終章・その二
脱衣場を出て傾斜梯子を昇ると、広い甲板に出ました。
空は薄暗く、水平線に沿って、ぼんやりと明るくなっています。
気温が低いので早朝でしょう。
視線を陸に向けると、例の温泉旅館もとい魔海対策局本部棟が見えました。
「お待たせいたしました」
玉網媛は巫女服を着ていました。
いつもの豪奢な神官装束ではなく、ヒラの巫女さんが使う予備の緋袴です。
「玉網さん、ここって翡翠じゃないの?」
眼前に聳え立つ前檣楼は象牙色に塗られていました。
翡翠は青みがかった暗灰色、いわゆる横須賀グレーです。
それに巨大な飛行甲板が見当たらず、前後の甲板にあるはずの主砲塔も存在しません。
翡翠と違って主武装が撤去され、基部が召喚用の祭儀室に改造されているのです。
「確かこの色、昼間に見たような気がする……」
江政の港で曳航されていた艦と同じ色。
「玉髄と申します。昨日の魔海災害で中破いたしましたので、しばらくここで停泊する予定となっております」
「翡翠は?」
玉髄の周囲には、小型艦の小早と伝馬船が浮かんでいるだけです。
「ただいま船渠にて改装中です」
翡翠は魔海対策用の設備を増設するため、大規模な改装工事が予定されていました。
悪樓の水揚げに対応した小型浮揚機関の増設、飛行甲板の交換、主砲を撤去して祭儀室を設置、玉網媛を始めとする巫女たちの使う女性用の設備など、時間のかかりそうな工事が目白押しです。
「埠頭に玉髄を残しておいたのは正解でしたね」
引っ越し作業のために停泊していたのですが、船渠に送って解体作業を始めていたら、召喚儀式ができなくなるところでした。
「八尋様、あちらをご覧ください」
玉網媛の細い指先が、上空に浮かぶ物体へと向けられます。
目を凝らすと、巨大な白い魚のようなものが、ふんわりと飛行していました。
「悪樓? でも魔海は出てないし……」
そもそも悪樓は空を飛びません。
「あれは八尋様のヒラシュモクザメです」
「ええっ⁉」
玉網媛に単眼鏡を渡されて、恐る恐る覗き込むと……。
「ホントだ……でも、ちょっとトゲトゲしてるね」
全身から薄緑色の光が漏れ出して、まるで悪樓のようです。
「生成りと呼ばれる形態です。大昔の書物に、宝珠の暴走による生成りの飛行が確認されております。緑の光は魔海の片鱗で、それを纏って空を泳ぐそうです」
「じゃあ、あのまま放っておいたら……?」
「より大きな魔海を呼び、あのサメは本当に悪樓と化してしまうでしょう」
「ええっ大変⁉ どうすればいいの⁉」
昼間に散々お世話になった相棒の一大事です。
「記録では蕃神様によって回収されたとありますが……とりあえず近くに行ってみましょう」
玉髄が係留されている桟橋の反対側で、玉網媛が専用に使っている小早【霜降雀】が出航準備を整えていました。
「わかった。急ごう……って、ヒラさんこっちに向かってきてない?」
水平線の上を飛ぶシュモクザメのシルエットが、さっきより大きくなっています。
「大変! 艦長に知らせないと……」
『総員対衝撃準備‼ でかいのがくるぞ‼』
見張りの水兵さんが真面目に仕事をしていたのか、玉髄の艦長さんは対応が敏速です。
放送と伝声管で艦内中に号令ががかかり、乗組員たちが慌ただしく配置につきました。
周囲に停泊していた小早や伝馬船が、錨を上げて移動の準備を始めています。
「八尋様、ここは危のうございます。急いで艦内に……」
「…………ヒラさん?」
その瞬間、八尋はヒラシュモクザメと心が通じた気がしました。
「わあっ!」
低空を飛ぶシュモクザメが玉髄へと一直線に接近し、脇を掠めるように通過しました。
悪樓になりかけているせいか、ただでさえ五十メートル以上あった魚体が、三倍の百五十メートルにまで膨れ上がっています。
「きゃっ!」
風と波で艦体が揺れ、玉網媛の足元が掬われました。
「危ない!」
八尋は反射的に玉網媛の手を取りました。
使い方を覚えたばかりの神力で、足の裏を甲板にがっちりと固定し、玉網媛を支えます。
