第六章・帰還・その二
「ただいまー」
幸い夜道でイノシシに出会う事もなく、無事に我が家へと帰り着いた稲庭姉弟でした。
引っ越し当日の新居なのに、もう何日も帰っていない気がします。
「イノシシ出なかったね~」
「出たら姉ちゃん囮にして逃げるからね!」
風子の方が逃げ足速いので無理でしょう。
「牡丹鍋食べたかったよ~」
風子はイノシシが食材にしか見えないようです。
イノシシは大変危険な猛獣なので、もし遭遇したら、ゆっくりと静かに後退しながら脱出しましょう。
「いや倒せないから……って、まだ食べる気なの⁉」
「二人ともお帰りなさい」
玄関で買ったばかりの靴を脱いでいると、両親がやってきました。
「学校で釣りして食べたんだよ~」
「あらまあ、夕食をいただいたのは漁師さんのお宅じゃなかったのね」
「釣りの部活なんだって~」
話ながら廊下を抜けると、ダイニングにはもう誰もいません。
「みんな帰っちゃったわよ」
「明日は月曜だからな」
八尋と風子がいない間に、引っ越し祝いの宴会はお開きになったようです。
「お寿司残ってるけど、食べる?」
宴会の残りが二つの寿司桶に纏められ、ラップがかけられていました。
「食べる~!」
「ええっ⁉ ホントに食べるの?」
夕食を部室小屋で済ませて、異世界でもご馳走をたらふく食べたばかりの稲庭姉弟ですが、胃袋には夕方に部室小屋で食べた分しか入っていません。
小食な八尋には、それでもじゅうぶん満腹なのですが……。
「お寿司は別腹だよ~?」
「ケーキもあるわよ」
「わ~い♡」
八尋は考えただけで気分が悪くなりました。
「お母さんはお茶とコーヒーを淹れてくれ。風子と八尋はお父さんの部屋にきなさい。ちょっと話がある」
そういってお父さんは廊下を歩き、新たな自室へと向かいました。
「なんだろうね~?」
風子がヒョコヒョコとヒヨコのようにお父さんについて歩き、八尋もあとを追います。
目的の部屋に到着すると、お父さんは片手を上げて、招くようなポーズを取りました。
「釣りに目覚めたな我が子らよ……私はこの時を待っていたぞ‼」
「なっ……なにが始まったの⁉」
「おまえたちに釣り道具を与えよう。いまひとたび釣りの世界に生きるがよい……」
「え~っと……お父さん~、おかしくなっちゃった~?」
「いや昔、みんなでよく釣りに行ったじゃないか」
「そんな事あったっけ?」
「でも、お父さんがウツボを釣っちゃって、それを見た八尋が泣き出してなあ……」
「覚えてないよ~」
「確か三つの時だったかな?」
記憶よりトラウマだけが残る年齢です。
「なにはともあれ、二人が釣りを始めたのはめでたい! 竿はいくらでもあるから、好きなのを使いなさい」
お父さんが開き戸を開けると、隣は物置き部屋になっていました。
「うわあ……」
驚きではなく、呆れの声でした。
「凄い量だね~」
物置一杯に、釣り竿やクーラーボックスなどが山積みになっていました。
棚には大量のリールが、ぎっしりみっちり所狭しと並んでいます。
「お父さん、釣りやってたの?」
「会社に置いといたのを持ってきたんだ。お父さんの会社の名前、憶えてるか?」
「え~と、スミノだっけ~?」
「株式会社SUMINO。釣り具メーカーだ」
「ええーっ⁉」
「住吉のおじいちゃんって、釣り道具屋の社長さんだったの⁉」
毎年お正月にいっぱいお年玉をくれる母方の祖父が、お父さんの会社で社長をやっているのは八尋も知っていましたが、まさか釣り具メーカーだったとは。
「二人ともウツボを見て海が大嫌いになってなあ。おじいちゃんと相談して、大きくなるまで釣り道具を見せない事にしたんだ」
子供は下手に強制すると、返って嫌いになるものです。
「釣りは大きくなってから覚えた方が、ハマる人が多いからね」
「どうしよう。おじいちゃん放ったらかして遊びに行っちゃったよ……」
つい先ほどまで、祖父はダイニングで親族と宴会をしていたはず。
