断章・その二
翡翠が停泊する江政の内湾から皇都の運通省本部まで、大して時間はかかりません。
魔海対策局所属の小早【霜降雀】から発進した伝馬船が地上に降りるのも待ちきれず、玉網媛はひらりと飛び降りて本部棟へと突撃、最上階にある運輸通信大臣の執務室に勢いよく飛び込みました。
「待っていたよ玉網。よくきてくれた」
白髪混じりでオールバックの男性が、両手を広げて玉網媛を迎え入れます。
本来なら冴えない薄毛の尭槻陸通大臣がいるべき執務室なのですが……
「尭槻君は僕が逃がしたよ。彼にはやるべき仕事が山ほどあるからね」
玉網媛は思わぬ人物のと邂逅に面食らいました。
「こ、これは伯父様……いえ首相宰相閣下、ご機嫌麗しゅうございます」
名前は柑子寛輔。弥祖皇国首席宰相で、首相とか総理大臣などと呼ばれる人物です。
女皇の従兄で、玉網媛の従伯父に当たり、皇籍を放棄して弥祖皇国第三代首席宰相を四年務める現役の政治家。
温厚そうな風貌に反して、議会で辣腕を揮う傑物……怪物とも呼ばれています。
先々代の魔海対策局長でもあるので、玉網媛は頭が上がりません。
いなせな洋装で、いかにも女癖の悪そうな風体ですが、不祥事のネタを掴もうと尾け回す報道記者さんたちに、半年に渡ってラブラブぶりを見せつけた愛妻家でもあります。
「大きくなったなあ。それに美しくなった」
「そのようなお話をしている場合ではございません! いま江政の港町に魔海が……」
「……それなのだがね、もう手遅れらしい」
「ええっ⁉」
「翡翠が痺れを切らして突入したそうだ。宝利にも困ったものだね」
「あの子ったら……申し訳ございません」
弥祖の皇族は気短な人間が多いのです。
「すでに非常事態宣言は出してある。復興対策本部も立ち上げたし、残念ながらこれで玉網の出番は終わりだね」
「グゥの音も出ません……」
玉網媛は諸手を上げて降参します。
「まあ、いいじゃないか。茶でも飲んで行くかね?」
非常事態宣言は発令されたものの、現状は魔海対策局に全権委任されただけ。
「後づけだけど、宝利を局長代理扱いにして委任状を出しておいたよ」
復興対策本部も招集済みで、住民の避難先として湾内に停泊していた客船・貨客船の動員手続きまで終えてしまったので、国家主席のお仕事はひと段落。
短気を起こした首相が、迅速に動きすぎたのです。
しかも、なにかあった時のために三日分の予定を全てキャンセルしてしまい、いまは可愛い姪っ子のためにお茶を入れるくらいしか、やる事がありません。
「お茶など喫している場合ではございません。翡翠に戻ります」
「いまから行っても間に合わないよ?」
宝利が局長代理を務めているので、玉網媛は事態の収束まで局長としての全権力を失い、しばらく公僕としてやるべき仕事はありません。
「巫女の務めは魔海が消滅してあとにこそあるのです」
局長の職権を失っても、まだ神官長としての職務が残っていました。
「お茶はまた後日に。失礼します!」
執務室の扉を自ら開けて、疾風のごとく飛び出す玉網媛。
あとには巻き込まれた書類が舞い散るのみです。
「相変わらず慌てん坊さんだなあ。」
あきれ顔の柑子首相ですが、どさくさに紛れて従姪との逢引き《でえと》を確約できたので、鼻の下は伸びていました。
「だが言質は取りつけたぞ。はてさて、どこの喫茶店にしようかね……?」
魔海対策局の実務をできるだけ肩代わりして、玉網媛の負担を少しでも軽減させるのが今日の予定。
魔海に没した街の復興も含め、首相は全ての手続きを二日で終わらせる予定でした。
恐るべき手腕と気の短さです。
「巻網が会いたがっていたからね」
首相と同じく臣籍降嫁した皇姉で、かつては魔海対策局長と神官長を兼任した細君の喜ぶ顔を想像し、ほくそ笑む柑子首相。
「そうか……いまは宝利がいるんだったね。これは都合がいい」
今回の玉網媛の勇み足は、明らかに過労と寝不足が原因です。
過去に魔海対策局長の経験と実績を持つ首相ですが、それは巻網媛が神官長を務めていたからこそ乗り切れたと柑子首相は思っていました。
退任後は巻網媛が局長と神官長を兼任しましたが、その体制のまま新任の玉網媛に職務を丸投げしてしまったのが悔やまれます。
玉網媛が局長兼神官長に就任した当時は、古株の職員が陰から支えていたのですが、その大半が女性だったせいか、寿退職で年々数を減らしつつあります。
そのたびに玉網媛の負担が堆積して、今回の失敗に繋がったといえるでしょう。
一日も早く新たな局長を着任させて、少しでも玉網媛の負担を軽くしないと、近いうちに体か心の健康を損ねてしまうかもしれません。
「そろそろ宝利を使った砲艦外交も限界だからね。いい機会だし、ここは彼に押しつけてしまおう」
宝利のマッチョ化は、弥祖の外交戦略における最大の懸案事項と化していました。
そもそも宝利を外交使節として使っていたのは、痩身の美少年だったからです。
子供と軍艦を同盟国に送る事で、威圧を信頼にすり替えるのが首相の狙いだったのですが、いまでは筋肉×大型艦艇の悪魔的コンボと化して、むしろ迫力が倍増しています。
これはこれで一部の方々に大好評なのですが、マッチョでは穏便な外交なんて望めませんし、なによりむさ苦しかったり暑苦しかったりと不都合が多すぎます。
「皇族で神官長の実弟、しかも庶民に人気がある」
柑子寛輔は巻網媛との熱愛発覚が原因で、魔海対策局長を退任しています。
でも両親を同じくする実の姉弟なら、色恋沙汰の心配はありません。
「なんと都合のよい時に都合のよい人材が転がり込んでくれたものだ」
しかし、これで首相の仕事がまた増えてしまいました。今日は徹夜になりそうです。
「そうだ、巻網に着替えと弁当を頼んでおこう」
どれほど忙しくとも、一日一度は必ず細君の顔を見るのが柑子首相の信条でした。
皇族で首相で愛妻家まで兼ねると、猛烈に忙しいのです。