第三章・魔の海で釣りをしよう・その一
「酷ぇなこりゃ……」
災害現場に急行する翡翠の露天艦橋へと移動した五人は、薄緑色に光る魔海に没した港町を目の当たりにしました。
露天艦橋とは装甲艦橋や羅針艦橋の真上にある、見晴らしのよい屋上の指令所です。
「完全に飲み込まれていますね」
小夜理も下界の様子を見て青くなります。
「魔海が市街地に現れるなど前代未聞だ」
皇都の台所を担う江政の街並みは、その全てが魔海に没していました。
海面より高い一部の中層建築が、屋根や尖塔を小島のようにぽつりぽつりと浮かべているだけです。
「住民たちがみな逃げおおせていればよいのだが……」
警邏庁と陸軍の邏卒隊が避難誘導に当たっているとの話ですが、宝利命は逃げ遅れた被災者が心配で堪りません。
魔界は海抜より上に発生し、中では息ができません。
しかも浮力や水の抵抗を受けずに落下してしまうのです。
海上での発生なら、落ちても貫通して本物の海に落ちるだけなので、無事に着水できさえすれば、魔海の底と本物の海面の間にある僅かな空間で呼吸ができます。
魔海に没した海上船舶に閉じ込められた場合は、窒息する前に徒歩で船底へと避難する方法が知られていますが、今回は陸上、しかも市街地での発生です。
海抜の低い地域なので、地下室に籠れば生き延びられるかもしれませんが、この国ではまだ地下施設が普及していません。
先ほど発生した魔海は、最大直径二キロメートルほどで安定しています。
魔海としては小さい方ですが、今回は地上、しかも市街地の発生で、大災害と化していました。
当然ながら、広がれば広がるほど被害が拡大します。
「釣りは楽しくやるのが信条なんだけどなぁ……」
「魔海って、海上にしか発生しねぇんじゃなかったっけ?」
被災者の安否を思うと、さすがの歩も笑顔で釣り糸を垂らす気にはなれません。
「ひょっとして……」
八尋が海上に浮かぶ角ばった地形を見て、なにか気づいたようです。
「あの街、埋立地じゃない?」
港湾の埋め立ては、それほど近代的な技術ではありません。
東京湾で埋め立てが始まったのは安土桃山時代の初頭です。
そして江政の港は、歴史の教科書で見た明治や大正時代の港に酷似していました。
「なるほど、元が海だと魔海の発生条件に合うのやもしれぬ」
まれに陸上で起こる事もありますが、いままでは河川域か、かつて河川のあった地域に限定されていました。
「これまで港湾区域に発生しなかったのは、ただの偶然であったか」
埋め立てや干拓技術が急速に進歩して、古文書に頼っていた魔海対策のノウハウが通用しなくなってきたのかもしれません。
『殿下、本艦は魔海上空一間半(二七・三メートル)にて停止いたしました』
伝声管から艦長さんの報告が。
「江政の様子はどうなっておる⁉ 死傷者は⁉」
『警邏庁の通信によると、魔海発生時にわずかな前兆が見られ、避難は迅速に行われたとの事です』
警邏庁とは、現代日本の警視庁に相当する行政機関です。
「よっしゃ! これで楽しく釣りができるぜ!」
釣りにシリアスを持ち込まずに済んだと知り、歩は大喜びでクルクル回ります。
「まだ全員無事と決まった訳ではありませんよ?」
「いいから釣りだ! とにかく悪樓を釣って魔海を鎮めにゃ治まらねぇだろ!」
歩はいまや遅しとばかりに足踏みをしています。
とにかく釣りを始めたくて仕方ないのでしょう。
「吾輩はここで連絡役だな」
見晴らしのよい露天艦橋から全体の動きを把握して、羅針艦橋にいる艦長さんと連携する、簡単ではないお仕事です。
「風子と八尋の担当は艦釣りだ。風子が右舷飛行甲板、八尋は左舷の飛行甲板でいいか?」
翡翠には、艦体の左右から翼のように張り出した飛行甲板が装備されています。
