第二章・魔の海へ行こう・その五
【魔海】
それは古くから局所的に発生する異空間、と伝えられていますが、実際のところはなにもわかっていません。
ぼんやりと薄明るい魔の海は、主に海上より少し上に現れます。
海抜以下に出現した記録がないのは、海や陸地の神気が濃いためといわれていますが、もちろん定かではありません。
その規模は出現の度に異なり、内部に潜む【悪樓】と呼ばれる怪魚の規模や棲息数に比例します。
悪樓の種類は豊富で、小さい悪樓ほど数が多く、魔海の範囲に直接影響していました。
魔海に伴って悪樓が発生するのではなく、悪樓に伴って魔海が発生するのです。
そして、その悪樓を捕獲し、退治するのが、玉網媛率いる海運省魔海対策局であり、召喚される蕃神たちなのです。
「こちらが蕃神様の用いる神楽杖です。扱いは……」
翡翠の装甲艦橋に案内された八尋の目の前で、TVやネットでも見た事のない美女が魔海や道具の説明をしていました。
四十センチほどの木箱を抱えて講義をしているのは、もちろん弥祖皇国第一皇女の玉網媛です。
「……………………」
無言で玉網媛を見つめる八尋でした。
八尋はマッチョだけでなく、年上の綺麗なお姉さんも大好きなのです。
年下の男子なら、高校生も小学生も等しく子供扱いしてくれるからです。
しかし八尋が黙っている理由は他にありました。
「……どうしてネコミミつけてるの?」
玉網媛の頭に、角のような二つの耳が生えていたのです。
キツネ耳に見えない事もありませんが、少なくともケモ耳なのは確実です。
八尋が怪魚と聞いても逃げ出さないのは、ひとえにネコミミへの疑問と興味によるものでした。
「この耳は自前です」
いままで召喚された人たちに散々質問された経験があるのか、玉網媛は冷静に答えました。
「お前ぇ気づかなかったのか? 宝利さんもネコミミだぜ?」
「えっ、本当⁉」
「そういえば蕃神様は、吾輩たちとは耳の構造が異なるのであったな」
屈んで稲庭姉弟に頭頂部を見せる宝利。
よく見ると、黒髪と髪飾りに紛れて、黒いネコ耳が生えています。
「ぜんぜんわかんなかったよ~」
身長差がありすぎて、低身長の風子と八尋からは見えなかったのです。
「シッポもあるんだぜ?」
歩の指さす先に、宝利の黒くてモフモフな尻尾が揺れていました。
ちなみに玉網媛の尻尾は、細く長くしなやかでビロードのような黒毛です。
「毛皮の飾りとかじゃなくて、尻尾だったんだ~」
「あと宝利さんもタモさんも皇族だからな」
「偉い人だったの⁉」
びっくりして宝利から離れる八尋。
「いや待て! 確かに吾輩と姉上は皇族直系だが、蕃神様は神であるぞ⁉」
蕃神の地位は、現人神の女皇を連れてきて、ようやく対等なのです。
「ええ~~~~っ⁉」
「ほぉ~~~~っ♡」
驚く八尋と、身分差がそれほどないと知り、宝利×八尋のBL妄想を抱く風子。
もっとも風子は、たとえ身分の差があっても別の妄想をするだけでしょう。
「むしろ八尋殿の方が立場が上なのだ。そう畏まるでない」
自分は格下だと言いながらも、宝利は八尋の頭をなで回しています。
「う、うん……」
頭をなでられて安心する八尋。
猛烈になついています。
「これ宝利! 蕃神様に失礼があってはなりません!」
「うっ……うむ、すまん」
胸の辺りに可愛い子供の頭があると、ついなでたくなるのが人情というものでしょう。
風子たちが『気持ちはわかる』とばかりに頷きまず。
「いや喜んでるし、いいんじゃね?」
「八尋カワイイ~」
「尊いです…………♡」
宝利を咎めた玉網媛も、蕃神たちによいと言われては反論できません。
巫女にとって神の言葉は絶対であり、預言にも勝るご神託そのものなのです。
「八尋の頭って、見てるとなでたくなるんだよなぁ」
「頭だけで済めば御の字ですね。さっきみたいに……」
「それは言わねぇでくれ。可愛すぎてマジ理性がぶっ飛ぶんだぜ?」
八尋の仕草の事です。
魅了の呪文のように抗えないのは、小夜理にも経験がありました。