「す……すみません。わたくし体を使う神力は不得手で……」
「そっか、玉網さんにも苦手な事ってあるんだ」
玉網媛は着陸寸前の伝馬船から飛び降りるなど運動神経こそ抜群ですが、神力が探知に特化しているのか、飛んだり跳ねたり貼りついたりは苦手なのです。
「そうだヒラさん!」
八尋がふり向くと、玉髄とすれ違ったシュモクザメが空中でゆっくりと旋回し、再び接近しつつあるのが見えました。
「海に降りようとしてる?」
どうやら先ほどの接近は、着水場所を確認する場周経路の一種だったようです。
シュモクザメは遥か彼方で海面を蹴立てながら着水し、じたばたと暴れるように時間をかけて減速、一万トンを超える巨体を玉髄の舷側すれすれに停止させました。
「ヒラさん、乗れっていってる……」
「ええっ⁉ 八尋様、それは危のうございます!」
魚体を斜めにしたまま停止したシュモクザメは、八尋たちに背中を向けて、誘うように背ビレをヒラヒラと振っています。
「玉網さんも一緒に乗ろうよ。ぼくが連れて行ってあげるから」
「きゃっ⁉」
八尋は玉網媛を抱えて、サメの背に向かって跳躍しました。
お姫様だっこです。
宝利の時とは立場が逆になりました。
「飛ぶから摑まれって」
ヒラシュモクザメの背中に着地して、玉網媛をそっと降ろす八尋。
「どこにですか⁉ それに八尋様はサメのおっしゃる事がわかるのですか⁉」
「わかるよ、相棒だもん」
昼間は神楽杖を通して意志の疎通をしていた八尋ですが、いまは竿がなくても気持ちが通じていました。
「ザラザラしてるから滑ったりしないよ。それに、ゆっくり飛ぶから大丈夫だって」
サメの体表は楯鱗と呼ばれるミクロサイズの鱗で覆われ、その間に海水を保持して水の抵抗を軽減する仕組みになっています。
鮫皮おろしと呼ばれるワサビ用のおろし金に使われるほどザラザラしていて、ヤスリのように八尋たちの足裏をしっかりと保持しています。
「座った方がいいみたい。もう乾いてるし」
八尋はすでに腰を下ろしています。
「そ……そうですね。では失礼して……」
座ってみると、八尋の言う通り、サメ皮の滑り止めが効いて安定感がありました。
「これは……気をつけないと手の皮が剥けますね」
八尋のヒラシュモクザメは通常の三十倍もスケールアップしているので、ザラザラというよりギザギザしていました。
「あっ、ヒラさん動くみたい」
ヒラシュモクザメが前進を始めます。
体を斜めにしたまま百八十度転進し、砂上を滑るような音を立てて加速すると、ふんわりと優しく離水しました。
同時に全身を纏う薄緑色の光が青に変化します。
「八尋様は神楽杖もなしにサメと共感しているのですか……?」
「あれって持ってないとダメなの? でもできちゃってるし、ヒラさんも喜んでるみたいだよ?」
八尋にはなにか特別な力があるのか、それとも誰も使った事がない能力に八尋が気づいただけなのか、玉網媛にはわかりません。
ただ八尋とサメの間に、深い信頼と友情が存在するのは確かなようです。
「ぼくが突然いなくなったから心配して探してくれたんだね。なにも言わずに帰っちゃったから……」
「ええ、ええ、そうでしょうね! わたくしにはまったくわかりませんけど!」
もうどうにでもしてくれといわんばかりの玉網媛でした。
実はなのりそ庵で、ヒラシュモクザメの宝珠がまたやらかしてくれたのです。
宝珠を翡翠から降ろして、玉網媛の執務室に置いたのが裏目に出ました。
もちろん仕事場はメチャクチャで、ガラス窓と障子はもちろん、玉網媛の執務机まで跡形もなくなっています。
「全く、そのような理由でいちいち大暴れされては先が思いやられます!」
「ごめんなさい…………」
共感で記憶が伝わったのか、サメの悪行を知った八尋が代わりに謝りました。
「と、とんでもございせん! 八尋様が謝罪するなど畏れ多い!」
サメに不満をぶちまけたつもりだったのに、八尋に謝られて、玉網媛は動揺します。
