第四章・八尋和邇・その三
「よ~く狙って……」
進路の調整はヒラシュモクザメが担当しています。
サメはこのような状況に慣れているらしく、八尋から送られた視覚情報から、飛行甲板の正確な位置を割り出していました。
「ヒラシュモクザメはそんなに速くねぇし跳躍力もねぇ。海面から飛び出す時に回転して、背面飛行で小ソゲをぶん投げるんだ」
「投げるって、針がかかってるのに⁉」
「消して宝珠に回収すりゃ、ハリは外れる」
「あ、そっか」
サメが翡翠の飛行甲板に向けて加速を始めます。
「ヒラさん、いっくよー!」
次の瞬間、二尾の巨大な魚が海面から飛び出して、宙に舞い上がりました。
「うわあ……っ!」
空中を回転しながら跳躍するサメの姿に見惚れた八尋は、艦内への避難をすっかり忘れていました。
『八尋! サメを戻せ!』
ヒラシュモクザメの重量は推定四百トン以上。
翡翠に激突する前に宝珠へと戻さないと、艦腹に衝突して、サメもヒラメもタダでは済みません。
「ヒラさん戻ってーーーーっ‼」
八尋が大声でお願いするとシュモクザメが消失しました。
それと同時に、中身が宝珠に戻る感覚が。
「うわぁーーーーーーーーっ!」
ヒラメ悪樓は放物線を描きつつ、ひらひらと回転しながら飛行甲板に落下しました。
凄まじい轟音と衝撃が翡翠を揺らします。
八尋はギリギリのタイミングで昇降口に飛び込みますが、驚いて腰が抜けてしまいました。
「死ぬかと思った……」
昇降口から夕陽が差し込んでいるので、真上に落ちた訳ではなさそうです。
四つん這いで甲板に顔を出すと、目の前に巨大で平たい魚体が横たわっていました。
「これ僕が……? いや、ヒラさんと僕が釣ったの……?」
こんな大物はTVでも見た事がありません。
『そうだ。お前ぇが釣った魚だ』
八尋は神楽杖についている、白く大きな宝珠をギュッと握り締めました。
「ありがとうヒラさん……ぼく、やったよ」
『まだ油断するな。ここで逃げられたら釣果に入らねぇ』
「逃げる……? って、わあっ!」
翡翠がゆっくりと傾きました。
艦の左右に張り出したバランスの悪い飛行甲板に、ヒラメ悪樓は重すぎたのです。
『気をつけて! 小ソゲでも百トンはありますよ!』
小夜理が注意を促しました。
百トンはおおむね通勤電車四両分の重量です。
「そうだった……って、きゃ~~~~~~~~っ‼」
艦体がますます傾いて、八尋は足を滑らせました。
無意識ながらも神力の使い方を覚えた八尋は、悲鳴を上げつつも足を甲板に貼りつかせ、どうにか転倒を免れます。
「あっ、落ちる……!」
八尋ではなく、ヒラメ悪樓が甲板から滑落しかけていました。
翡翠は飛行甲板は、三百トン以上ある小早を搭載できる能力があります。
しかしまだ研究段階の実験艦なので、二隻の小早を左右同時に離着艦させないとバランスを保てない欠陥を抱えているのです。
『誰か小ソゲを押さえろ! 俺もすぐそっちに行く!』
翡翠の重心は中心軸上に存在し、バランス保持のために予備の浮揚機関を各所に備えています。
しかし左右に設置された飛行甲板は一番艦の【仏法僧】にはない試験的な装備で、その内部に浮揚機関を設置していません。
片舷だけの偏荷重は、艦の横転や転覆を招く恐れがあります。
『任せて!』
右舷から後部信号檣に移動していた小夜理が神楽杖を振ると、宝珠から三メートルほどの魚が現れました
巨大な桜色のヒレを天女の羽衣のようにたなびかせて、一直線に飛翔します。
魚の標準和名はミノカサゴ。
カサゴ目フサカサゴ科の毒魚です。
