第五章・魔海対策局温泉旅館【なのりそ庵】・その一
「ところで釣力ってなんなの? 神力とはどこが違うの?」
悪樓釣りは門外漢の宝利に聞いてもわからなそうだったので、八尋は歩に聞いてみる事にしました。
「神力はこの世界にある神気を物理的な力に変える能力だ。誰にでも使える訳じゃねえけど、俺たち以外にも使える人間がいる。さっき教えなかったっけ?」
「うん、聞いてない」
跳んだり踏ん張ったりなど、使い方しか教わっていません。
「そうだったか? まあいっか、いま教えたし」
「そんないい加減な……」
「魔法っぽいとこもあるけど、どっちかっつーと気とか超能力に近い」
「念動力みたいだよね~」と風子。
「玉網さんのような探知系の方もいますし、一概に念力とはいいきれませんけどね」
小夜理が説明を補足しました。
「あと釣力は俺たち蕃神しか使えねぇ。神楽杖を通して使う、この世ならざる異能だ」
「それはわかってるけど、それじゃわからないよ」
悪樓釣りで神力と釣力をなんとなく使いこなせるようになった八尋ですが、どうしてそんな力が使えるのか、なぜ二つの力を使い分けたり呼び分けたりするのかは、まるで理解できません。
「慣れると色々できるようになるんだが……原理は聞くなよ。たぶんタモさんにもわからねぇんじゃねぇかなぁ?」
翡翠は魔海対策局の本部へと進路を定め、高度三百メートルを順調に航行中。
八尋たちは艦内の士官用食堂で、到着までの時間を持て余していました。
「神力はそれなりに解明されているようですね。翡翠の動力機関にも使われています」
「どんな仕掛けなの~?」
「俺たちが液晶テレビの構造を説明できねぇのと同じだ」
「私も理解できませんでした」
「結局なにもわからないんだね」
呆れる八尋。
「それにぼくたち、いつ元の世界に帰れるの?」
帰れるとは聞いていますが、いつ戻れるのかは聞いていません。
「そのうち勝手に戻される。数時間後か、遅くても明日の午前中ってとこかなぁ? ひょっとすると、いますぐかもしれねぇ」
凄まじく大雑把な推測ですが、帰れる事だけは確かなようです。
「家に連絡したいんだけど……」
八尋がこの世界に召喚されてから、およそ十五時間ほど経過しています。
元の世界ではとっくに夜が明けて、家族が警察に捜索願を出してもおかしくない頃合いです。
「歩さんスマホ持ってる?」
一縷の期待すら持ってはいませんが、一応聞いてみました。
「愚問だな。俺たちゃ裸一貫で召喚されたんだぜ?」
「やっぱり……」
「お母さんたち心配してるよ~」
さすがの風子も不安になってきたようです。
「心配ねぇよ。あっちの世界じゃまるで時間経ってねぇから」
「なにそのご都合主義⁉」
「理由はわからねぇけど、帰りゃ校門を出た日暮れ時に戻れる。これだけは間違ぇねぇ」
「それっていつ帰ってもいいって事?」
「それなら心配ないね~。ご飯食べる時にメール出したもんね~」
その時、八尋の胃袋がグゥ~ッと鳴りました。
「ご飯の話聞いたら、お腹空いちゃった」
「お昼におにぎり食べたっきりもんね~」
「ぼく、こっちの世界にきてから、なにも食べてないよ……」
いままで悪樓釣りに夢中になっていたせいか、空腹を忘れていた八尋です。
「私はお茶を飲みましたよ。吐きましたけど」
小夜理はキラキラしないと船酔いが抜けず、数時間ごとに飲んでは吐きを繰り返していました。
甲板で八尋が目撃したのは、昼食後で三度目のキラキラです。
「ここ食堂だったよね?」
食堂ではあるのですが、料理人がいなくては食事ができません。
調理場の火も落とされています。
「お腹すいた~!」
場所が場所だけに、空腹感が抑えられない風子でした。
「本部に着いたらご馳走が出るぜ」
「ホント⁉」
「やた~!」
「料理を目の前にして、元の世界に連れ戻されなければの話ですけど」
「そんな事あるの⁉」
「俺は一度だけあった。まあ滅多に起こらねぇから安心しろ」
「そっか……」「じゃあ大丈夫だね~!」
諸手を上げて喜ぶ欠食姉弟ですが、そこで八尋はなにかを忘れている気がしました。
「…………そうだ女体化~!」
八尋より先に風子が思い出しました。
「そうだった! ぼく、どうなっちゃうの⁉ 女の子のまま元の世界に帰ったら……」
忘れていたというより、忘れていたかった八尋です。
「わたしは大賛成だけどね~」
などと言いながらも、内心は男女どちらでも構わない風子です。
「帰りゃ男に戻れるたぁ思うんだが……帰ってみねぇとわからねぇなぁ」
「そんなあ!」
帰っても女性のままでは、この先、学校でクラスメイトたちと、どうつき合って行けばよいのでしょうか?
