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終章・その三

「ふゎふぁひふぁふ……ふゎふぁひふぁふ……」

 八尋やひろはふっくらした胸の中で暴れていました。

 ぽかぽか陽気で二人とも眠っていたらしく、寝ぼけた玉網媛たまみひめが八尋を抱きしめてモフモフしていたのです。

「ふぁぶっ! ちょっと玉網さん! 玉網さん起きて!」

 歩ほどではありませんが、それなりに大きな胸にはさまれた八尋がモゾモゾとい出して、玉網媛を起こそうと必死にさぶります。

「ふにゃ……宝利は愛らしくて、とてもよいにおいがしますね……」

 八尋の細くて小さい手に揺り動かされる感覚で、玉網媛は目を覚まします。

「…………八尋様⁉」

 意識がはっきりすると、今度は動転して八尋を突き飛ばす玉網媛。

「わあっ⁉」

 八尋は危うくヒラシュモクザメの背から転げ落ちそうになりました。

 覚えたばかりの神力でてのひらをサメにりつかせ、どうにか難を逃れます。

「も、申し訳ありません! わたくし、とんでもない事を……!」

 八尋はヤモリのように鮫肌さめはだを這い進んで、玉網媛の元へと戻りました。

「大丈夫……それより玉網さん、ヒラさんの様子がおかしいんだ」

 ヒラシュモクザメは相変わらず安定した飛行を続けていますが、なにか八尋にしかわからない変調をきたしているようです。

「熱い、苦しいって言ってる」

「…………もしかして」

 玉網媛には、八尋の言葉に思い当たる節がありました。

「わたくしたちが寝ているうちに、日が高くなりましたね」

 鮫肌に手を当てると、直射日光でかなり温まっています。

「先々代の蕃神ばんしん様にお聞きした事がございます。魚の体温はとても低く、高温に弱いと」

 魚の体温は、水温より少し高い程度です。

「人が触れると火傷やけどするそうです」

 釣った魚を放流リリースする時は、長時間触れないのが釣り師の鉄則。

 触りすぎると低温火傷を起こして、放流してもすぐに死んでしまうのです。

「ひょっとして熱中症かな?」

 いまのヒラシュモクザメは人間とは比較にならないほど大きく、触れたくらいで火傷などしませんが、夏場の直射日光を浴び続けて、体温が上がりすぎたのかもしれません。

「こちらでは攪乱かくらんと呼ばれております」

「ええと水……冷たい水はどこ⁉」

「降りればいくらでもございます」

 高度五百メートル以上にいるとはいえ、真下には大海原おおうなばらが広がっています。

「ヒラさん降りて! 降りて水浴びて!」

 八尋の声に応えたシュモクザメが、魚体を斜めにしつつ、ゆっくりと旋回しながら下降を始めました。

「あまり遠くへは行っていなかったようですね」

 元々斜めに泳いでいたサメが、旋回でさらにかたむいて、八尋たちにも海上の様子がうかがえるようになりました。

 魔海対策局のある入江や、埠頭に停泊する玉髄ぎょくずい霜降雀しもふりすずめが見えてきます。

「ヒラさん、もうちょっとスピード出していいよ。たぶんその方が冷えるから」

 海面まで時間がかかりそうなので、八尋は大気との熱交換による冷却を考えました。

 海水に比べればなしつぶてですが、着水までの間に、少しでも体温を下げておきたいところです。

「玉網さん、体勢変えるから背ビレにつかまれって」

 ヒラシュモクザメが斜めになっていた魚体を戻しました。

 平たく横に広がった頭部が先尾翼カナードの役割を果たしているので、体を水平に保って界面効果を得ないと、安定した着水ができないのです。

「この背ビレに摑まるのは、どうにも不安ですね……」

 ヒラシュモクザメの背ビレは長すぎて、大気中で垂直に立てると先が曲がります。

「大丈夫、根本は結構しっかりしてるよ」

 八尋は普段こそ軟弱な印象ですが、シュモクザメと一緒にいるいまは頼もしく見えました。

「サメと共感して大胆になっているのでしょうか……?」

 八尋はサメに勇気をもらったのかもしれません。

「一人しか摑まれそうにないから、ぼくは神力で貼りついてるよ」

「では遠慮なく」

 玉網媛はヒラシュモクザメの背骨に腰を降ろして、背ビレに手をかけました。

 八尋は背骨の上にまたがって、両手両足からの神力で体を固定します。

 シュモクザメは超低空を滑空しつつ、時おり尾ビレを海面に当てて減速をり返し、ゆっくりと着水を始めました。

 海面の弾性力による激しい縦揺れを起こし、なかなか魚体が安定しません。

 ようやく着水を終えて揺れが収まると、二人は一息吐いて会話を再開しました。

「どうにかおさまりましたね」

「うん、ちょっと危なかったかも」

「ずいぶんと離れた場所で着水するのですね」

 玉髄のいる入江まで、まだ二キロほど離れています。

「ヒラさん、止まるの苦手なんだって」

 大きなえらをエアブレーキのように広げられる硬骨魚類とは異なり、軟骨魚類はえらが未発達で、減速は苦手なのです。

 それに一万トンを超える大質量が、そう簡単に止まる訳がありません。

 シュモクザメはじっくりと時間をかけて減速し、緩慢かんまんな動きで玉髄の脇を通り抜けると、頭部を砂浜に乗り上げて、ようやく停止しました。

「頭から降りていいって。静かに、刺激しないようにね」

 八尋は玉網媛の手を引いて、そろそろと忍び足で歩きます。

 平たい鼻先の真ん中を通過して、砂浜に足を踏み入れる二人。

「やはりおかの上は安心いたしますね」

 ホッと一息つく玉網媛でした。

「えっ……? ヒラさん、なにかするの?」

 砂浜に乗り上げたシュモクザメが、頭部を持ち上げて数えきれないほど並んだ歯をガチガチと鳴らすと、ふんから十センチほどもの物体が飛び出して、八尋のてのひらに収まりました。

「……歯?」

 ふちにサメ科特有の、ノコギリのようなギザギザがあります。

「これ、くれるの?」

 八尋が顔を上げると、ヒラシュモクザメは青い光と共に消滅し、白く大きな宝珠に戻っていました。

 砂に落ちた宝珠を拾い上げて、歯と一緒に抱きしめる八尋。

「ありがとう。大事にするよ」

 その瞬間、八尋も消滅しました。

 肉体が海水へと還元されて、玉網媛の緋袴ひばかまらします。

 砂浜には八尋の巫女服と、シュモクザメの宝珠だけが残っていました。

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