空飛ぶ天女の羽衣には無数の毒トゲと鈎が生えていて、ヒラメ悪樓の側面に何本も突き立ちました。
ヒラメ悪樓は痛みで暴れ回り、海面スレスレに浮かぶ翡翠がさらに傾斜します。
『艦を上昇させろ!』
羅針艦橋にいる宝利命が、伝声管で素早く艦長さんに指示を出します。
『了解! 錨鎖切断! 高揚力装置全開! 艦首上げ三度! 微速前進!』
水兵さんたちの手で、錨鎖を繋ぐ接続金具が素早く分解され、五本の巨大な鎖が艦首と艦尾の錨鎖孔からガラガラと流れ出します。
同時に全浮揚機関が最大出力を発揮し、翡翠は徐々《じょじょ》に加速と上昇を始めました。
『脚荷を右舷に移動! 傾斜を復元させるぞ!』
かつての大和型戦艦や現代の軍艦は、艦の傾斜を戻すための注排水システムがあり、浸水した区画の反対側に海水を注入して、艦のバランスを保つ機能を持っています。
空中に浮かぶ竜宮船は周囲の海水を取り込めないので、左右飛行甲板の内部に備えた複数の脚荷槽から、配管を通して水を移動させて重心を保持しているのです。
『わたしも手伝うよ~!』
後部艦橋に着地した風子が竿を振り、宝珠からハゼを出して腹部の吸盤をヒラメ悪樓にピッタリと貼りつかせました。
「ああっ、頭いい!」
これならヒラメ悪樓を傷つけずに牽引できそうです。
『ありゃ~? あれれれれぇ~?』
しかし釣り座の選択がまずかったようです。
風子が立っていた後部艦橋がグニャリと歪みました。
『あっぶねぇなぁ。こりゃ俺も参加しねぇとマズいかなぁ?』
いつの間に翡翠へと戻っていたのか、歩も左舷飛行甲板の先端から神楽杖を振ります。
宝珠の中身はクロヌタウナギ。
顎のない吸盤状の吻を持つ、脊椎動物亜門円口類ヌタウナギ目ヌタウナギ科の海洋生物で、正確には魚ですらありません。
脊椎動物として原始的すぎて分類学上は魚類から外されている、ウナギとはなんの関係もない完全な別種です。
しかしクロヌタウナギの吸引力は群を抜いていました。
吸盤だけでなく、吻に沿って並ぶ舌歯を喰い込ませて、ヒラメ悪樓を離しません。
「よし、ぼくも……」
八尋がポーチをまさぐって宝珠を出すと、包み紙に【いいだこ】と書いてありました。
比較的新しいもので、文字に翳みがありません。
「あっ、これスーパーで見た事ある」
マダコ属マダコ科に属する、みなさんご存知の可愛いイイダコさんです。
さっそく八尋は神楽杖に装着しました。
ヒラシュモクザメの宝珠は大きすぎてポーチに収まらず、懐に放り込みます。
「いっけぇーーーーっ!」
宝珠から二メートルを超える大ダコが現れました。
「きゃ~~~~っ⁉」
八尋はスーパーで見たボイルのイイダコしか知らなかったので、予想より遥かに大きなタコの姿にビックリ仰天しました。
もはやイイダコとはいえません。
ミズダコもどきです。
「びっくりした……もっと可愛いのが出ると思ってた」
なにはともあれ、八尋はタコをヒラメ悪樓に取りつかせて、触腕の吸盤で固定します。
『考えたな八尋。こいつはオスだな』
「わかるの?」
というか、八尋はタコに性別がある事すら知りませんでした。
人間とは生物としての違いが大きすぎて、神楽杖で共感しているいまでも雌雄の見分けがつきません。
『タコは吸盤が綺麗に並んでるのがメス、バラついてるのがオスだ』
八尋のイイダコは吸盤が並んでいないので男の子です。
「なるほど……」
感心しながら八尋はリールを回します。
巻いたらその分だけ翡翠が揺れました。
もちろん傾斜は治まりません。
「これってやばくない?」