連絡用の伝馬船はもちろん、小早の離着艦もできる巨大なものでした。
「いいよ~」「わかった」
「そうそう、飛行甲板の縁にゃ手すりがねぇから気をつけろ」
「おっけ~!」
「そっか……って、ええっ⁉」
露店艦橋から身を乗り出して、飛行甲板を確認する八尋と風子。
「歩さん、手すりのない場所じゃ絶対釣るなって、いってなかったっけ?」
「こればっかりは仕方ねぇ。甲板にいろいろ機材があるから、適当に探して掴まれ」
甲板を見下ろすと、船べりに四角形や円筒形のパーツが装備されていました。
もの凄く頼りないけど、ないよりはマシそうです。
「俺とマキエは下で釣るぞ」
「下? 前か後ろの甲板に行くの?」
翡翠の前後甲板は極めて狭く主砲も邪魔で、釣り座に向いているようには見えません。
「じゃあな! しっかりやれよ!」
歩が露天艦橋から飛び出しました。
漫画かアニメのように跳躍して、ポーンと魔海蠢く市街地へと降下して行きます。
「ええ~~~~っ⁉」
八尋は仰天しました。
「では私も失礼します」
続いて小夜理も、歩と逆方向へと大ジャンプ。
「バッタみたいだね~」
とんでもないモノを見せられた稲葉姉弟ですが、風子は呑気なものでした。
「なんなのあれ……?」
青ざめる八尋。
どう見ても人間の跳躍力ではありません。
「神力を使える者ならば、あれくらいは造作もない」
「宝利さんもあれできるの⁉ っていうか、着地できるの⁉」
嫌な予感がしました。
次はきっと八尋の番です。
「うむ、問題ない。八尋殿にもできるはずだ」
予想通りの最悪な返答でした。
「無理無理無理無理! 飛ぶなんて絶対にムリ!」
高い場所はそれほど苦手ではない八尋ですが、あんなハイジャンプをやらされたら、怖すぎて漏らしちゃいそうです。
「そもそも神力ってなに⁉ 魔法⁉」
「よくわからぬ」
「なにそれー⁉」
「確か、自分と自分が触れたものに対する慣性がうんたらかんたら……あとは忘れた」
しかも脳筋でした。
宝利は頭より筋肉でものを考える人種なのです。
「まあ、いますぐあれをやれとは言わん。そのうち習う機会もあろう」
八尋への指示は飛行甲板からの釣りで、跳べとはいわれていません。
「そ、そうだね……」
ホッとする八尋ですが、次の悪樓釣りではきっと跳ばされます。
『あとはインカムで教えてやるからなぁー!』
魔界から岩礁のように突き出た中層建築の屋根に着地する歩。
小夜理も洋風建築の尖塔に降り立ちました。
「わかった~!」
通信なのに、ついつい大声を出してしまう風子です。
「もう行け。もはや一刻の猶予もならん」
宝利は地下室に避難している(かもしれない)市民が心配でした。
魔海は地面の下に及ばないとはいえ、その通風孔は地上、いまは魔海の中にあるので、対策が遅れると酸欠の恐れがあります。
「わかった、やってみる」
「いざとなったら吾輩が助けてやる。心配するな」
「うん……行ってみんなを助けてくるね」
飛んだり跳ねたりは苦手な八尋ですが、宝利に励まされて勇気が湧きました。
「その意気だ。しっかり頼むぞ」
傾斜梯子を駆け下り、甲板を走る八尋。
続いて風子も反対側の梯子を下ります。
「艦長、碇を降ろしてくれ。艦が安定せぬ」
宝利が伝声管の蓋を開けて、艦長さんに指示を出しました。
揺れの少ない大型艦とはいえ、空中に浮揚している以上は、どうしても海風の影響を避けられません。
『下は市街地ですぞ?』
「構わん。蕃神様の安全には替えられぬ」
宝利は首から提げた送話器を片手で押さえていました。
八尋たちに聞かせられる話ではないと思ったのです。
『……了解しました。主錨用意! 準備完了次第投錨せよ!』