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カティ

 ちりんちりん

「ん?」

 ちりんちりん

 なんか音がする。私は眠りゆく意識から薄っすらと目覚めた。

 鈴?

 耳を澄ます。だが、何も聞こえない。

「幻聴か」

 私はまた心地よい眠りの世界に戻った。心地よい眠り――。もう、このまま何にも邪魔されず、その世界にどこまでも落ちて行きたかった。

 ちりんちりん

「ん?」

 やっぱり音がする。

「やっぱり音がする!」

 私は飛び上がり、慌てて岩陰から飛び出した。寒さで体がバッキバキになっていたが、それでも無理矢理その固まった体を動かし、道の真ん中まで踊り出て辺りを見回す。

「・・・」

 だが、そこにはやはり、暗闇しかなかった。

「やっぱり、ただの空耳だったのか」

 私はがっかりして、また、重い体を引きずるように岩陰に戻った。

 ちりんちり~ん

「やっぱり音がする」

 私はもう一度飛び出した。そして、辺りをもう一度注意深く見渡した。

「あっ」

 道の先の遠くの方で何か小さな明かりが揺れている。

「誰かいる」

 足元からぞわぞわと興奮が這い上がってきた。

「誰かいる。誰かいる」

 私の脳内でアドレナリンがドバドバ出て来ているのが分かった。

「お~い、お~い」

 私は暗闇で見えない事などお構いなしで、その光に向かって激しく手を振った。

 その小さな明かりは、ゆっくりと徐々に私の方に近づいて来る。それと共に、蹄の音も聞こえて来た。やっぱり、やっぱり誰かいるんだ。私は興奮し、歓喜した。

「お~い、お~い」 

 私は叫び、激しく手を振った。生きる。生きるぞぉー。私は生きるぞぉ~。私の中に、さっきまで諦めていた生きる渇望が湧き上がって来た。

「お~い、お~い」

 私は激しく手を振り、叫び続けた。

「お~い、お~い、ん?・・」

 ちょっと待てよ。

「・・・」

 しかし、その時、ふと私は不安にかられた。あの人は声を掛けてもいい人なのか?辺りは完全な暗闇が広がっている。もしかして・・、やばい人だったら・・。急に私の中に恐怖が湧き上がってきた。

 明かりは尚も近づき、少しずつ人影に変わり始める。

「ゴクッ」

 私は息を飲んだ。しかし、相手がどんな人間であろうが、どの道このままでは死ぬのだ。私は結局助けを求めるしかない。

 ついに薄ぼんやりしていた人影がはっきりと人の形として現れてきた。

「あっ」

 それはラバを連れた小柄な少女だった。

「・・・」

 私は、全身の緊張が解け、膝からその場に崩れ落ちそうになった。

「私、あの、あの」 

 喜びと安心と驚きと興奮で言葉が上手く出て来ない。そんな私を前に少女は落ち着いた動きでラバにつけていたランタンを手に取り、私の方に向け持ち上げた。少女は微かに微笑んでいた。その落ち着いた笑みが私を瞬時に落ち着かせた。

「私、道に迷って・・」

「じゃあ、私のうちにくればいいよ」

 突然現れた珍客に、驚くこともなく少女はこともなげにそう言って、微笑んだ。私はその微笑みに、心の底から安心感が湧き上がるのを感じ、その場に膝から崩れ落ちた。

「助かった・・」

 私はこの時、初めて自分が助かったことを実感した。

「あの・・」

 そして、私は顔を上げた。私の体は飢えと疲労と寒さで、カチカチになっていた。私の切迫した表情に少女は何かを察したのだろう、持っていたチーズの欠片と小さなパン、そして、獣の皮で出来た水筒に入った水をくれた。それは多分、その少女の貴重な残り少ない食料なのだろう。それをなんのためらいもなく少女は見も知らぬ私に差し出した。私はそれを受け取ると、恥も外聞もなくがっついた。それほどに私は飢えていた。

 私がもらった食料をがっつくように食べていると、少女は今度は自分が羽織っていた、何のものかは分からない毛皮を私の肩に掛けてくれた。それは驚くほど温かかった。凍えた体に心底ありがたかった。私が凍えていることに気づき、見知らぬ私なんかにそこまで気を使ってくれる少女のその温かさがうれしかった。どこまでも少女はやさしかった。

