終章・その七(最終)
「うぇっぷ……ぐすっ……」
「八尋お前ぇ、クラスから逃げ出してきたのか……?」
歩のいる一年D組の教室で、八尋は顔を真っ赤にして泣き腫らしていました。
髪はボサボサ、制服も乱れて、ワイシャツのボタンが何個かなくなっています。
「やっぱりね~。こうなるんじゃないかと思ってたよ~」
歩と同じD組に編入していた風子が状況を察しました。
「ちっちゃい子の群れにハムスターを投げ込むようなもんだからね~。前の学校でも~、ちょくちょくボロボロになるまでモフられたんだよ~」
八尋にとって悩みの種は、男子が怖いだけではありませんでした。
それは一時限目が終わって二時限目を控えた休み時間。
バーゲンセールの特価品を求めて争奪戦を繰り広げるご婦人方のように、クラス全員が奪い合いを始めたのです。
八尋はハイエナの群れに食い千切られる草食動物のように手足を引っ張られ、危うくバラバラになってしまうところでした。
「肘のサポーターはそれが原因か……。ひょっとして、それで転校してきたのか?」
「違うよ~、お父さんの転勤だよ~。でもお別れ会で、感極まった子たちが暴走しちゃって~」
「みんな酷いよ……押し合ったり引っぱったり……」
興奮した野獣の群れに蹂躙された八尋は、すっかり焦燥しきっています。
「愛されすぎるって怖ぇんだなぁ」
イジメでなかった事にホッとする歩ですが、ある意味イジメより厄介な状況です。
「やだあの子カワイイ~♡」
「抱きしめてギュ~ッってしたいっ!」
教室がざわめき出しました。
このままでは、さっきの二の舞になりそうです。
それどころか騒ぎを聞きつけたA組の生徒たちに八尋の所在がバレて、下手をすると一年生全員が押し合う暴動に発展するかもしれません。
「逃げるぞ。風子もこい」
八尋の手を引いて歩き出す歩。
「どこ行くの~?」
危険地帯と化しつつある教室を抜け出して、三人は廊下を渡りながら話します。
「保健室……といいてぇとこだが、いまとなっちゃ校内にいるだけで危ねぇ。とりあえず部室小屋だ」
「エスケープだね~!」
「お前ぇらの入部届は、さっき顧問に渡して正式に受理された。部員を守るのは部長の務めだ」
「転校初日からサボるなんて聞いた事ないよ……」
泣きながらついて行く八尋。
「俺の教室を教えたのはマキエだろ? あいつの事だから、いまごろ先生たちをを説得してるだろうけど、時間かかるだろうなぁ」
小夜理が逃走を手引きしてくれなかったら、八尋は教室でボロ雑巾になっていたかもしれません。
「よし、予定よりちょいと早ぇが、こんな時ゃ釣りだ! 釣りをするぞ!」
「おおっ、いいね~!」
「いいの⁉」
「いい訳ねぇけど、しょーがねぇだろ! 放っておけるか!」
三人は校舎を出て校庭脇の階段を下り、オンボロ小屋へと向かいます。
「決めたぞ! ムシャクシャした時ゃ数釣り! テンビン仕掛けのチョイ投げでシロギス釣り放題だ!」
「お昼は天ぷら三昧だね~!」
「天ぷらだけじゃねぇ。シログチやワニゴチも釣れっから刺身や塩焼きもイケるぜ!」
「おお~っ!」
玄関でスニーカーに履き替えた三人は、斜面を三段に仕切った校庭脇の階段を下ります。
夏の日差しでキラキラ輝く海が見えました。
「わあ……っ!」
窮屈な校舎を抜け出すのが、こんなに気持ちいいものだったとは。
「そうだ、スマホの電源も切っちまえ! 部室小屋に置いて行くぞ!」
「みんなビックリするね~!」
そういいながらも家にメールで詳細を報告する風子。
長年、弟にセクハラしつつも陰で守ってきただけはあって、根回しに手抜かりがありません。
「あっ、誰かきた!」
「隠れろ!」
最下段の校庭から獣道に入る八尋たち。
林を抜けると、釣り研究部のオンボロ部室小屋が見えてきました。
まるで子供の頃に憧れた秘密基地のようです。
「今日はマキエも知らねぇ俺専用の釣り座に連れて行ってやる! 校内だけど、そこなら誰にも見つかる心配はねぇから、思う存分釣りができるぞ!」
「やた~!」
「ええっ⁉ みんな心配するんじゃないかな……?」
「あいつらにゃキツいお仕置きが必要だろ? 探し回らせりゃいいんだよ! まあ、絶対ぇ見つからねぇ自信あるけどな!」
「見つからないと、あとで怒られそう……」
「気にすんな。ここは譲ったら駄目なところだ」
「ど~せいつ見つかっても、怒られるのは変わんないしね~」
歩はもちろん、風子も覚悟を決めていました。
その後三人は、堤防で楽しく釣りをしました。
たくさんのシロギスやアジやネズッポで、クーラーボックスに敷き詰めたた氷が見えなくなるまで、お昼ご飯も忘れての釣り放題山盛りフルコースでした。
歩が秘密にしている釣り座だけあって、本当に誰にも見つかりませんでした。
それどころか、誰かが探している形跡すらありません。
なんだかこっちが心配になってきたので、放課後になって釣った魚を部室小屋の冷蔵庫の押し込んでから、無人の教室に帰ると……。
三人は黒板にこのような条文が記されているのを発見したのです。
★稲庭くん七つの誓い★
第一条・稲庭くんをモフっていいのは一日一度、日直のみとする。
第二条・稲庭くんをモフっていいのは女子限定、男子は頭をなでるのみとする。
第三条・稲庭くんをモフっていいのは休み時間のみとする。
第四条・稲庭くんをモフっていいのは他の生徒が四名以上いる教室内のみとする。
第五条・稲庭くんをモフっていいのは最長一分までとする。
第六条・稲庭くんをモフっていいけど食べるの禁止(性的な意味で)。
第六条補足・キス、ホペチュー、ジー〇ブリーカー等の危険行為も厳禁とする。
第七条・稲庭くんが自由意志で抱きついた場合のみ例外とする。
なお盟約を破りし者はクラス会議により厳罰に処せられるものとする。
死あるのみと心得よ。
「どうやらマキエはいい仕事したみてぇだな」
小夜理とは行き違いになったようです。
いまごろ部室小屋で天ぷらでも作りながら待っているのでしょう。
「おお~っ!」
「でもこれ期待してたのとなんか違うよ……」
八尋の新しい学校生活は、前途多難なものになりそうです。
(終わり)