さすがの八尋も、怖くなってハンドルを巻く手を止めました。
『やべぇ。凄ぇやべぇ』
『巻けば巻くだけ傾くよ~!』
『支えるだけで精一杯ですね』
釣り研究部一同に緊張が走ります。
大型のガントリークレーンを超える吊り上げ能力を持つ釣り研部員たちですが、それを支える翡翠が転覆しかけています。
そもそも艦上から糸を引いて艦の重心を保とうなんて、物理的に無理がありました。
艦長さんを始めとする乗組員一同が、脚荷移動はもちろん飛行甲板の後部に装備されている間隙高揚力装置まで作動させて、傾斜の復元に全力を注いでいます。
しかし大型ながらも軽い翡翠は、想定外の加重に限界を迎えつつありました。
『…………仕方ねぇ。小ソゲを放流しよう』
日暮坂歩フォレーレ、苦渋の決断でした。
「リリースって……まさか逃がすの?」
『仕方ねぇ。玉髄ん時ゃ、これくらい平気だったんだがなぁ』
釣り師が自ら獲物を手放すのは、死を命じられるのと一緒です。
かかった魚が危険な種類だから手放そう。
せっかく釣り上げた大物だけどウツボは持って帰れない。
そんな時、釣り人は断腸の思いで糸を切ります。
「悪樓って水揚げすると、すぐ宝珠になるんじゃないの?」
『こんだけでけぇと時間がかかる。普段ならタモさんが……』
その時、八尋たちのいる左舷飛行甲板に影が落ちました。
エンヤートット エンヤートット……
松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの
ハ コリャコリャ
寺のないとエー
『タモさんの祝詞!』
翡翠の直上に、霜降雀の艦首で両手に神楽鈴を持ち舞い謡う、玉網媛の姿がありました。
その後ろで巫女さんたちが、踊りながら合いの手を入れています。
アレハエーエ エトソーリャ大漁だエー
『祝詞って、歌って踊るもんだっけ~?』
風子の疑問はもっともです。
八尋の知っている祝詞は、神社や地鎮祭で神主が呪文のように唱える儀式だったはず。
『前はこっちの祝詞を使ってたけど、タモさんに合わねぇみてぇでな。斎太郎節に神楽舞を混ぜて振りつけしたんだ』
「内容はなんでもいいの⁉」
八尋は呆れました。
攻撃呪文を童謡で代用するような無茶苦茶ぶりです。
『ああ見えても、ちゃんと機能するから大丈夫。ほら見ろ』
ヒラメ悪樓が不思議な光に包まれて持ち上がり、翡翠の傾斜が元に戻りつつあります。
「ほんとだ……イイダコも一緒に浮かんで糸が緩んでる」
糸は見えませんが、神楽杖にかかる感触でわかります。
エンヤートット エンヤートット……
『あれって歩ちゃんが振りつけしたの~?』
『曲はタモさんがアレンジして、振りつけは俺がやった。結構面白かったぜ』
歩は神社の娘だけあって、神事に詳しいのです。
ちなみにホテルの替え歌CMで有名な斎太郎節ですが、元は宮城県の民謡です。
石の巻 サーヨー 其の名も高い
ハ コリャコリャ
日和山トエー
四人の支えるヒラメ悪樓が空中に浮かび上がります。
同時に翡翠が揺らいで、今度は右舷側に傾きました。
反動のせいもありますが、バランス調整に使った脚荷が右に偏っているのです。
エンヤートット エンヤートット……
「いいのかなあ……?」
八尋はなんだかいけない事をしている気分になりました。
民謡を祝詞の代わりにするなんて、罰当たりもいいところです。
『どうした八尋、チャッキラコの方がよかったか?』
「それも民謡だよ! 神奈川県民謡だよ!」
八尋も生まれながらの神奈川県民なので、チャッキラコは知っています。
『そっちでもよかったんじゃない~?』