「そこは同意しますが、私は耐えましたよ?」
「ギリギリだったじゃねぇか」
歩が止めなかったら迷う事なく抱きしめていたでしょう。
「わたしも抱きつきたいんだけど~、最近は八尋が逃げるんだよ~」
それはいままで散々抱きついて警戒されているからです。
「申し訳ありませんが、説明を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「そうだった、続けてくれタモさん」
装甲艦橋に集まった理由をようやく思い出した一同でした。
「では、こちらの神楽杖ですが……」
その時、伝声管から艦長さんの連絡が入りました。
渋みのある塩辛声で、かなりのご高齢と窺われます。
『媛様、陸運局から抗議の電信が届いております。至急対応をお願いできないでしょうか?』
「ええっ⁉ どうして陸運局が?」
『提出した運航表に問題ありとの事です』
今回は魔海発生域が陸上で、しかも市街地だったせいか、手続きが面倒な事になっているようです。
本来なら魔海対策は国家の最優先事項なのですが、同じ運輸通信省の下部組織でも、陸運局は海運局と違って魔海のなんたるかを知らず、海軍との連携も構築されていません。
その気になれば魔海対策局の特権で強行突入も不可能ではありませんが、玉網媛は別の選択をしました。
「あのボンクラどもめが……」
玉網媛の目が座り、その迫力に他の全員が震え上がります。
「皇家が政治権力を放棄したからと舐めおって……こうなれば運輸通信大臣を直接締め上げてくれるわ……」
玉網媛から黒いオーラが、ゆらゆらと立ち昇りました。
比喩表現ではありません。
感情を伴った暗黒の神気が全身から溢れ出して、実際に黒い湯気のようなものが見えるのです。
ガタガタと震え出す釣り研究部員一同。
宝利すら刹那に死を覚悟しました。
「伝馬船と小早の用意を! 直談判で無理を押し通します!」
『了解しました。左舷の飛行甲板へどうぞ』
「宝利、あとはお願いしますね。色々とわからない事もあるでしょうが、歩様と小夜理様ならご経験がございます」
暗黒オーラが瞬時に後光へと転じましたが、むしろそれが恐怖を誘います。
「……期待していますよ?」
玉網媛に睨まれて、巨漢の宝利が巨岩のごとく固まります。
粗相があればどんなお仕置きが待っているかわからない、そんな一瞥でした。
オーラが消えても目つきが座ったままで、口元だけ笑っているのが怖すぎます。
「う、うむ……任せておけ。それと姉上、いざとなったら吾輩の名も使ってくれ。」
皇族二人の意見なら、その威光と強制力は倍になります。
魔海対策は皇族にしか扱えない重要な責務です。
主権を放棄して権威の多くを失った皇室ですが、こと魔海に関してだけは、その権力はいささかも衰えていません。
「感謝します。ではのちほど!」
装甲艦橋から駆け出す玉網媛。
「…………え~と、タモさんはどこまで説明したんだっけ?」
「道具の使い方はなにも教えてませんよねあの人」
魔界と悪樓の話をしただけです。
宝利は専門家ではないので、ここからの説明は歩と小夜理が続けなければいけません。
「ぼくのせい……なのかな?」
ネコミミに釣られて話を横道に逸らせた責任を感じる八尋でした。
「気にすんな。こっからは巻きで行くぜ!」
玉網媛が残した長い箱を開けて、歩は中身を取り出します。
「これが神楽杖だ!」
「……釣り竿じゃん」
伸縮式の釣り竿そのもので、リールもついています。
「竿じゃねえ! 釣り竿でも神具なんだぞ!」
箱から緑色の神楽杖を取り出し、引き延ばす歩。
リールみたいな部品にはハンドルまでついていますが、リールではありません。
神社で使う神楽鈴のように、たくさんの鈴が文字通り鈴なりについています。
「自分で釣り竿って言ってるじゃない」
「釣り竿でも神具なんだよ!」
歩は神主の子で神具にはうるさいのですが、釣りへの執着と拮抗しているようです。
「……まあ実質釣り竿なんだけどな。使い方は堤防で教えた通りだ」
