第一章・堤防で釣りをしよう・その五
あっという間に日が傾きました。
三人は夢中になって魚を釣りました。
仕掛けを投げてハゼを釣って、防波堤際まで糸を引いても釣れない時は、足元にぶら下げてキュウセンを釣りました。
八尋のキュウセンは最初に釣れた1尾だけで、風子が1尾、師匠は2尾。
ハゼはたくさん釣れすぎて数える気にもなれません。
「まあこんなもんか。本当は日暮れ時が一番釣れるんだが、こんだけありゃ十分だろ」
師匠はリュックからロープのついたビニール製のバケツを出して、汲み上げた海水で周囲のコンクリートを洗います。
「釣り人って掃除までするんだ」
「まあな。魚の血がついたりすっから、汚れが見えなくても洗う事にしてんだ」
「意外と几帳面なんだね」
「それが釣り人のマナ~?」
「いや自分のため。汚ぇと釣る気になんねぇし、汚れを見た他の釣り師が寄ってくるかもしれねぇだろ?」
釣り人のマナーだけの話ではありませんでした。
堤防などに魚の血やイカスミが残っていると、釣れる場所がバレて、お気に入りの釣り座(釣り人の立ち位置)を取られてしまう事があるのです。
もちろん取られた分だけ自分の釣果(釣った魚の種類と数)に影響するので、いい場所がバレないように、お掃除で証拠隠滅しているのです。
「他の人が汚したら?」
「洗う。そして犯人ぶん殴る」
もちろん周囲にはゴミ一つ落ちていません。
「ぼくも手伝うよ」
「いや、もう終わった」
普段から清潔にしているのか、軽く海水を流すだけで、あっさりと片づきました。
「なんか手に変な臭いついた~」
二本のペン型ロッドを片づけた八尋が、ふと隣を見ると、風子が自分の手をしきりに嗅いでいます。
「そう? ちょっと生臭いけど、魚触ったんだからしょうがないよ」
「そうじゃなくて~、嗅いだ事のない臭いがする~」
何度も嗅いでいるので、嫌いな臭いではなさそうです。
「そりゃジャリメの臭いだ」
「そなの~? いい臭いなのかちょっと微妙な悪くない変わった感じだね~」
言ってる意味はさっぱりわかりませんが、とにかく名状しがたいスメルのようです。
「ほらほら八尋も嗅いでみて~」
「うわちょっとやめてよ姉ちゃん!」
無理矢理嗅がされました。
「……本当に例えようのない臭いだ」
でも臭くはありません。
絶妙な安心感のある、なんだかクセになりそうな香りです。
「水で洗ったくれぇじゃ落ちねぇぜ。風呂入りゃ八割方消えるけどな」
「ふ~ん、ちょっと残念~」
「八割方って……残り二割は?」
「なぁ~に、毎日釣りしてりゃ、どのみち手に染みつくってぇもんよ」
「やっぱり消えないんだ……」
クラスメイトに嫌われたりしないかと、八尋はだんだん心配になってきました。
「ところでこの魚、このあとどうするの~?」
クーラーボックスには数尾のキュウセンと、大量のハゼが泳いでいます。
「もちろん調理して食う。腹に収めて供養するんだ」
例え切り身でも、食べれば殺生になります。
それは植物だって同じ事。
「食わせてやっから、ついてきな」
師匠が片づけた釣り道具一式を持って、三人は堤防際を歩きます。
「どこ行くの? 家庭科室?」
「もっといいところだ」
姉弟は師匠にうながされるまま、緑に囲まれた坂道を上ります。
長い防砂林を抜けると、そこにはトタン屋根のバラッ……古そうな小屋が見えました。
野菜でも育てているのか、小さな畑も見えます。
「我が釣り研究部の部室小屋へようこそ!」
「部活だったの⁉」
「自己紹介がまだだったな。俺は釣り研究部の部長、1年D組の日暮坂歩フォレーレだ!」
「ホントに外人さんだったんだ~!」
「やっぱり毛染めじゃなかったんだね」
八尋は安心しました。
