第一章・堤防で釣りをしよう・その四
「竿はこう持つ。仕掛けは竿先からオモリまで十五センチくれぇに伸ばして……お前ぇ、その腕どうした?」
八尋は左肘にサポーターを巻いていました。
「ちょっと筋をね」
「その体重じゃ、転んでも関節やっちまうなんてありえねぇ。なにがあった?」
「前の学校で……」
「いじめか?」
「違うよ。むしろその反対かな?」
その反対こそ八尋には悩みの種でした。
「まだ少し痛むけど平気」
「そうか、じゃあ聞かねぇ。続けるぞ。人差し指を糸にかけたら背後に誰もいないか確認して……よっと!」
釣り師匠がブンッと竿を振ると、仕掛けが一直線に飛んで行きました。
「せいや~っ!」
風子が真似して仕掛けを飛ばします。
「おおっ、やるじゃねぇか!」
風子は要領がいいのか一目で手順を理解して、釣り師匠の見せた投擲を完璧にマスターしていまいました。
「これがキャスティング。仕掛けが海底についたら感触でわかるから、リールを少し巻いて糸を張れ。ちょいと待って反応がねぇならまた巻いて、抵抗を感じたら止めろ」
「は~い」
風子はハンドルを巻きつつも、視線を糸の先から動かしません。
「ええと、糸を指にかけて……」
器用な姉に比べて要領の悪い八尋。
手本と説明を同時にされると混乱するタイプなのです。
「仕方ねぇな。どれ、こうやるんだ」
師匠は持っていた竿を手すりに立てかけて、八尋に後ろから抱きつきました。
「二人羽織なら、わかりやすいだろ?」
「う、うひゃあっ……」
背中に大きくて柔らかくて温かいものが当たって、ぜんぜん集中できません。
意識が背中に集中して、どうしても操作がおろそかになってしまいます。
師匠の開けた襟元から、谷間の空気がフシュ~ッと押し出されました。
おまけにいい匂いがします。
風子と同じで化粧っ気がないのに、風子と違って女性的な香りがしました。
「剣道の素振りみてぇに……」
耳元でささやかれて、くすぐったいです。
「ひゃうんっ!」
八尋は思わず肩をすくめて、糸から指を離してしまいます。
仕掛けの赤いボールは金属製の錘で、その重さでシュルシュルとリールから糸が繰り出され、足元の海面にポチャンと落ちてしまいした。
「おっといけねえ。でもまあ、これはこれでいっか」
糸はまだリールから出ています。
しばらくすると落下が止まり、糸が弛みました。
「底に着いたみてぇだな。竿をちょいと立てて糸を張ったら一分くらい待て。それから三十秒おきに少しづつ巻いてみろ。ゆっくりだ」
釣り師匠が、糸巻きを覆うガイドのような半円形の金属パーツを操作すると、糸の流出が完全に止まりました。
「なんかきた~!」
風子の竿になにかあったようです。
「マエストロの指揮棒みてぇに手首をクンと上げろ! それでハリにかかる!」
「おっしゃ~!」
「もう釣れたの⁉」
「まだだ! 取り込むまで油断すんじゃねぇぞ!」
「どうすればいいの~?」
「竿を立ててリールを巻け! 絶対に糸を弛めるな!」
師匠が八尋から離れて、背中に当たっていた膨らみが、ふんわりと去って行きました。
ちょっとだけ名残惜しい八尋ですが、いまは自分の釣りに専念しようと決意を新たにします。
「……って、このままで本当にでいいの? なんか姉ちゃんとやり方違うんだけど?」
糸が竿から真下に伸びているだけで。これで本当に魚が釣れるのかは疑問です。
「とりあえず、言われた通り少しづつリールを巻こう」
と思ったら、ハンドルが右側についていました。
竿を持っているのは右手なので、このままでは糸を巻けません。
リールのハンドルは左右どちらにも装着できる仕組みで、使用者の好みに合わせて組み替えられるようになっているのです。
慌てて竿を左手に持ち替えてハンドルを巻くと、錘をゴツゴツと引きずる感触がありました。
石だらけの地形が竿を通して伝わってきます。
「釣れた~!」
風子が竿を一気に上げると、海面から小さな魚が飛び出しました。
「なんかキモい~!」
上がった十センチくらいの魚は、茶色くてカエルみたいな目つきをしていました。
さすがの八尋も、この魚は知っています。
「ハゼ、ど~ん!」
「マハゼだ! よくやった弟子1号!」
師匠はクーラーボックスを開きます。
「ここに入れろ」
クーラーボックスには大量の氷が入っていました。
「ハゼは生命力が強ぇし小さくて締めるの大変だから、氷締めにするんだ」
「これ、どうやって外すの~?」
釣れたハゼをプラプラさせながら聞く風子。
「ハゼの首根っこを握って、ハリの根本をこうつまんで……」