風子がほにゃ~んと同意しました。
「祝詞って神様に捧げる詞じゃなかったっけ……?」
塩釜様の サーヨー 御門の前
ハ コリャコリャ……
『全員、宝珠の中身を戻せ! 巻き込まれるぞ!』
八尋はその言葉の意味もわからないまま、慌ててイイダコに帰還を命じます。
「お願い、戻ってー!」
あれは エーエ エトソーリャ
大漁だエー
八尋の宝珠にイイダコが戻り、玉網媛の神楽舞がフィナーレを迎えた瞬間。
周囲が温かい光に包まれてヒラメ悪樓が消失しました。
『逃がすかぁっ!』
飛行甲板にヒラメの宝珠が落ちるのを、歩は見逃しません。
ネコ科の猛獣のごとき猛烈なダッシュで落ちる宝珠を掴み取り、傾いた左舷飛行甲板を転がります。
『あいたっ!』
伝馬船用格納庫の装甲板に、背中から激突しました。
『はいお疲れさま』
小夜理が甲板に着地して歩を労います。
続いて風子も後部艦橋から飛び降りました。
八尋も甲板を走って三人と合流します。
「終わったね~」
「終わった? まだ小さいのが何匹か残ってるんじゃ……?」
「八尋くんが見つけたのは、私と風子さんで片づけました」
歩とヒラメ釣りに熱中している間に、小夜理たちが頑張ってくれたようです。
「ひょっとして、あれで全部だったの……?」
ヒラシュモクザメは魔海に残った全ての悪樓を捕捉していた事になります。
ロレンチーニ瓶、恐るべし。
「見てみろよ。魔海が綺麗さっぱりなくなってるぜ」
視線を港町に向けると、不気味に光る魔海は、すでに消失していました。
全ての悪樓が宝珠になって回収された証拠です。
「消えちゃったの⁉」
「一大イベントだったんだけどなぁ。タモさんに見惚れて気づかなかったんだろ?」
玉網媛の演舞もとい祝詞の終了間際に周囲が発光したのは、魔海の消失現象によるものでした。
「…………うん、見てた」
八尋は素直に認めました。
「綺麗だったね~」
「いつもながらお見事でした」
「さすが、玉網の名は伊達じゃねぇな」
釣り研究部全員の感想でもあったようです。
「あの名前、意味あるの?」
「玉網。タモとかタモアミともいうけど、要するに釣った魚を回収する長柄の手網だ」
そのまんまの名前と役割で、工夫もひねりもありません。
「この国の皇族って、大昔から蕃神の釣った悪樓を取り込んでる巫女の一族らしいぜ」
「巫女さんって、そんなに重要な職業なんだ……」
玉網媛の神楽舞がなければ、小ソゲ程度でも放流せざるえなかったでしょう。
そもそも昔は翡翠のような大型の竜宮船が存在しなかったので、皇族なしにはハゼすら釣れなかったのです。
蕃神たちの能力を補って悪樓を回収していたのが、玉網媛たち弥祖の皇族なのでした。
「じゃあ宝利は?」
「残念ながら、どんなに筋肉があっても男は参加できねぇ。悪樓釣りができるのも回収できるのも女だけ」
「へぇ…………」
その瞬間、八尋の背筋に悪寒が走りました。
嫌な予感がします。
「だからお前ぇも女になっちまったんだよぉ~~~~っ!」
予感はしても対処はできませんでした。
「きゃあ~~~~~~~~っ‼」
血迷った歩に後ろからガバッと抱きつかれて、全身をモミモミされてしまいます。
「うわちょっとやめてーっ!」
揉まれているのは八尋のはずなのに、背中に当たる歩のフカフカ感の方が強烈で、全身から力が抜けてしまいます。
「ぐぅへへへへへへへへぇ! この際だから中身までオンナにしてやろうかぁ!」
「やめなさいっ!」
パコンッ! と、小夜理のお玉が炸裂しました。
どうやらオチがついたようです。




