断章・その五
「……八尋?」
露天風呂の濁り湯に小さな水柱が立ち、八尋は宝利命の眼前で消え去りました。
「八尋ッ‼」
宝利は八尋が転んで水中に沈んだのかと思い、白濁したお湯を掻き分けます。
しかし、そこには硫黄泉特有の腐った卵みたいな臭いがあるだけで、小柄で可憐な少女の姿はどこにも見えません。
「…………なにが起こった?」
相手は神なので、なにをしでかしても不思議ではありませんが、先触れもなく消え去るなど尋常ではありません。
「蕃神様がお帰りになられたのです」
「姉上?」
洗い場に玉網媛の姿がありました。
服は着ています。
「帰った? 八尋の意志に関係なく?」
「そうです。召喚はわたくしたちたち神官が行いますが、帰りは人の手に負えないのです。全ては海神様の御心のままに」
皇女であり巫女でもある玉網媛は、神の名を呼びません。
弥祖皇国は多数の島々を抱えた群島国家で、多神教を崇拝しています。
同じ役割の神でも地域によって呼び名が異なるため、皇室や政府は、神の名ではなく役割で呼び分けて数多の信仰を束ねているのです。
「しかしこれは……」
八尋がいた場所は湯の濁りが薄く、代わりに晩餐と思われる食べ滓が散乱しています。
エンガチョ級にばっちい状況ですが、宝利はそれを汚いとは思いませんでした。
「蕃神様の召喚は、海より汲み上げた水を招代としています」
「海水……だと……?」
いままで水の塊と会話していた事にショックを受ける宝利でした。
「そうです。元より蕃神様は、わたくしたちとは別なる常世の方々。御身をそのまま現世に顕す事叶わず、その御霊のみをお招きしております」
神官たちは、玉髄の撤去された主砲塔基部にある祭儀場で、浴槽を海水で満たし、その水を仮の肉体として蕃神を召喚していたのです。
「今朝方、八尋が海に落ちたのは?」
「あれはおそらく、巫女たちの不手際によるものです。わたくし自ら儀式をおこなっていれば、あのような不祥事は起こりませんでした」
悔恨極まる記憶を呼び起こされ、玉網媛は眉を顰めます。
実の姉の全身から立ち昇る暗黒の神気を見て、宝利は慌てて話題を変えました。
「そうだ姉上、歩殿たちから、八尋が男子であるとの話は聞いておらぬか?」
「男子? なんの話でしょうか?」
やはり誰からも聞いていなかったようです。
「いや、あとで話そう。どれ、吾輩もそろそろ上がろうか。姉上はしばし表で待ってくれ。湯に入る気であったのであろう?」
そこで宝利は、足元の水面に浮かぶ食べ滓を見ました。
「……今日は無理か」
八尋の帰還と同時に体内の胃液も海水へと戻っていますが、それ以外は夕食を原料とする吐瀉物、いわゆるゲ〇でした。
さすがの玉網媛も、湯を入れ替えずに入浴する気にはなれないでしょう。
「いえ、わたくしは【潮通しの湯】を確認したのち、職務に戻ります」
玉網媛の目的は入浴ではなく、蕃神たちの帰還を確認するために館内の見回りをしていたのです。
もし蕃神たちが食堂や寝室で消えると、大量の海水や吐瀉物で部屋が汚れるので、場合によっては畳を張り替えるなど、大がかりな改装工事が必要になるかもしれません。
その時は汚れが壁や畳に浸透する前に対処しないといけないので、小まめな見回りが欠かせないのです。
魔海対策は国家の最優先事業なので、改装の出費など大した痛手ではありませんが、後始末を考えると、蕃神全員が浴場で帰還したのは幸運といえるでしょう。
「ところで宝利、夕餉はもう済ませましたか?」
「まだだ。昨夜からなにも食うておらぬ」
事務仕事にひと段落ついて、ようやく湯浴みができたところです。
「蕃神様の御供物が残っております。共にいただきましょう」
「吾輩たちだけでか?」
「巫女たちと共に」
普通は上司が部下を食事に誘っても、仕事のうちと思われるのがオチでしょう。
どうやら玉網媛は宝利と同様に、局員たちの信頼を獲得しているようです。
「なるほど、さすがは我が姉だ」
宝利も翡翠の乗組員たちに混ざっての食事を好みます。
「料理は一階の大食堂に運ばせました。宝利の話もそこで聞きましょう」
脱衣場への扉を自ら開けて、玉網媛はその場を立ち去りました。
続いて宝利も、湯治でいくらか楽になった足で、岩風呂の縁を跨ぎます。
――そこでふと、八尋が寄りかかっていた大石が気になって振り返りました。
水面には相変わらずゲ〇が浮いています。
「姉上の申す通りであれば……」
八尋が召喚術の手違いで女性となったのなら、次に会う時は男同士かもしれません。
それも悪くないと思う宝利でしたが、心根になにかが引っかかります。
「……そうか、これが戀と云うものであったか」
弥祖皇国第三皇子・宝利命、満十六歳。
人生初の失恋でした。
そして、失恋してから初恋と気づきました。