「なんていい加減な……」
あきれる八尋。
「この竿は緑だから俺専用。小夜理がブルーグレー、風子と八尋は貸し竿もとい備品の白いやつを使ってくれ」
「袴と同じ色を使うんだね~」
「あとでタモさんに好きな色を伝えときゃ、来週までにゃ専用のを用意してくれるぜ」
「あれ? 確か巫女さんの袴って、色が決まってるんじゃなかったっけ?」
神道では研修生や序列外の祭祀職員が松葉色、下級の神職が浅葱色で、その上が紫。
さらに年功次第で紋が入ったり、黒や白など色が選べるようになります。
そして女性は例外なく無地の緋袴と決まっていました。
ちなみに神葬祭(神式の葬式)では、神主さんが鈍色(グレー)を着用しています。
「ここじゃ俺たちゃ神職じゃねぇ。神様だ。階級や色なんざ関係ねぇよ」
赤い竿を渡されると、振動でリールの鈴がしゃりんと鳴りました。
「可愛い竿だね~」
「それでは次の説明ですね。はい歩」
後ろに控えていた小夜理が、歩に四角い大きな木箱を渡しました。
漢方医が使う薬箱のように、小さい引き出しが前面に並んでいます。
「サンキュ」
歩が箱の引き出しを適当に選んで開けると、紙包みが大量に詰まっていました。
包み紙を開くと、小さな紡錘形の宝石が現れます。
「これが宝珠だ」
「きれい~!」
「この紙、なにか書いてあるね」
八尋はなぜかその文字が読めました。
明らかに現代日本語とは異なるのですが、どこが違うのかと問われてもわかりません。
同時に日本語を忘れているような気がします。
「ぼうちょうかさご……らしきもの?」
他の包みを見ると、名前の横に『らしきもの』と書かれたものがたくさんありました。
「よくわからなかったんじゃね? まあ気にすんな」
「宝石の名前なの~?」
「名前っつーか魚の種類だな。使えばわかる」
「ボウチョウカサゴなんて、旧い名称を使ってますね」
「昔の漁師が書いたんだろ。魚の研究は昔からゴチャゴチャしてっからなぁ」
魚に詳しくない八尋にはさっぱりわかりませんが、木箱の宝珠が歩たちにも把握しきれない未整理状態なのは理解できました。
「これらの宝珠を適当に選んでリールの先につけろ。あとは堤防で教えた通りに投げりゃいい」
「投げたらハンドルをゆっくり巻けばいいの~?」
「いや、こいつはルアーみてぇに使うんだが……まぁ投げてみねぇと説明は難しいな。あと回しだあと回し」
「じゃあ説明はここで終わり~?」
長話の苦手な風子が、いつ釣りを始めるのかとソワソワしています。
「いやまだ終わんねぇ」
「ええ~~~~っ⁉」
「こっちも渡さないといけませんからね」
小夜理が小箱の引き出しから、耳かけ型の片耳イヤホンを取り出しました。
「インカムです」
「なんだかハイテクっぽいね」
軍艦や街並みのデザインから、この世界に明治時代か大正時代のような印象を持っていた八尋が、不思議そうな顔をしました。
「先々代の蕃神がデザインしたもんらしいぜ。前のは両耳を覆うヘッドセットみてぇだったから、周りの音がよく聞こえなかったんだと」
「ふぅ~ん。でもこれ~、電源とかどうなってるの~? バッテリー?」
インカムを弄びながら首を傾げる風子。
八尋も同じものを受け取りましたが、妙に軽い感じがします。
近代的なボタン電池を使ったとしても、ここまで軽量にはならないはず。
「電気じゃねぇ。使用者の神力を使ってるらしい」
「神力?」
「魔力みてぇなもんだ」
「これマジックアイテムなんだ~!」
「ただし魔海に落ちたら神力は通じねぇ。あと壊れる」
防水機能のない昔の携帯電話みたいです。
「誰か落ちた事あるの~?」
「俺が落ちた」
「うわぁ……大丈夫だったの?」
「この世界の人間じゃ魔海を素通りして本物の海面に激突すっけど、俺たちゃ浮くから平気だ。ただし溺れるから泳げねぇとやべぇ」
「救命具はないの?」
「浮き輪や救命胴衣は魔海に浮かねぇから使えねぇ」
「うひゃぁ……っ」
泳げない八尋は、落ちたらそれで最期です。
