断章・その四
玉網媛が翡翠の艦内を探し回って、ようやく宝利命を発見したのは、右舷後部の副砲室でした。
「なっ……なにをしているのですか⁉」
「按摩だ。先ほど足首をやられてしまってな」
宝利は副砲室の硬い床に寝そべって、水兵さんに挫いた右足首のマッサージをしてもらっていました。
水兵さんは玉網媛の来訪に驚きますが、宝利が頷くと、一礼してマッサージを再開します。
「貴方には皇族の自覚がないのですか⁉」
玉網媛もあまり身分の差に拘らない方ですが、目の前の光景は少しばかりインパクトが強すぎたようです。
「こんなところに寝転がって……」
玉網媛にはマッサージより、こちらの方が大問題でした。
一般市民、特に宝利のファンに見せられる姿ではありません。
若い水兵さんにマッサージしてもらう皇子様……腐りきった方々が喜びそうです。
「他に場所がなかった。入港準備でみな忙しいのだ」
「医務室があるでしょう! それに艦長室も!」
「寝台が狭くて寝心地が悪い」
「あっ……」
さすがの玉網媛も一瞬で合点が行きました。
宝利は足首だけでなく背中も負傷しているので、うつ伏せや横向きに寝る事になります。
寝台が小さいと、はみ出した足がフレームやフットボードに引っかかり、物理的に眠れないのです。
怪我の治療やマッサージも難しいでしょう。
「……普段はどうやって寝ているのですか?」
「特注の釣床を使っておる。いや、使わぬ時もあるな」
「どの部屋で?」
「好きなところで」
玉網媛は呆れ返りました。
弥祖の第三皇子は、廊下だろうが甲板だろうが機関室だろうが、寝所を選ばないといっているのです。
艦内のどこにも宝利の部屋が見あたらないと思ったら、元から存在しませんでした。
宝利にとって翡翠そのものが我が家なのです。
「ところで姉上、吾輩に何用だ?」
「翡翠の今後の予定を。この艦は近日中の甲板修理に伴って大規模な改装工事が行われます」
「まさか部署替えか?」
場合によっては宝利の【家】が人手に渡ります。
「柑子伯父様……宰相閣下の計らいで、翡翠は玉髄の代艦として魔海対策局への貸与が決定いたしました。もちろん乗組員込みで」
「そうか、それは結構な事だ」
やはり翡翠から追い出されると思い、宝利は肩を落としました。
「明日の朝、海軍省に飛んでください。艦の所属変更と入渠手続きをお願いします」
「うむ、任せろ……ぬ?」
俯せのまま親指を立てた宝利ですが、その依頼には疑問が残ります。
「吾輩は将官ではないぞ?」
客員扱いの宝利に、翡翠の所属や改装を申請する権限はありません。
「宝利には魔海対策局長に就任してもらいます」
「なんだと⁉」
さすがの宝利も耳を疑いました。
上司になれと【命令】されるなんて、聞いた事がありません。
「各省庁との連絡は引き続き私が行います。宝利には翡翠の指揮と、蕃神様の補佐をお願いしたいのです」
「それでは傀儡以下ではないか!」
宝利は呵々《かか》と大笑しました。
「ならば此度の騒動とやる事は大して変わらぬな」
正直、砲艦外交にも飽きてきた宝利です。
「よし、引き受けた!」
それに将来への不安もありました。
皇位継承権や実家の家督相続権を持てない皇子たちは、若いうちこそ外交などのお仕事を持っていますが、その後は臣籍降下して議員や官僚などといった職を持つか、もしくは商家に婿入りするのが弥祖皇国の慣例です。
デスクワークの嫌いな宝利は、市政で肉体労働に就くには身分が高すぎます。
士官学校を出て職業軍人になっても、身分のせいでスピード昇進のあまり中央に押し込められてしまい、やはり机に縛りつけられてしまうでしょう。
宝利は士官学校を経ずとも高級将校になれる身分と、四年間の艦内暮らしで数多の技能を持っていますが、本部づけの参謀や将軍になりたい訳ではありません。
いずれ艦長になって、自分の艦を持ちたい。
艦を自由に操って世界中を航海したい。
それが宝利の夢でした。
司令官として翡翠の指揮を執れば、その夢に一歩近づけるかもしれません。
魔海対策局長への就任は、宝利にとって、まさに渡りに船だったのです。
「これで当分は、いままで通りの生活ができるぞ!」
すみません実はこっちが本音でした。
宝利が将来、自分の艦でどのような生活を送る気なのかは、ご覧の通りです。
「それは駄目です。後日の改装で宝利の寝室を用意させましょう。寝具も体格に合わせたものを作らせます」
玉網媛は、意地でも宝利をベッドに縛りつける決意を固めていました。
「百歩譲って私室はよしとしよう。だが釣床は渡さぬ! あれはあれで寝心地がよいのだ! 駄目なら床で寝るぞ!」
宝利は机だけでなくベッドも嫌いなのです。
「いいえ、どうあっても寝台を使っていただきます」
玉網媛にも皇族として譲れない一線があるようです。
しかし宝利には奥の手がありました。
「ならば姉上の部屋はどうする? さすがの翡翠でも、新たに二つも個室を作る余裕はないぞ?」
長年の住み家としてきた翡翠です。
宝利は艦内の人員と余剰スペースを完全に把握していました。
「うっ…………!」
一部武装の撤去による人員異動で居住区に空きができるとはいえ、その大半は召喚儀式を行う巫女たちに宛がわれます。
厠や浴室など、女性専用の設備も必要でしょう。
玉網と宝利が共用で使う執務室を作って、さらに蕃神たちの寝室まで用意するとなると、個室の増設は一室が限界。
それが宝利の推測でした。
宝利のドヤ顔からそれを察した玉網媛は、頭の中で素早く部屋割りを計算します。
翡翠は玉髄よりもずっと小さいので、結論はすぐに出ました。
「で……でも、わたくしはあまり船室を使いませんし、宝利と交代で使うとか……」
いくら姉弟といえども、年頃の男女が寝所を共にする訳には行きません。
それこそ世間体というものがあります。
「作戦行動中は、我らの生活時間帯に差が出るとは思えぬ」
玉網媛は魔海が発生した時しか翡翠に乗りませんが、任務が数日から数週間に渡るなど日常茶飯事です。
実際、今回の任務で玉網媛は、不眠不休とはいえ艦内で二日を過ごしています。
「まさか艦長室を潰す訳にも行くまい?」
翡翠の艦長さんは、玉髄の艦長さんほどではないものの、かなりのご高齢で、自室から追い出してしまうような人倫に悖る行為は憚られます。
「……仕方ありませんね」
長考の末、ついに玉網媛が折れました。
宝利は自由を勝ち取ったのです。
「ただし、体調管理は万全にお願いしますよ?」
それはいらぬ心配ではないでしょうか?
「案ずるな。ここ数年は風邪一つひいておらぬ」
隆々たる筋肉こそ最大の寝床なのです。
「それはまだ若いからです。いずれ布団が恋しくなる日がきますよ」
「いつか正式に艦長になったら考えよう」
ひ弱な子供だった頃は、艦長室で寝泊まりしていた宝利ですが、海軍将校を志したその日から、風を枕の風来坊を決め込んでいます。
艦長を目指すからこそ、いまはまだ艦長室を使う訳には行きません。
あの部屋は宝利にとって、青春を捧げるに相応しい人生の目標なのです。




