第二章・魔の海へ行こう・その二
目が覚めると水の中にいました。
慌ててもがく八尋。
「ぷはぁっ!」
水面に出ると周囲は薄暗く、時化に揉まれて再び水中へとひきずり込まれました。
小さな体がぐるぐると回転し、もうどっちが上でどっちが下かもわかりません。
息継ぎしようとした時に海水を飲んだのか、口の中が塩辛くなりました。
『…………海⁉』
八尋は青くなりました。
ついさっきまで学校の校門前にいたはずで、堤防から落ちた記憶はありません。
『そんな事より早く海面に出ないと溺れる……⁉』
人間の体は海水より軽いので、息つぎで肺に空気が残っているなら浮きやすいはず。
こんな時はうつ伏せに浮いて救助を待つ【背浮き】と呼ばれる対処法があって、暴れず動かず浮き上がる方法が効果的とされています。
でもそんな知識のない八尋は、ついもがいてしまいました。
体が沈む感覚に恐怖して、本能的に手足をバタつかせたのが致命的。
そもそも八尋はカナヅチなのです。
「がぼっ……!」
口から空気が吐き出されました。
あとは肺に残ったわずかな酸素しかありません。
だんだん気が遠くなって、全身から力が抜けて行きます。
『ぼく、死ぬのかな……?』
薄れる意識の中、周囲が明るくなるのを感じました。
いよいよお迎えがきたようです。
そして八尋は死神の姿を見ました。
いえ、死神ではありません。
逞しい両翼を広げた、大きな大きな黒い龍です。
腕を掴まれて、その胸に背中から抱え込まれました。
黒龍は八尋を抱いたまま、強烈な力でぐいぐいと海中を突き進みます。
海面に出た時、八尋にはもう深呼吸をする余力すら残っていませんでした。
力を失った口から、海水がだらだらと流れ出します。
「息をしとらんな……フンッ!」
黒龍が八尋の胴体をギュッと締め上げると、口からガボッと海水が吐き出されました。
「げばぁっ! がぼっ……ごほっ……」
肋骨が折れるかと思いましたが、喉に詰まっていた水が抜けて呼吸が楽になりました。
「引き上げるぞ! 索条引けーっ!」
「あいさー! そーれっ!」
頭の上から複数の男性の声が聞こえます。
視界がぼやけてよく見えませんが、すぐ傍に船があるらしいと気づきました。
八尋を包む浅黒い肌に、力強い鼓動を感じます。
分厚く、硬く、そして打ちたての鋼のような、熱い筋肉の脈動でした。
冷えきった血肉が、灼熱の筋肉で温められて行きます。
『助かった……?』
八尋は恩人の顔を見ようとしましたが、視界と意識がぼやけて、よく見えません。
気管を痛めて声も出ません。
『ダメだ、お礼はあとでいおう……』
優しく温かい筋肉の海に包まれて安心したのか、八尋はぼやけた意識を完全に手放しました。
体の異変に気づく事なく……。
「参ったな。童とはいえ裸の女性を抱くなど初めてだ」