「インカムは混線や雑音が入らねぇのが利点だが、俺たち蕃神と一部の人間しか使えねぇ」
「よし、艦橋との連絡は吾輩に任せろ」
宝利もインカムを装着しています。
こちらはマイクのついた円筒を首からベルトでぶら下げる方式でした。
イヤホンは有線式で、頭のネコミミに装着しています。
「そうそう、あまり離れると通じなくなるぞ。半径二キロくれぇかな?」
小型通信機の通話距離としては高性能といえるでしょう。
「わかった。この船から絶対離れない」
船ではなく宝利の腕に抱きついて震える八尋。
思わず硬直する宝利ですが、八尋はその腕の硬さに安堵していました。
「八尋ったら泳げないんだよ~」
「姉ちゃんそれいわないで!」
宝利に抱きつきながら双子の姉に文句を言う八尋。
「いやそれ言わなきゃダメなやつだろ。わかった、俺たちがカバーすっから、初心者は船べりから釣りな」
「いやでも……」
「無理だけは絶対ダメだ。怪物相手だろうが、釣りは楽しくやらにゃいけねぇ」
あくまでも安全と娯楽性を追求するのが、釣りに対する歩の信念でした。
立ち入り禁止区域への侵入や、荒天時の磯釣りなど、危険な行為は避けるか、入念な準備をして臨むのが釣り師の信条であり、マナーなのです。
「うん……」
「じゃあ話はここで終わりだね~」
ようやく終わったと伸びをする風子。
「ようやく吾輩の出番であるな」
宝利が壁の伝声管を開けて怒鳴ります。
「艦長! 姉上はもう出立したか⁉」
『先ほど発艦いたしました。ただいま小早で海運省へ急行中との事です』
「姉上には悪いが、これ以上は待っておれん。艦長! 陸運局の抗議など無視して現場に突っ込め!」
皇族の短気さもありますが、宝利はなによりも魔海発生区域の住民たちが心配でした。
魔海は生き物のように蠢いて、悪樓の種類によっては大きく移動する事もあります。
対処の遅れが避難民を危険に晒す可能性を、宝利は看過できません。
『そのお言葉、お待ちしておりました。急速降下! 左舷全速前進! 本艦はこれより市街地魔海発生区域へと突入する!』
宝利に散々冒険につき合わされてきた乗組員の対応は素早く、かつ的確でした。
艦の浮揚機関と二基の推進機関が雄叫びを上げ、猛烈な勢いで降下と加速を始めます。
「うわやべぇ摑まれ!」
竜宮船は海上船とでは速度領域がまるで違います。
特に翡翠は速度自慢の関安宅で、機関全速での急降下ともなれば、その加速度は乗用車のそれを上回ります。
体重の軽い八尋は、急降下で足の踏ん張りが利かなくなって、体が宙に浮きました。
「わあっ⁉」
「おっと!」
浮いた八尋を咄嗟に抱き止める宝利。
「あ、ありがと……」
「いや気に気にしるな」
緊張で舌が全然回っていません。
「尊い……ニキ×ショタの黄金比率、たまりません!」
「ありがたや~ありがたや~」
小夜理と風子が羅針盤に掴まって加速に耐えつつ、激しく発酵しました。
「なぜ吾輩たちを拝んでおるのだ……?」
八尋を抱えたまま、長身を生かして天井に片手を当てて突っ張る宝利が首を傾げます。
神様に拝まれる心当たりも、神が同じ神である八尋を拝む理由も理解できません。
「気をつけろ! ここで頭を打ったら痛ぇなんてもんじゃねぇぞ!」
補助操舵装置に掴まっていた歩が警告しました。
ここは大型艦艇の装甲艦橋。
巡洋艦の主砲が直撃しても平然と弾き返す装甲板……下手なコンクリート壁よりもぶ厚い鋼鉄の塊に囲まれているのです。
装甲板は叩いても響かないほど硬く、頭を打ったら頭蓋骨が砕けるかもしれません。
本来なら全員ヘルメットを着用すべき危険な空間なのです。
「冬場は寒そうですね、ここ」
狭くてガラスも入っていない覗き穴から、轟々《ごうごう》と風が吹き込みます。
「でも心はあったかいよ~」
八尋を抱えてその身を案じる宝利と、ほんのりと頬をそめる八尋を見て、ホクホク顔の風子と小夜理。
それは腐りながら生まれ落ちた腐女子高生たちにとって、心温まる桃源郷でした。