天然金髪の生徒がいる学校なら、八尋の目立つ亜麻色の髪を染めろと校則違反な無理強いをする教師はいないでしょう。
中学時代にはいました。
そしてクラスメイトたちが八尋を守ろうと署名活動を起こして、職員会議の末にめでたく『生徒は頭髪の色にかかわらず染色や脱色をしてはならない』と校則が改正された経緯があるのです。
「クォーターだけどな。ドイツ系だ」
「しかも部長⁉ ……じゃなかった、ぼくは稲庭八尋。明日この学校に転入する予定なんだ」
名乗られたら名乗るのが礼儀というものでしょう。
「姉の風子だよ~」
「ひょっとして部活の勧誘だったの?」
「勧誘はする! でもその前にメシだ。釣った魚はすぐ調理しねぇと鮮度が落ちる」
「調理するのは私ですけどね」
掘っ建て小屋もとい部室小屋から女生徒か現れました。
制服の上にエプロンをつけて、長い黒髪を後ろで束ねています。
リボンの色からすると、日暮坂と同じ一年生のようです。
おしとやかな印象の美人さんですが、よく見ると日暮坂と同様に体格がよく、腕も太めでした。
普段から力仕事をしているのかもしれません。
「1年A組の淵沼小夜理です……って歩! 今日はオキアミブロック運ぶから校門にいろって先生に言われたじゃない!」
美人さんが突然怒り出しました。
オキアミブロックとは、超小型のエビであるオキアミを大量に冷凍して、その塊を切り分けたものです。
コンクリートのように重く、量によっては運搬に多大な労力を必要とします。
「一人でリヤカー引くの大変だったんですからね!」
部室小屋は斜面の真ん中にあって、林に続く坂道は舗装されていません。
そんな悪路を渕沼は一人で重いリヤカーを引いてきたのです。
「それって明日じゃなかったっけ?」
「今日です! 歩がサボッたせいで、みんな私が運んだんですよ! スマホは部室に置きっ放しだし……」
「いやあスマンスマン。その代わりハゼとかいっぱい釣ってきたから勘弁してくれよ」
「ハゼなんて、いつでもいくらでも釣れるじゃない!」
三人がかりとはいえ、わずかな時間で数えきれないほど釣れています。
半日かけたら一人でも五十尾は余裕で釣れそうです。
「キュウセンもあるぞ?」
「それならいいです」
「いいの⁉」
思わずツッコミを入れてしまう八尋でした。
そんなにおいしいのかキュウセン。
「……この方たちは?」
「入部志望……と言いてぇとこだが、実はメシを食わせに連れてきただけ」
「みんなで釣ったの食べにきたの~」
「それはそれは。うちの愚長につきあって、よくきてくださいました。すぐ支度するので中へどうぞ」
「愚長ってなんだよ⁉」
「予定を忘れて労働を放棄して、釣りばっかりやってる愚かな部長の事です」
「辛辣だ……」
釣りに没頭しすぎて周囲に迷惑をかけてはいけないと、八尋は肝に銘じました。
「捌くのでクーラーください」
「あいよ」
「魚を捌く? ぼくの釣ったキュウセンに包丁を入れるの?」
八尋は自分の魚を奪われるような気がしました。
「なんだ? いまさら殺すのが惜しくなったか? でも氷でもうみんな死んでるぜ?」
そのためのクーラーボックスとロックアイスです。
「そうじゃないよ。それ、ぼくにも手伝わせて欲しいんだ」
「稲庭くんでしたっけ? あなたは料理ができるんですか?」
「いえ全然……でも教えて。さっき釣ったキュウセンを自分で料理したいんだ」
あの魚だけは自分でなんとかしたい。
自分で釣った魚は、自分の手で始末をつけるべきだと思ったのです。
「こいつが初めて釣った魚がキュウセンなんだ。どうにかならねぇか?」
「ごめんなさい。規則で部外者を調理場に立たせる訳には行かないの」
「規則じゃ仕方ねぇな」