「全てはサメが……」
そこでようやく、玉網媛は気づきました。
八尋とサメは感情が繋がっているので、サメに怒るのは八尋を叱るのと同義なのです。
そして巫女が神を責めるなど、もっての外です。
「……仕方ありません。サメの罪は、この遊覧飛行で贖っていただきましょう」
玉網媛はものすごく無理矢理な理屈で、今回の事件を有耶無耶にしました。
幸い玉髄の時と違って、本部棟の被害は執務室の窓と机だけです。
「それにしても殺風景ですね」
巨大なサメの背からは、魚体から漏れる青い光の波のせいもあって、薄暗い空と水平線しか見えません。
これではせっかくの遊覧飛行が台なしです。
「八尋様、どうせなら鼻先へ行きませんか? もう少し眺めのよいところに行きたいのですが……」
遊覧飛行で罪を贖えといった以上、玉網媛はどうあっても飛行を楽しむつもりでした。
シュモクザメの平たく横に広がった頭部なら、船の舳先のように広大な視野が臨めるかもしれません。
「ダメだよ。あそこは敏感なんだって」
鼻先にあるロレンチーニ瓶は数少ないサメの弱点で、ここを殴られると方向感覚を失って退散するほど鋭敏な神経が集中しています。
特にシュモクザメは器官が大きく発達しているので、下手に刺激すると、暴れて振り落とされるかもしれません。
「その代わり、どこでも飛んで行くって」
「では八尋様かサメのお好きなところへ……いえ、陸には近づかないでください」
民草の目に触れたらパニックになります。
玉網媛は専門外の航空法と航海法を記憶から呼び起こし、今後の飛行計画をこねくり回します。
「そうですね……では、できるだけ高空に上がってください。現在この辺りを航行中の竜宮船はありませんが、五町(五百四十五メートル)より上なら、より安全に飛行できるでしょう」
玉網媛の神力は神気の探知に優れ、竜宮船に使われている宝珠の位置がレーダーのように把握できるのです。
魔海の発生を予知するご神託も、この能力で神気図を作って予測したものでした。
「五町……?」
メートル法しか知らない八尋には尺貫法が通じません。
「確か玉髄の全長が一町四間(百八十一メートル)ですから……その三倍ほどです」
弥祖皇国でもメートル法やヤード・ポンド法が使われていますが、神官教育で尺貫法に慣れた玉網媛はメートル法が苦手です。
「えっと……そっか、とにかく上昇すればいいんだね」
いまいち距離感が掴めない八尋ですが、その分高度に余裕を持たせればいいと解釈しました。
「あとはヒラさんの好きなように泳いでいいよね?」
「ええ、いかようにも。でも八尋様、どのくらい飛べば、このサメに満足していただけるのでしょうか?」
「さあ……? 結構気の長い子みたいだし、日暮れまで泳ぎ続けるかも……?」
サメが泳げば泳ぐだけ、玉網媛の仕事が山積みになります。
「あっ、もしかして迷惑だった?」
「少しだけ……いえ、この際ですから、これを建前に休憩といたしましょう。実は一昨日の朝から一睡もしておりません」
ブラック業態もいいところですが、責任者は玉網媛自身なので文句も言えません。
「うわあっ……神官長って大変なんだね」
その時、二人の顔に朝日が差しました。
ヒラシュモクザメが高度を上げた分だけ、日の出が早まったのです。
「綺麗だね……」
「そうですね」
八尋は朝日を眺めていましたが、玉網媛は八尋に見惚れていました。
遠い昔、まだ全身を厳つい筋肉に覆われていない、美少年だった頃の宝利命を思い出します。
『姉様、姉様』と、玉網媛を呼びながらついて歩く、幼い実弟の姿を……。
「これも逢引きのうちに入るのでしょうか……?」
目の前の少女は少年です。
わけのわからない状況ですが、年の差を思えば性別なんて気になりません(錯乱)。
そして八尋を見ているうちに、突然抱きしめたい衝動に駆られました。
頬ずりしたい。できればそのふっくらとした頬に接吻したい……。
急速にショタの道へと目覚めつつある玉網媛でした。




