この世界を生きていない
呪いが発動した15歳、君を知るまでの物語
目が覚めたとき目の前にあったのは、泣いている大勢の親族と白い天井だった。
体が思うように動かない、何が起こっているのかがわからない。パニックになりはじめた私が次に感じた感覚は痛みであった。
首の後ろから後頭部にかけてひどい鈍痛がする。今までに感じたことのない痛みを側にいた親に必至に訴える。
「枕の位置がわるい、高さがわるい、痛みが治まらない」
どうあがいても鈍痛は消えなかった。次に感じ始めたのは異常なほどの喉の渇きだった。
飲みたいが体を思うように起こせない。急須のような形の医療用器具でリンゴジュースを飲む。飲む、飲む。それでも、
「足りない」
私のその時の感情はまるで覚えてない。恐怖だとか悲しみだとか、パニック、驚愕…そんなものではなかったように感じる。痛みや飢えに圧されながら、目の前で泣く家族を眺めていた。
自分の腕からこんなに多くの管を見たことはなかった。病院のベッドは保健室のベッドとはまた違っていた。病院の匂いを感じた。
私に何が起こったのか?なんという病気なのか?原因はなんなのか?
そのすべてを当時聞いたように覚えているが、親も医者も私に詳しくは言わなかったと記憶する。父がノートに図解を書いて説明したようにも思うが、理解はできなかった。
右脳で出血を起こした。
そのため左半身に麻痺が起こった。
私の病気、そして後遺症となる身体障害は簡単に言うとそのようなものだった。
その後、私は15歳という貴重な時間を9ヶ月のあいだ病院で過ごすことになる。
その間、別の大病を引き起こしたり、左半身の障害が重くなったり。それはたかだかこの世界を15年しか生きていない人間には耐えられる現実ではなかった。
徐々に減る見舞い、重くのしかかる現実、一生抱える障害の恐怖、見えない未来。
体と未来を案じ闘病中に家庭教師をつけられ、勉強を行った。頭のダメージは重く、小学生がする計算ドリルからはじめ、高校の授業も行われた。
固くなった体をリハビリするのはとてつもない苦痛だった。泣き叫ぶ日々。動かなくなった左手左足に怒りと悲しみを感じる日々。
「なんで動かないの、なんで歩けないの、なんで座れないの」
あんなに普通にできていた一切の日常の動作はもう一生できない、その現実は耐えられなかった。
家族の外食に行った話を聞けなくなった。友達が過ごす日常の話に耐えられなくなった。もう私はこの現実に生きていなかった。
冷え冷えと白い病室にいるのは私一人だった。
天高く馬肥ゆる秋、病室の大きな窓から見える青空は、本当に綺麗なものだった。
それが憎かった。綺麗なものを見ることがつらかった。どこまでも広がる青空の下には、今まで共に過ごした人達がいるのに、私は恐怖と共に白い部屋にいた。
「なぜこの歳でこのような病気になったのでしょうか」
という問いに対する医師の答えは、
「原因は不明です」
であった。脳動静脈奇形という正式名称の病気は、脳の血管に奇形があり、その奇形が破裂し脳内出血になるというものだった。
奇形ができた原因、時期。破裂した原因…何もかもは不明であると断言された。両親は自らを責めた。父親が泣いて謝る姿を初めて見た。母親は見るからに痩せていった。
私のせいで、まわりが苦しんでいた。私だけではなく周りも不幸にさせていた。
死にたかった。生き続けたくなかった。助かりたくなかった。
こんなことなら、病気になったと同時に死にたかった。
私の側にいつもいる人、心の支えにずっとなっている人は私には存在しなかった。あんなにいると思っていた友人は、もういなかった。
この頃は、体をもとに戻したいというよりも、精神の安定を求めていた。パニックになり涙が溢れ続け、苦しさに耐えて痛みを感じる私を、「私だけの存在を」求めていた。妹たちの親でもある両親にそれは求められなかった。
私は必至に「誰でもいいから」と恋人を作った。私は恋をしたことはないかもしれない。少なくとも少女漫画のようにドキドキしたり相手のことを考えてしまうというような日々を送ったことはなかったし、それはこのときもそうだった。
誰でも良かった。自分のことしか考えられなかった。
私とともに私を守ってくれる人がほしかった。
今思うとなんという愚かなとは思うが、同時にしょうがないと感じる。
「治そう」ではなく「それでもいい」と言ってほしかったのだ。
「そんな君でもあいしてるよ」と言ってほしかった。
治そうとされるたびに、今の自分を拒絶されていると感じていた。今のお前はだめだ、元の体でないとだめだ、と言われているかのようで私は周囲に拒絶感をもち、恐怖を感じ続けた。
私と違って健常の体を持つ周囲の人間に拒絶を感じ始めていた矢先に偶然ネットで知ったのが
「守護霊」
という存在だった。
私は君を知ることにまた一歩近づく。