放課後の部室小屋で、歩にセクハラ三昧される日々が、容易に想像できてしまいます。
実は男に戻ると歩より小夜理が怪しいのですが、八尋はそこまでは考えていません。
「着水用意! 総員、衝撃に備えよ!」
「着水準備―!」
艦内通路を伝令の水兵さんたちが走り回っていますが、彼らは八尋たちと顔を合わせようとしません。
「そういえば~、わたしたちに話しかけるのって~、宝利さんと玉網さんだけだね~」
「俺たちゃこの国じゃ神様扱いだから、女皇や皇族以外は話しちゃいけねぇらしい」
召喚儀式を行った巫女さんたちですら、蕃神との会話は許されていません。
「その神様っていうの、なんとかならない?」
「俺たちを人間扱いすると、女皇の格まで下がって国の威信が揺らぐんだと」
八尋は、蕃神は女皇と同格で、皇族より格上と宝利が言っていたのを思い出しました。
「それって、平民は女王さまにも話しかけちゃ駄目って事?」
「そーゆーこった」
女皇は弥祖皇国を象徴する神とされているので、たとえ国家議員でも、皇族に連なる者でなければ会話を許されません。
「あと、この階から下は乗組員が大勢いるから、俺たちは降りちゃ駄目なんだと」
「顔を合わせるのもダメなの~?」
腐った理由で男の園に興味津々な風子です。
「そんな事ぁねぇだろうけど、会ったら挨拶したくなるだろ?」
「そっか、挨拶も駄目なんだ」
八尋はちょっとだけ寂しい気分になりました。
もちろん筋肉モリモリな水兵さんたちと、お話したかったからです。
「ところで着水ってヤバいの~?」
先ほどの伝令に素直な反応を示したのは風子だけでした。
「まあ揺れるだろうけど、俺たちにゃ神力があるだろ?」
「床に足を貼りつかせるんだっけ~?」
どれほど揺れても悪樓釣りを思い返せば、どうという事はありません。
「まぁ長椅子にでも座ってりゃいいんだけどな……うわっと!」
翡翠がガクンと揺れて、砂の上を滑るような音と振動がきました。
「おっとっとっと~」
足が貼りついているだけに、転ぶと足首を痛める可能性があります。
「左右の足を別々に吸着させる感覚がコツだ。慣れりゃ、あんな風に歩いたりもできるんだぜ」
歩が指さす先に、大股でのしのし歩く巨漢がいました。
宝利命です。
「あっ宝利! 足はもう治ったの?」
宝利を一目見ただけで、八尋の表情がパッと輝きます。
「うむ、もう大丈夫だ」
八尋を助けた時に受けた名誉の負傷です。
ちなみに背中の傷はほとんどが打撲傷による青痣で、出血は擦り傷によるものでした。
「右舷の補助砲に按摩の巧い装填手がいてな。おかげですっかり回復した」
身分の差や国家の威信などまるで気にせず、やりたい放題の宝利です。
「そう、よかった……」
ホッとする八尋でしたが、実は宝利の強がりでした。
お年頃の男子は、女子の前で恰好をつけたがるものなのです。
「そうだ、江政の被害だが、人的損害は軽症者のみで、先ほど地下室に避難していた最後の被災者が救出されたらしい」
「ほんと⁉」
「正確な状況は以後の報告を待たねばならぬが、住宅のない地域で、身動きのとれぬ老人や病人がおらぬのが幸いした」
「よかった……」
ホッと胸をなで下ろす八尋に、優しい眼差しを向ける宝利。
「なんて素晴らしいザビエル……」
「語彙力が死ぬ~」
見つめ合う二人をオカズに、うっとりと発酵する腐った面々。
「うわぁ、見ちゃいらんねぇ……」
まだ腐化していない歩は、甘ったるいムードに耐え切れず、舷窓蓋と舷窓を開けて夜風を取り込みました。
着水時の飛沫で濡れたのか、舷窓蓋から海水が滴り落ちていますが、歩は全く気にならないようです。
「おっ、もう着いてるじゃねぇか」
翡翠は着水と減速を終えて、浮桟橋への抑留準備を始めていました。
舷窓から顔を出すと、甲板の水兵さんたちが舷門から舷梯を降ろす作業を行っているのが見えます。
「見てみろよ。あれがタモさんの城だ」
歩が風子に場所を開け渡し、八尋も宝利に舷窓を開けてもらい顔を出しました。
「うわあっ……!」
埠頭には象牙色に塗られた玉髄と、たくさんの小早が停泊していました。
「いや、そっちじゃねぇ。陸だ陸」
陸地へと視点を移動させると、高台にライトアップされた建築物が視界に入ります。
「あれが魔海対策局本部棟、通称【なのりそ庵】だ」
「ええっ⁉ でもあれ、どう見ても……」
「でっかい温泉旅館だね~!」
観光地でよく見る擬洋風の老舗旅館そのものでした。
玄関には【なのりそ庵】と書かれた看板までかかっています。
「あれ、ホントにお役所なの?」
「元は旅館だったらしいぜ。鉄道計画のアテが外れて閑古鳥が泣いてたのを、安く買い叩いたんだと」
「買い叩いたって……お役所のせいで潰れたのに?」
政府や行政の身勝手で潰れて政府に買い叩かれる、よくある酷い話です。
「気にすんな。おかげで俺たちゃご馳走にありつけるんだ」
「運通省様々ですね」
「今夜は豪遊だ!」
「やた~!」
「いいのかなあ……?」