で声援を送っていたときのような、極まった大声で「失礼します!」と叫んだ。そして、ダッと走り去った。「え!」僕はびっくりした。でも、何だかすごくさわやかな気持ちになった。


 その後間もなく、後輩は夢を果たすため、職場を去り、別の道に進んだ。後輩はおそらく、長い間何か溜め込んできた思いがあったのだろう。卒業してから応援で大きな声を出すこともなかったのかもしれない。このとき、神宮やホープ軒に一緒に行けて、本当によかった。

 まさか職場で、こんな出会いがあるなんて。でも、人間は何か同じ関心とか思い出があると、自然と近づき、どこか接点が生まれることがある、ということなのだと思う。縁というのは本当に不思議で、時としてこういう奇跡のようなことが起きるのだろう。いま、後輩はどこで何をしているのか。わからないけど、きっと幸せにしていると思う。あれほどのエネルギーを秘めていて、他人の心を強く引き付ける力があるのだから。初夏になると、いつも僕は後輩を思い出している。

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