ティマとユマ
みんなのんびりとしていた。ここでは時間など気にしている人は誰もいなかった。ここでは時間などなんの意味もなしていなかったし、特に価値もなかった。移動するにも、仕事をするにも、何かをするにしても、時間を気にしながらする人は誰もいなかったし、まして時間に追われている人など誰もいなかった。まるで時間は無限にあるとでも言いたげな、そんな日常だった。
そんな時間感覚に慣れない私だったが、でも、彼らはここで千年以上そういった生き方をしてきていて、そして、そんな彼らを包む広大な景色と、空があって、その中で私も一緒に生きていたら、時間など、そもそも存在しないのだと、私は気づいた。
だから、私も時計を捨てた。
今日もカティと、水汲みに行く。だいぶ高地の薄い空気にも慣れ、体力もついてきた私は、川までの道のりで、景色をゆっくりと楽しめるようになっていた。
何度眺めても飽きない、楽園のような景色。
「何て世界は美しいんだろう」
私はここに来てそう思うようになった。世界が変わると私も変わる。あまりに壮大で、別次元の美しさに、私の中の世界観そのものが変わっていく。日本にいた時の自分が自分ではないみたいだった。
「あっ、ティマ」
水汲みから帰り、カティの家の近くまで来ると、私の隣りを歩いていたカティが突然、そう叫んで飛ぶように走りだした。見ると、カティの家の前では家族や村人に囲まれた旅姿の人たちが複数人立っていた。そのうちの一人の青年にカティは走り寄るとものすごい勢いで抱き着いた。
「あれが言っていたティマなのかな」
その青年にうれしそうにまとわりつくカティを見て私は思った。
青年の周りで小さな子どものようにはしゃいでいるカティは本当にうれしそうだった。そんな無邪気なカティを見ていると、やっぱりまだ子どもなんだなとあらためて思った。
「まあ、そうだよね」
しっかりしているようでもまだまだ、カティは小さいのだ。
「ティマよ」
私も家の前まで来ると、カティがうれしそうに青年を私に紹介する。カティをおっきくしたようなカティそっくりの青年が少しはにかみながらその横に立っていた。
「ユマよ」
ティマの弟みたいな青年がその隣りにやはり少しはにかんで立っていた。
二人共本当にカティの生き写しみたいな純朴を絵に描いたような好青年だった。多分、年は私とほとんど変わらないのではないかと思った。でも、その表情は二人共もう精悍な大人のそれだった。私の同級生たちを思い浮かべるが、まったく同じ年には思えない大人びたしっかりとした表情をしている。
「これはお土産だ」
ティマがカティに、小さなピンクの熊なのかウサギなのかよく分からないぬいぐるみを差し出した。それは日本でなら、UFOキャッチャーででも取れそうな安っぽいものだった。「わあ、ありがとう」
でも、カティはそれを本当にうれしそうに受け取ってその胸に抱きしめた。
カティの小さな弟や妹もきゃっきゃ、きゃっきゃ、ティマにまとわりつき本当にうれしそうだった。そんな、小さな弟妹たちにもティマはやはりお土産として買ってきたお菓子の袋を一人ずつ渡していった。
お父さんもお母さんも家族みんなが本当にうれしそうだった。村全体がティマとユマたちが帰って来た事をみんな心の底から喜んでいる。家族が、人が、とても大切に思われている。そして、その絆がどこまでも深い。その事に私は、それは本来当たり前のことなのだけれど、どこか新鮮さを感じずにはいられなかった。日本ではとうの昔に絶滅してしまった関係性だった。
次の日の朝、外へ出るとティマが立っていた。彼は一人、その澄んだ瞳で、畑で働いている村人たちをどこか愛おしそうに見つめていた。
「おはよう」
私が声をかけると、少し恥ずかしそうにカティそっくりのやさしい笑みを私に向けた。
「村の人たちを見ているの?」
ティマは、やはり少し恥ずかしそうに頷いた。
「この村が好きなのね」
「うん」
やっぱり、恥ずかしそうに、うなずく姿がかわいかった。
「僕はこの村が大好きなんだ」
ティマが畑で働いている村人たちを見つめながら言った。
「みんな家族みたいに大切な存在なんだ」
「うん」
「僕はこの村にずっといたい。みんなと一緒に働きたいんだ」
ティマは悲しそうな目をしていた。
「でも、ポーターをやらなければならない・・」
「・・・」
「村は貧しいから、僕たちの稼ぎがないと生活ができないんだ」
「・・・」
「僕たちの仕事はとても大変な仕事なんだ」
「・・・」