日暮坂は部長なのに覚えていなかったようです。
「あと歩、これ洗っといてね」
淵沼は魚と氷を金属製のバケツに移して、空のクーラーボックスを日暮坂に渡します。
「どうしてもダメ……?」
八尋はしつこくお願いしてみました。
「可愛らしく見つめてもダメです!」
子供っぽい八尋の仕草に思わず後ずさる淵沼。
その渕沼の挙動に、八尋にはどこか怪しさを感じました。
小動物特有の鋭敏な生存本能が刺激されます。
「なんで両手をワキワキさせてるの⁉ あとどうして目つきがグルグルしてるの⁉」
子供っぽい体形とモジモジした仕草のせいか、渕沼は抱きしめたい衝動に感情を支配されていました。
「ギュ~ッてしたい……ほっぺスリスリしてチュ~したい……」
「なんかかブツブツ言ってる⁉」
ゾンビのようにジリジリと距離を詰める淵沼と、身の危険を感じて後退する八尋。
まるでハブとマングースの睨み合いです。
「2人ともこっちこい。メシの前にやる事がある」
釣り師匠改め日暮坂に肩を掴まれる八尋と風子。
視界の隅で、正気に返った淵沼のホッとした表情が見えました。
八尋との距離が開いて、魅了の呪いが解けたようです。
「道具の洗い方を教えてやる」
日暮坂が使った釣り道具を手に、左手に八尋の腕を握って歩き出しました。
「でもキュウセンが……」
「今日はやめとけ。思い入れのある魚なら、なおさら失敗は許されねぇ。初心者は並の魚で練習してからだ」
確かに、せっかくのキュウセンが、素人料理で燃やしたゴミになったら台なしです。
「…………わかった」
明日にでもスーパーで魚を買って、包丁の練習をしようと心に誓う八尋でした。
「よし、じゃあ洗い場に行くぞ!」
「歩! お客さんに洗いものなんてさせちゃダメでしょ!」
「すぐ洗わねぇとサビるだろ? マキエが板前やってる間に教えねぇと」
「マキエ? 確か小夜理さんってムグゥッ⁉」
八尋が疑問を口にすると、日暮坂の大きな手で突然口を塞がれました。
「静かに! マキエに聞かれちゃマズい」
特殊部隊に捕まってナイフで殺される寸前の、見張りの兵隊さんのような恰好で引っ立てられます。
「なにかありました?」
マキエもとい淵沼が背中を向けたまま言いました。
作業の手は止まっていません。
「いやなんでもねぇ。そのまま続けてくれ」
淵沼は部室小屋の外にある水場で調理を始めて、もの凄いスピードでハゼの腹から内臓を取り出してはポリ袋に放り込んでいます。
「愚長が変な事したら言ってくださいね。叩いてナメロウにしますから」
『ナメロウってなに?』と思った八尋ですが、口を塞がれて言葉が出ません。
「おっかねえ……」
愚長もとい日暮坂が小声で呟きます。
「マキエはあだ名。由来は部員になったら教えてやる」
ようやく手を離してくれました。
「あれだけやって教えてくれないの⁉」
八尋も淵沼に聞こえないように小声で話します。
「あと、まだ部に入るって決めてないよ!」
「わたし入る~!」
即断即決の風子でした。
「まだ正式に入学してないよ!」
「そうだった。じゃあ申請用紙だけ渡しとこう」
「だからまだ決めてないって……」
「書く書かないは、あとで決めりゃいいだろ?」
日暮坂はポケットから折り畳んだ紙を取り出して、八尋の胸ポケットに無理矢理押し込みます。
「とにかく裏の水場に行くぞ」
腕を掴まれて、渕沼のいる場所とは反対側の水場に連れて行かれました。
もちろん風子もワイワイ言いながらついてきます。
「水跳ねるから靴脱いどけよ」
日暮坂は素足にサンダル穿きなので濡れても心配ありませんが、八尋たちの制服やスニーカーは買ったばかりの新品なので、転校前から汚したくはありません。
