絶頂
強い光の中浮遊するような感覚が数十秒間続きーーーその光が晴れるとそこは大草原のど真ん中だった。
絵に描いたような大草原、という表現でいいだろう。俺がいた、2038年日本には存在しないタイプの、とにかく広大な大草原だ。
一目見て、ここが今までいたような世界ではないことがわかる。
ふと、右手を見てみる。
若い。非常に若い。
まだ未成熟な、肌が「出来上がってない」といった感じの若さだ。
言うなればーーー10歳ぐらいの。
「……マジで叶ったじゃん」
思わず、生前なら使っていなかったような言葉が出た(生前という表現があっているかはわからないが)。
感動で打ち震えて、脳がうまく回らない。
今まで、抑圧され、自由を感じることができなかった人生を高速で振り返り、そのしがらみの一切合切が消滅したことへの感動で頭がいっぱいだった。
空を見上げ、考える。これから何をしようーーー嗚呼、最高だ、何をしてもいいだなんて。
性的絶頂に近い快感で顔をだらしなくさせてしまう。ヤバいヤバい。こんな10歳児、傍目から見たら気持ち悪いだろう。
そう思いつつも、ドーパミンかエンドルフィンかセロトニンかアドレナリンのどれかが大量に分泌されてしまい(多分、全部出てる)、どうしても表情がトロけてしまう。アヘアヘと。抜けるような青空の下、ヌケたような顔で、気持ちいい大草原の中、キモチイイと声を漏らす。
ーーー変態少年、異世界に爆誕である。伝説のポ◯モンも真っ青だ。
どれくらいの時間が経ったのか、しばらくそうしていると遠くから馬の足音らしきものが聞こえて来た。ゆっくりとした足音。見るとやって来ているのは馬車だった。馬が二頭。パカラパカラ。
「……異世界っぽいじゃん」
御者は粗末な麻地の衣服に身を包んでいた。いや粗末に見えるが、この世界ではスタンダードなのかもしれない。
屋根のない荷台に大量の木箱がくくりつけてある。旅の商人だろうか。どこへ向かうんだ?
街へ行くならぜひとも乗せていただきたいーーーしかし、今の俺の状況をどう説明したらいいんだ?
俺の服装は、御者と同じような質のもの。ならば、同じ商人という設定で行くか?いやなんでこんな草原に子供が一人でいるんだと聞かれたら、うまく辻褄を合わせられる気がしない。
早速時間を止めて、馬車に忍び込むか?それで時間を止めるのを解除すれば……
そこまで思いついたが、ここで少しのいたずら心が湧いた。
ーーー時間を止めるのは、これからいくらでもできる。少しこの状況を楽しむかーーー御者に視界に入らないように、草むらと同じ高さにかがんで回り込んだ。
10m先の道を、馬車がゆっくり通り過ぎるのを待つ。
そして後ろから、息を潜めて荷台に飛び乗った。
少しだけ木製の荷台が軋んでしまい焦る。そのまま木箱の後ろに身を潜めて様子を伺う。
ーーー馬車は止まらない。気づかれた様子もなかった。
跳ねる心臓を落ち着けながら、大きな木箱の蓋をそっと外し、中に滑り込み、蓋を閉じた。
そのまま再び様子を伺う。ーーー馬車は止まらない。バレてない。
ふぅ、と息をついて落ち着くと、蓋の隙間から漏れる光に、照らされ、積み荷の正体がわかった。
リンゴだ。大量のリンゴ。商品だろうか。税金代わりだろうか。何のリンゴかはわからないが、とにかくこれは人のリンゴだ。
そう思った時、頭がカッと一気に興奮した。
人のリンゴ。
俺のではない。
他人のリンゴ。
もちろん食べてはいけない。
もちろん食べてはいけない。
食べたら窃盗だ。
窃盗。
悪さ。
悪事。
俺がどうやったって働くことができなかったーーー悪事。
ーーーゴクリ。
唾を飲んで、ゆっくり、震えながら、怯えながら、おそるおそる、リンゴに触れた。
ーーーこれは人のリンゴだ。
俺は意を決してそれを掴み、勢いよく、噛り付いた。
人のリンゴに。
歯が果肉に食い込み、甘い果汁が滲みあふれ、水分の多いその実を、永遠と思える時間をかけて、ゆっくりと一回、咀嚼した。
二回、三回、四回、咀嚼、そして、飲み込んだ。
味はわからない。
興奮しているからだ。
頭のてっぺんから胃のそこまで。
やってしまったーーーやってやった!
立派な窃盗だ。無許可で人のリンゴを!食ったやった!
そこからは、特に腹も減ってないのに、戦うように勢いよくリンゴを噛んで、食べて、食べ終えて、二つ目を掴んで、食べて、三つ目おつかんで、食べた。
嗚呼、最高なり。新しい人生。
頭にいろんなことが走馬灯のように浮かぶ。
小中高と無遅刻無欠席で表彰、されてしまったこと。
今の会社に、無遅刻無欠勤で表彰、されてしまったこと。
結婚して20年目の記念日にスカーフを送った時に、今まで一度も記念日を忘れなかったこと、一度も浮気をしなかったこと、それを妻に、褒められてしまったこと。
ヘドが出る。
知ったこっちゃない。
お前らが知っている俺は俺じゃない。
俺はずっと、こうしたかったんだ。
そう心の中で叫んで、記憶の中の妻を裸にひん剥き亀甲縛りにして天井に吊るして鞭で叩いた。
荷台の中で、ビクンビクンと体を震わせながら、よだれを垂らして悶える10歳児を乗せ、馬車は青空の下進んでいった―――