もっと早く帰って釣りをしたと話せば、お小遣いをもらえたかもしれません。
「さっき風子が釣ったハゼの写メを送ってきただろう? それを見て、おじいちゃん感極まって泣いてたよ」
「悪い事したなあ……」
「残念だったね~」
真面目に反省する八尋と違って、風子はもらいそこねたお小遣いで頭がいっぱいです。
「この辺でハゼを釣ったという事は、堤防釣りだね? とりあえず二本もあればいいかな。どれにする?」
お父さんが釣り道具の山を漁りながら二人に質問します。
「どれでもいいの?」
「どれも高価そうだね~」
新品で買えば万単位の値段がする高級品ばかりです。
「私のお気に入りは別にしてある。遠慮しなくていいぞ」
「スミノ多いね~」
「そりゃそうだよ。でも他のメーカーもあるね」
「他社製品の具合を確かめたかったんだ。もう用済みだし、このまま置いても埃を被るだけだからね」
釣り道具専門の買い取り店があるので、売ってもよかったのですが、お父さんは手放すのを惜しんで倉庫の肥やしにしていたのです。
「どれがいいかな……」
「迷ったらバスロッドだ」
お父さんが助言を入れました。
「バスって、ひょっとしてブラックバス?」
池の水を抜くと出てくる定番の魚です。
「黒いバスがどうしたって~?」
風子は黒いハイ〇ースを想像していました。
「淡水魚じゃん!」
スズキ目サンフィッシュ科の魚で、日本にはオオクチバスとコクチバスの二種が棲息しています。
河川や湖沼に棲む、紛う事なき特定外来生物です。
「ぼくたち海で釣るんだよ?」
「バスロッドは場所を問わずに使える万能竿だ。軽くてコンパクトで、そこそこ丈夫。よくしなるし竿先の感度もいい。キャスティングを前提に作られているから、投げてよし、落としてよしと汎用性も高い。初心者にはスピニングタックルがお勧めだ」
専門家の性なのか、お父さんの口が止まらなくなります。
「スピニングって、リールじゃないの~?」
棚のリールを指さす風子。
堤防で八尋たちが使ったものと、よく似た形です。
「リールの規格で竿も変わるんだ。こっちはベイトリールとベイトロッド」
ベイトリールはスピニングリールと違って、糸巻き《スプール》が横向きについています。
「こいつはちょっと扱いが難しい。いまはまだ使わない方がいいな」
「ふ~ん」
よくわからないものには興味を示さない風子でした。
「スピニングリールは竿の下側、ベイトリールは上に装着するから、竿の規格も違う。この辺りなんかどうだ? こいつは振り出し式で、こっちの長いのは継ぎ竿……」
お父さんはとうとう勝手に竿のチョイスを始めてしまいました。
「ぼくたちは学校で釣るから、コンパクトな方がいいな」
一方的に選ばれるのはまずいと思ったのか、八尋が注文を入れます。
「じゃあ振り出し式で決まりだな。長さも色々あるぞ。釣り座から釣り場までの距離で決めるんだ」
竿は長いと仕掛けが遠くに飛び、足元を狙う釣りには短い方が適しています。
バスロッドは振り出し式の方が強度が低く値段も安いのですが、堤防での気軽な釣りにはピカイチの利便性を誇ります。
「ペン型ロッドあるから~、もうちょっと長いのが欲しい~」
「じゃあシーバスロッドも候補に入れよう。バスロッドは180センチが普通だけど、こっちは270センチ以上あるぞ」
「シーバス~? 海にバスなんているの~?」
お父さんは気づいていませんが、風子の脳内には、海中を進む黒い潜水艇がぼんやりと浮かんでいました。観光客が窓から魚の群れを見て歓声を上げています。
「ブラックバスの親戚だ。しかもでかい」
「おお~っ」
黒い観光用潜水艇が、ロシアの戦略ミサイル原潜並みの特大サイズになりました。
「みんなお湯沸いたわよ。お茶にしましょう」
待ちかねたお母さんが、物置き部屋に顔を出しました。
「……あとにするか」
「うん」
「そだね~。お寿司もあるし~」
宝の山からお気に入りを探すのは、楽しくて時間が経つを忘れてしまうものです。