「ちょっと待って。ズボンの裾上げたらシワになっちゃう」
「わたしたち私服持ってる~」
「着替えるなら小屋でやんな。え~と、稲庭……」
当然ながら二人とも稲庭姓です。
おまけに同じ顔で、違うのは髪型と服装だけでした。
「風子でいいよ~」
「同じ苗字じゃ混乱するから八尋でいいよ」
「だったら俺の事も歩と呼べ。ただしマキエはマキエって呼ぶなよ怒るから」
あのおとなしそうな美人さんが、どんな風に怒るのか、ちょっとだけ興味があります。
「歩さんは怒られないの?」
「十年呼び続けたら諦めたみてぇだ」
酷い話です。
「とりあえず八尋が中で、風子が外で着替えな」
「逆じゃない?」
普通は女の子が屋内で着替えるものです。
「他に誰もいねぇからな。周りは林だし、男女比からして八尋が中に決まってんだろ」
「でも…………」
「それとも俺の前で着替えるか? 大歓迎だぜ?」
八尋の着替えシーンでも妄想しているのか、歩の目が泳いでいます。
「いいえめっそうもない!」
貞操の危機を感じた八尋は、着替えの入った袋を持って部室に飛び込みました。
オンボロ小屋の中は外見同様にオンボロで、TV番組で見た漁師小屋に似ていますが、思っていたほど魚臭くはありません。
風通しがよすぎて室内に臭いが籠らないのです。
小屋の中には錆びた窓枠や錆びたキッチンに、寂れたラーメン屋でしか見られないような椅子とテーブルがありました。
隅にある業務用冷凍庫と壁際の釣り道具だけは、比較的新しそうに見えます。
「あちこちから日光が漏れてる……」
雨の日とか大丈夫だろうかと心配になってきました。
「とりあえず着替えよう」
「風子も着替えろよ。見張っててやっから……って、躊躇ねぇなおい!」
表で風子も着替え始めたようです。
「終わった~!」
ファッションモデルもビックリな早着替えでした。
「ええっ、もう⁉」
「入るよ~!」
「待って待ってこっちまだ終わってないよ!」
「レ~ッツ! し〇るまタ~イム!」
勢いよく扉を開けるエロ風子。
「…………チッ、ブリーフ一丁か~」
風子はよく着替えや入浴中に乱入するので、八尋の裸は見慣れています。
しかし中学に入ってからは、八尋が股間だけは死守するようになったので、いつか発育具合を確認しようと、虎視眈々《こしたんたん》とチャンスを伺っていたのです。
「チッてなに⁉ これ以上は脱がないよ⁉」
慌てて脱いだ制服で股間を隠す八尋。
まだ生えていないと姉に知られる訳には行きません。
「おうっ、そっちも着替え終わったか?」
「見る~?」
「つー事はまだ終わっちゃいねぇな。だが見る!」
「わぁやめてよ! すぐ着るから!」
八尋は持っていた制服を放り出して、入口に立つ風子を押しのけて扉を閉めました。
今度はしっかりと鍵をかけておきます。
「ふうっ……」
一息つく八尋ですが、急いで着替えないと、風子がどこから侵入するかわかりません。
トタンの壁はサビついて隙間だらけ穴だらけ。
いつでもどこからでも覗き放題です。
「まさか、この穴から姉ちゃんがニョロッと出てきたりしないよね……?」
八尋はホラーな想像をしながら穴の死角を探していると……
「もうっ、うるさいわね! なにを騒いでるんですか⁉」
「キャ~~~~~~~~ッ‼」
反対側の扉に小夜理が立っていました。
両手に捌いた魚の入った金属トレイを持っています。
ちなみに、いまの悲鳴は八尋です。
少女のように可憐で、絹を裂くような悲鳴でした。
「…………あらまぁ可愛い♡」
綺麗な顔でニッコリと微笑む小夜理。
その視線は八尋のブリーフに注がれています。
「うっ……ぐすっ……」
羞恥で赤く染まった顔で泣き出す八尋を見て、小夜理の鼻の下が盛大に伸びました。