それはそうだろう。あのヒマラヤの頂上まで行くのだから。
「命がけの仕事だよ」
「うん・・」
本当にいつ死んでもおかしくない仕事だった。
「でも、少しでも家族とこの村の人たちを楽にしてあげたいんだ」
ティマのやさしさが伝わって来る。
「それでいくらもらえるの」
「八千円」
「・・・」
命がけで何か月も山に登って、八千円。日本なら一日アルバイトでもすればかんたんに手に入る額だ。ティマの体力ならわけもないだろう。
「さて」
そこでティマは体を思いっきり伸ばした。
「もう働くの」
「うん」
そう笑顔で答えると、ティマは昨日、大変な登山旅から帰って来たばかりなのに、ゆっくりと休むこともなく畑の方へ手伝いに行ってしまった。
「・・・」
私はその後ろ姿を見送った。
「しかし、どうしようか」
村はずれの丘の上にあるバカでかい岩の上でいつものように一人瞑想をしながら私は考えていた。ヒマラヤの麓まで来てはみたが、ここから自分が何をしていいのか、どこへ行っていいものやら皆目分からなくなっていた。果たしてクマリが指し示していた場所がここでいいのかすらも分からなかった。
「お前は救いを求めている」
「わぁっ」
誰もいないはずの場所で突然真横から声をかけられ、私は死ぬほど驚いた。慌てて目を開け、横を見ると、知らないおっさんが私のすぐ隣りに立っていた。
「っ・・」
私は驚き過ぎて言葉を発することもできず、そのおっさんを茫然と見つめる。
しかし、極限まで骨と皮だけにやせ細ったそのおっさんは、その骸骨みたいな顔から巨大な目玉だけをギラギラと飛び出させ、そんな私を真正面から睨むように眼光鋭く見つめていた。
「・・・」
しかも、おっさんは素っ裸だった。局部まで思いっきり露出し、隠そうとも恥じるようすもまったくなかった。日本なら確実に、無条件に警察に通報されているだろう。というか無条件に捕まっているだろう。が、ここでは不思議とそれが何事もないみたいに自然に溶け込んでいた。
「・・・」
あり得ないほどの恐ろしい状況だったが、そのおっさんはどこか唯のいたお寺の和尚さんに似ていて、そのことがあったからなのか、私はパニクることもなくどこか落ち着いていた。
「えっ、あのぉ・・」
やっと声が出たが言葉にはならなかった。
おっさんは、伸び放題の髪を巨大なターバンみたいにグルグル巻きに巻きつけた頭のその下に覗く、その強烈な眼力でなおも私を睨み続けていた。
「ち、近い・・」
視線も強烈だったが、おっさんはなんか近かった。
「お前は救いを求めている」
おっさんはさらに眼光を鋭くし、何も言えな私にもう一度言った。
「えっ」
「お前は救いを求めている」
「なぜ分かったんだ。というかやっぱ近い・・汗」
おっさんの顔はやっぱ近かった。私はたじろぐ。
「ヒマラヤの麓に偉大な聖者がいる。会いに行ったらいい」
おっさんがいきなり言った。
「え?聖者?」
おっさんはヒマラヤを力強く指差した。私はおっさんの指さす方を見た。
「聖者ってあの・・」
ヒマラヤを見てからもう一度おっさんを見ると、もうそこにおっさんの姿はなかった。
「あれ?」
周囲を見回すが、やはりどこにもいない。原野が広がるばかりでどこにもおっさんが隠れられそうなところもない。
「あれぇ?」
岩から降りて、何度も周囲を見回すが、やはり、そこには誰もいなかった。
「なんだったんだ・・」
私は首を傾げながらおっさんの立っていた場所を見つめた。まったく奇妙な体験だった。しかし、あれは絶対に夢や幻なんかではなかった。それははっきりと分かった。
村に帰って、カティに岩の上での事を話したが、カティもそんな人相風体の男は知らないと、首を傾げていた。
「多分、サドゥだと思う」
「サドゥ?」
「うん、一人で修行している行者さん」
私はあのホテルのじいさんを思い出した。
「この辺にもたまに来ることがあるの」
「そうなんだ」
「でも、定住しない人たちだから、いつどこにいるかは分からないの」
「ふ~ん」
それにしても奇妙なおっさんだった。私はおっさんの言っていたことを思い出す。
「この先にまだ村があるの?」
私はカティに訊いた。
「うん、私も行ったことはないけど、小さな村があるって聞いたことがある」
「私そこへ行く」
「え?」
「なんだか、そこに何かある気がするんだ」
私の中になんか知らんがやる気が猛烈に湧き上がっていた。そこに何かある。私にはなぜか妙な確信があった。
「・・・」
しかし、カティはそんな私を心配そうに見つめていた。




