第一章・堤防で釣りをしよう・その二
稲葉八尋は転校生です。
ただし正確には、まだ転校したとはいえません。
つい先ほど引っ越しが終わったばかりで、登校は明日から。
引っ越し作業はほとんど業者がやってくれましたが、手伝いと称して集まった親戚一同が宴会を始めてしまい、制服を買いに行くのを口実に、姉弟揃って逃げ出したのです。
親戚たちからお小遣いをもらったので、懐はホクホク。
近所のショッピングセンターで制服や鞄を買い揃え、遅い昼食をとってからゲームコーナーで時間を潰していたという次第です。
「うわあ…………」
「田舎の学校だ~」
駅前から循環バスでやってきた稲葉姉弟ですが、あまりにも閑散とした風景に茫然としていました。
「日曜日だし、誰もいないんじゃない?」
下校中の生徒とすれ違う事もありません。
「部活くらいやってると思うよ~」
「それに学校なんて……」
授業の有無に関係なく、八尋には学校に行きたくない理由がありました。
前の学校で酷い目にあったのです。
「丁度いいじゃん~。これなら周りを気にせず見学できるよ~」
学校は小高い丘の上にポツンと建っていました。
それ以外は田んぼと麦畑ばかりです。
学校のある丘の周囲は山と防風林で埋め尽くされ、校舎の向こう側は全く見えません。
とりあえず校庭があるのは確かなようですが……。
「ほらほら入るよ~」
「わあっ、ちょっと引っ張らないでよ!」
校門の内側に引きずりこまれる八尋。
傍目には登校拒否児童が家族に無理矢理登校させられる光景にしか見えません。
「やだよ見つかったら大変だよ!」
「制服着てるから大丈夫~。バレっこないよ~」
ゲームセンターのトイレで買ったばかりの服に着替えた時、八尋は女子トイレに連れ込まれそうになったり、風子の制服を着せられそうになったりと散々な目に遭っています。
風子は弟を男と思っていないのです。
「まだ生徒手帳持ってないんだけど……」
「バレたって怒られないよ~? 明日からここの生徒なんだし~」
見つかっても、せいぜい追い出される程度でしょう。
ひょっとしたら歓迎されて、先生や生徒に校内を案内してもらえるかもしれません。
「校舎は普通だね~」
渡り廊下を横断して校庭に出ると、八尋は強烈な夏の日差しに目が眩みました。
斜面に建てられているせいか、校舎と校庭は城壁のような段差で仕切られています。
校庭も二段に区切られていて、上段は陸上部の周回走路が、下段には野球部の使うダイヤモンドの白線が引いてありました。
ただし主力部員が出払っているのか、数人の生徒がトンボを引いているだけです。
「ほら八尋、隠れてたらバレちゃうよ~」
八尋は風子の後ろに隠れて歩きました。同年齢の男子に見つかるのが怖いのです。
「設備はちょっと古いけど、結構綺麗に使ってるんだね~」
ゴミはもちろん枯れ葉一枚落ちていません。
前の学校は数か月しか通っていませんが、もう少し汚れていた気がします。
おまけに高校生とは思えない整理整頓ぶりでした。
「この学校、なんて名前だっけ?」
ランニング中の陸上部とすれ違い、八尋はサッと風子の後ろに隠れつつ聞きました。
「市立磯鶴高校~」
「磯鶴? って事は……」
先ほどから気になっていました。
潮の香りがやけに強いのです。
階段で校庭の段差を下って行くと……
「わあっ海だ~! やっぱり海あったよ~! 海だよすご~い!」
ハイになった風子が子犬のように駆け出しました。
「ちょっと待って置いてかないで!」
盾を失った八尋が慌てて風子を追いかけます。
「海耐性なさすぎでしょ!」
二人とも元は横浜市民なので海くらい見慣れていますが、風子は海を見るとあと先かまわず駆け出してしまう、おかしな習性を持っているのです。
「ホントだ、海あった……」
校庭の最下段を抜けると、下り階段の先に海がありました。
防砂林の隙間から防波堤と船着き場が見えます。
仕切りがないので、ここも学校の敷地内でしょう。
「これはもう魚釣りしかないよ~!」
八尋と同じ顔の姉が突拍子もない事を言い出しました。
「道具持ってないじゃん!」
風子と同じ顔の弟が怪訝な顔をしました。
なにを言ってるんだこの馬鹿は、という顔です。
「持ってるよ~! さっきゲットしたも~ん!」
風子は立ち止まって、持っていた袋をガサゴソとまさぐりました。
「ほら~!」
三十センチくらいの箱が出てきました。
どうやらクレーンゲームで取った景品のようです。
「ペンじゃん」
普通のペンより遥かに大きいとはいえ、それでもボールペンにしか見えません。