 少女は私が食べ終わるのを待つと、黙って再び静かに歩き出した。私も黙ってその後ろに続いた。小さなパンとチーズの欠片だったが、驚くほど私を元気にしてくれた。

 少女は真っ暗な地道を小さなランタン一つで、ラバと共に静かにゆっくり落ち着いた調子ですらすらと歩いて行く。私は痛む右ひざを引きずるようにその少し後ろを歩いた。

少女と出会ってから、五時間ほど歩いてやっと少女の村に着いた。もう深夜を回っていた。

「ちょっとって、どんだけ歩くんだ。死にかけたぞ」

 私はもう精も根も尽き果ててヘロヘロだった。

「現地人の感覚を舐めてたぜ」

 私はもう絶対に現地人のちょっとは絶対に信じないと決めた。

 しかし、私より数段小さな体の少女は、まったく疲れている様子もなく相変わらず落ち着いた調子で、村の中をすらすらと歩いて行く。

「現地人恐るべし・・」

 いかに自分が軟弱な世界で生きていたかを実感した。

「カティお帰り。みんな起きて心配してたんだよ」

 少女の家に着くと、この子の母親らしき人がすぐに扉を開け出迎えた。

「ただいま。毛皮がなかなか売れなくて遅くなっちゃった」

 少女はその小さなかわいらしい声で答えた。少女は町まで毛皮を売りに行っていたらしい。

「ムーを繋いでくる」

「あら、お客さん?」

「うん、道に迷ってたの」

 少女の母親は少女そっくりのそのやさしそうなつぶらな瞳を私に向けた。

「どうぞ中に入って」

 そして、やさしく手招きしながら私に言った。

「ありがとうございます」

 私は言われるがままに中に入った。

「わあ、ストーブ。あっ、囲炉裏」

 すぐにその二つが私の目に飛び込んできた。

「あったか~い」

 中に入ると、心地よい温もりが私を包んだ。私は芯から冷え切っていた。

「お~、堪らん」

 私はすぐに古風な薪ストーブに駆け寄り、しばし、火のありがたみを心の底から堪能し、それを全身で享受した。

「はあ~あ」

 私はしばし至福の時を満喫した。これほどまでに、人生の中で炎の温かみに感謝したことがあっただろうか。

 体も温まり、ふと私は我に返り、部屋の中を見渡すと、小さな子どもからお年寄りまで家族全員が、私を珍獣を見るような目で食い入るように見つめていた。

「あ、ど、どうも」

 私は急に恐縮して頭を下げた。私はなんて、厚かましいんだと自分を恥じた。いきなり見知らぬ家に入り挨拶もせずストーブに当たるなど失礼極まりない。

「はい、これ食べて」

 だが、そんなことまったく気にする風もなく、気にするどころか逆に、カティと呼ばれた少女の母親が、囲炉裏の前に温かなシチューを置いた。

「わあー」

 私は遠慮する間もなくすっ飛んで行ってがっついた。

「うんまあ~い」

 私は思わず叫んでいた。何の肉かは分からないが、大ぶりの甘みのある肉がたくさん入った、その肉の脂だろうの濃厚に染み出たシチューだった。

「お代わりあるわよ」

「あっ、お願いします」

 あっという間に平らげた私は、遠慮なくお皿を出した。

「ふぅ~」  

 何杯お代わりしたのか忘れるほど食べた後、人心地ついてふと我に返ると、家族全員がまだ私を珍獣を見るような目で食い入るように見続けていた。

「あ、ど、どうも」

 私はまた恐縮した。私はまた厚かましい自分を恥じた。

「あ、カティごめんね。もうシチューなくなっちゃったの」

 母親の声がして、その方を見ると入口のところにさっきの少女が戻って来ていた。

「うん」

「パンならあるよ」

「うん、パンだけでいい」

 少女は静かに私の隣に座ると、お茶を飲みながら母親がもってきたパンを小さく齧りだした。

「あっ、ごめんなさい」

 私は少女の分のシチューまで食べてしまったことに気づいて恥ずかしくなった。

「ううん」

「本当にごめんね。私がつがつ・・」

「ううん、本当にいいの」

 少女はそう言って、私に向かって小さく微笑んだ。その笑顔が何とも可愛らしく、そして、本当にそう言っているのが分かった。本当に信じられないくらい謙虚でやさしい子だった。

「なんて純粋でやさしい子なんだろう」

 私はこの少女のその純粋なやさしさに心を打たれた。


「ここに寝て」

 夕食後、カティの部屋に招かれた私は、カティの使っているベッドを勧められた。

「えっ、でも、ここあなたの・・」

「ううん、いいの私は床で寝るわ」

 そう言って、カティは引きずってきた大きな毛皮を体にくるくると海苔巻きみたいに巻きつけると、そのまま床にゴロンと転がった。

「寒いでしょう」

 私はそんなカティに訊いた。

「ううん、大丈夫だよ」

 カティの声色はどこまでもやさしかった。

「寝る時はランプの火を消してね」

「うん」

「今日は町まで行ったからとても疲れたわ」

 そう言って、横になったカティはすぐに小さな寝息を立て始めた。

「そう言えば私も今日はものすごく歩いたんだった」

 私は大きく欠伸をし、ベッド脇に吊るされたランプのガラスを持ち上げると、中の火を吹き消した。そして、再びベッドに横になり目をつぶった。

 ヒマラヤの限りない静けさと暗闇が私の五感を飲みこんでいく・・。私もすぐに眠りの世界に落ちていった。

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