鈎の外し方をレクチャーしているようですが、八尋からは師匠の背中しか見えません。
「とれた~! 写メ撮ろ~っと!」
風子はクーラーボックスに入ったハゼを、さっそくスマホで撮影していました。
「お父さんに送ろ~」
「ちょっとぼくにも見せ……」
クンッ……クン、ククッ。
八尋の竿が震えて、グリップ越しに鋭い魚信が伝わります。
「うわっ!」
反射的に竿を上げると『クンッ』が『ブルブルッ!』に変わりました。
「かかった⁉」
風子がやったように手首を鋭く上げると、ブルブルバタバタが止まらなくなりました。
八尋には見えない海の中で、魚が上下左右に大暴れしています。
「なにこれなにこれ⁉ これ絶対ハゼじゃないよ!」
短い竿が猛烈にしなりました。
「もっと竿を立てろ!」
「そんな事したら折れちゃうよ!」
細い穂先はいかにも弱々しくて、簡単に壊れてしまいそうです。
「釣り竿はそうそう折れるもんじゃねぇ! 大丈夫だから竿おっ立ててリールを巻け!」
八尋は言われた通りにしました。
「うわっ、これ結構曲がるんだね!」
立ててみるとわかりますが、釣り竿は先端ほどよくしなり、バネのように力強く耐えてくれています。
それを見て自信をつけたのか、八尋は手にグッと力を込めてリールを巻きました。
「ブルブルがハンドルにまで伝わってる!」
引きの感触から、この魚は小さいと見当をつける八尋。
おそらくスーパーで売っているイワシくらいでしょうか?
しかし、かかった魚は小さい体で必死にガンガン引っ張ってきます。
「魚って……凄い!」
きっと死にもの狂いなのでしょう。
「小柄でただ弱いだけのぼくとは大違いだ」
弱くても、小さくても、こんなにも力強い。
「…………勝負だ!」
竿を垂直に立てて、八尋は必死にハンドルを回します。
巻いても巻いても一向に魚が上がってきません。
それどころか、どんどん距離が開いている気がしました。
「ドラグを締めろ! リールのてっぺんにあるノブを回せ!」
リールにはドラグと呼ばれる機能があって、魚の引きが強すぎる時はノブを緩めて糸が切れるのを防ぐ機能があるのです。
逆に緩すぎると、小魚でも糸がどんどん出て、引き上げられなくなります。
「これ⁉」
ノブを回転させると、竿が一気に重くなりました。
八尋はハンドルを持つ手に力を込めて、グイグイと糸を巻き続けます。
「手首だけで釣ろうと思うな! 腕をもうちっと伸ばせ! あとはとにかくリールを巻いて、クレーンみたいに引き上げろ!」
バシャッ!
「魚が……!」
海面で魚がバシャバシャと跳ね回っています。
水の抵抗を失って糸を引く力こそ残ってはいませんが、それでも負けるもんかと大暴れです。
「ハンドルを止めるな!」
思わず魚に見とれていたのに気づいて、釣りを再開する八尋。
魚がまだ闘志を失っていないのに、ここで気を抜いてはいけません。
徐々に魚が上がってきます。
「ぼくの……魚!」
目の前に二十センチくらいの魚が現れました。
長くて黄色くて少し太く、頭から尻尾にかけて長い背ビレが生えています。
そして側面には、ドット状の黒い線が何本も入っていました。
「キュウセンだ!」
「きゅう……せん?」
八尋は手元にきた糸を掴んで、キュウセンをぶら下げました。
「ベラの仲間だ! こいつは塩焼きにするとムチャクチャ旨ぇぞ!」
「おいしいんだ……」
八尋は手元のキュウセンをじっと見つめます。
「ぼくが釣った、ぼくの魚……」
この手で釣った、初めての魚。
「これを殺して……食べる……の?」
「そのキュウセンはお前ぇのもんだ。別にリリースしたって構わねぇんだぜ?」
「リリース?」
「ハリを外して海に逃がすんだ」
殺生には抵抗のある八尋ですが、不思議と放流する気にはなれませんでした。
「……………………」
「決まったな。じゃあハゼと一緒に締めちまおう。どれどれ……おっ、ハリは呑んじゃいねぇみてぇだな」
「魚って針飲んじゃうの⁉」
「たまにな」
「すっごい食欲……」
「とりあえず外し方を教えてやる」
八尋は師匠に教わりながら、釣りあげたばかりのキュウセンから鈎を外して、クーラーボックスに落としました。
中を覗くと、風子が釣ったハゼの上で元気よく跳ね回っています。
「箱から飛び出しそう……」
猛烈に、死にもの狂いで大暴れした小さなキュウセン。
捕まっても隙あらば脱出しようとチャンスを窺う小さなキュウセン。
この力をぼくのものにしたい。
食べて吸収してぼくの力にしたい。
八尋はそう思いました。