「ペンじゃないよ~。ペン型の釣り竿だよ~」
箱の透明なポリエステルの窓を見ると、ペンの横に小さなリールが入っていました。
「ほんとだ……なに釣るの?」
「イクラ~♡」
見た目は小学生でも、中身は幼稚園児以下でした。
「……イクラってなにから生まれるか知ってる?」
ネットかTVで、イクラを餌にして魚を釣る映像を見て勘違いした可能性は大です。
「シャケだよ~。それくらい知ってるよ~」
どうやら双子の姉は、馬鹿ではなかったようです。
「シャケからスジコが生まれて~」
話がおかしな方向に漂流を始めました。
「大きくなったらイクラを産むの~」
筋子は鮭の卵巣、イクラは卵巣から取り出した鮭の卵。
そこは間違っていません。
でも産卵の過程が常識の彼方に旅立っていました。
義務教育の敗北です。
「で、イクラが大きくなって新巻鮭になるんだよ~」
孵化を忘れたまま成長してしまいました。
しかも塩まで振ってあります。
なにしてるんだ学校教育。
「うん、もうそれでいいよ」
反論する気力が根こそぎ抜けました。
「できた~!」
そうこう言っているうちに、風子は組み立て作業を終えていました。
ちゃんと穂先から糸を垂らしてあります。
「説明書を読んだのよ~」
自慢気に、ない胸を精一杯張る風子。
「…………針は?」
なんとなく予想はしていましたが、糸の先にはなにもついていません。
「針~? それならソーイングセットに~」
風子が再びガサゴソと荷物を漁ります。
「それで釣れるのは文王だけだよ……」
その昔、呂尚といふ男がいました。
彼は渭水(黄河の支流)でまっすぐな針をつけた糸を垂らし(所説あり)、最初に声をかけた姫昌(文王)を主君として仕え、後に斉国の領主になったと伝えられています。
世に【太公望】の異名で知られる歴史上の偉人です。
「とにかくやってみよ~? マグロは無理でも、きっと活け造りくらいは釣れるよ~」
「それ刺身要素が全部落っこちるよ! 頭と骨しか残らないよ!」
実の姉とはいえ、そろそろ知能の有無を疑いたくなってきた八尋です。
「見ねぇ顔だな。お前ぇら転校生か?」
後ろから突然、声をかけられました。
「えっ⁉」
振り向くと、八尋たちと同じ、磯鶴高校の制服を着た女生徒が仁王立ちしていました。
たくし上げてミニにしたジャンパースカートの裾から、黒いスパッツがはみ出して、腰にはオリーブ色の横長ポーチのようなものがついたベルトを巻き、足にはデッキソールを穿いています。
海賊巻きにしたモスグリーンのバンダナキャップには、魚の骨をモチーフにした白いマーキングが染め抜かれていました。
肩にはクーラーボックスを、右手には風子のより倍近く長い釣り竿を持ち、背中には色褪せたリュックを背負っています。
「ほ……本物の釣り人だ!」
「つー事は、お前ぇらズブのシロートか」
その女生徒はやけに長身でした。
リボンタイが赤いので、八尋たちと同じ1年生のようですが、八尋たちとは比較にならない背丈の持ち主で、百七十センチはありそうです。
髪は金色のセミロングで、毛染めや脱色をしたとは思えないツヤがありました。
目つきは鋭いものの、じゅうぶん美人の範疇に入るでしょう。
しかし眉毛はキリッと太く直線的で、下顎の犬歯がやけに目立っていて、まるで昔の少年漫画に登場する、武闘派の主人公みたいな相貌でした。
肌や釣り道具の日焼け具合から、昨日今日に釣りを始めた素人ではなさそうです。
「女装した外人さんのやんちゃ坊主~?」
つい第一印象を口にしてしまう風子。
「その通りやんちゃ坊主様だぜ! 女子だけどな!」
「やんちゃ坊主は否定しないの⁉」
「全く、久しぶりに堤防で釣ってる奴がいると思ってきてみりゃ、仕掛けも持ってねぇ初心者たぁ恐れ入ったぜ」
胸を張って怒りを顕わにする金髪釣り師さん。
八尋はあまりの漢っぷりに、いままで気づかなかったのですが、そこには制服でも隠しきれない巨大なお乳様が鎮座ましましていました。
胸を張ると『ぶるうぅぅんっ!』と盛大に揺れる、超メガ盛りサイズです。
坊主呼ばわりは、このお巨乳様に対して失礼というものでしょう。
「テメーらそこに直れ! 今日は徹底的に釣りのなんたるかを教育してやる!」
江戸前なのか旧ドイツ軍風なのかよくわかりませんが、なにをいっているのかは八尋にも理解できました。
要するに見ちゃいられないから教えてくれる、という事です。
「やった~師匠ついた~♡」
そして、どこまでも能天気な風子でした。